朝陽にはいつも悩みがある。
いつもだいたい落ち込んでいる。
いつも自信がない。
だけどそうでない時でも、何となくため息をつく。
ため息をつくから、「何か悩みでもあるの?」って聞いてあげるけど、「別にないけど」って不思議そうな顔をする。
こんなふうに、ため息をついているという自覚症状がないときもある。
ため息はもう、朝陽の癖であり、生きることの一部なのだ。
ため息の元である朝陽の悩みというのは、私からしたらほんと何でもないことばかり。
「明日の発表、イヤだなあ」とか、「次の試合のスタメン、選ばれるかな」とか、「もうすぐ数学のノートなくなりそう」とか、「数量限定グッズ、買えるかな」とか。
慰めようのないものばかり。
だから私も他人事のように「何とかなるんじゃない」とか「大丈夫だよ」なんて生返事をする。
すると朝陽は、「だよね」って、ちょっとだけ肩を揺らして笑う。
そんなふうに、私たちの夜は更けていく。
二人の、特別な時間だ。

そして今日もまた、朝陽はため息をつく。
夜9時のドラマが始まるタイミングで、私は玄関に向かう。
扉を開けた瞬間、夜の澄んだ空気がふわりと家の中に入り込む。
それと入れ替わるように、私は外に出る。
私を迎えたのは、

「はあ……」

朝陽のため息だ。
朝陽はまるで、私に話を聞いてほしいと言わんばかりのため息をつく。
だから私も話を聞いてあげる。
幼馴染みとして。

「何よ。学校生活、上手くいってないの?まだ3日しかたってないじゃん」
「そうだよね、まだ3日しかたってないんだよね」

頬杖をつきながら、朝陽は夜空を仰ぐ。

「3日しかたってないのにさ、おかしいよね」
「何が?」

朝陽は目線を空に向けて、腕を組んだまま何か考え事をする。
そういう時、朝陽はいつも体を左右にゆらゆらとさせる。

「はあ……」

私の「何が?」には答えず、朝陽はまたため息をつく。
だけど、そのため息がいつもと違うような気がした。
たった一呼吸だけど、その呼吸の変化を私は見逃さなかった。
朝陽のため息はいつもは下向きで、吐き出されたまま足元を渦巻くようにいつまでも滞っている。
それなのに今日のため息は、上向きだった。
上昇気流のようにふわりと舞い上がって、星の見えない真っ暗な夜空の中で、どこまでもどこまでも広がっていく。
ため息なのに、そこにはなぜか、温かな幸せの気配があった。
ため息をつくと幸せが逃げるっていうけど、逃げるというより、溢れ出てきてしまっているようだった。
それに何より、玄関のオレンジ色のあかりに照らされた朝陽の表情が、いつもと違った。

朝陽は喜怒哀楽をあまり顔に出さない。
無表情とまではいかないけど、笑う時でさえふふっと鼻で笑って肩を揺らすぐらいだ。
その朝陽の表情が、今日はなんだか柔らかい。
口元が緩んでいて、目元も下がっている。
いつものどんよりとした負のオーラもない。

「何か、いいことでもあった?」
「え? いいこと?」
「ため息つきながら笑ってるって、かなり気持ち悪いよ」
「僕、笑ってた?」
「うん」

「そうかなあ」なんて言いながら、朝陽は両手で顔を覆った。

「何よ、言ってみなさいよ」
「嫌だよ、凪咲に言ったら、絶対笑うし」
「絶対笑わないから」
「絶対笑わない?」
「絶対笑わない」

私は朝陽の目を真正面から見据えて言った。
朝陽は私に向ける疑いの目を一旦外す。
そして、夜の闇を貫くようなまっすぐな目をして遠くを見た。
その闇の中に、ぼそりとした朝陽の声が放たれた。

「一目惚れ、した」
「……え?」

固まって何も言えなくなる私に、朝陽は再びゆっくりと視線をよこした。

「好きな人が、できた」

ほんとは何を言っても笑ってやるはずだった。
だけど、笑うのを忘れた。

「あれ?笑わないんだ」
「え?」
「だって、僕が一目惚れって……。それにさ、入学して早々人を好きになるって、おかしいよね。人を好きになるって、普通相手のことを知って、友達になって、そこから特別な人になっていくのにさ。僕、世の中に一目惚れなんてありえないと思ってたのに。まさか自分がと思って」

