強めの風が吹き、私の黒髪をバタバタと靡かせる。海面も波立ち、乗員のいない船が寂しげに揺れた。
「無くしたい……?」
「そうだ。誰かに対する感情や誰かとの記憶のうち、お前の消したいものをこの船に乗せて運ぶ。この港を出れば、折り返すことはない。もう戻って来ない」
「感情や記憶って。そんなもの、どうやって――」
「出来ない、とでも思うか? この世界で?」
世迷言を言うな、とでも言いたげに、奥まで裂けた口をぐにゃりと歪めて笑う。
ああ、そうだ。こんな非現実で塗りたくった世界なら、可能かもしれない。不可視のものを具現化して、船に乗せることが。船が遠ざかることで、それを自分の中から抹消してしまうことが。
でも、でも。
「ねえ。ここって、その、空想の世界なの?」
普段住んでいる現実と一緒だとは思ってないけど、あまりにも「空想離れ」している。
「ああ、これはあくまで、俺達にとっての現実だ」
彼は天を仰ぎ、表情を見せずに答えた。土のようなアスファルトのような地面をトントンと足で打ち、「ここは」と続ける。
「お前達の世界では『夢』と呼んだりする類のものだ。もっとも、現実の1つには変わりないから、ここで起こったことはお前が起きた後の世界にも反映される」
「……なるほどね」
寝床に入った後に、この港にやってきたはず。やっぱり夢は夢で間違いなかった。誰もいない空間も、着替えている自分も、それなら合点がいく。
「なんでこんなことしてるの? わざわざ私達をこっちに呼び出してまで」
「さあな、よく分からない。お前達だって、生きてる意味を聞かれて答えに窮することはあるだろう?」
黙って小さく頷く。確かに、こんな世界で意味なんか聞いても仕方ないかもしれない。
「もう1つ聞いていい?」
「なんだ?」
「なんで私の夢に来たの? 偶然?」
「……分かっているだろう?」
再び、彼は笑った。目の無い目で、歯を剥き出しにして、嘲るかのように。
そして、それを見ている私もまた、少しだけ似た表情を作っている。自分の弱みにつけこまれてこんなことになったんだ、という自省が、苦笑いを纏わせた。
「今日、『感情や記憶を消したい』と少しでも願った人間の中から、ランダムで決まるんだ。お前は何万人の中から選ばれたんだぞ。喜べ」
「そう、ありがと」
おざなりのお礼をして、ふうっと強めに息を吐く。地べたに座っても良かったけど、長時間座ったらお尻が痛くなりそうで、そのまま立ってることにした。
「乗船、断ってもいいの?」
「質問は1つじゃなかったのか」
「いいから」
「断っても構わない。それならそれで、別の人間のところに行くだけだ」
目のない狼と顔を合わせる。確かに彼の言う通り、恐怖しか覚えなかった不気味な顔も内臓に響くような低い声も、割と慣れてきた。
「そう……少し、考えさせて」
「ああ」
これまで彼が出会ってきた人々も皆同じようなことを言ったのか、狼は時間をやるとばかりにどこかへと歩いて行った。
考えさせて、と言ったけど、実際はそんなに悩んでいなかった。
毎日泣くほど苦しんでいたことから解放される。私は大学での恋愛を夢見る受験生になり、和桜とはただの「部活仲間」になるだろう。女子を好きになるのはこれからも変わらないかもしれないけど、まずは今の苦しみから逃れないと完全な袋小路。
何より、夢でこんなことになるほど追い詰められていた、という事実が、私の決断を後押ししていた。
それほど、今は辛い。
距離を詰めようにも、嫌悪が怖くて、拒絶が恐ろしくて、この先へは行けそうにない。いっそあの子に彼氏でも出来たらいいのに。そうしたら諦めもつくだろうか。この出口のない暗澹たる闇を抜け出せるだろうか。
よし、忘れよう。こんな機会、願って来るものじゃない。もらった幸運を大切にしなきゃ。
明日から和桜とは、知り合い。そこから、友達にでもなれたらいいな。
「決まったか」
見計らったように、気配なく狼がやってきた。
