朝陽が「あいつ」と呼ぶので、私も「あいつ」と呼ぶ。
私は友達でもないのに。
だけど朝陽も、「あいつ」の名前を言わなかった。
いつも「あいつ」だった。
「あいつ」はクラスは違うけど、サッカー部が同じで、サッカーがめちゃめちゃ上手いそうだ。
だけど目立ったりすることが嫌いで、いつもアシスト役に回ることが多いらしい。
ボールを運んで、シュートを決められそうな人にパスを回して、自分では決してシュートを打たない。

「でも、それがあいつっぽいんだよね」

あいつの話をするとき、朝陽は楽しそうに話す。

「僕が言うのもなんだけど、あいつ、見た目もパッとしないし、教室でも部活でも目立たないようにしてて、存在感薄くて……、なんていうか、空気みたいなんだよね。いるのにいないふりが上手いっていうか」

「ほんと、朝陽に言われたくないよね」と直球で返すと、朝陽は唇を突き立てて目を細める。
その顔が私のお気に入りだ。
いつもなら「うるさいなあ」とか言って小さな反撃をしてくるんだけど、今日の朝陽はすぐに穏やかな表情をとり戻した。

「なんか、僕と似てるんだよね。空気感が」

__似てる…空気感。

忘れかけていた「彼女」が、私の脳裏をかすめていった。
朝陽の顔をもう一度見直すと、朝陽は珍しく活き活きとした顔を夜空に向けていた。
星の煌めきがその顔に映りこんだかのように輝いて見えた。
その表情に見とれていると、「はあ……」と、朝陽はいつものため息を漏らした。
それと同時に、煌めきが散っていく。

「何よ。自分と気の合う友達ができて嬉しいんじゃないの? 朝陽には珍しいというか、貴重な地味トモができたってことでしょ?」
「地味トモって……」
「それとも何? あいつとの間に、なんか問題でもあったりするの?」
「問題ではないけど……」

朝陽はそう言って、今度は切ない表情を空に向けた。
夜空の星に何か問いかけるような目は、星の煌めきを反射させない。

「完全には、似てないんだよね、これが」
「どういうこと?」
「あいつ、実はすごく頭良いんだよね。この間の学力テスト、総合で8位だよ」
「へえ。朝陽は?」
「僕は、76位。真ん中よりちょっと下」

朝陽らしくパッとしない成績だ。

「それに、あいつ運動神経も良くて、体力テストの成績すごく良くってさ。50メートル走は7秒台前半だし、シャトルランは余裕で100回超えてたし」
「へえ。すごいね、それは。で、朝陽は?」
「僕は、全部平均記録より、良かったり悪かったり」

やっぱり、朝陽らしい。
褒めるところもなく、けなすところもなく。

「僕と一緒にいるけど、ほんとは誰とでも仲良くできるんだ。学校で目立つ奴とか、学校で人気のある人とか。そんな人たちとも気さくに話したり、話し合わせたりできるんだ」
「人当たりが良いんだ」
「そうなんだよね。でも、基本目立つのが嫌いだからさ。シャトルランも、ほんとはまだ余裕だったけど、一人残ると目立つじゃん。だから途中でやめたんだよ」
「へえ。私はそういうの、好きじゃないけど。朝陽は、そんなことしないでしょ?」
「しないというか、そもそもそこまでいかないからね。とにかく、成績が良くても、運動神経が良くても、サッカーが上手くても、人から話題にされないというか。話題にされないようにしているというか。ほんとに、いるのにいないふりをするのが上手いんだよ」

「部活に遅れてきても、いなかったのにいたふりするのも上手いし」と朝陽はおかしそうに笑って付け足す。
だけどまたすぐに、寂しげな顔に戻ってしまう。

「あいつは、ほんとにすごいんだ。雰囲気や空気感は僕と似ているし、僕も一緒にいるのは楽しいよ。居心地がいいというか。あいつが僕と一緒にいてくれる理由なんて、それしかないと思うし。地味で目立たない僕といる方が、楽なんだと思う。だけど、時々、あいつは自分とは違うんだって思い知らされると、なんて言うか…」

言いよどむ朝陽に、私はその気持ちを代弁してあげるつもりだった。

「寂しい?」

それなのに朝陽は、「いや……」と言って少し考えてから、強い眼差しで言った。

「悔しい」

見たことのないその表情に、体がぞくぞくと震える感覚がした。

「あいつは、僕と似ている。だけど、どこか違う。しかも、全然違う。それを、悔しいって思う時があるんだ。かつみのくせにって」

その時初めて、「あいつ」の名前を知った。

「かつみ……」

私もその名前を、ぽつりと闇の中に放ってみた。
「はあ……」

朝陽は今日もため息をついている。

ああは言っていたものの、「あいつ」こと、「かつみ」との関係は良好そうだ。
あいつの話をする朝陽は楽しそうだし、時々けなしたり毒づいたりするけど、それも面白半分、冗談半分。
本気はゼロだ。
「悔しい」と言ったあの日、あの顔の朝陽を、私はもう忘れかけていた。

それなのに、今日はまた激しく落ち込んでいる。
ため息の種類も、明らかに落ち込みのサインだ。

「何?またため息?あいつとなんかあった?」

私の質問に、朝陽は何も答えない。
その代わり、うつろな目を私の方にゆっくりと向けた。

「あのさあ、うちの学校のテニス部の本田って知ってる?」
「本田?」

テニス部で「本田」と言ったら、もうあの人しかいない。
本田君とは中学は違うけど、テニスの試合で見かけることが多かったし、練習試合でうちの学校に何度か来たこともある。
本田君はテニスが上手かった。
それだけじゃない。
イケメンですらりと背も高くて、引き締まった体に学校指定のダサい白のテニスウエアまぶしいほどよく似合っていた。
爽やかでキラキラしていて、絵に描いたような王子様。
そんな王子様を、女子たちが野放しにしておくわけがない。
本田君は他校の生徒だったけど、うちの中学でもファンは多かった。
本田君が試合に出ると、テニスコートを囲むフェンスの外側を女子たちが取り囲み、張り付いて見ていた。
中学生だけでなく、高校生、大学生、保護者の方々、先生まで、ファンの年齢層も広かった。
いつも黄色い歓声が上がっていて、本田君はフェミニンなはにかみ顔で、その声援に応えていた。

