「おいっ! 佐藤、お前は何度言ったら分かるんだぁ!」
「来月必ず取り返します」
「お前は毎回口だけなんだよ。本当にやる気あんの?」

 気付けば、俺は大人になっていた。子供の頃に思い描いた華やかな生活を送る自分ではなく。絶対になりたくないと思っていたブラック企業勤めの社畜に。

「あのさー。お前、営業の意味分かってる? 客を取るのが仕事だろうが。その癖に、お前は入社してから一度もノルマを達成したことないよな」

 その後も上司からのネチネチ説教は続いた。上司自身も無能な部下を持って苛立っているのだ。

 無理もない。大学卒業からこの仕事に就いてもう五年。
 それなのに、俺はまだ書類ミスを連発する始末だ。

「お前さ、真面目に話聞いてんのか?」

 精神的に疲弊するだけなので、はいはいと適当に頷いた。

「今日は絶対に営業を取ってこい。取れないなら帰って来るな!」

 欺くして、俺は本日も飛び込み営業に向かうのであった。

***

「帰ってください」「あー結構です」「営業はお断りしてるんです」「要らないです。もう来ないでください」「またあなたですか。いい加減にしてください」

 百軒回った。出てきたのは五件のみ。全て失敗。
 営業は根気と言うが、果たして本当に上手くいく日が来るのか。

 顔を上げると、もう空は紫色に染まりつつある。

「はぁー。俺……絶望的に営業向いてないわ。早めに転職しよ」

 溜め息混じりに呟き、俺は近場の古本屋に入った。仕事で疲れた心を癒してくれる唯一の場所。店内を散策し、面白そうな小説を見繕う。と言えど、背表紙の値段シールを見て、購入を止めた。

「350円か。た、高い」

 古本を買うのは100円まで。これが俺のルール。
 他の作品を探そうと思い、俺が踵を返すと。

「だぁーれだぁ?」

 後方からの声。俺の視界が突然真っ暗になる。
 誰かが俺の目元を手で覆っているのだ。
 仄かに漂う甘い香り。背中に当たる柔らかい感触。
 女性だと確信した。新手の美人局か。

「俺と誰かを間違えていると思うぞ」
「そんなはずないと思うけどなぁー」
「俺は平凡以下の人間だ。金なら他を当たれ」
「お金目的じゃないよ。昔の知り合いに出会ったから少しだけ話してみたく」
「昔の知り合いだと? 俺は女の子にモテない。人生の中で一度だけ告白されたこともあったが、もうアレは遥か昔の話だ」

 結局、カノジョと付き合うことはなかったけれど。当時の俺には好きな女の子が居たから。それでも、今なら思う。カノジョと付き合っていればと。

 そうすれば、もう少しはマシな生活があったのではないかと。

「もうー全然信じてくれないー。それなら私を見たら思い出すかも」

 俺の視界が明るくなった。視界を塞ぐことを止めた彼女の手は、俺の肩を叩き、こっちを向けと指図。自称昔の知り合いは自信満々だ。果たしてどんな奴だろうか。そう思いつつ、後ろを振り返ってみると。

「…………………………」

 ダークスーツに身を包んだ黒髪清楚な美女——俺の初恋相手が居た。
 決して忘れるはずがない、俺が大好きだった彼女が。

 十年前のあの日。

『好きです。俺と付き合って下さい』

 人生初めての告白をした俺に向かって。

『ごめんなさい。佐藤君と付き合う気はありません』

 何の躊躇いも無く返答してきた高音の花が。
 今、俺の目の前に居る。柔らかい笑みを浮かべて。

「久しぶりだね、佐藤一樹(サトウカズキ)くん」

「ひ、久しぶりだな。白川結奈(シラカワユナ)さん」
 白川結奈は俺の青春だ。高校時代の俺は彼女に夢中だった。
 高1、高2までは一緒のクラス。何度か隣同士になったこともある。

 読書大好きでクラスに馴染めない俺に対しても、いつもニコニコ笑顔で接してくれていた。女の子とまともに喋ったこともない俺の胸は心臓バクバクだったが、白川結奈は俺の気など知らずに顔を近づけてきたっけ。

