「うー、体固まった! 寝よう!」
数学に没頭して、気付いたら22時半。時間内に解き終われるか今から既に不安だけど、和桜のことでアレコレ考えるのを回避するには、数字と記号だけの世界でシャーペンを走らせるのがちょうど良い手慰みだったりする。
とはいえ反動で脳が疲れてしまって、いつもより大分早いけど床につくことに。
「布団最高!」
ベッドに飛び込み、イヤホンをつけながら毛布に包まる。
思い悩む前に寝られるだろうか。タイマーで再生停止するよう設定し、不安な気持ちを音楽で消し去った。
「ふう……」
曖昧に揺れる現実の中で、浮かんだのは彼女の顔。こんなところにまで出てきて、私を惑わせる。
苦しくて、愛おしくて、辛くて。こんなにナーバスな夜は、いっそ頭を取り替えたいとさえ思う。彼女を知らなかったあの頃に戻りたいとさえ。忘れたいとさえ。
やがて。
「……え? …………え? 何、ここ……」
気が付くと、灰色の空の下で立ち尽くしていた。服装はなぜか、昼間に着ていた白のボタンシャツとネイビーのスカートに戻っている。
見たことのない景色。人も、車も、鳥も、花もない、風すら吹いていない。見えるのは、少し遠くに広がる灰色の海と、その手前、目の前に建っている、くすんだ青の三角屋根の建物。
「夢、かな……?」
近づいてみると、その建物はとても不思議で不自然だった。コンクリートで出来ているようには見えないけど、木材でもない。煤けたように汚れているのに、削れたりひび割れたりしているところはない。絶対に劣化しない建物が時間だけ延々と経ているような、言うなればそんな光景。
中にも誰もいない。普通ならスタッフがいるはずの簡単な窓口の他は、切符の販売機が1台あるだけで、受取口から屋根の色と同じ濁った青い何かを吐き出していた。
「……切符」
思わず呟く。それは、日付も金額も書かれてない、「幻夢」とだけ書かれた青い紙切れ。地名だろうか、持ってないと海には出られないのだろうか。幾つもの疑問が頭に侵入しては「夢だから」の都合の良い言い訳で全てを押し出す。
建物を抜けて、船の方に向かってみる。誰かが見ていてもいいように、切符を顔の位置に掲げながら。
潮の匂いのない、茫洋たる海が見えた。その手前までは土のように密度のあるコンクリートのように堅い地面が広がり、砂浜もない。
こういう光景は見たことがある。船乗り場だ。なるほど、それならこの切符も合点がいく。
「夢だよね。うん、そうだ、夢だ」
自分自身に言い聞かせるように、深く頷く。今から船が来て、当てのない、果てのない旅に出ようとしてるんだ。きっと現実に苦しんでいる私に、神様がくれたプレゼント。忘れられないなら、せめて夢の中だけでも何も考えない時間を取るといい。そんな風に配慮してくれたに違いない。
その時、ボーッと汽笛が聞こえた。どこか遠くから、確かに聞こえてくる。
「入港、ってことかな」
予見に応じるように、向こうからゆっくりと、一艘の船が向かってくる。10人乗りくらいの小さい真っ白な船。操縦席のようなものはなく、少し大きめのボートの後ろにエンジンらしきものがついている。
「汽笛、ついてないじゃない」
不可思議な点を口にする。灰色の水平線を見渡しても、他に船はない。どこから鳴ったのだろうか。今のこの世界なら、何が起きてもおかしくない。
船は私の目の前まで来て、ピタリと停まった。誰も乗っていない。やっぱり、これから私の一人旅が始まるんだな。
その時。
「待たせたな」
子供向けホラー映画で聞くような、低くくぐもった声。音の方向に振り向くと、そこには二足歩行の狼がいた。
「…………え?」
建物や切符と同じ色の一枚布で作られた服を着ているその様は、姿が人間ならRPGに出てくる旅人のような格好。ほぼ胴だけを隠していて、けむくじゃらの四肢と鋭い爪は剥き出しになっている。噛まれる想像だけで身震いしてしまう尖った牙は、これまでテレビや動画サイトで見たことのある狼そのもの。
しかしその顔には、私がこれまでなんとなく抱いていた「賢さ」の印象はなかった。
「あ……あ…………」
「そんなに驚くな。すぐに見慣れる」
代わりに感じたのは、言いようのない「恐怖」。目があるはずの部分に、目がない。伽藍堂の大きな黒い窪みが2つ、そこにある。抉られたような傷痕もなく、さながら、始めから目という感覚器が存在しなかったかのような。あまりにも不思議で不気味なその容貌に、ぞくりと鳥肌が立った。
「アナタ、は…………その…………な、に…………?」
「この港の番人だ。『幻夢』の名を持つ港のな」
途切れ途切れの問いかけに、胸が共振で震えるような低音で返す。この空間全体がファンタジーに塗りたくられて、日本語が通じることなど欠片も気にならない。
「幻夢……ここから船に乗るのよね? どこに向かうの?」
そう聞くとその狼は、眼球のない窪みでこちらを見た。
「船は来るが、お前は乗れない。そもそも、人間は乗ることができない」
そして、ぐいっと顔を近付け、煙でも撒き散らすかのような勢いでフシュルル……と息を吐いた。
「乗せるのはお前の感情や記憶だ。お前が消したい、無くしたいと思うものだ」