「……やるわ」
「分かった。では、準備を始めよう」
そう言って彼はバンッと両手を合わせる。そしてゆっくり開くと、そこには私が片手で持てるくらいの、小さくて真っ白い人型の人形があった。
「これをおでこに当てて、無くしたいものの願いを込めろ。なるべく他の雑念は消せよ」
「単純な仕組みなのね」
いいからやれ、という狼の催促を受け、人形をもらっておでこにつける。油性マジックが使えそうなツルツルした生地の人形は随分冷たくて、頭がひんやりと気持ち良い。
あの子への想いを、消してください。
もう毎日毎日、精一杯頑張ったから。
そろそろ、楽にしてください。
2人とも幸せでいられるように、消してください。
「出来たわよ」
「ああ」
人形を手渡すと、狼は表情を変えず、ふしゅるる……と息を吐いた。灰色の海を前で、彼の息が白く空を舞う。
「楽しい? 毎日、ここに来るんでしょう? こんな寂しいところへ」
思わず訊いたその質問に、彼は顔をこちらに向けた。眼球のない、暗い暗い窪みが、私を捉える。
「面白いヤツだなお前は。俺に興味を持つなんて」
洞窟で聞いたら大分響きそうな低音で、その声は少し笑っているようにも感じられた。
「どうだかな。仕事だから毎日やっているだけだ。それでも、出港のときにはひと段落した気にはなる」
「そうなんだ」
大して意味のない雑談。少しだけ人形と、そこに込めた感情と別れを惜しむ時間。
「じゃあ、行くぞ」
狼が天を仰いだあと、その真っ白い人形を船に乗せる。乗員はこれだけ。狼本人も乗らず、私の隣に戻った。
「出港、だな」
ボーッと、再び汽笛が鳴る。この船じゃないどこからか、幼いころビール瓶に口を当てがって息を吹きかけたような、懐かしくもある音が響く。
「この船が行ったらお別れだ」
一仕事を終えた充足感からか、狼は鼻歌を鳴らした。
聞き覚えのあるメロディー。あの子がよく奏でていた、あのメロディー。
偶然か故意かわからないあの曲が耳に吸い込まれ、代わりに目から涙が溢れた。
和桜。
「待って……待って!」
今にも動き出しそうだったボートに飛び乗り、置かれた真っ白な人形をひったくるように取って抱き寄せる。
「持っていかないで! 私のものだから!」
和桜。
貴女が好きで。どうしたって貴女が好きで。
「私の、ものだから」
その人形を頬に寄せ、濡れ跡を作った。
幻夢は、即ち「現無」。今を、無かったことにする。
私が和桜を好きだということも、無かったことになるだろう。
それはそれで幸せなことかもしれない。私は余計なことに苦しまずに済む。
私は。
私?
和桜を好きじゃない私?
それは、私?
多分違う。きっと違う。
「和桜……和桜……!」
私はいつも頭が足りなくて。公式を覚えたって、赤本を捲ったって、肝心なことはこんな状況にならないと気付けなくて。
「消さないでいいのか」
「いい。気にしないで。急にやめてごめんなさい。もうどっか行って」
これも、私の証だから。
和桜を好きなところを含めて、きっと自分だから。
「分かった」
面倒なヤツに当たっちまったと言わんばかりに、彼はフシュルルルル……と天に向かって息を吐いた。白い煙がもうもうと天に昇る。
「また大変なときにはお前の夢に現れるぞ」
「多分、もうお世話にはならないと思うけどね」
自信があった。もう迷わない。一度捨てようとした自分だからこそ、もうこの想いを手放すことはない。そんな確信から力強く放った言葉に、狼は相変わらず目のない窪みでこちらを見ながら、苦笑するように口をひん曲げ、向こうへ歩いて行った。
「間違ってるかもしれないけど、その、ありがとう」
感謝の言葉を背中に受け、何もリアクションしないまま、彼は消えていく。
やがて姿が完全に見えなくなったとき、いつの間にか船も見えなくなり、私が見ていた灰色の海も、くすんだ青の建物も、視界の中で不安定に揺れ始めた。