 本当、冴えない男に無自覚美少女は近寄って来ないで欲しい。コイツ本気で俺のこと好きなんじゃねとか思って、告白し、挙げ句の果てには振られる結末になっちまうから。ソースは俺。

「目的は何だ。マルチか宗教かそれとも絵画か?」

 古本屋で初恋相手に再会。その後一緒に食事を取ることになった。
 近場のファーストフードで済むと思いきや、まさかのフレンチレストラン。会計が心配だが、「どこでもいい」と言ってしまった手前、なけなしの貯金を使うしかあるまい。

 明日からはもやし生活確定だ。

 店内はお洒落なクラシック曲が流れ、社会人感満載な男女がワイン片手に語らっている。

「食べないの? 折角、頼んだのに」

 ナイフとフォークを手にバクバクと白川は食べている。芸術性に富んでいるらしいが、俺としてはしっかりと肉や魚の上にタレをかけて欲しいと思っちまう。

「ここで食べたらもう逃げられないんだろ?」
「何か、私怖がられてる?」
「屈強なサングラス男共が現れ、俺は地下労働行きだろ?」
「あっはは。そんなことないよ。私は美人局じゃないし」
「ならも、目的は何だ。もしかして、狙いは俺の臓器か!」

 学生時代の同級生から連絡がある際は、大体胡散臭い話ばかり。
 最初に俺の話を真摯に頷きながら聞き入れてから、「人生辛いよな」「もう生きることとか面倒だよな」などと言う全人類の半分以上が抱えてそうな悩みごとを呟き、奴等は面白可笑しい儲け話をするのだ。

『とっても寝つきが良くなる布団があるんだけど買わない? もうね、あたしも使ってるんだけど、本当に最高なのー。嫌なことが何でも吹き飛んじゃう』
『この水、実は火星のなんだ。宇宙の力を感じるだろ。コスモパワーで嫌なことでも何でも忘れられるぜ』

「あのさー意地張ってないで食べなよ。ずっとお腹鳴ってるし」

 恥ずかしいことに、腹の虫はどこまでも素直だ。
 美味そうな香りが漂ってきて我慢できるはずがない。

「ほら、食べるっ!」

 白川結奈がフォークを向ける。そこにはパセリが刺さっていた。

「私が食べさせてあげるから、ほら口を開けなさい!」
「食べさせるって俺は子供か!」
「ほら、社会人は沢山食べて力を蓄えておかないと!」
「パセリ食いたくないだけなんじゃ?」

 図星だったのか、白川の表情が若干引きつった。

「好き嫌い言ったらダメ。パセリも食べないと!」
「ちょ……お、お前……無理矢理俺の口にパセリを入れるな!」

 一度食ってしまうと、余計に腹が減った。ていうか、口の中がパセリ味というのは嫌だ。もう覚悟を決めるしかないな。これが罠だと確信しつつ、俺は次から次へと運ばれてくるフルコースを平らげるのであった。

「流石は男の子だねー。凄い食べっぷりー」
「昨日の朝から何も食ってねぇーからな」
「……き、昨日の朝? ちょっとそれ……どういうこと?」
「節約だ。二日に一回なら食費を抑えられるだろ?」
「ちょっと詳しく教えてくれる? 佐藤くんの生活を」

 白川の目的が何かは知らん。だが、金目当てなら、さぞかし俺が金を持ってないことが分かるはずだ。これでもう、俺と白川の関係は終わると思っていたのに。

「許しません」
「えっ……?」
「その生活を私は許しません。絶対に」
「はい……?」
「私が居る限り、佐藤くんには幸せな生活を送ってもらいます」
「おい……俺の腕を掴むな。服が伸びるだろ」
「佐藤くんが逃げようとするから悪いんだよ」
「お前に関わったら、嫌な予感しかしないからな」
「幸せにしてあげようと思ってるのに」

 膨れっ面だ。本人としては、良いことをしていると思いたいんだろう。
 言わば、俺は哀れな人間だ。恵みを与えて良い気になりたいのだ。
 俺だって、誰かに優しくして良い気分になりたいこともある。
 だがな、ありがた迷惑だと言うんだぜ。