__そういえば、朝陽と同じ学校にいるんだ。

同じテニス部の先輩や同級生が話しているのを聞いたことがあったし、中学で同じテニス部だった友達も、他校であるにもかかわらずその情報を持っていたことを思いだした。

実は以前、一度だけ声をかけられた。
連絡先を教えてほしいと。
だから完全に面識がないというわけではない。
だけどその時はまだスマホなんて持ってなかったし、持っていても教える気はなかった。
友達には散々、「もったいない」とか「羨ましい」とか言われけど、私はどこ吹く風だった。
後ろ髪惹かれたりはしない。
だって彼はたとえイケメンであっても、私の幼馴染みにはなりえないから。
恋愛対象外、恋人候補外だ。
誰もがうらやむ完璧王子に連絡先を聞かれたんだから、朝陽に言ったら嫉妬してくれるかな……なんて期待した。
だって、幼馴染みの恋に嫉妬はつきものでしょ?
それなのに、

__「……だれ?」

それが当時の朝陽の答えだった。
まあ、他校のテニス部の顔も知らない人気のすごさも知らない男子の名前を出されて、当然の反応だったとは思うけど。
幼馴染みとしてちょっとは嫉妬してほしかった。
他の男子に連絡先聞かれたんだから。
それって、私に気があるってことでしょ?
まあ、朝陽にはわからないか。
それ以来、私たちの話題に本田君が持ち出されることはなかった。

それがどうしたことだろう。
もしかして、今さら嫉妬だろうか?
そもそも朝陽がそんなこと覚えているとも思えないけど、淡い期待を抱いて答えを返した。

「本田君って、私が中3の最後の試合の時、連絡先聞いてきた人じゃん。朝陽にも話したでしょ?」
「……そう、だっけ?」

案の定、完全に忘れている。
だけどその声は低く重かった。

「え?何?本田君となんかあった?」

本田王子と地味男子代表の朝陽に接点があるとは思えない。
何も答えない朝陽の顔を、フェンスの隙間から覗き見た。
その表情に、私ははっとした。
いつも伏せられた目元が、きりっと鋭くなっていた。
私の方に向けられたその目は、氷のように冷たかった。

「やっぱ、凪咲から見ても、本田ってかっこいいの?」
「え? うーん……まあ……そうだなあ」

ほんとは何とも思わないけど、濁しながら肯定しておく。
爽やかイケメン王子というのは確かだし。
ここは本田君の名誉のため、そして幼馴染みの嫉妬を獲得するため。
だけど、朝陽の返事は「ふーん」とただそれだけだった。
返事としては微妙で、私としては物足りない。
だけどその厳しい目つきは変わらない。
その目のぎらつきに、私の胸の鼓動が不穏な動きをする。
朝陽の顔が怖いからじゃない。
そこには、私の知らない朝陽がいたからだ。

「うちの学校の部室棟の近くにさ、テニスコートがあるんだよ。ボールが飛んでこないようにフェンスがしてあってさ。ほら、中学の時もそうだったじゃん。そこからは、男子テニス部が見えるんだよ」

朝陽は丁寧に、だけど淡々と説明を始めた。

「そこには本田がいて、いっつも女子たちがキャーキャー言ってるんだよね」
「うん」
「それって、どういう意味だと思う?」
「どういう意味って、普通に考えて、本田君に気があるってことでしょ?」
「だよね」

朝陽は自嘲気味に笑う。

「じゃあ、キャーキャー言わずに後ろの方でゴミ箱持って、ただ静かに立ってテニスコート見てるだけの女子は、どうなの?」
「え? ゴミ箱?」
「そう、ゴミ箱。掃除当番でゴミ捨ての仕事があるじゃん。ゴミ捨て場って、校舎からかなり離れたところにあるんだよね。だから面倒で誰も行きたがらないんだよ。でも、彼女は率先して行くんだよ。そのテニスコートの前を通るために」

「女子って変わってるよね」と、朝陽はおかしそうに笑って言う。
だけど私には、朝陽が一体何の話をしているのか、よくわからなかった。

__「彼女」って、あの一目惚れの「彼女」だろうか。

「それってやっぱり、そういうことかなあ?」
「え?」
「彼女は、本田のことが、好きなのかな」

朝陽の学校には行ったことないけど、サッカー部の部室から、テニスコートの本田君を見つめる彼女の背中を切なげに見つめる朝陽の姿が、一瞬で私の脳裏に描かれた。
胸の苦しさに耐えられず潤み始める瞳、噛み締める唇。
そんなところまでリアルに想像できて、私の胸までちくりと痛む感じがした。

__もしかして、朝陽は……

「どう思う?」

 ぽつりと投げかけられた朝陽の声で、ようやく私は自分の口が半開きになっていたことに気が付いた。
その口を慌てて閉じると、かさかさした唇同士が触れ合った。
何かを探すように、私の目があちこちに泳ぎだす。
探しだしたその答えを、私は慎重に朝陽に投げ返した。