「帰らなきゃ……帰ろう……」
意識が、遠のいていく。
「無くしたい……?」
「そうだ。誰かに対する感情や誰かとの記憶のうち、お前の消したいものをこの船に乗せて運ぶ。この港を出れば、折り返すことはない。もう戻って来ない」
「感情や記憶って。そんなもの、どうやって――」
「出来ない、とでも思うか? この世界で?」
世迷言を言うな、とでも言いたげに、奥まで裂けた口をぐにゃりと歪めて笑う。
ああ、そうだ。こんな非現実で塗りたくった世界なら、可能かもしれない。不可視のものを具現化して、船に乗せることが。船が遠ざかることで、それを自分の中から抹消してしまうことが。
でも、でも。
「ねえ。ここって、その、空想の世界なの?」
普段住んでいる現実と一緒だとは思ってないけど、あまりにも「空想離れ」している。
「ああ、これはあくまで、俺達にとっての現実だ」
彼は天を仰ぎ、表情を見せずに答えた。土のようなアスファルトのような地面をトントンと足で打ち、「ここは」と続ける。
「お前達の世界では『夢』と呼んだりする類のものだ。もっとも、現実の1つには変わりないから、ここで起こったことはお前が起きた後の世界にも反映される」
「……なるほどね」
寝床に入った後に、この港にやってきたはず。やっぱり夢は夢で間違いなかった。誰もいない空間も、着替えている自分も、それなら合点がいく。
「なんでこんなことしてるの? わざわざ私達をこっちに呼び出してまで」
「さあな、よく分からない。お前達だって、生きてる意味を聞かれて答えに窮することはあるだろう?」
黙って小さく頷く。確かに、こんな世界で意味なんか聞いても仕方ないかもしれない。
「もう1つ聞いていい?」
「なんだ?」
「なんで私の夢に来たの? 偶然?」
「……分かっているだろう?」
再び、彼は笑った。目の無い目で、歯を剥き出しにして、嘲るかのように。
そして、それを見ている私もまた、少しだけ似た表情を作っている。自分の弱みにつけこまれてこんなことになったんだ、という自省が、苦笑いを纏わせた。
「今日、『感情や記憶を消したい』と少しでも願った人間の中から、ランダムで決まるんだ。お前は何万人の中から選ばれたんだぞ。喜べ」
「そう、ありがと」
おざなりのお礼をして、ふうっと強めに息を吐く。地べたに座っても良かったけど、長時間座ったらお尻が痛くなりそうで、そのまま立ってることにした。
「乗船、断ってもいいの?」
「質問は1つじゃなかったのか」
「いいから」
「断っても構わない。それならそれで、別の人間のところに行くだけだ」
目のない狼と顔を合わせる。確かに彼の言う通り、恐怖しか覚えなかった不気味な顔も内臓に響くような低い声も、割と慣れてきた。
「そう……少し、考えさせて」
「ああ」
これまで彼が出会ってきた人々も皆同じようなことを言ったのか、狼は時間をやるとばかりにどこかへと歩いて行った。
考えさせて、と言ったけど、実際はそんなに悩んでいなかった。
毎日泣くほど苦しんでいたことから解放される。私は大学での恋愛を夢見る受験生になり、和桜とはただの「部活仲間」になるだろう。女子を好きになるのはこれからも変わらないかもしれないけど、まずは今の苦しみから逃れないと完全な袋小路。
何より、夢でこんなことになるほど追い詰められていた、という事実が、私の決断を後押ししていた。
それほど、今は辛い。
距離を詰めようにも、嫌悪が怖くて、拒絶が恐ろしくて、この先へは行けそうにない。いっそあの子に彼氏でも出来たらいいのに。そうしたら諦めもつくだろうか。この出口のない暗澹たる闇を抜け出せるだろうか。
よし、忘れよう。こんな機会、願って来るものじゃない。もらった幸運を大切にしなきゃ。
明日から和桜とは、知り合い。そこから、友達にでもなれたらいいな。
「決まったか」
見計らったように、気配なく狼がやってきた。
「……やるわ」