「お前さー本当に俺の家まで着いて来たんだな」

 俺たちの前に立ち塞がるのはオートロック。
 ポケットの中に手を入れ、鍵があることを確認。

「それはそうだよ。幸せにするって誓ったから」

 勝手に言われても困るんだが。
 絶対に離しませんと言わんとばかりに、手を握られた。
 それも恋人繋ぎとか言われる感じの握り方。
 まぁー美人と手を繋ぐという状況を考えれば、悪くない。

「俺は別に幸せにしてくれと頼んだ覚えはないんだが」
「なら、誰かが助けを呼ばないと、佐藤くんは助けてくれないの?」
「さぁーな。生憎、今の俺は自分のことで精一杯なんだよ」

 と、遠い目をしつつ、星が消えた夜空を見上げながら。

「あれ……? UFOじゃないか?」

 猿芝居をしてみると、簡単に白川結奈は騙された。
 どこどこと言いながら、頭上を見ている。
 あれだよ、あれと適当な指示をしつつも、俺は彼女との距離を取り、急いで鍵を取り出して、そのままマンション内へと逃げ込んだ。

「はぁー……た、助かった。アイツ、怖すぎる……」

 食事中に聞いた話だが、白川は一流企業に勤めている。
 俺が逆立ちしても、絶対に入ることはできない所だ。
 そんな企業で働いてる女が、ちっぽけな三流企業に勤める俺に優しくするなど、怪しすぎると思うのは当然じゃないか。

 さっきの食事代もクレカでまとめて払ってくれたし、妙に人懐っこいてか、俺に対して馴れ馴れしいし。兎に角、気を緩めたら俺の人生は崩壊する。

 このまま家にまで連れ込んでみろ。借金の肩代わり。危険な白粉の運搬バイト。どんな要求をされるか。考えただけで恐ろしい。

「何はともあれ……これでアイツとはもうお別れだ……な……?」

 ウィーンとオートロックが開いた。
 入って来たのは、勿論俺が一番来て欲しくない女。
 ヒールのカツカツ音を鳴らし、駆け足で俺の隣まで来た。

「もうー先に行かないでよー。置いてかないで!」
「ど、どうして……お、お前、開けられたんだ?」

 焦る俺に対し、白川結奈は口元を僅かに上げながら。

「だって、私。このマンションの住民だもん」

 言う通り、彼女の手元には鍵が握られている。
 このマンションに住む人だけが持てるものだ。

「それよりもUFOはどこに居るのー? ほら、一緒に探そう」

 俺の腕を引っ張って彼女は外に行こうと試みるが、俺は動かなかった。

「居るわけねぇーだろ。そんなもん。嘘だよ、嘘」
「し、信じてたのに……う、嘘だったの」

 酷い落ち込みようだ。どれだけ信頼されてるんだか。

「普通に考えて分かるだろ? UFOなんてありえないってさ。小学生でも分かるぞ。それなのにお前はどれだけ信じやすいんだか」
「だって、だって佐藤くんが言ったんだもん」 

 上目遣いでさ、それも少しだけ涙を流しそうな瞳で見てくるな。
 俺が悪いことをしたみたいじゃないか。てか、嘘を吐いた俺が悪いってのは事実かもしれないが。

「悪かったな。騙すような真似をして」

 一つだけ分かったことがある。悪い奴じゃなさそうってこと。
 恩売りがましい奴ってのは事実だが、俺みたいな人間の言葉さえ、素直に信じてくれるのだ。

「職業柄、人間の嫌な部分を見て来たからさ」

 同級生に再会する度に、危ない匂いがプンプンする話を持ちかけられることも多かったし。警戒の目で見ていたのだ。

 彼女は俺に心を開いていたのに。俺は彼女に心を開いてなかった。
 でも、少しだけなら彼女のことを信じても良いかもな。
 だってさ、UFOが居るという話を、馬鹿正直に聞いてくれるんだぜ。

