矢崎と初めて会ったとき、矢崎は一人で泣いていた。
 後から思えば、泣くことなんて矢崎にとっては当たり前のことだったが子どものようにボロボロと涙を流す同級生の存在に俺は面食らってしまい、無視すればいいものをとっさにハンカチを差し出してしまった。

「ありがとう」

 ハンカチ越しに矢崎と触れ、俺は彼を救いたいと思った。
 あの頃、矢崎の涙を拭うことが俺の存在意義になっていた。高校生という多感で、不安定な時期に突然芽生えた使命感、それを果たすことで俺は悦に浸っていた。
 矢崎には俺が必要だ。それがいつしか俺には矢崎が必要になっていた。

 そして俺は恋に落ちた。

 しかし、矢崎の涙を拭う存在は俺だけではなかった。
 かわいそうだから、ほっとけないから、可愛いから。
 矢崎の周りには常に女子がいた。そのうち誰かと恋人関係になって、うまくいかなくて別れて、泣いて、また誰かと付き合って。
 矢崎はどうしようもないやつだった。

「だったら、俺と付き合えよ。俺はお前を泣かせたりしない」

 矢崎の涙を拭きながら、何度言おうと思ったか分からない。
 だけどもし、本当に付き合えてしまったら。始まってしまえば、いつか終わりが訪れるかもしれない。そうしたら今度は誰が矢崎の涙を拭ってあげるのか。
 そう思い、俺は自分の思いを口にすることはなかった。
 恋人関係にはなれなくても、友人として一生そばにいよう、と心に決めたが大学進学を機に連絡は途絶え、成人式で人伝てに子どもができて大学を退学して結婚したと聞いた。
 矢崎はどうしようもないやつだった。

「まだ草野と住んでるの?」
「うん」
「仲良いなお前ら」

 はは、と矢崎は笑い、酒を煽る。
 俺は目の前に出された酒を飲む気分にならず、手に持って揺らすばかりだ。
 まさか、矢崎の娘が村松遥だったとは。
 あの日、教室で一人泣いていた彼女の言葉を思い出す。
『パパは男と不倫した』

 それはきっと、俺のことだろう。

 少し前、突然矢崎から連絡が来て俺は舞い上がり今みたいにバーで一緒に酒を飲んだ。空白の期間を埋めるように俺たちは語らった。その時も矢崎の口から積極的に家族の話題は出していなかったように思う。俺も聞きたくなかったからあえて避けて昔話に花を咲かせた。
 その帰り、矢崎は不意に俺を抱きしめ、唇を寄せてきた。
 突き放せる力加減だった。顔を背けることもできた。
 なのに俺は、拒まなかった。
 唇が離れるとすぐに「じゃあな」と快活な表情で手を振り歩き去る矢崎を俺は呼び止めることができなかった。
 あれから連絡を取らなかった。あのキスの意味を聞くのが怖かったから。しかしその間に、矢崎の家庭は壊れていた。

 俺のせいで、矢崎は離婚し、村松遥は涙を流した。

「お前の娘のことだけど……」
「遥、荻野のこと好きになったのか。さすが俺の娘だな」
「は」

 発言の意図がわからずに振り向くと、矢崎の目は酒のせいか潤んでおり、ほんのりと赤い。まるで、初めて会った日のように。

「俺たち付き合わないか。俺今フリーだし」

 グラスの中の氷がカタリと音を立てて溶けた。