「はい。これ、一樹くんの分だよ。いっぱい食べてね」

 今日も今日とて早起きした妻は満面の笑みで弁当を渡してきた。
 定職にも付かず、毎日家でダラダラと過ごす俺の為に。
 俺自身変わらなければならないと思うのだが、彼女は決して許してくれそうにない。何度か、俺も働きたい意思を伝えてみたけれど。

『想ってくれるのは嬉しいけど、変な女が寄り付いちゃうよ』
『えっ……どうしてって決まってるじゃん。世界一カッコいいもん』
『変わらなくていいんだよ。ずっとずっとお家に居ていいんだよ』
『もうね、何もしなくてもいいんだよ。私だけを考えてくれればそれで』
『欲しい物なら全部与えてあげる。何が欲しいの? 言って』
『そ、外に出たい? 何言ってるの? 絶対ダメ。私同伴じゃないと、外は出ちゃダメだよ。お外は危険がいっぱいだもん』

 小腹が空いて近くのコンビニに向かったものならば。

『一樹くん、どうして家から出ちゃったの? どうしてバレたかって顔してるね。全部バレてるんだよ。私を舐めないでよ』
『ねぇー私のこと嫌いになった? 私のこと……もう嫌い?』
『もっともっと尽くすから。だから何処にも行かないで』
『私、もっともっと頑張るから。頑張るから』

 何処にも行かないとの旨を伝えると。
 最愛の妻は爽やかな笑みを浮かべて。

『一緒にお風呂入ろっか? 汚れ落としてあげるから』
『……もう入ったから大丈夫? 何言ってるの。いっぱいいっぱい臭うよ、薄汚い雌豚共の匂いがね。アルコール消毒しないと取れないよ』
『それとも——煮沸消毒の方が良いのかな?』

 深く話を聞いた所、コンビニの女性店員が俺を誘惑したのだと。
 全くそんな素振りは無かったと思うんだけど。
 傍から見れば、妻の尻に敷かれる夫だと思われるかもしれない。
 束縛も人一倍、いや数倍単位で大きい。でも、ただ彼女は心配性なだけだ。
 俺を想うからこそ、彼女の愛は重くなったのだ。

「もうぉー。どうして月曜日が来るんだろうね」

 二食分の弁当を作り終え、ダークスーツに早着替えした妻は唇を尖らせて不満を漏らしてきた。

「日曜日が続けば……ずっと二人で居られるのにね」

 玄関前へと移動し、鏡の前で容姿をチェックする結奈。
 朝起きたばかりのパジャマ姿も可愛いけれど、大人の女性感が溢れるキャリアウーマンスタイルも悪く無い。身長も高く、手足が長いから、妙に様になっているんだよな。

「ごめん。俺が不甲斐ないばっかりに」
「引け目を感じても何も良いことないぞぉ!!」
「そ、それでも俺は……」
「一樹くんのお仕事は、私の帰りを待っててくれることで十分だよ」

 もうそろそろ行かないとと呟きつつ、結奈はヒールを履きながら。

「何かあったら連絡してね。いつでも大丈夫だよ」

 俺のスマホを壊した代わりにと、新たなスマホを買って貰った。キッズモードを使用しているらしく、基本的機能は全て使用不可。主な使用用途は結奈へ連絡程度。

「何か欲しくなったら、直ぐ連絡だよ。有給を取っても良いし、お昼休みの時間帯に戻ってこれるから。私の心配はしなくていいからね!!」

 大きく手を振って、元気いっぱいな笑みを浮かべて家を出て行った。
 と言えど、何度も振り返り、俺の顔を確認してくるが。心配性なのだ。
 普段も一人で家に残る俺を心配し、何度も振り返ってくる。
 だが、今日という今日は何処か様子がおかしかった。明らかに。

「嫌な予感がする……悪いことが起きそうな気がする」

 一度エレベーターまで乗ったものの、直ぐに戻ってきた。

「今日は家に残る。邪魔な奴が来そうな気がするから」

 不安げな表情で。尚且つ切羽詰まったかのように。

「大丈夫だよ。絶対に家から出ないから。だからさ、安心して」
「分かった。一樹くんがそこまで言うなら……あ、分かった!?」

 眉毛を顰めていたものの、何か思い当たる節があったのか、結奈はポンと両手を叩いて。

「今日、行ってきますのちゅうをしてないんだぁー。偶数日は佐藤くんからだよー。ほらぁー、早く早く。待ち遠しいよ」

 何だよ、それと思いつつも、俺は愛する彼女にキスをした。終わった後、うっとりとした瞳で唇を抑えて、まだまだ物足りないよとアヒル口にして言ってきたが、甘やかしは厳禁。何より、仕事の時間だ。