「もう絶対に嘘は吐かないでね。絶対だよ、寂しい気持ちになるから」
「約束はできない。だが、善処はするよ」

 そう返答すると、白川結奈は飛びっきりの笑顔を見せた。
 その笑みが眩しかったので、思わず俺は踵を返し、エレベーターに乗った。また置いていかれると思ったのか、彼女も早足で乗ってきた。

「でも……私も一つだけ嘘を吐いてるし、お互い様かな?」
「ん? 何か言った?」
「いや何も」
「今更だが、幸せにするって?」
「言葉通りの意味だよ」
「と言われてもだな。具体的には?」
「佐藤くんが何不自由ない暮らしを与えることかな」

 そこまでする義理は何もないと思うんだが。
 俺はコイツと久々に再会しただけだぞ。それなのに。

「本当に俺の家に上がるつもりなのか?」
「当たり前でしょ。佐藤くんの部屋片付けしないといけないから」
「頼んだ覚えはないんだが」
「ボランティア活動です」
「一方的な思い遣りは周りを不幸にさせるだけだ」
「困ってる人をそのまま見過ごすのはできません」

 頭上の赤ランプが『4』を指し示し、俺はエレベーターから降りた。
 すると、当然のように、白川もニコニコ笑顔で付いて来た。

「多少はさ、警戒したらどうだ。一応、俺も男なんだぞ」

 と言いながら、403号室へと辿り着き、鍵を取り出した。
 ドアが開き「お前本当に入るのか?」と声を掛けると、白川は口をぽかーんと開けていた。

「佐藤くん……ここに住んでるの? う、嘘でしょ」
「何を言いたい?」
「そ、その私、隣人です」

***

 高校時代に恋い焦がれた初恋相手に十年後再会。
 その上、隣同士に住んでいたが、今の今まで気付かなかった。
 こんな話ありえるのか?

「隣の家に住んでたんだ……これって運命かなー?」
「紛らわしい言い方をするな」
「でも、ロマンチックでしょ?」
「部屋の片付けをしている最中でもそう思うか?」

 ブラック企業に勤めて朝から晩まで働いていた。その影響で、家に帰ってからは飯食って寝るだけの日々。そんな生活を続けたせいか、部屋の中はコンビニの弁当箱やカップ麺で散乱していた。掃除しようとは思うものの、毎回途中で挫折してしまう。

「さて、佐藤くん。時計を見てください」

 電波時計を確認するともう既に日を跨いでいる。
 というか、飲み食いした後のお片付けってどんなフルコンボだ。

「私達は社会人です。明日の朝には必ず出社しないといけません」

 大人としての自覚が芽生えているらしい。もう立派な社会の歯車だ。
 悪い言い方をすれば社畜だが。

「というわけで、提案があります」

 白川は額の汗を拭いながら。

「一つは掃除をこのまま続けること」

 この調子で行えば終わるのは日の出が見える時間帯だな。

「もう一つは休みの日に延期すること。どちらが良いですか?」

 嫌なことは後回しにする派の俺。勿論答えは後者。

「分かりました。なら、泊まる準備をしてください」
「泊まる準備?」
「この部屋の掃除が終わるまで、私の部屋に住んでもらいます」
「あのーどんな思考回路でそんな結論が?」
「散らかった部屋に佐藤くんを置いていくのが無理なだけです」

 段ボールの中に捨てられた子猫が入っており、そのまま可哀想だと思って、放って置けないみたいな感じなのかな。何はともあれ、却下だ。

「許しません。今日は、私の家に来てもらいます。拒否権はありません」

 白川の部屋は空っぽだった。生活感が無いと言うべきか。普通に生活しているだけで、誰にでも何となく生活感が出るものだ。それにも関わらず、部屋の中にはベッドとテーブル、隅の方に段ボールが二箱あるだけで、それ以外は特筆すべき点が全く無い。と言えど、流石は女の子と言うべきか、調理器具の備えはあるらしく、キッチンには圧力鍋やホームベーカリーなどが置いてあった。