「あの……朝陽は、まだ、彼女のことが、好きなの?」

私の質問に朝陽の目が一瞬大きく見開いた。
そして慌てたように答える。

「えっと、凪咲に言ったら、まだ諦めてなかったのかって怒られると思って……。隠してたわけじゃないけど、でも……」

朝陽は言いよどむ。
そして真っ暗闇のどこか一点をまっすぐ見つめて答えた。

「いつの間にか、目で追ってるんだよ。探してるんだよ、彼女の姿を。彼女は別にかわいくもないし美人でもないって言ったけど、毎日彼女の姿を目で追ってると、知らなかった彼女のことがいろいろわかってきて、なんていうか……かわいく見えるんだよ、すごく。いつの間にか僕にとって、特別な存在というか」

__とくべつ……

その言葉を発した瞬間の朝陽の表情に、私はどきりとした。
かっこいいとかそんなんじゃなくて、上手く言えないけど、私が見たことない、男子の顔。
そしてその「とくべつ」という言葉が、私の胸に冷たい影を落とす。

「わかってるよ、僕がこんなこと言うのは似合わないってことぐらい。それに、こんな僕だから、話しかけたりすることはないし、連絡先だって聞けないし、告白なんて絶対無理だし。でも、進展なんてなくてもいいんだ。ただ、彼女を見てるだけで。会話って呼べなくても、授業中のほんの少しのやり取りで良いんだ。彼女の声が間近で聞けたら。「園田君」って、事務的にでも呼んでくれたら」

朝陽の心が高揚していくのが、暗がりの中で分かった。
その部分だけ、ほんわりと暖かな空気を放っているようだから。

「やっぱり僕、彼女のことが、好きなんだ」

私の知らないうちに、朝陽の中で、彼女への想いが育っていた。
そして、私の知らないところで、私の知らない朝陽がどんどん生まれていく。
切なさで苦しそうに顔ゆがめる朝陽に、私の心臓がどくどくとうるさく鐘を鳴らした。

「本田君と朝陽とじゃ、勝負にならないよ」

それが私の、精一杯のアドバイスだった。
彼女を諦めさせようとか、意地悪とか、正直それもちょっとはあったかもしれない。
だって、朝陽の「とくべつ」は、幼馴染みの私でないといけないんだから。
私以外の人との恋愛で傷つくなんて、絶対、イヤ。
他の女子に、この場所は譲れない。
人生の途中から出てきた、一目で恋に落ちた女子になんて。
だけど、純粋な忠告でもあった。
負け戦。
どう頑張っても、叶わない恋だ。
私じゃなくてもそう言うだろう。
私の忠告に対して、朝陽は苦しそうにさらに顔をしかめた。
だけどすぐにその緊張を緩めて、弱々しくふっと笑って言った。

「……だよね」
__「やっぱり僕、彼女のことが、好きなんだ」

その言葉を聞いてから、季節は2つも通り過ぎた。
その間も、朝陽の気持ちは、まだ彼女のそばにある。
いちいち「まだ好きなの?」なんて聞かなくても、毎日のため息でわかってしまう。

朝陽から久しぶりに「彼女」の話を聞いたのは、高校2年生になった始業式だった。
彼女と同じクラスになったという。
相変わらず話しかけることはないらしいけど、彼女を目で追い続けているようだ。
出席番号は去年と変わらず前後だということだし、朝陽のささやかな幸せは今年も続きそうだ。
ついでに「あいつ」こと、かつみとも同じクラスになったそうだ。
それも朝陽は喜んでいた。
もちろん嬉しいとは言わないけど、口調から嬉しさが溢れていた。
そしてまた、季節がひとつ、またひとつと過ぎていった。
「はあ……」
「またため息ついてんの?」

今日も朝陽はため息をつく。
夏ももう終わりと言いたいところだけど、9月中旬はまだまだ夏のように暑い。
昼間の熱気が夜の闇の中をはびこっていて、外に出た瞬間から汗がじっとりとパジャマ代わりの半袖Tシャツを濡らす。
重苦しい夜の空気を、朝陽のため息がさらに重たくしていく。
彼女との恋に進展がないことに、いよいよ嫌気がさしているのだろうか。
もうやめてしまえばいいのに、そんな恋。

「今日はどうしたの?」

と一応形式上聞いてみながら、私はいつも通り階段に座った。
石造りの階段はひんやりしていて気持ちいい。

「彼女さあ……」

その第一声に、私の耳が大きくなる。

「二学期になってから、テニスコートの前にいないんだよね。掃除当番なのに。ゴミ捨ては行ってるみたいなんだけど、テニス部の前を走って通り過ぎてくんだよ」
「うん」
「おかしいなって思ったら、彼女、本田に告白したらしいんだ」
「お……おお……」

思わず感嘆の声が漏れた。
すごい急展開だ。

「で、どうだったの?」

私はフェンスに食い気味で身を乗り出し、その答えを待った。

「フラれたって」
「ああ……」

思わず落胆の声が漏れた。

「それは……残念だったね」

その言葉は、誰にかけたものだろう。
「彼女」にだろうか。
それとも、「自分」にだろうか。
再び「はあ……」とため息を漏らす朝陽を見た。
ため息をつきたいのはこっちなのに。

「なんで朝陽がため息? 朝陽にとっては、良いニュースでしょ? 傷心の彼女に近づいて、あわよくば付き合えるかもしれないし。まあそんなの下心ありすぎてヒクけど。てか朝陽に傷心の彼女慰められるわけないし、そもそも話しかけられないしね」
「うーん……」