朝陽は興奮気味にそう話す。
それで、あのため息というわけか。
朝陽は一目惚れの相手について話してくれた。
朝陽は相手のことを「彼女」と呼ぶ。
まだ彼女でもないのに。
だから私も「彼女」と呼ぶ。
彼女は朝陽と同じクラスで、出席番号順の席が朝陽と前後だという。
プリントを回そうとふと後ろを振り向いた瞬間、朝陽は落ちたというのだ。

恋に。

彼女は特にかわいくもなく美人でもない。
大人しい感じで、他の女子みたいに気合を入れて化粧をしたり制服を気崩したりもしない。
飾り気のない、目立たない女の子。
だったら、一体どこに一目惚れしたというのだろう。

「見た目じゃなくて、空気感が似てるんだ」

朝陽は恥ずかしそうにそう語った。

__空気感って、何?

「凪咲はどう思う? 一目惚れって」
「え?」
「凪咲は、一目惚れって、したことある?」

恥ずかしそうにもじもじとした様子と、ぼそぼそと尋ねる声が、恋愛漫画なんかで初めて恋をする女子のようだった。
その女々しい姿にイラついた。

「するわけないじゃん、一目惚れなんて。だってそれって、ほんとに好きなの?」
「え?」
「私は、一目惚れって、一瞬の気の迷いだと思う。今まで出会ったことのないような子がちょっと気になるとか、光の当たり具合でキラキラして見えたとか。使ってるシャンプーが同じだから、その匂いに親近感とか。高校入学して、環境も人間関係も変わって、そう見えるだけだよ。朝陽はそういうの、神経質だから。それに朝陽の「好き」の根拠だってあやふやでしょ? 空気感が似てるとか。それって別に好きじゃなくても、友達でもあり得るわけじゃん」

私のその場で考えたもっともらしい意見に対し、朝陽は「ああ、そうか」と素直に反応する。

「だいたいさ、朝陽が一目惚れって正直ウケるんだけど。恋愛漫画の主人公にでもなったつもり?そんなキャラじゃないでしょ、地味男子のくせに」
「ほら、そうやって笑うと思ったから言いたくなかったんだよ」

朝陽は怒って、私から顔をそむけた。
その顔の向こうから「まあ、凪咲の言う通りなんだけどね」と、寂しげな声が聞こえた。

「僕が一目惚れなんて、運命的な恋なんて、やっぱり似合わないよね」

朝陽は再び夜空に目を向けた。
空にはひとつも星が出ていなかった。
その闇の中に、朝陽の声が虚しく吸い込まれていくのを、私は見届けた。
私には7つ歳の離れた姉がいる。
その姉の影響で恋愛関係には早いうちから興味を持っていた。
姉はよく少女漫画を読んでいて、幼稚園に通う頃から私も一緒になって読んでいた。
青春恋愛映画やテレビのドラマなんかも一緒になって見ていた。
幼稚園児には少々早い描写と内容だと今では思うけど、あの頃から私は恋愛にどっぷりはまっていた。
中高生の恋愛事情と一緒に、そこで文字や言葉も覚えた。
中でも私が憧れていたのが、「幼馴染みの恋」だった。
漫画や映画やドラマに出てくるような幼馴染みの恋がしたかった。
だけど、残念ながら近所には該当者がいなかった。
ほとんどが姉と同世代で、私と同じ学年や近い年齢の子どもはいなかった。
そこにやってきたのが、朝陽だった。

朝陽は6歳の時、小学校に入学するタイミングで私の家の隣に引っ越してきた。
朝陽のお母さんが引っ越しのあいさつに来たとき、私もその場にいたんだけど、当時、今では信じられないくらい人見知りだった私は母親の陰に隠れて母親同士の会話を聞いていた。
朝陽のお母さんの声に耳を澄ましているうちに、私の耳はどんどん大きくなる。
なぜかどきどきどきと心臓が早く鳴りだす。
そして、