「先にお風呂入っていいよ」

 その言葉に甘えてお風呂を拝借した俺が部屋に戻ってくると、白川はパソコンのキーボードをパチパチと鳴らしていた。仕事の資料作りでもしているのか。

「まだ仕事なのか?」
「あはは……大丈夫大丈夫。これぐらいは余裕」
「こんなことを言うと、差別発言になるかもだけどさ」

 そう前置きして、俺は自分の本心を伝えることにした。

「白川ぐらいの美人なら男達も放って置かないだろ。それなら、さっさと良い男を捕まえて家庭を作った方がいいんじゃないか?」

 白川結奈は誰もが認める美少女だった。そして、美女だ。実際に彼女が色んな男達に告白されているのを見たことがある。別段、誰かの人生に対してとやかく言うことではないと自覚しているが、俺は彼女の生き方がイマイチ理解できない。

「なら、私からの質問が一つ。良い男ってどんな人?」
「高収入でイケメンで誰にでも優しくて……ええと、一途に一人だけを想い続ける人のことじゃないのか……わ、分かんねぇーけどさ」
「ふぅーん。それじゃあ、佐藤くんにとっての良い女って誰?」

 その言葉を聞き、真っ先に思い浮かんだのは目の前の女だった。

「顔赤くしてるけど、誰なのかなー? 気になるなぁー」
「べ、別に誰でもいいだろうが。俺はもう寝るからな」
「照れてるー。可愛いね、佐藤くんって」
「う、うるさい!! って……あの俺はどこに寝れば?」
「私のベッド使っていいから。グッスリ寝てよ。おやすみ」
「あぁーおやすみ。白川」
『好きです。佐藤一樹くんのことが大好きです』

 高校二年生の頃、生まれて初めて告白を受けた。相手は引っ込み思案なクラスメイト。名前はもう覚えていない。俺は白川結奈一筋だったし。

『ごめん。お、俺さ……他に好きな人が』
『白川結奈さんですか? あの女が好きなんですか?』
『わ、悪い。お、俺が好きなのは白川結奈だけなんだよ』
『白川さんよりも、あたしの方が絶対に佐藤くんに尽くせますよ』
『尽せるとか尽くせないとかじゃなくてだな……』
『佐藤くんが差し出せと言ったら、あたし何でもするよ。体でもお金でも、求めるものなら全部全部渡せるよ』
『無理だって言ってるだろ。俺は白川結奈が好きなんだよ』
『可愛いからですか? あの人が可愛いからですか?』

 それに引き換え、とカノジョは自嘲気味に呟いて。

『あたし……可愛くありませんよね。ブスだもんね……あはは』
『ブスって……そ、そんな言い方はしなくても』
『お前はブスだって、言い切ってください。もう自覚してるんで』

 カノジョは醜かった。目は細く。鼻は低く。分厚い唇を持っていた。身長はスラリと高いものの、横にも伸びており、見るからにぽっちゃり型だった。
 そんなカノジョは言った。ゆっくりと口を開いて。

『佐藤くん……あ、あたしの気持ちに応えて。好きだって言って』
『無理だ。俺は——』

 断りの言葉を入れた瞬間、カノジョは突然彫刻刀を取り出した。美術の時間で使用していたものだ。

『もうこんな世界……生きる意味ないよ……』

 色白の顔に向かって彫刻刀を突き立てる。

『この顔がいけないんだ。この顔が。こんな顔じゃなければ……あたしも白川結奈みたいに可愛ければ、あの女みたいに美しければ。それなら、あたしだって。あたしだってあたしだって』

——佐藤くんに好きになってもらえる——

 涙を流しながら、カノジョははっきりと呟いた。現実を恨んでいるようでもあり、救いを求めているようだった。常軌を逸したカノジョの元へと、俺は駆け出していた。そして、手に持っていた彫刻刀を叩き落とした。

『認めてくれた佐藤くんが認めてくれた佐藤くんが。あたし、生きてていいんだ。あたし……この世界に生きてていいんだ……佐藤くん、認めてくれたもん。あたし、佐藤くんの為に生きるね』

