「こ、こっちはダメ。あの人、橋の下にいるって知ってたもん!」
 さっきのつぶやかれた言葉は、わたしたちが向かっているところを示していた。
「あいつらはどこにいたって俺を見つけだせる。それより…」
 足を緩め、力いっぱい握ったわたしの手をまた握り直し、(はく)ちゃんはわたしの顔をじっと見た。
「ごめん、怖い思いをさせたな」
 白ちゃんは静かに言った。
「は、白ちゃん。あの人の言ったこと…」
「ああ、本当だよ。俺は不正行為を犯して、この時代に逃げて来たんだ」
「じゃ、じゃあ…」
 泣きそうになるわたしの腕を掴み、白ちゃんはまたそのまま歩き出した。今度は橋とは反対方向に。だから少しわたしはほっとした。
「俺のいたところではさ、こうやって手を繋いで歩くことなんてなかったんだ」
 どこか寂しそうな様子で口を結んだ白ちゃんがゆっくり呟く。
「何でも機械に頼ってれば外で動く必要もないし、ほとんど家の中にいても簡単に実行できる。薬で人を思い通りに扱ったり、逆に人にだまされない機械を使ったり、そんなことが一瞬にして可能にできてしまう世界なんだ。人と人は愛し合うことを知らないし、むしろ、次世代のことを考えて能力あるもの同士を繋ぐことはあっても、ほとんど科学的の技術でなんとかなるし、人と出会う必要もない」
 信じられない話が、頭の中でぐるぐる回る。
「でも、なんでもかんでも便利に生きてるからだろうな。もう行く末を物語ってるような世界だった。俺の絵あるだろ?あれ、全部、俺の時代の絵なんだ。空だって、こんなに青くなくて、曇ったように真っ赤なんだ」
「は、白ちゃん・・・」
「だから、この時代に来た。ここなら、まだ間に合うと思ったから。だから少しでも多くの人に伝わるように絵をたくさん描いて、これから先の未来へ伝えたくなった」
 そこで、白ちゃんはおかしそうに笑った。
「でも、おまえは違った。いつも俺の絵を明るい物に変えてくれた。だから俺もこの時代の希望を捨てなかった。すごく、嬉しかった」
 白ちゃんの指が、わたしの額に触れた。
「や、やめて!」
 無意識にも体が反応した。
 今、白ちゃんは、あの人と、あの人と同じことをしようとしているから。
「でも、俺がやらないと。あいつらがおまえを無事に帰してくれるとは思えない。おまえはあのロイってやつも見てしまったからな」
「み、みんなみたいに記憶が消されるの?」
「大丈夫。俺と過ごした部分だけ消すだけだから。すぐに終わるよ」
 そして、白ちゃんは付け加えた。
「一つだけ信じて欲しい。俺は桃倉(ももくら)の気持ちは操っていない。たとえそれが可能でも」
 白ちゃんの悲しそうな表情が目に入る。
 わたしが、一番見たくなかった顔だ。
「あ、当たり前でしょ。わたしが一目惚れしたのはわたしの意志よ!白ちゃんの意志だったらもっとうまくいってるはずよ!」
 ちゃんと放課後デートだって、すんなりできたはずだもん・・・そう言いかけてやめた。わかってる。
「い、言っとくけどね、白ちゃん。そんなに簡単にわたしの気持ちは変わらないんだからね。すぐに忘れられると思ったら大間違いよ」
 わかってるよ。
「でも…」
 わかってるんだよ。
「け、消していいよ」
「え?」
「そろそろしつこい女から解放してあげる」
 消さないと、白ちゃんが人間じゃなくなるから。
「まぁ、そんなに簡単に忘れないと思うけどね、絶対」
 バカにしないでよね。
 そんなに簡単なものじゃないんだから。
「消せるものならやってみなさい!」
 乙心をなめんじゃないわよ。
 言ってやりたかったけど、できそうになかった。
「ああーっ、もうっ!好き好き!白ちゃん大好き!もう、消される前にこれからの分も言っといてやる!」
 絶対、絶対忘れてなんてやるもんですか。
「好き好き好き好きす…」
「うん、俺も」
 気付いたら、白ちゃんの腕の中にいた。
 力いっぱい抱きしめられているのがわかる。
「は、白ちゃ…」
「俺が全部覚えておくから。おまえの分まで」
 耳元で聞こえた絞り出すような声に目頭が熱くなる。
「毎日勢いよく抱きつかれることから一日が始まって、会うと恥ずかしいくらい大声で名前を呼ばれたり、あたりまえのように隣に並んで帰ったことも、一緒に見た空も景色も、あの道も。おまえが、初めて俺を『白ちゃん』って呼んでくれた日のことも。俺がそのとき、本当に嬉しかったことも。毎日に明るい色がついて、すっげぇ幸せに思えたことも」
 うそつけ!と思ったけど、白ちゃんの腕にしがみついたままわんわん泣くことしかできなかった。
(行かないで)
 この手を離したら、すべてが終わってします。
(行かないで、白ちゃん)
 言いたいことはまだまだあるのにうまくまとまらない。
 大きな夕日が燃えるように遠くで輝き、私たちを照らしていた。
「夕日のさ、あの赤さは好きだったんだ」
「大切な人を失ってまでも手に入れないといけないような未来なら、私はいらないのに」
 もっと白ちゃんを見たいのに、涙でぼやけて見えないし、本当に最悪だ。
「いつか、きっとおまえの物語が描くような未来が来る。きっと、そしたら…」
「そしたら、ご褒美にお茶に付き合って」
 わたしの言葉に白ちゃんは驚いたように目を大きく見開いたけど、それでも今までに見たこともないような満面の笑みを浮かべて返してくれた。
「ああ。約束する」
「うそっ!ほんとに?」
「ああ、ほんとにほんと」
 そんな場合ではないとわかっていたけど、わたしは飛び上がってしまっていた。
 だって、そんなの、絶対にありえないと思っていた回答だと思ってたから。
「いっつも迷惑そうにしてたのに…」
「そ、そんなことないよ」
「うそ、してたよ!」
 わたしがどれだけ心を痛めていたことか。
 後ろの方で、迫り来る足音が聞こえた。
「そうだな。でも、大切だったんだ」
「お、遅いわよぉ」
 そうにっこりして笑いかけたとき、白ちゃんは静かに私に口づけた。私は驚いて腰を抜かしかけた。何度も何度も想像した展開がこんな状況で起こるとは思っていなかったから。
 でも、それと同時に頭の中で何かが弾け、真っ白な世界に包まれた。それはあたたかく優しくて、薄れゆく意識の中でなぜだかわからないけどまた涙が頬を伝うのを感じた。

 長い、長い長い夢を見た気がする。
 とてもとても幸せな夢。

 わたしは、大切ななにかを失った。