私の軽口にも反応を示さず、朝陽の表情は浮かなかった。
いつもなら「まあ、そうなんだけどね」って弱々しく笑っていそうなところなのに。

「何?」

朝陽の次の言葉を待ちきれない私は、思わず怪訝な声で尋ねた。

「あいつさあ……」
「あ、あいつ?……かつみのこと?」
「うん。そう。あいつ、好きな人ができたっぽい」
「そう、なんだ」
「……あいつ、彼女のこと、好きかも」

朝陽の言葉に、私の背筋がピンとなった。
そして思わず見開いた目でパッと朝陽を見た。

「……え?」

「はあああああ……」と今までにない大きくて重たいため息を吐きながら、朝陽は膝小僧に顔をうずめた。
自分の好きな人と同じ人を友達が好きになるって、どんな感じなんだろう。
朝陽とあいつは、一体どんな学校生活を送っているんだろう。
あいつは朝陽が好きなことを知らないとして、朝陽としては苦しい学校生活を送っていることだろう。
積極的にアプローチしたり、相手よりも先に告白してしまおうとか、絶対無理だし絶対考えないような男だ。
それでもあいつとは同じクラスで、同じ部活で、朝から放課後までずっと一緒にいる。
彼女も同じクラスにいる。
同じクラスの中に出来上がる、目に見えない微妙な三角形。
その中に1日放り込まれたら、そりゃため息もつきたくなる。
悶々として頭がおかしくなって、授業どころではない。
その証拠に、最近の朝陽の成績はすこぶる良くないらしい。
勝手に聞こえてきた母親同士の会話の中に、朝陽の深刻な憂いを感じずにはいられなかった。

あの後、聞いてもいないのに、朝陽は彼女とあいつのことを話してくれた。

「僕にはわからないんだ」

朝陽はくぐもった声でそう言った。

「僕には何が何だかわからないんだ。何が起こっているのかもわからないんだ」

頭を抱えて本気で混乱しているような朝陽の声を、私はただ顔をしかめて聞いていた。
また口が半開きになる。
少し顔を上げた朝陽の顔は、月明かりで青白く見えた。

「部活中にさ、あいつ、シュート打ったんだよ」
「ん? うん、サッカー部なんだから、それは当たり前じゃない?」
「違うんだよ。あいつは違うんだよ。あいつは絶対シュートを打ったりなんかしない。目立つことが嫌いだし。あいつは自分の役割をちゃんとわかってるし、わきまえてる。あいつはいろんな意味で、シュートを打つポジションじゃないんだよ」 

それは前も聞いたような気がした。
私にはサッカーのことはよくわからない。
あいつのこともよくわからない。
そんな私は、朝陽の話を黙って聞くしかなかった。
朝陽は独り言をつぶやくように、まるで記憶をひとつひとつ取り出すように話し続けた。

「それなのにさ、あいつ、シュート打ったんだよ。すっごいスピードで走って、すっごい真剣な顔して、ボール、蹴り上げたんだよ。そしたらさ、すっごい気持ちいい音立てて、ボールがゴールネットに入ったんだよ。アニメで見るような効果音が出たんだよ」

興奮気味に話したかと思うと、朝陽は次の瞬間には萎んでいた。

「そんなあいつは、かっこよかったよ」

__「僕と似ている。だけど、どこか違う。しかも、全然違う」


ふと朝陽の言葉を思い出した。

「そのあとすぐに、あいつ、いなくなったんだ。まだ部活中なのに。あいつがいないことに気づいて、気づいたら僕も走りだしてた。教室に向かって。なんで教室かはわかんない。なんて言うか、直感。嫌な予感ってやつ。今まで出したことないスピードで走ったんだ。誰もいない廊下をさあ、「かつみー」って、大声で叫びながら。ガラでもないのに」

朝陽の口元が、不気味に歪んで見えた。

「やっと教室に着いたところで、あいつが出てきたんだ。薄暗くて顔がよく見えなかったけど。いつも感じるあいつの空気じゃなかった。「顔洗ってくる」って、あいつはいなくなった。なんで教室に来て顔洗うようなことがあるんだよ。それで教室の中をのぞいたら、僕の予想通り、彼女がいたんだ。たった一人で。こうやって……」

そう言いながら、朝陽は自分の両手をじっと見つめる仕草をした。

「教室に男女二人きり。二人の様子を見れば、恋愛経験のない僕にだって、何が起こったのか何となくわかるよ」

思わずごくりとのどが鳴る。
いつもならここで、「もう諦めなよ。朝陽なんてはじめから眼中にないんだから」なんて、軽口のひとつやふたつ叩けるんだけど、こんな話を、こんな表情で話すのを見聞きしてしまったら、その時の朝陽の表情や気持ちを想像してしまったら、いくら私でも、そんなこと言う気にはなれなかった。
だって、それは、つまり……

「彼女も、あいつのことが、好きなんだよ」

私が心の中だけで確信して、決して口には出さないと決めた言葉を、朝陽は淡々と言った。
だけどその声は、まるでその言葉を自分に言い聞かせているようで、噛み締めているようだった。
朝陽の表情も、息遣いも、緊張感も、全部私に伝播する。
そのどれもが、苦しい。
だけど、話を聞いている中で感じた違和感に、思わず上ずった声が出た。

「え? でも、待って。彼女は、ずっと本田君のことが好きだったんでしょ? 早々にあいつに乗り換えたってこと? 二人はもう付き合ってるの? 展開早すぎない?」

もう少し、朝陽の心中に配慮した声かけをするべき場面なのだろう。
私の頭は、本来ならこんなに優しい気遣いができるはずなのに、私の頭を置き去りにして、口元ばかりが勝手に混乱を口走る。

「だから、わからないんだ」
「え?」
「彼女は本田のことが好きだった。だけどフラれた。その直後に、あいつと彼女の間に何かが起きたんだ。そして、すでに何かが生まれてるんだよ。僕の知らないところで」
「何かって、何よ?」
「だから、わからないって言ってるじゃん。いつどこで、どうやって二人が接点を持ったのか、距離を縮めていったのか。何が起こったのか、何が起こっているのか。僕には、ひとつもわからないんだ。どうして気づかなかったんだろう。こんなにも近くにいたのに。ずっと彼女のことを見ていたのに。あいつと彼女だって、教室では話したり、話しかけたりも全然なかったのに。そんな素振りなかったのに。どうしてそんなことになるんだよ」