 何を言いたいのかさっぱりだったが、自殺は止めてくれたようだ。

『もう二度と馬鹿な真似はするんじゃねぇーぞ。分かったな?』
『うん。もう二度としない。佐藤くんの為に生きるもん』

 告白を受けた後、俺たちは一緒に教室へと戻った。
 で、教室に入る前の廊下で、カノジョは小さな声で呟いた。

『頑張るね。佐藤くんの為に、あたしいっぱい頑張るから』

 カノジョが最後に言い残した言葉はこれだ。何と、突然気が狂ったのか、カノジョが授業中に奇声を張り上げて、ハサミを取り出し、白川結奈へと襲いかかったのである。

 ——お前さえ居なければ、あたしは幸せになれたのに——
 ——お前があたしと佐藤くんの幸せを邪魔するんだ——
 ——お前が消えれば、佐藤くんはあたしのものなんだ——

 その後、カノジョは取り押さえられ、警察に連れて行かれた。どんな意図があってあんな行動を取っていたのかは知らん。何故ならこの事件を切っ掛けに、カノジョは高校を辞めてしまったのだ。精神病棟に居るとか、通信制高校に通ってるとか、噂話は絶えなかったが、正確な情報は誰も分からなかった。

『わ、私を庇って……佐藤君。ごめんなさい。ごめんなさい』

 だが、カノジョのおかげで、俺は白川結奈に恩を売れた。一生を掛けても癒えない傷を作ってしまったが。白川結奈へと襲い掛かったハサミを、俺が自分の身を呈して守ったのだ。それから少しずつ彼女は気兼ねなく喋りかけてくるようになったし、何かある度に、俺に優しく接してくれることが多くなった。

『もうぉー。佐藤君ー、ここ間違ってるよ。数学苦手なんだねー』
『あ、佐藤君。先生が呼んでたよ。えっ……日直の仕事があるから行けない? それならここは私に任せて。先に行くんだ!?』
『私と一緒に放課後デートはできないと言うのか!! 佐藤君は!』
『はい。今日は一緒にクレープを食べに行きます。拒否権はありません』

 時を重ねる度に、俺と白川結奈は仲が良くなった。
 俺と彼女が付き合い始めるのは時間の問題で直ぐに訪れた。

『好きです。俺と付き合ってください。白川結奈さん』
『私も佐藤一樹君のこと大好きだよ。これからもよろしくね』

 一世一代。初めての告白は見事に成功。
 欺くして、俺と彼女は普通の男女の如く付き合い始め。
 そして何の前触れもなく訪れた彼女との別れに涙を流した。

 白川結奈(しらかわゆな)——俺が世界で一番愛した彼女がこの世を去ったのは、高校卒業後、一緒の大学に合格し、四月が待ち遠しい春の出来事だ。

『佐藤君。勿論、同棲するよね? 私達恋人同士だし』

 と、彼女が提案し、俺もその計画に賛成していたのに。
 それなのに、彼女は死んだ。交友関係が広い彼女は多くの人々を嘆き悲しませて。死因は交通事故。突然起きた不慮の事故だ。

***

 激しい動悸で目が覚め、ベッドから飛び起きる。
 視界は真っ暗闇。止まらない息切れ。

「ぁはぁはぁはぁはぁはあぁはかはぁははふぁは」

 落ち着かせようと心臓に手を当て、少しでも呼吸を整える。
 深く息を吐き出した結果、大分楽になってきた。
 と、思いきや、隣から声が聞こえてきた。

「どうしたの? 佐藤くん、苦しそうだけど」

 白川結奈だ。心配そうな瞳で見据えてくる。

「い、いや……何もないよ。怖い夢を見たんだ」
「怖い夢? どんな夢?」
「俺と白川が恋人同士で、でも俺たちは死に別れるんだ」

 理由もなく、俺は泣き出していた。
 ただの夢なのに。本当にどうしてなのか意味分からないけど。

「何を言ってるの? 佐藤くん、私ならここに居るよ」

 母性感溢れる笑みを浮かべて、白川結奈が抱きしめてきた。

「大丈夫だよ。白川結奈はここに居る。私ならここに居るよ」
「あぁーそうだよな。結奈はここに居るよな。うん」
「安心していいよ。佐藤くん、私は絶対に一人にしないからさ」
「ねぇー佐藤くん。真剣に掃除してる?」
「してるけど……寝不足なんだよ」
「私一人でするから寝てなよ。昨日も遅かったでしょ?」
「白川一人にさせるわけにはいかないだろ」
「私一人にさせた方が早く終わると思うんだけどなぁー」

