寒空の下、雲の切れ間から差し込む暖かな日差しを受け、檻の向こうのツキノワグマはやる気なさげに地面にふして溶けている。
 お前はいいな、気楽そうで。こっちは大変なんだぞ。
 
「見て先生! 超かわいい!」
 
 村松遥はいつのまにか少し先の動物ふれあいコーナーの中におり、ヤギに餌をあげながらキャッキャと喜んでいる。
 最悪だ。こんなところ、塾の関係者に見られたら一発で終わる。
 すると突然、後ろから膝を押され、俺は情けなくよろける。振り返ると小さな男の子が地面に手をついていた。どうやら俺にぶつかって転んだらしい。

「だ、大丈夫かい? ぼく?」

 手を差し出すと小さな男の子は俺を見るなりピューっと向こうへ走り去る。行き場を失った手を引っ込めるといつのまにかすぐ隣に村松遥が立っていた。

「な、なんだよ」
「子ども可愛いですね。私一人っ子だから子どもは二人以上欲しいな」
「変なこと言うなよ」
「え? 普通のことでしょ?」

 ニヤニヤと笑う村松遥。なんだかこいつの方がおじさんっぽい気がする。
 今日はいつもより随分とテンションが高い。ただはしゃいでいるだけかもしれないが、少しばかり無理をしているようにも感じてしまうのは考えすぎだろうか。

「先生は? 子どもどれくらい欲しい?」
「子どもは嫌いだ」
「私は子どもじゃないので」

 しかし次の瞬間、彼女は遠くに見えたヌートリアの展示に向かって走り出していった。

 動物園を出て、昼食を取ろうと村松遥に誘われるままピザが美味しいと評判の店に入った。イタリアンでシックな雰囲気だが、あたりの席を見るとほとんどカップルが座っていてどうにも居心地が悪い。

「やっぱりここでないか?」
「先生ピザ嫌いですか?」
「その先生って呼び方やめろよ。周りにどう思われるか」
「じゃあ荻野さん」

 嬉しそうな彼女を見て、俺は諦める。

「……やっぱり先生でいいや」

 注文を終え、先に出されたコーラをストローで吸う。かまどでじっくり焼き上げるこだわりのピザはとても時間がかかる。

「荻野先生の好きな人ってどんな人だったんですか?」
「なに急に」
「いいから、どんな感じだったんですか? 私に似て可愛かったですか?」
「どんなやつ、……泣き虫かな。初めて会った時も泣いてたし」
「ほう」

 矢崎と初めて会った日のことはよく覚えている。それは劇的な出会いだったという理由ではなく、単に俺がよく思い出すからだ。
 あいつと出会って、仲良くなって、それで。
 不意に店のBGMとして流れるピアノの演奏が聞こえ、瞬間的に忘れていた記憶が蘇ってきた。

「そういえばあいつ、自分の子どもにピアノを習わせたいって言ってたな」
「ピアノ?」
「うん。あいつもよく弾いていた。まぁなんでそんな会話になったかも覚えてないんだけどな」

 あいつとの記憶は、劣化したフィルムのようにところどころ思い出せない。無理やり思い出そうとすると後悔や嫉妬などの強い印象に結びついてこびりついている嫌な記憶しか思い出せなくなっていた。
 だから久しぶりに笑っている矢崎の顔を思い出せた気がする。
 それは、あいつによく似ている村松遥が目の前で笑っているのも要因かもしれない。

「最初から好きだった感じですか? 一目惚れ的な」
「いや、ただの友達だったよ。というか、あいつにとって俺は今も友達だろう。俺がただ一方的に好きになって友達以上の関係を求めただけで」
「もう会ってないんですか?」
「ちょっと前に、ほんと数十年ぶりに」
「どんなこと話したんですか?」
「別に大したことは、って……もういいだろ。こんなおじさんの話聞いてもなにも楽しくないだろ」
「そんなことないです」

 村松遥はじっと俺の目を見つめる。

「私、荻野先生のこと好きですから。好きな人の話はどんなことでも興味深いです」
「前も言ってたけどよくもそんな、恥ずかしげもなく好きだなんて。最近の若い人はみんなそうなのか」
「他の若者は知りませんけど、私の恋の定義は相手に好きだと伝えたところからが始まりですから」
「好きだと伝えたら、それはもう告白じゃないのか?」
「全然違います。告白はもっと大事なんです」

 ようやくピザがやってきた。村松遥は早速写真を撮り、切り分けられた一ピースをゆっくりと上へあげる。糸を引くチーズをすすり、満面の笑みを浮かべる。
 村松遥といると、矢崎のことをたくさん思い出す。
 しかし、矢崎そっくりの顔で矢崎本人から言われたかったことを言われるのは、しんどいな。
 そう思いながら一ピースを掴み取り皿へと移すと上に乗っていた具が全部落ちてしまった。