そう言う朝陽の様子は、まるで野獣が吠えているようだった。
いや、実際は吠えるなんてこと、朝陽は絶対しないんだけど、こんなに自分の感情をむき出しにしている朝陽は、今までいなかった。

「ごめん」

そう言いながら、朝陽はよろよろと立ち上がって玄関のドアに手をかけた。
その寂し気な背中を見送るのは、いつも私の役目だ。
だけどドアを開けようとして、朝陽はぴたりと動きを止めた。

「ああ、そうだ。心当たりがあるとしたら、出席番号順かな」
「出席番号? なんで? 今年も朝陽は彼女と前後なんでしょ?」
「うん、だけど、あいつと彼女も前後なんだよ。あいつ、彼女、僕の順番」

私は急いで、頭の中に座席表を描く。

「去年と今年の違いは、並び列。彼女は一列目の一番後ろ。僕はその隣の列の一番前。あいつは……」

頭の中に描く座席表の中に、私はあいつの席を見つける。

「彼女の、前の席」

朝陽がそう言ったのと同じタイミングで、私は顔を上げた。

「それだけでさ、グループとかペアって変わっちゃうんだよ。彼女の今のペアは、あいつ。4人グループを作るときも、彼女とあいつは同じグループ。僕から、違うグループ」

私は描いた座席表の中で、グループやペアを作っていく。
頭の中の座席表が完成したのと同時に、「はあ」と朝陽の大きなため息が聞こえた。

「あっ、でも、修学旅行のグループは6人で1グループだから、彼女と同じなんだよね」

そう言った朝陽の顔は、少しだけ明るく見えた。
でもやっぱりすぐに陰る。

「あいつとも、同じなんだけど」

複雑な表情の変化を、私は唇を引き締めて見つめた。
結局二人が付き合っているかどうか、朝陽が京都へ修学旅行に出発する日までに分かることはなかった。
朝陽の姿がない玄関先の階段に、私は一人座っていた。
そして、授業中にルーズリーフに書き込んだ関係図を見返す。
朝陽は彼女のことが「好き」
朝陽とあいつは「友達」
あいつは彼女のことが「好き」
彼女もあいつのことが「好き」
三人の間には、矢印が行き交っている。

朝陽、あいつ、彼女……。

どこに「凪咲」と言う名前を入れようか。
どこにも入れる場所がない。
あれ? これって私が主人公のお話だよね?
「幼馴染みの恋」のヒロイン、私だよね?
それなのに、私の居場所はどこにもない。

朝陽と私は、「幼馴染み」
だから、何だって言うのだろう。
ここに描かれているのは三角形で、私の方に伸びる辺が足りないから、四角関係にもなれない。
私はこの三角に手を加えることも、変形させることもできない。
そう思うと、切なくなった。

私と朝陽は幼馴染み。
友達でもない、恋人でもない、特別で大切な存在。

「友達でもない、恋人でもない。特別な関係」

私は自ら描いてきた理想の幼馴染み像を何度か繰り返し唱えた。
幼馴染みの私たちは、特別な関係のはずだった。
だけど今、朝陽の「とくべつ」は、彼女だ。
だったら私は、朝陽の何なんだろう?
私と朝陽の間で「幼馴染み」として繋がれていた矢印を、私は消した。
そして、朝陽から私に向けられる矢印に「?」を書き込む。

私はどうなんだろう。
私は、朝陽のことをどう思っているのだろう。

私から朝陽に伸びる矢印が、シャープペンでじりじりとゆっくり引きたされる。

幼馴染みだから好き。
それって、合ってる?
それを「恋」と呼んでいいのだろうか。
「好き」って、何だろう。

幼馴染みイコール恋愛対象と思い込んでいたけど、「好き」という感情がそこにあったかどうかと言えば、それは自分でもわからなかった。
幼馴染みでなければ、正直朝陽なんてタイプでもないし、恋愛対象になんて絶対ならない。
イケメンでもないし、地味でネガティブで全然男らしくないし、私の理想と真反対の性格なんだから。
そんなことならもういっそ、幼馴染みなんかにこだわる必要はない。
私と付き合いたいと言ってくれる男子はたくさんいる。
「幼馴染みの恋への憧れ」なんて執着心、捨ててしまえば、もっと世界は広がるはずだ。
だけど、シャープペンを握った私の手が止まることはなかった。
「朝陽」という名前に向かって、少しずつ矢印が伸びていく。

__朝陽は私の……

「友達?」

夜空に向かって唱えてみた。
漆黒の闇に放たれた私の声は、そのままどこかに連れ去られたかのように消えてしまった。
どこを探しても、もうその声も、その言葉も見つからない。
夜空から地上に視線を戻した。
そこにいつもいるはずの人がいない。
聞こえてくるはずのため息が聞こえない。
地面に落とす声も、夜空に向ける自信なげな眼差しも、今では恋しい。
二泊三日の修学旅行。

__今、何してるんだろう。

「ため息、ついてないかなあ」

頼りない背中に思いを馳せて、星がひとつだけきらりと光る夜空に、私はそう放った。
フェンスを挟んだ先の階段に、頬杖をつきながら夜空をぼんやりと見上げる頼りない姿を思い浮かべると、いつもは聞こえるはずのため息が、真っ暗な空から降りてくるような気がした。
いつものように9時ごろ外に出ようと、玄関の扉をそっと開けた。
半分開いたドアの隙間から、朝陽がいつものように階段に座っている姿がちらりと見えた。