 欺くして、俺が白川結奈だと信じていた女(カノジョ)はスキップ混じりで会社へ出勤するのであった。桜が綺麗に咲き誇る街並みを通って。

 現実を知ったのは。いや、違うな。
 忘れたかった記憶(真実)を呼び戻されたのは。
 突然の訪問者が家を訪ねたことだった。

「家に来る時ぐらい連絡しろよ」
「なになにー。お母さんが来たらマズイことでもあるわけ?」

 一応連絡はしたらしいが、繋がらなかったのだと。
 元々持ってたスマホは結奈に壊されたし、連絡手段は無いわな。

「あれー? なんだなんだー。片付いてるじゃんー」

 帰れと言ったものの素直に応じるわけもなく、母親は部屋の中にズカズカと入ってきた。息子の部屋チェックと言わんとばかりに、辺りを見回した。
 その後、棚の前で立ち尽くした。通帳や鍵などの大切なものを置いている場所だ。もしかして母親の奴……俺の金が目当てなんじゃ……?
 と思いきや、眺めているのは全く違うものだった。
 結奈と一緒に片付けをした際に見つけた例の透明な瓶。

「か、母さん……?」

 呼び掛けると神妙そうな表情は早変わり。いつも通りのおてんばでおしゃべり大好きな母親に戻った。

「それに女の子の臭いがプンプンするんだけど。遂に新しい彼女でもできたわけー?」
「実はさ、結婚したんだ」
「はぁぁああああ!! どうしてアンタそんな大事な話を——」

 散々怒られた。相談しろとか。結婚式はいつするのかなどなど。

「はぁー心臓が飛び跳ねるかと思った。でもおめでとう。カズキ」

 心底嬉しそうに母親は頬を緩ませた。息子の結婚が嬉しいのだろう。
 学生時代から色恋沙汰とは関係ない生活を送ってきたわけだし。

「それで相手の方はどこに居るの? 名前は何て言うの?」
白川結奈(シラカワユナ)、高校時代の同級生だよ、母さんだって——」

 言葉を止めた。先程までの嬉しそうな表情は何処へやら、母親は青ざめていた。信じられないものを見るような目でこちらを見据えてくる。
 何が何だか分からないが、俺はとんでもないことを言ったらしい。
 突然、母親は泣き出した。理由は定かではない。
 ただ、俺を哀れんでいるのだけは物凄く伝わってくる。

「カズキ……結奈ちゃんは亡くなったんだよ……」
「はぁ? な、何を訳分からないことを。今日も結奈は仕事に」

 肩を思い切り掴まれた。力強く。
 泣きじゃくる顔を一切拭うことなく。

「カズキ……正気に戻って。もう居ないんだよ……結奈ちゃんは!?」
「結奈が居ない??」

 強烈な立ち眩み。ガンガンと頭に響く痛み。
 思わず、俺はその場でしゃがみ込んでしまう。

「今から丁度十年前かな。カズキと結奈ちゃんが大学生になる前の春休みのことだった。結奈ちゃんは交通事故で——」
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ」

 駄々っ子の如く、俺は耳を塞いで言葉を遮断した。
 嘘だと信じているのに。嘘だと分かりきっているのに。
 それなのに。俺は耳を塞いで言葉を遮断していた。
 まるで、心の何処かでそれが真実だと知っているかのように。

「違う。俺は結奈と結婚してる。一緒に暮らしてるんだ」

 そうだ。俺と白川結奈は結婚して幸せな生活を送っている。さっき結奈を見送ったばかりだぜ。キスもした。感触があった。この現実が全て虚構だと言うのか。ありえない。全て……俺の幻覚などと言うのか。ありえない。

「それじゃあ、あれは何よ? この中身が何か答えてみなさい!!」

 叱りつけるように、目尻に涙を溜めたまま、母親は棚をビシッと指差した。
 透明な瓶。中身には白い粉が入っていた代物。
 一体、何なのか分からないけれど、大事な物だと直感できるもの。
 その正体が分からず頭を悩ませる俺に対し、母親は悲惨な現実を突きつけてきた。

「正解はね、結奈ちゃんの遺骨だよ」