「朝陽と凪咲ちゃんは幼馴染みになるのね。よろしくね」

隠れていた私を気遣ってかけてくれたその言葉に、私の目が大きく見開かれた。

__あさひ……。

その名前に、心が奪われた。
その名前に、運命を感じた。

「ほら、朝陽、そんなとこに座ってないで、こっち来てあいさつしなさい。凪
咲ちゃんだって。朝陽と同じ小学校に通うんだよ」

年齢も同じ。
小学校も同じ。
もう少し早く来てくれてたら幼稚園だって一緒だったかもしれない。
だけど、何はともあれ私の理想の恋愛の形に近づいたわけだ。
そう思った。
そして母親に呼ばれて私の前に現れたのは…

__この人が、私の、幼馴染み。
  運命の、相手。

そこにいたのは、私より少しだけ背の低い、もさもさ頭の男子だった。
そして朝陽は、イケメンではなかった。
クラスの人気者でもなかった。
朝陽と一緒にいても、男女からの冷やかしはあっても、女子からの嫉妬はなかった。
冷やかしに朝陽が反応することはなかった。
代わりに私が、「そんなんじゃないよ」「朝陽とそんな関係になるわけないじゃん」「ただの幼馴染みだよ」、ついでに、「朝陽をいじめるなあ」と、悪ガキ退治をする始末。
確かにこんなのも幼馴染みによくあるパターンなんだけど、私の理想とは正反対だった。
朝陽はといえば、ぼんやりとしていた。
いつの間にか友達の輪を離れて歩いていた。
出会った頃から変わらない髪型、いつも伏しがちな目、頼もしくない体つき。
ため息ばっかりついて、空ばかり仰いで、自分に自信がなくて、なんだかパッとしなくて、地味で存在感が薄い。
正直幼馴染みとしては物足りない。
それでも、私の幼馴染みの相手は、朝陽しかいなかった。
もうこれはしょうがない。
これがどう恋に発展していくのか、私にはわからない。
それなのに、私はかれこれ10年近く理想の幼馴染みの恋を追い続けている。
朝陽を相手に。
だって、私の幼馴染みは、朝陽しかいないんだから。
それに、朝陽とだって、もしかしたら……もしかするかもしれないでしょ?
こうして今日も朝陽と玄関先の階段に腰かけて話をするのだって、幼馴染みの特権だと思っている。
だけど相手が朝陽なら、誰も羨ましがらないだろう。
それでも私にとって、朝陽は特別な存在だ。
幼馴染みなんだから。
朝陽にとっても、私は特別な存在であってほしい。
いや、あるべきだ。
朝陽も私のことを、そう意識しているに違いない。
そうじゃなかったら、毎晩こんなふうに顔をつき合わせて話をしないでしょ?
だって幼馴染みだよ。
女子が憧れる恋愛パターンの代表じゃん。
私たちの関係は、友達でもなく、恋人でもない。
その中間の、特別な関係。
それが、幼馴染み。
二人の間に入れるものは、何もない。

それなのに、朝陽は、恋をした。
相手は、私じゃない。
朝陽の恋の相手は、私じゃなきゃダメなのに。
なにも朝陽の恋は今回が初めてではない。
過去に何回かあった。
いずれもその相手は私ではない。
だけどどの恋も、長くは続かなかった。
朝陽の心に生まれたばかりの淡い色の灯を、私が早々に消しにかかっていたのだから。

「どうせちょっと優しくされて勘違いしてるんでしょ?」
「あの子、他に好きな子いるらしいよ」
「朝陽に告白とかできるの? 絶対無理でしょ」

自分でも最低なことをしていると思っている。
だけど、朝陽が私以外の子を見てるとか、許せなかった。
自分勝手だってわかってる。
だけど私がそう言うと、朝陽も「だよね」って弱々しく笑ってすぐに諦める。
そんな気持ち、忘れてしまったかのように。
まるで、自分の心にははじめから何も芽生えていなかったかのように。
こうして朝陽の恋の火は消える。
それ以降、朝陽からそのコイバナについて持ち出されることはなくなる、というわけだ。

今回も、あの日、あの夜以来、朝陽の口から「彼女」と言う言葉が放たれることはなかった。
その代わりなのか、朝陽の話題に上るようになったのが「あいつ」だった。
朝陽が「あいつ」と呼ぶので、私も「あいつ」と呼ぶ。
私は友達でもないのに。
だけど朝陽も、「あいつ」の名前を言わなかった。
いつも「あいつ」だった。
「あいつ」はクラスは違うけど、サッカー部が同じで、サッカーがめちゃめちゃ上手いそうだ。
だけど目立ったりすることが嫌いで、いつもアシスト役に回ることが多いらしい。
ボールを運んで、シュートを決められそうな人にパスを回して、自分では決してシュートを打たない。