__あ、いる。

ほんの二日ぶりに見るのに、すごく久しぶりに会えたような気がして、なんだか胸が高鳴った。
朝陽は頭を抱えて、体を揺すって、「はあ」とため息を漏らしていた。
掌で目元や顔をごしごしとこすっては、「はあ」とため息を繰り返す。
その様子は、いつもと違った。
そこから感じるのは、「焦燥感」。
最近現代文の授業で知ったこの言葉の意味は、辞書を引いて明確な意味を知らなくても、何となく嫌な感じが伝わってくる。
今の朝陽には、その言葉の響きや漢字そのものがぴったりだった。
今日はやめておこうと家の中に戻ろうとした時、指の隙間から私の方にちらりと視線をやる朝陽と目が合った。

「凪咲?」

小さく呟かれた名前にどきりとした。
二日ぶりに聞く声は、朝陽の声じゃないような気がした。
低くて大人びていた。

「今日は、出ないの?」

朝陽は色っぽい声で私に聞いた。
その声にドキドキしながらも、私は外に引き返した。
声だけで心拍数が上がってしまったのを誤魔化すように、急いで階段に腰かけた。
そして平静を装った。
朝陽が座る階段の傍らには、よく見る京都土産が置かれていた。

「今日、帰ってきたんだね。おかえりー。おっ、生八つ橋。食べていい?」
「……うん」

小さくて短い返事だったのに、朝陽の低い声はお腹の辺りにしびれるように響いた。

「てか自分にお土産って、寂しくない?」
「自分にじゃない。うちに買ってきたんだよ」
「なんで一人で食べてんの?」
「やけ食い」

__生八つ橋8枚、やけ食い?

ただならぬ状況に、私は八つ橋を取りに行こうと上げかけた腰をもう一度おろした。

「修学旅行、楽しかった?」
「うん、まあ」
「私にお土産はないわけ?」
「ごめん」
「お土産話は?」
「……」

朝陽は何も言わない。
ただ思い出話をすればいいだけなのに。
なぜか気まずくて、この空気を払拭するように私は勢いよく立ち上がって、フェンス向こうの園田家の敷地を踏んだ。
そして朝陽の隣に座って、生八つ橋に手を伸ばした。
私の指先が、もうあとほんの少しで生八つ橋の柔らかな皮に触れそうになった時、朝陽が口を開いた。

「僕の席だったんだ」
「……え?」
「バスの席、彼女の隣は、僕が座るはずだったんだ。それなのに、あいつが座ったんだ。じゃんけんでみんなで決めたのに。そこは僕が座る席だったのに、あいつが座ったんだ。だから僕は、彼女の前の席に座ったんだ。あいつが座るはずの席に」

何かの呪いでも唱えるように、朝陽はおどろおどろしい低い声を口から垂れ流す。
そんな空気に巻き込まれた私は、生八つ橋に伸ばした手を引っ込めた。

「そんな、席ぐらいで……」
「そうだよ、席ぐらいでこんな落ち込んで、バカみたいって思うでしょ。でも僕だって、必死なんだよ。恥ずかしいくら必死なんだよ」

朝陽の声の勢いに、思わず体がすくんだ。
人間からこんなに激しく、大きな声が出るんだと、びっくりしている。
しかも、朝陽から。

「でも、まだ付き合ってるかどうかもわかんないんでしょ?」

そう言った私の声は、かすれて震えていた。

「そんなんわかるよ。付き合ってなかったら、部活中に目を合わせあったりしないでしょ。わざわざ教室まで会いに行かないでしょ。バスの中で頭寄せ合って寝たりしないでしょ。二人はもう、付き合ってんだよ」

切なさで壊れてしまいそうな朝陽の声は、閑静な住宅街に十分響き渡った。
こんな声を荒げる朝陽を見るのは初めてだった。
こんな表情の朝陽を見るのは初めてだった。

__どうしてそんな顔するの?
その恋の相手は、私じゃないのに。
朝陽の隣は、私じゃなきゃダメなのに。
そんな顔していいのは、私と恋をする時だけなのに。

息ができないほど、胸が震えていた。
半開きになった口から、短い呼吸が何度も吐き出される。
切なさと苦しさに、思わず顔がゆがむ。
体の奥底からふつふつと湧きだす感情に抗うように、両手のこぶしをぐっと握った。
だけど、抑えきれなかった。
震える体が、さっと体重移動した。
八つ橋に伸ばそうとしていた手が、出会った頃から変わらない、不格好なもさもさ頭をそっと自分の胸に抱き寄せたがった。
きゅっと力を込めた指先が、いつぶりかに触れる朝陽の感覚を、私の体の全神経を巡って伝えてくる。
それは、私の中の幼い朝陽の記憶を塗り替えていく。

__私が、いるじゃん。

そう言いたかった。
だけど、そう言っていいのかわからなかった。

__私がいるじゃん、だから、何?

どこかでそう問う自分が、その言葉をぐっと飲みこませた。
ほんの少し体重移動しただけなのに、私の呼吸は激しく乱れていた。
心臓は張り裂けそうなくらいドクドクと動いた。
血液が異様な速さで巡って体中を熱くしていく。
こんな余裕のない姿、こんな動揺した心音、私らしくなくて、恥ずかしすぎる。
見られたくない。
それでも私は、朝陽の頭を大事に抱え続けた。
私の胸の動きに合わせて、朝陽の頭も動いた。
ごわついた髪質に絡まる指先は、小刻みに震えていた。 

「……するよ。付き合ってなくても、こういうこと」

震えながら動く私の口元と鼻先を、朝陽の髪の毛がくすぐる。
まだお風呂に入っていない朝陽から漂う香りは、いつもと違っていた。
これが、京の香りだろうか。
また私の知らない、朝陽。
知らない朝陽を見つけるたびに、私の心臓は焦りと不安でやかましく変な動きをする。
だけど今の心臓の高鳴りは、ただそれだけじゃない。
切なさ、苦しさ、焦り、不安、それから……