数学に没頭して、気付いたら22時半。時間内に解き終われるか今から既に不安だけど、和桜のことでアレコレ考えるのを回避するには、数字と記号だけの世界でシャーペンを走らせるのがちょうど良い手慰みだったりする。
とはいえ反動で脳が疲れてしまって、いつもより大分早いけど床につくことに。
「布団最高!」
ベッドに飛び込み、イヤホンをつけながら毛布に包まる。
思い悩む前に寝られるだろうか。タイマーで再生停止するよう設定し、不安な気持ちを音楽で消し去った。
「ふう……」
曖昧に揺れる現実の中で、浮かんだのは彼女の顔。こんなところにまで出てきて、私を惑わせる。
苦しくて、愛おしくて、辛くて。こんなにナーバスな夜は、いっそ頭を取り替えたいとさえ思う。彼女を知らなかったあの頃に戻りたいとさえ。忘れたいとさえ。
やがて。
「……え? …………え? 何、ここ……」
気が付くと、灰色の空の下で立ち尽くしていた。服装はなぜか、昼間に着ていた白のボタンシャツとネイビーのスカートに戻っている。
見たことのない景色。人も、車も、鳥も、花もない、風すら吹いていない。見えるのは、少し遠くに広がる灰色の海と、その手前、目の前に建っている、くすんだ青の三角屋根の建物。
「夢、かな……?」
近づいてみると、その建物はとても不思議で不自然だった。コンクリートで出来ているようには見えないけど、木材でもない。煤けたように汚れているのに、削れたりひび割れたりしているところはない。絶対に劣化しない建物が時間だけ延々と経ているような、言うなればそんな光景。
中にも誰もいない。普通ならスタッフがいるはずの簡単な窓口の他は、切符の販売機が1台あるだけで、受取口から屋根の色と同じ濁った青い何かを吐き出していた。
「……切符」
思わず呟く。それは、日付も金額も書かれてない、「幻夢」とだけ書かれた青い紙切れ。地名だろうか、持ってないと海には出られないのだろうか。幾つもの疑問が頭に侵入しては「夢だから」の都合の良い言い訳で全てを押し出す。
建物を抜けて、船の方に向かってみる。誰かが見ていてもいいように、切符を顔の位置に掲げながら。
潮の匂いのない、茫洋たる海が見えた。その手前までは土のように密度のあるコンクリートのように堅い地面が広がり、砂浜もない。
こういう光景は見たことがある。船乗り場だ。なるほど、それならこの切符も合点がいく。
「夢だよね。うん、そうだ、夢だ」
自分自身に言い聞かせるように、深く頷く。今から船が来て、当てのない、果てのない旅に出ようとしてるんだ。きっと現実に苦しんでいる私に、神様がくれたプレゼント。忘れられないなら、せめて夢の中だけでも何も考えない時間を取るといい。そんな風に配慮してくれたに違いない。
その時、ボーッと汽笛が聞こえた。どこか遠くから、確かに聞こえてくる。
「入港、ってことかな」
予見に応じるように、向こうからゆっくりと、一艘の船が向かってくる。10人乗りくらいの小さい真っ白な船。操縦席のようなものはなく、少し大きめのボートの後ろにエンジンらしきものがついている。
「汽笛、ついてないじゃない」
不可思議な点を口にする。灰色の水平線を見渡しても、他に船はない。どこから鳴ったのだろうか。今のこの世界なら、何が起きてもおかしくない。
船は私の目の前まで来て、ピタリと停まった。誰も乗っていない。やっぱり、これから私の一人旅が始まるんだな。
その時。
「待たせたな」
子供向けホラー映画で聞くような、低くくぐもった声。音の方向に振り向くと、そこには二足歩行の狼がいた。
「…………え?」
建物や切符と同じ色の一枚布で作られた服を着ているその様は、姿が人間ならRPGに出てくる旅人のような格好。ほぼ胴だけを隠していて、けむくじゃらの四肢と鋭い爪は剥き出しになっている。噛まれる想像だけで身震いしてしまう尖った牙は、これまでテレビや動画サイトで見たことのある狼そのもの。
しかしその顔には、私がこれまでなんとなく抱いていた「賢さ」の印象はなかった。
「あ……あ…………」
「そんなに驚くな。すぐに見慣れる」
代わりに感じたのは、言いようのない「恐怖」。目があるはずの部分に、目がない。伽藍堂の大きな黒い窪みが2つ、そこにある。抉られたような傷痕もなく、さながら、始めから目という感覚器が存在しなかったかのような。あまりにも不思議で不気味なその容貌に、ぞくりと鳥肌が立った。
「アナタ、は…………その…………な、に…………?」
「この港の番人だ。『幻夢』の名を持つ港のな」
途切れ途切れの問いかけに、胸が共振で震えるような低音で返す。この空間全体がファンタジーに塗りたくられて、日本語が通じることなど欠片も気にならない。
「幻夢……ここから船に乗るのよね? どこに向かうの?」
そう聞くとその狼は、眼球のない窪みでこちらを見た。
「船は来るが、お前は乗れない。そもそも、人間は乗ることができない」
そして、ぐいっと顔を近付け、煙でも撒き散らすかのような勢いでフシュルル……と息を吐いた。
「乗せるのはお前の感情や記憶だ。お前が消したい、無くしたいと思うものだ」