「でも、それがあいつっぽいんだよね」

あいつの話をするとき、朝陽は楽しそうに話す。

「僕が言うのもなんだけど、あいつ、見た目もパッとしないし、教室でも部活でも目立たないようにしてて、存在感薄くて……、なんていうか、空気みたいなんだよね。いるのにいないふりが上手いっていうか」

「ほんと、朝陽に言われたくないよね」と直球で返すと、朝陽は唇を突き立てて目を細める。
その顔が私のお気に入りだ。
いつもなら「うるさいなあ」とか言って小さな反撃をしてくるんだけど、今日の朝陽はすぐに穏やかな表情をとり戻した。

「なんか、僕と似てるんだよね。空気感が」

__似てる…空気感。

忘れかけていた「彼女」が、私の脳裏をかすめていった。
朝陽の顔をもう一度見直すと、朝陽は珍しく活き活きとした顔を夜空に向けていた。
星の煌めきがその顔に映りこんだかのように輝いて見えた。
その表情に見とれていると、「はあ……」と、朝陽はいつものため息を漏らした。
それと同時に、煌めきが散っていく。

「何よ。自分と気の合う友達ができて嬉しいんじゃないの? 朝陽には珍しいというか、貴重な地味トモができたってことでしょ?」
「地味トモって……」
「それとも何? あいつとの間に、なんか問題でもあったりするの?」
「問題ではないけど……」

朝陽はそう言って、今度は切ない表情を空に向けた。
夜空の星に何か問いかけるような目は、星の煌めきを反射させない。

「完全には、似てないんだよね、これが」
「どういうこと?」
「あいつ、実はすごく頭良いんだよね。この間の学力テスト、総合で8位だよ」
「へえ。朝陽は?」
「僕は、76位。真ん中よりちょっと下」

朝陽らしくパッとしない成績だ。

「それに、あいつ運動神経も良くて、体力テストの成績すごく良くってさ。50メートル走は7秒台前半だし、シャトルランは余裕で100回超えてたし」
「へえ。すごいね、それは。で、朝陽は?」
「僕は、全部平均記録より、良かったり悪かったり」

やっぱり、朝陽らしい。
褒めるところもなく、けなすところもなく。

「僕と一緒にいるけど、ほんとは誰とでも仲良くできるんだ。学校で目立つ奴とか、学校で人気のある人とか。そんな人たちとも気さくに話したり、話し合わせたりできるんだ」
「人当たりが良いんだ」
「そうなんだよね。でも、基本目立つのが嫌いだからさ。シャトルランも、ほんとはまだ余裕だったけど、一人残ると目立つじゃん。だから途中でやめたんだよ」
「へえ。私はそういうの、好きじゃないけど。朝陽は、そんなことしないでしょ?」
「しないというか、そもそもそこまでいかないからね。とにかく、成績が良くても、運動神経が良くても、サッカーが上手くても、人から話題にされないというか。話題にされないようにしているというか。ほんとに、いるのにいないふりをするのが上手いんだよ」

「部活に遅れてきても、いなかったのにいたふりするのも上手いし」と朝陽はおかしそうに笑って付け足す。
だけどまたすぐに、寂しげな顔に戻ってしまう。

「あいつは、ほんとにすごいんだ。雰囲気や空気感は僕と似ているし、僕も一緒にいるのは楽しいよ。居心地がいいというか。あいつが僕と一緒にいてくれる理由なんて、それしかないと思うし。地味で目立たない僕といる方が、楽なんだと思う。だけど、時々、あいつは自分とは違うんだって思い知らされると、なんて言うか…」

言いよどむ朝陽に、私はその気持ちを代弁してあげるつもりだった。

「寂しい?」

それなのに朝陽は、「いや……」と言って少し考えてから、強い眼差しで言った。

「悔しい」

見たことのないその表情に、体がぞくぞくと震える感覚がした。

「あいつは、僕と似ている。だけど、どこか違う。しかも、全然違う。それを、悔しいって思う時があるんだ。かつみのくせにって」

その時初めて、「あいつ」の名前を知った。

「かつみ……」

私もその名前を、ぽつりと闇の中に放ってみた。
「はあ……」

朝陽は今日もため息をついている。

ああは言っていたものの、「あいつ」こと、「かつみ」との関係は良好そうだ。
あいつの話をする朝陽は楽しそうだし、時々けなしたり毒づいたりするけど、それも面白半分、冗談半分。
本気はゼロだ。
「悔しい」と言ったあの日、あの顔の朝陽を、私はもう忘れかけていた。