その先を考え始めた瞬間、胸の音が急に大きくなった。

「別に、普通だよ、こんなの」

胸の谷間あたりに張り付く小さな耳に、この鼓動が伝わらないように、笑って言ったつもりだった。
だけど胸の高鳴りも、その速さも、収まるどころか、強く加速するばかりだ。
自分が何かに押しつぶされそうで、思わず頭を抱える腕にも指先にも力がこもった。
苦しさに息が詰まったその瞬間、朝陽がばっと私の体を突き放した。

「なっ、何やってんだよ」

園田家のポーチの灯りに、朝陽の顔が照らされた。
朝陽は顔を隠すように手で口元を覆って、私から視線をそらしていた。
そのまま家の中に入ろうとする背中に、私は声が震えるのをなんとか抑えて言った。

「じゃあもう、諦めたらいいじゃん」

その言葉に、玄関の取っ手に伸ばした朝陽の手がぴたりと止まった。

__言ってよ、いつもみたいに。「……だよね」って。

私に向けられた自信なげな背中から、震えた切ない声が放たれた。

「簡単に諦められてたら、とっくに諦めてるよ。でもしょうがないじゃん。どんどん好きになるんだから。あいつが好きだってわかってから、もっと好きになっていくんだから。それでも彼女が、好きなんだから」

その答えに、私の胸がさっと何かで切り付けられたように痛んだ。

「八つ橋、全部食べていいから。おやすみ」

早口でそう言って、朝陽はドアの向こう側に消えていった。
朝陽に突き放された胸の上あたりが、まだじーんと痛かった。
その部分を、私はそっとなでた。
階段に置かれた生八つ橋が目に入った。
暗闇の中で、明かりに照らされてキラキラと輝く生八つ橋。
キラキラの正体は、一体何だろう。
薄い皮をそっとつまんで口に入れた。
人ん家の前で八つ橋を食べるって、ちょっと非常識だけど、まあいいか。
朝陽の家の前だし。
幼馴染みの、家の前だし。
皮はすっかりパサついていた。
鼻をずずっと吸いながら、それでも柔らかさを残す皮を咀嚼する。
味はよくわからなかった。
だけど、ニッキの香りだけが、詰まった鼻孔を開いていった。
私だってやけ食いしたい気分なのに、8枚の生八つ橋は、あっという間になくなった。
夜の空気の冷たさが増してきたのを理由に、私は玄関先に出なくなった。
もちろん、朝陽と顔を合わせるのが気まずいからだけなんだけど。
そんなこと説明しなくても、だいたいの人が予想できる。
朝登校する時間もいつもは合わせるようにしていたけど、朝陽よりも早めに家を出るようにした。
こういう時、学校が別でよかったと思う。

朝陽と顔を合わせない日々。
それなのに、頭の中はいつも朝陽のことでいっぱいになる。

__それでも彼女が、好きなんだから。

思いっきり突き付けられて十分理解したはずなのに、私はいつまでも、朝陽から私に向けられる矢印の名前を探している。
そして、私から朝陽に向ける矢印の名前を、知りたいと思っている。
今夜は、何百年に一度しか見られない流星群が見られるらしい。
別に天体ファンとか、星とか宇宙に詳しいわけじゃない。
ただ、そういうめったにないイベントごととかニュースとかってワクワクして好きだ。
しかも夜中。
誰も起きていないような静かな夜に向けて準備するのって、楽しい。
コットンとウールの靴下を重ね履きして、裏起毛パジャマに、もこもこのポンチョを羽織って、厚めのひざ掛けを腰に巻いて、準備は万端だ。
こういうイベントごとにはだいたい朝陽を誘うんだけど、今回ばかりはそんな気になれない。
朝陽も誘われたところで迷惑だろう。

流星群が一番多く流れるとニュースで言っていた午前3時ごろに合わせて、私は外に出た。
午前3時はお化けや幽霊が出る時間って聞いて、そんな時間に絶対トイレに行きたくないと、聞いた当時は思っていた。

__「でもそう思っているときに限って、トイレのタイミングって午前3時なんだよね」

と言ったのは、その話を一緒に聞いていた朝陽だった。

恐る恐るドアを開けて、その隙間から微かに流れ込んできた外気を、私は鼻から大きく吸った。
空気は信じられないくらい澄んでいた。
呼吸をするたびに、冷え切った空気が喉を通過して、肺を巡って、温かな呼気となって出てくるのがリアルに感じられた。
何度かその作業を繰り返してから、私は夜空を見上げながら外に出た。
空には、確かにちかっちかっと星が小さく瞬いていた。
だけど、星が流れてくる気配はなかった。
空を仰いで探していると、

「凪咲」

と小さく声が放たれた。
囁くような声だったのに、私の体は大袈裟にびくりと反応して「ひゃっ」という高い悲鳴が上がった。
声の方を見ると、玄関先の階段に、朝陽が「しっ」と口元に人差し指を置きながらこちらを見ていた。
およそ二週間ぶりだろうか。
隣に住み始めてこんなに会わない日々は初めてだ。
いつもなら、意識しなくても一日一回は顔を合わせるのに。
久しぶりすぎるのと、二週間前の出来事もあって、一気に緊張が高まった。

「な、何してんの?」
「今日、流星群ってニュースで言ってたから、ちょっと外出てみようと思って」

そう言いながら、朝陽は夜空を仰いだ。

「ほんとはトイレに行きたくなって、そしたら目が冴えてきて」

朝陽は肩を小さく揺らして笑った。

「流星群っていうから、大量の流れ星が流れてくると思ったけど、そうでもないんだね。まだ10分ぐらいしかここにいないけど、まだひとつも見てない」
「そんな恰好で、寒くないの?」