 土曜日。白川の宣言通り、本日は俺の部屋掃除になった。
 午前中から働き詰めなので、お昼までには終わりそうだ。

「はぁー。疲れたぁー。やっと終わったなぁー」
「私のおかげだね。私が居なかったらずっと汚かったよ」

 反論したいが、その通りだから何も言い返せない。
 白川が次から次へと的確な指示を出してくれたのだ。
 こっちは私がするから、あっちは佐藤くんがするんだよと。

「あ、そうだ。お昼にしよ。今日はサンドイッチを作ったの!」

 白川は料理上手だ。数日間一緒に生活していたわけだが、毎日三食作ってくれた。今までコンビニ飯やカップ麺を食ってきたので、手作り感満載な味が俺の胃袋を掴んだと言っても過言ではない。

「ふふふ。もう佐藤くんー。慌てて食べなくてもいいんだよ?」
「白川が美味すぎるものを作るから悪いんだよ」
「て、照れるじゃん」
「何か料理が美味くなる秘訣とかあるのか?」
「愛情だよ」

 白川ははっきりと答えた。その後、薄らと笑みを浮かべ、心底幸せそうに。

「佐藤くんが美味しいって言ってくれるのを想像して作ってるの」

 長い沈黙。時々、白川結奈は大胆な発言を述べてくる。まるで、俺に気があるみたいに。

「モテない男をからかうのはやめてくれ」
「本気だよ。私、佐藤くんのこと好きだよ」
「ほらまたからかう。やめてくれ」
「もうぉーこっちは本気で言ってるのにー」

 唇を尖らせた後。
 あ、そういえばと思い出したように呟いて。

「これってさ、なぁーに?」

 白川が掴んでいるのは透明な瓶。その中には白い粉がある。
 掃除中に見つけたと言うが、見覚えが全くない。

「そっか……佐藤くんも知らないんだ。もう捨てていい?」

 ゴミ袋へと入れようとする白い手を、俺は思わず掴んでいた。

「だ、ダメだ!!」
「えっ? 何か大切なものなの?」
「わ、分からないけど……た、大切だと思う」
「ふぅーん。佐藤くんが言うなら仕方がないね」

 ポイっと投げ捨てるように、白川は瓶を渡してくれた。

「白川、今までありがとうな。俺は十分幸せになったよ」

 部屋掃除は終わった。もうこれで俺たちの奇妙な関係は終わる。
 そう思っていたのに。

「何辛気臭いことを言ってるの? これからだよ」
「これから?」
「うん。まだまだいっぱい幸せにしてあげるね」
「俺は何も返せないと思うが」
「返してくれなくても大丈夫だよ。側に居るだけで十分だから」

 というわけで、と彼女は呟いて。

「今からデートに行こうよ。ちなみに拒否権はありません」
「えっ……? い、今から?」
「うん。そうだよ、社会人は休みの間に遊びまくるだよ」
「はぁー。家でゆっくりと過ごしたいんだが」
「と言いながら、毎日家に籠るタイプでしょ?」

 簡単な身支度を終わらせると。
 玄関前の鏡で容姿を確認していた活発女が不満を漏らしてきた。

「早くー早くー女の子を待たせちゃダメなんだぞ」
「急遽決められたんだが?」
「人生ってのは何でも唐突に起きるんだよ」

 白川に腕を掴まれ、強引に外へと連れ出された。
 駅前を散策し、気になった場所を見て回るのだと。

「クレープとかどうかなー? 美味しそうじゃない?」

 やれやれと頭を掻く陰気臭い俺と、太陽にも負けない笑顔の彼女。

「今日は一段と元気だな」
「佐藤くんと初めてのデートだからね。とっても嬉しいもん」

 それにね、と付け加えるようにもう一度呟いて。

「佐藤くんと邪魔な女との思い出を全部捨てられたんだもん」
「思い出……? 邪魔な女? どんな意味だ?」
「ごめん、声に出てた? 佐藤くんのこと大好きって意味」

 問い質そうとしたが、完全無視。
 あーあっちのケーキ屋さんも美味しそうだよーとか、佐藤くんが好きそうな中古本屋さんもあるよーとか言われてさ。でも楽しかったし、それでいいや。別に気に留めるほどのことじゃないと思うし。