それなのに、今日はまた激しく落ち込んでいる。
ため息の種類も、明らかに落ち込みのサインだ。

「何?またため息?あいつとなんかあった?」

私の質問に、朝陽は何も答えない。
その代わり、うつろな目を私の方にゆっくりと向けた。

「あのさあ、うちの学校のテニス部の本田って知ってる?」
「本田?」

テニス部で「本田」と言ったら、もうあの人しかいない。
本田君とは中学は違うけど、テニスの試合で見かけることが多かったし、練習試合でうちの学校に何度か来たこともある。
本田君はテニスが上手かった。
それだけじゃない。
イケメンですらりと背も高くて、引き締まった体に学校指定のダサい白のテニスウエアまぶしいほどよく似合っていた。
爽やかでキラキラしていて、絵に描いたような王子様。
そんな王子様を、女子たちが野放しにしておくわけがない。
本田君は他校の生徒だったけど、うちの中学でもファンは多かった。
本田君が試合に出ると、テニスコートを囲むフェンスの外側を女子たちが取り囲み、張り付いて見ていた。
中学生だけでなく、高校生、大学生、保護者の方々、先生まで、ファンの年齢層も広かった。
いつも黄色い歓声が上がっていて、本田君はフェミニンなはにかみ顔で、その声援に応えていた。

__そういえば、朝陽と同じ学校にいるんだ。

同じテニス部の先輩や同級生が話しているのを聞いたことがあったし、中学で同じテニス部だった友達も、他校であるにもかかわらずその情報を持っていたことを思いだした。

実は以前、一度だけ声をかけられた。
連絡先を教えてほしいと。
だから完全に面識がないというわけではない。
だけどその時はまだスマホなんて持ってなかったし、持っていても教える気はなかった。
友達には散々、「もったいない」とか「羨ましい」とか言われけど、私はどこ吹く風だった。
後ろ髪惹かれたりはしない。
だって彼はたとえイケメンであっても、私の幼馴染みにはなりえないから。
恋愛対象外、恋人候補外だ。
誰もがうらやむ完璧王子に連絡先を聞かれたんだから、朝陽に言ったら嫉妬してくれるかな……なんて期待した。
だって、幼馴染みの恋に嫉妬はつきものでしょ?
それなのに、

__「……だれ?」

それが当時の朝陽の答えだった。
まあ、他校のテニス部の顔も知らない人気のすごさも知らない男子の名前を出されて、当然の反応だったとは思うけど。
幼馴染みとしてちょっとは嫉妬してほしかった。
他の男子に連絡先聞かれたんだから。
それって、私に気があるってことでしょ?
まあ、朝陽にはわからないか。
それ以来、私たちの話題に本田君が持ち出されることはなかった。

それがどうしたことだろう。
もしかして、今さら嫉妬だろうか?
そもそも朝陽がそんなこと覚えているとも思えないけど、淡い期待を抱いて答えを返した。

「本田君って、私が中3の最後の試合の時、連絡先聞いてきた人じゃん。朝陽にも話したでしょ?」
「……そう、だっけ?」

案の定、完全に忘れている。
だけどその声は低く重かった。

「え?何?本田君となんかあった?」

本田王子と地味男子代表の朝陽に接点があるとは思えない。
何も答えない朝陽の顔を、フェンスの隙間から覗き見た。
その表情に、私ははっとした。
いつも伏せられた目元が、きりっと鋭くなっていた。
私の方に向けられたその目は、氷のように冷たかった。

「やっぱ、凪咲から見ても、本田ってかっこいいの?」
「え? うーん……まあ……そうだなあ」

ほんとは何とも思わないけど、濁しながら肯定しておく。
爽やかイケメン王子というのは確かだし。
ここは本田君の名誉のため、そして幼馴染みの嫉妬を獲得するため。
だけど、朝陽の返事は「ふーん」とただそれだけだった。
返事としては微妙で、私としては物足りない。
だけどその厳しい目つきは変わらない。
その目のぎらつきに、私の胸の鼓動が不穏な動きをする。
朝陽の顔が怖いからじゃない。
そこには、私の知らない朝陽がいたからだ。

