「村松さん、……村松さん?」
「え、あ、ごめん」
振り向くと、教室の入り口で合唱部の生徒が首をかしげて立っていた。聞こえているはずだよね? と。
確かに「村松さん」を呼ぶ声は聞こえていたが、それが自分のことだと理解するのに時間がかかった。両親が離婚してもう一ヶ月近く経つのに、未だに「村松」という苗字に慣れていない。まりをはじめ、身近な友人は名前で呼ぶし。
みんなが散らばる放課後の教室をすり抜けて、合唱部の人たちへと顔を合わせる。要件は分かっているから、最初から申し訳なさそうな顔をして。
合唱部にはピアノを演奏できる生徒が少ないそうだ。だから各パートに別れて練習する際、臨時でピアノの演奏を頼まれていた。
肩を落として帰っていく合唱部を見送って教室に戻るとすでに生徒はほとんどいなくなっており、カバンを肩にかけたまりが待っていた。
「どうした?」
「ううん、別に」
私はまりの顔を見ずにカバンの中に教科書を詰め込む。
もう随分と私はピアノに触れていない。毎日少しずつ、鍵盤を叩く感触もペダルを踏む加減も少しずつ忘れてしまっているような気がする。
弾きたくないわけじゃない。だけど……。
心に影がかかりそうになって慌てて話題を切り替える。
「それよりさ、荻野先生とデートどこ行けばいいと思う?」
「なに? また妄想に付き合えって?」
「違う違う。今度の日曜に行くんだけど」
え、とまりは声を漏らすが私は気にせず帰りの支度を進める。
「遥、あんた本気で言ってるの?」
「なにが?」
「いや、デートって」
「行くよ。まりが告白よりもデートが先って言ったんじゃん」
「冗談に決まってるじゃん」
まりの真剣な言い方に、私はやっとまりの顔を見た。
「そんなマジになんなくても」
そう言って笑いかけるが、まりは笑ってくれなかった。
「最近いつも塾に残ってると思ったら。荻野も荻野だよ。最悪」
「別に荻野先生は悪くないよ。私から無理やり誘った感じだし」
「無理やりでもなんでも、女子高生とデート行くおっさんがまともなわけないじゃん。ちょっと考えればわかるでしょ」
「なにそれ。そんな言い方しなくてもいいじゃん」
トゲトゲとした沈黙が私たちの間に流れた。どれほど時が経っただろう。バットが白球を捉える音や、吹奏楽部のチューニングの音が遠くに聞こえる。
それらに紛れて、まりはぼそりと呟いた。
「遥、本当に荻野先生のこと好きなの?」
「何回も言ってんじゃん。好きだって」
私はなぜかまりから顔をそらした。
「親が離婚したこと、本当は辛いんじゃないの?」
「は? なに急に」
「だってそうじゃん。遥はなんにも言わないけど、荻野のこと好きだって言い始めたのってお父さん出て行った頃でしょ」
「…………」
「寂しさを埋めるために、荻野先生のこと好きだって言い張って……」
「うるさいな! てか家族のことまで口出しして欲しくないんだけど。荻野先生のことだって。まりには関係ないじゃん!」
顔を上げ再びまりの顔を見るとまりの目は今にも涙が落ちそうなほど潤んでいた。
「……そうだね。もう関係ないね」
そう言葉を残し、まりは教室を出ていった。
「え、あ、ごめん」
振り向くと、教室の入り口で合唱部の生徒が首をかしげて立っていた。聞こえているはずだよね? と。
確かに「村松さん」を呼ぶ声は聞こえていたが、それが自分のことだと理解するのに時間がかかった。両親が離婚してもう一ヶ月近く経つのに、未だに「村松」という苗字に慣れていない。まりをはじめ、身近な友人は名前で呼ぶし。
みんなが散らばる放課後の教室をすり抜けて、合唱部の人たちへと顔を合わせる。要件は分かっているから、最初から申し訳なさそうな顔をして。
合唱部にはピアノを演奏できる生徒が少ないそうだ。だから各パートに別れて練習する際、臨時でピアノの演奏を頼まれていた。
肩を落として帰っていく合唱部を見送って教室に戻るとすでに生徒はほとんどいなくなっており、カバンを肩にかけたまりが待っていた。
「どうした?」
「ううん、別に」
私はまりの顔を見ずにカバンの中に教科書を詰め込む。
もう随分と私はピアノに触れていない。毎日少しずつ、鍵盤を叩く感触もペダルを踏む加減も少しずつ忘れてしまっているような気がする。
弾きたくないわけじゃない。だけど……。
心に影がかかりそうになって慌てて話題を切り替える。
「それよりさ、荻野先生とデートどこ行けばいいと思う?」
「なに? また妄想に付き合えって?」
「違う違う。今度の日曜に行くんだけど」
え、とまりは声を漏らすが私は気にせず帰りの支度を進める。
「遥、あんた本気で言ってるの?」
「なにが?」
「いや、デートって」
「行くよ。まりが告白よりもデートが先って言ったんじゃん」
「冗談に決まってるじゃん」
まりの真剣な言い方に、私はやっとまりの顔を見た。
「そんなマジになんなくても」
そう言って笑いかけるが、まりは笑ってくれなかった。
「最近いつも塾に残ってると思ったら。荻野も荻野だよ。最悪」
「別に荻野先生は悪くないよ。私から無理やり誘った感じだし」
「無理やりでもなんでも、女子高生とデート行くおっさんがまともなわけないじゃん。ちょっと考えればわかるでしょ」
「なにそれ。そんな言い方しなくてもいいじゃん」
トゲトゲとした沈黙が私たちの間に流れた。どれほど時が経っただろう。バットが白球を捉える音や、吹奏楽部のチューニングの音が遠くに聞こえる。
それらに紛れて、まりはぼそりと呟いた。
「遥、本当に荻野先生のこと好きなの?」
「何回も言ってんじゃん。好きだって」
私はなぜかまりから顔をそらした。
「親が離婚したこと、本当は辛いんじゃないの?」
「は? なに急に」
「だってそうじゃん。遥はなんにも言わないけど、荻野のこと好きだって言い始めたのってお父さん出て行った頃でしょ」
「…………」
「寂しさを埋めるために、荻野先生のこと好きだって言い張って……」
「うるさいな! てか家族のことまで口出しして欲しくないんだけど。荻野先生のことだって。まりには関係ないじゃん!」
顔を上げ再びまりの顔を見るとまりの目は今にも涙が落ちそうなほど潤んでいた。
「……そうだね。もう関係ないね」
そう言葉を残し、まりは教室を出ていった。