 欺くして、俺と白川結奈の関係は段々と深まっていった。
 毎日三食愛情が篭ったご飯を食べさせてもらい。
 お互いの休みの日には、デートに出かけたりもした(強制)。
 一見順風満帆な人生を歩んでいると思われるかもしれないが。
 仕事に置いては、俺の無能っぷりがここぞとばかりに発揮された。

「おい、佐藤!? お前は何度言ったら分かるんだ。このバカが!」
「簡単な仕事もできないんじゃ、社会人失格だな」
「お前の代わりなんてな、誰でもできるんだよ。この給料泥棒が」
「学生気分で仕事やってんじゃねぇーよ。さっさと辞めろよ、無能」
「え、てか。どうして仕事来るの? 何も生み出せないのに」

 上司の罵倒は日に日に増していく。言い返す気力も勇気もない俺の心は蝕まれていく。自分にも向いてないと自覚していたものの、五年間続けた仕事。

 今更転職など無理な話だ。そう諦めていた頃、遂に最後の日が訪れた。

「佐藤一樹くん、キミに頼みがある。自主退職して欲しい」

 社長からの呼び出し。何だろうかと思い、扉を開いた瞬間にこれだ。
 何か悪いことでもしたのかと思いきや、まさかの反応である。

「これは社員全員の総意だ。是非とも会社を辞めて欲しい」

 言われる通りに辞表を出した。自分でも向いてない職業だと思っていた。
 元々現実逃避したいからこそ入った業界だ。
 あれ、何から逃げたかったのだろうか。もう思い出せない。
 別に何かをするわけもなく、ただ街をぶらぶらと歩き、夕暮れ時になる頃に、帰路へと着いた。

「今日は早かったんだね。おかえりー、佐藤くん」

 見計ったのかのように、白川が玄関から出てきた。エプロン姿で、尚且つお玉を握っている。何か料理でも作っていたのかもしれない。

「どうしたのー? 元気ないけど……って、ええ。仕事辞めた?」
「俺は無能だから周りに迷惑ばかりかける?」
「どうせ、白川だって、俺のことをバカにしてるんだろって?」
「バカになんてしてないよ、私は本当に佐藤くんの大好きだよ」

 白川が抱きしめてきた。物凄く温かく人間味に溢れていた。

「佐藤くんは悪くないよ。全然悪くない。生きてるだけで価値がある」

 だって、私の生きる意味だもんと言い、隣人は腕に力を入れてきた。

「どうせ、口だけで何もできない? そんなことないよ」
「なら、証明してみろって、本当に良いの?」
「もう訂正は無しだよ。後から何か言うのは、絶対禁止。約束できる?」

 俺が首を振ろうとしないので、無理矢理コクコクと動かしてきた。
 その後、ニタァと笑みを浮かべ、子供をあやすように俺の頭を撫で。
 終いには——。
 俺はベッドへと押し倒され、身動きが取れなくなっていた。
 お腹の上に跨る下着姿の美女。俺の初恋相手。
 事前準備を怠らないのか、勝負下着らしい黒紫色のブラとショーツに履き替えた妖艶な彼女は一際上気した顔で、少しずつ俺へと迫ってきた。

「頑張ったね。辛かったよね。今からいっぱい癒してあげるね」

 その宣言通り、彼女は極上の楽園へと連れて行ってくれた。

「うふふふ。いっぱい出しちゃったね。イケナイ子だね」
「……妊娠確実だと思うよ。生に出したのはマズかったかな?」
「でもさ、私たちは結ばれる運命だもん。先でも後でも一緒だよね。それに赤ちゃんできたら……佐藤くん、もう逃げられないし」
「愛してるよ。だからさ、佐藤くんももっと愛して」
「ずっとずっと二人は一緒だよ、どこまでもどこまでも」