「うちの学校の部室棟の近くにさ、テニスコートがあるんだよ。ボールが飛んでこないようにフェンスがしてあってさ。ほら、中学の時もそうだったじゃん。そこからは、男子テニス部が見えるんだよ」

朝陽は丁寧に、だけど淡々と説明を始めた。

「そこには本田がいて、いっつも女子たちがキャーキャー言ってるんだよね」
「うん」
「それって、どういう意味だと思う?」
「どういう意味って、普通に考えて、本田君に気があるってことでしょ?」
「だよね」

朝陽は自嘲気味に笑う。

「じゃあ、キャーキャー言わずに後ろの方でゴミ箱持って、ただ静かに立ってテニスコート見てるだけの女子は、どうなの?」
「え? ゴミ箱?」
「そう、ゴミ箱。掃除当番でゴミ捨ての仕事があるじゃん。ゴミ捨て場って、校舎からかなり離れたところにあるんだよね。だから面倒で誰も行きたがらないんだよ。でも、彼女は率先して行くんだよ。そのテニスコートの前を通るために」

「女子って変わってるよね」と、朝陽はおかしそうに笑って言う。
だけど私には、朝陽が一体何の話をしているのか、よくわからなかった。

__「彼女」って、あの一目惚れの「彼女」だろうか。

「それってやっぱり、そういうことかなあ?」
「え?」
「彼女は、本田のことが、好きなのかな」

朝陽の学校には行ったことないけど、サッカー部の部室から、テニスコートの本田君を見つめる彼女の背中を切なげに見つめる朝陽の姿が、一瞬で私の脳裏に描かれた。
胸の苦しさに耐えられず潤み始める瞳、噛み締める唇。
そんなところまでリアルに想像できて、私の胸までちくりと痛む感じがした。

__もしかして、朝陽は……

「どう思う?」

 ぽつりと投げかけられた朝陽の声で、ようやく私は自分の口が半開きになっていたことに気が付いた。
その口を慌てて閉じると、かさかさした唇同士が触れ合った。
何かを探すように、私の目があちこちに泳ぎだす。
探しだしたその答えを、私は慎重に朝陽に投げ返した。

「あの……朝陽は、まだ、彼女のことが、好きなの?」

私の質問に朝陽の目が一瞬大きく見開いた。
そして慌てたように答える。

「えっと、凪咲に言ったら、まだ諦めてなかったのかって怒られると思って……。隠してたわけじゃないけど、でも……」

朝陽は言いよどむ。
そして真っ暗闇のどこか一点をまっすぐ見つめて答えた。

「いつの間にか、目で追ってるんだよ。探してるんだよ、彼女の姿を。彼女は別にかわいくもないし美人でもないって言ったけど、毎日彼女の姿を目で追ってると、知らなかった彼女のことがいろいろわかってきて、なんていうか……かわいく見えるんだよ、すごく。いつの間にか僕にとって、特別な存在というか」

__とくべつ……

その言葉を発した瞬間の朝陽の表情に、私はどきりとした。
かっこいいとかそんなんじゃなくて、上手く言えないけど、私が見たことない、男子の顔。
そしてその「とくべつ」という言葉が、私の胸に冷たい影を落とす。

「わかってるよ、僕がこんなこと言うのは似合わないってことぐらい。それに、こんな僕だから、話しかけたりすることはないし、連絡先だって聞けないし、告白なんて絶対無理だし。でも、進展なんてなくてもいいんだ。ただ、彼女を見てるだけで。会話って呼べなくても、授業中のほんの少しのやり取りで良いんだ。彼女の声が間近で聞けたら。「園田君」って、事務的にでも呼んでくれたら」

朝陽の心が高揚していくのが、暗がりの中で分かった。
その部分だけ、ほんわりと暖かな空気を放っているようだから。

「やっぱり僕、彼女のことが、好きなんだ」

私の知らないうちに、朝陽の中で、彼女への想いが育っていた。
そして、私の知らないところで、私の知らない朝陽がどんどん生まれていく。
切なさで苦しそうに顔ゆがめる朝陽に、私の心臓がどくどくとうるさく鐘を鳴らした。