「分かった。では、準備を始めよう」
そう言って彼はバンッと両手を合わせる。そしてゆっくり開くと、そこには私が片手で持てるくらいの、小さくて真っ白い人型の人形があった。
「これをおでこに当てて、無くしたいものの願いを込めろ。なるべく他の雑念は消せよ」
「単純な仕組みなのね」
いいからやれ、という狼の催促を受け、人形をもらっておでこにつける。油性マジックが使えそうなツルツルした生地の人形は随分冷たくて、頭がひんやりと気持ち良い。
あの子への想いを、消してください。
もう毎日毎日、精一杯頑張ったから。
そろそろ、楽にしてください。
2人とも幸せでいられるように、消してください。
「出来たわよ」
「ああ」
人形を手渡すと、狼は表情を変えず、ふしゅるる……と息を吐いた。灰色の海を前で、彼の息が白く空を舞う。
「楽しい? 毎日、ここに来るんでしょう? こんな寂しいところへ」
思わず訊いたその質問に、彼は顔をこちらに向けた。眼球のない、暗い暗い窪みが、私を捉える。
「面白いヤツだなお前は。俺に興味を持つなんて」
洞窟で聞いたら大分響きそうな低音で、その声は少し笑っているようにも感じられた。
「どうだかな。仕事だから毎日やっているだけだ。それでも、出港のときにはひと段落した気にはなる」
「そうなんだ」
大して意味のない雑談。少しだけ人形と、そこに込めた感情と別れを惜しむ時間。
「じゃあ、行くぞ」
狼が天を仰いだあと、その真っ白い人形を船に乗せる。乗員はこれだけ。狼本人も乗らず、私の隣に戻った。
「出港、だな」
ボーッと、再び汽笛が鳴る。この船じゃないどこからか、幼いころビール瓶に口を当てがって息を吹きかけたような、懐かしくもある音が響く。
「この船が行ったらお別れだ」
一仕事を終えた充足感からか、狼は鼻歌を鳴らした。
聞き覚えのあるメロディー。あの子がよく奏でていた、あのメロディー。
偶然か故意かわからないあの曲が耳に吸い込まれ、代わりに目から涙が溢れた。
和桜。
「待って……待って!」
今にも動き出しそうだったボートに飛び乗り、置かれた真っ白な人形をひったくるように取って抱き寄せる。
「持っていかないで! 私のものだから!」
和桜。
貴女が好きで。どうしたって貴女が好きで。
「私の、ものだから」
その人形を頬に寄せ、濡れ跡を作った。
幻夢は、即ち「現無」。今を、無かったことにする。
私が和桜を好きだということも、無かったことになるだろう。
それはそれで幸せなことかもしれない。私は余計なことに苦しまずに済む。
私は。
私?
和桜を好きじゃない私?
それは、私?
多分違う。きっと違う。
「和桜……和桜……!」
私はいつも頭が足りなくて。公式を覚えたって、赤本を捲ったって、肝心なことはこんな状況にならないと気付けなくて。
「消さないでいいのか」
「いい。気にしないで。急にやめてごめんなさい。もうどっか行って」
これも、私の証だから。
和桜を好きなところを含めて、きっと自分だから。
「分かった」
面倒なヤツに当たっちまったと言わんばかりに、彼はフシュルルルル……と天に向かって息を吐いた。白い煙がもうもうと天に昇る。
「また大変なときにはお前の夢に現れるぞ」
「多分、もうお世話にはならないと思うけどね」
自信があった。もう迷わない。一度捨てようとした自分だからこそ、もうこの想いを手放すことはない。そんな確信から力強く放った言葉に、狼は相変わらず目のない窪みでこちらを見ながら、苦笑するように口をひん曲げ、向こうへ歩いて行った。
「間違ってるかもしれないけど、その、ありがとう」
感謝の言葉を背中に受け、何もリアクションしないまま、彼は消えていく。
やがて姿が完全に見えなくなったとき、いつの間にか船も見えなくなり、私が見ていた灰色の海も、くすんだ青の建物も、視界の中で不安定に揺れ始めた。
「帰らなきゃ……帰ろう……」
意識が、遠のいていく。