朝陽はパジャマにしているスウェットの上から薄そうなダウンジャケットを羽織って、両手をそのポケットに突っ込んでいる。
足元は、裸足にサンダルだった。

「うん、ちょっと寒いかな」

そう言いながら、ダウンのファスナーを首の一番上まで上げた。
その恰好が、ちょっとダサい。

「凪咲は暖かそうだね。ちゃんと準備してたんだ」
「うん、まあ」
「凪咲は昔からこういうイベントごと好きだもんね。何年に一度のイベントとか、オリンピックとかワールドカップとか。そんなに詳しいわけでもないのに」
「うるさいなあ」

朝陽と久しぶりに話せたのがなんだか嬉しかった。
いつもと何も変わらないやり取りに、自然と頬が緩んだ。
でも、にやけた理由はそれだけじゃない。
朝陽が私のことを、知っててくれたことが嬉しかった。
覚えててくれたことが嬉しかった。
朝陽の心の中にも、私がちゃんといることが嬉しかった。
「とくべつ」になれた気がした。
私は口元が緩むのを誤魔化すように、階段に座った。
そして夜空を眺める朝陽に倣って空を仰いだ。
しばらく眺めていたけど、星はいっこうに流れてこない。
その代わり、朝陽の声が夜空に放たれた。

「あいつ、告られた」
「えっ?」

思わず大きな声が出た。
その声は、静かな夜の空気をどこまでも震わせた。
慌てふためく私の様子を、朝陽はふふっと肩を揺らして笑った。

「彼女じゃないよ」
「え?」
「あいつに告白したのは、学校の、マドンナ」
「な、何それ、マドンナって。何時代?」

私の質問に、朝陽はまたおかしそうに笑う。
肩の揺れがさっきよりも大きくなった。

「別に普通じゃない? 凪咲だって、中学ではマドンナ的存在だったでしょ? 
美人で、明るくて、みんなから頼られて、友達もたくさんいて、人気者で……。つまり、そういうこと」
「別にそんなんじゃ……」

私の場合、もちろん性格もあるけど、朝陽の自慢の幼馴染みでいたかったから、なんというか、それは演出だ。
明るい性格の主人公にツンデレな幼馴染みがいるのはよくある設定だ。
朝陽はツンデレではなく、ただの自信のない地味な男子だったけど。
だけど朝陽に面と向かって「美人」とか「明るい」とか言われると、かなり恥ずかしい。
寒さの中で、頬だけがかあっと熱くなるのが分かった。

「僕の手には、絶対届かない存在だよ」

夜空に放たれた小さな声は、そう言ったような気がした。
だけど、どこまでも広がる真っ暗闇の中を探しても、その声はもうどこにもなかった。

「で、マドンナとはどうなったの?」
「付き合ってる人がいないなら付き合ってほしいって。あいつ、付き合ってる人はいないけど、付き合えないって」

そう言って、朝陽は私の顔をフェンス越しに覗き込む。

「あいつ、付き合ってる人、いない」

そう言った朝陽の顔の背景で、星がきらりと流れたのが見えた気がした。

「そっか。彼女と、まだ付き合ってなかったんだね」
「うん。凪咲の言う通り、付き合ってなくても……その……、ああいうこと、するんだね」

私はちょうど二週間前に朝陽にした行動を思い返した。
頭の血がさっと引いていくのがわかった。
朝陽も勝手に思い出して、自分で言っておきながら、急に気まずそうに言葉を濁した。
でもすぐに、はっきりとした声で言った。

「この間は、ごめん。突き飛ばして。その……肩、痛かったでしょ」
「ああ、ううん、全然平気」

あの時のことを思い出して、さっきまで何ともなかったはずなのに、朝陽に突き飛ばされた部分がズキンと疼いた。

「それに、あんなことさせて、ごめん。僕なんかのために」
「別に、謝ることじゃないよ。あんなの普通だって。それに、私たち、幼馴染みだし」

ほんの少し前みたいに、自信を持って強く言えない自分が今日はいる。

__幼馴染みだったら、ああいうこと、普通にするのかな。

私が心の中で思った疑問に、朝陽は答えてくれた。

「普通じゃないよ。そういうのはやっぱり、大切な人にするもんだよ。……好きな人、とか」

最後の言葉を、朝陽は本当に小さな声で呟くように言った。

「あいつも彼女も、好きだからそうしたんだよ。好きだから、できるんだよ」

__好きだから……。

「凪咲は、違うでしょ?」
「え?」

私に向けられた朝陽の目に、私は戸惑った。

__私が朝陽にあんなことしたのは……、私は、朝陽のことが……

私が何か言う前に、朝陽は真剣な顔で話を戻した。

「あいつ、彼女とは付き合ってないけど、彼女のことは好きだって。僕にはっきりそう言ったんだ」

朝陽の声は震えていた。
寒さだけが原因ではないことぐらい、私にもわかる。

「かつみのくせにさ、恥ずかしげもなくはっきり言うからちょっとムカついて、僕聞いたんだ。彼女がまだ、本田のことが好きだったらどうするって」

私はその答えを、息をするのも忘れて待った。

「そしたらあいつ、それでもいいって。好きだからしょうがないって。それでも彼女のことが、好きなんだって」

その言葉を聞いて、二週間前の朝陽の言葉が再び脳裏をよぎっていく。

__「それでもやっぱり、彼女が好きだから」

思い出して、また胸の辺りがもやりとする。

「そのあと、あいつも僕に聞いたんだ。お前はどうなんだって。もし彼女がまだ、本田のこと好きだったら、お前は諦められるのかって」

その言葉の意味が、私にははじめ理解できなかった。
何度も何度も頭の中で、朝陽が今言った言葉を反芻した。
そしてその意味に行きついたとき、朝陽は私の方に、切なげな目を向けていた。
そして口を半開きにしたままの私に、朝陽が優しい口調で、ゆっくりと丁寧に教えてくれた。

「あいつ、僕が彼女を好きなこと、知ってた」

その報告に、半開きになっていた私の口が、ほんのもう少しだけ開いた。