「本田君と朝陽とじゃ、勝負にならないよ」

それが私の、精一杯のアドバイスだった。
彼女を諦めさせようとか、意地悪とか、正直それもちょっとはあったかもしれない。
だって、朝陽の「とくべつ」は、幼馴染みの私でないといけないんだから。
私以外の人との恋愛で傷つくなんて、絶対、イヤ。
他の女子に、この場所は譲れない。
人生の途中から出てきた、一目で恋に落ちた女子になんて。
だけど、純粋な忠告でもあった。
負け戦。
どう頑張っても、叶わない恋だ。
私じゃなくてもそう言うだろう。
私の忠告に対して、朝陽は苦しそうにさらに顔をしかめた。
だけどすぐにその緊張を緩めて、弱々しくふっと笑って言った。

「……だよね」
__「やっぱり僕、彼女のことが、好きなんだ」

その言葉を聞いてから、季節は2つも通り過ぎた。
その間も、朝陽の気持ちは、まだ彼女のそばにある。
いちいち「まだ好きなの?」なんて聞かなくても、毎日のため息でわかってしまう。

朝陽から久しぶりに「彼女」の話を聞いたのは、高校2年生になった始業式だった。
彼女と同じクラスになったという。
相変わらず話しかけることはないらしいけど、彼女を目で追い続けているようだ。
出席番号は去年と変わらず前後だということだし、朝陽のささやかな幸せは今年も続きそうだ。
ついでに「あいつ」こと、かつみとも同じクラスになったそうだ。
それも朝陽は喜んでいた。
もちろん嬉しいとは言わないけど、口調から嬉しさが溢れていた。
そしてまた、季節がひとつ、またひとつと過ぎていった。
「はあ……」
「またため息ついてんの?」

今日も朝陽はため息をつく。
夏ももう終わりと言いたいところだけど、9月中旬はまだまだ夏のように暑い。
昼間の熱気が夜の闇の中をはびこっていて、外に出た瞬間から汗がじっとりとパジャマ代わりの半袖Tシャツを濡らす。
重苦しい夜の空気を、朝陽のため息がさらに重たくしていく。
彼女との恋に進展がないことに、いよいよ嫌気がさしているのだろうか。
もうやめてしまえばいいのに、そんな恋。

「今日はどうしたの?」

と一応形式上聞いてみながら、私はいつも通り階段に座った。
石造りの階段はひんやりしていて気持ちいい。

「彼女さあ……」

その第一声に、私の耳が大きくなる。

「二学期になってから、テニスコートの前にいないんだよね。掃除当番なのに。ゴミ捨ては行ってるみたいなんだけど、テニス部の前を走って通り過ぎてくんだよ」
「うん」
「おかしいなって思ったら、彼女、本田に告白したらしいんだ」
「お……おお……」

思わず感嘆の声が漏れた。
すごい急展開だ。

「で、どうだったの?」

私はフェンスに食い気味で身を乗り出し、その答えを待った。

「フラれたって」
「ああ……」

思わず落胆の声が漏れた。

「それは……残念だったね」

その言葉は、誰にかけたものだろう。
「彼女」にだろうか。
それとも、「自分」にだろうか。
再び「はあ……」とため息を漏らす朝陽を見た。
ため息をつきたいのはこっちなのに。

「なんで朝陽がため息? 朝陽にとっては、良いニュースでしょ? 傷心の彼女に近づいて、あわよくば付き合えるかもしれないし。まあそんなの下心ありすぎてヒクけど。てか朝陽に傷心の彼女慰められるわけないし、そもそも話しかけられないしね」
「うーん……」

私の軽口にも反応を示さず、朝陽の表情は浮かなかった。
いつもなら「まあ、そうなんだけどね」って弱々しく笑っていそうなところなのに。

「何?」

朝陽の次の言葉を待ちきれない私は、思わず怪訝な声で尋ねた。

「あいつさあ……」
「あ、あいつ?……かつみのこと?」
「うん。そう。あいつ、好きな人ができたっぽい」
「そう、なんだ」
「……あいつ、彼女のこと、好きかも」

朝陽の言葉に、私の背筋がピンとなった。
そして思わず見開いた目でパッと朝陽を見た。

「……え?」

「はあああああ……」と今までにない大きくて重たいため息を吐きながら、朝陽は膝小僧に顔をうずめた。