夢を見た。とても懐かしい夢だった。

 私と真宙が出会ったころの夢。

 それは、高校三年生の秋。

 そのころの私は、大学受験に向けて、勉強漬けの毎日だった。

 朝起きてから学校に行くまでは家で。授業合間の休み時間は教室で。放課後になって、日が落ちるまでは自習室や図書室で。そして、家に帰って眠くなるまで。

 ご飯を食べるときやお風呂に入るとき以外は、大体勉強していた。

 真宙の存在を知ったのは、放課後の職員室だった。

 私は理学部の数学科を受験しようとしていたため、難易度の高い問題はよく先生に質問していた。

「今日もまた難しい問題を持ってきたな……」

 先生は嫌そうな顔をしながら、私が見せた問題集と向き合う。

 そのときだった。

「先生、微分が全くわかりません」

 私がいるのに、真宙が邪魔をするように先生に質問しにきた。しかしわざとではないことは、顔を見ればわかる。今にも泣きそうだ。

 本気でわからなくて、周りが見えていないらしい。

「志田……またか。それは昨日も教えたところだろ」

 先生は大きく息を吐き出した。

 昨日説明を受けて、まだわからないというのが、理解できなかった。

 マンツーマンで教えてもらったなら、相当丁寧な説明だったはずだ。それでわからないとは、この人はかなり数学ができないのか。

 第一印象はそれだった。

「そうだ、神山。お前が教えてやったらどうだ?」

 先生は予想していなかったことを言ってきた。そのせいだろう。

「は?」

 教師に対する態度ではなかった。

「私、自分の勉強で忙しいので、無理です」
「でも、俺がこの問題を解くまで暇だろ?」

 それはそうだが、人に教えられる余裕などなかった。

「それに、人に教えるのも勉強の一つだぞ。志田が理解できたら、神山はその範囲は完璧に理解しているということになる」

 そうは言うが、人に押し付けようとしているのが見え見えだった。

 私はもう一度、きちんと断ろうとした。

 だが、真宙がそれを許してくれなかった。

「お願いします、神山さん!」

 私の腕を掴み、泣きそうになりながら言ってきた。

 初対面で馴れ馴れしいと思った。だがこれを断れば、私が悪者になってしまうような気がした。

「……じゃあ、私のクラスで教える」
「ありがとう!」

 真宙は本当に嬉しそうに笑った。その笑顔を見て、切羽詰まっていた私の心は、少し癒されたようだった。

 真宙と職員室を出ると、並んで廊下を歩く。

 何が楽しいのか、真宙はスキップでもしそうなくらい、足取りが軽かった。

「……志田君って、文系だよね」

 無言でもよかった。むしろ教室に着くまで、一切話さないでおこうと思った。

 だけど、そんな状態でいきなり勉強を教えられるかと言われると、自信はなかった。

 少しでも打ち解けておいたほうがいいと判断した。

 そういうわけで、私は真宙に質問をする。

「うん、文系。数学とか理科とか、ずっと苦手なんだ」

 私は緊張しているのに、真宙は変わらず笑顔だった。

「私と逆だね」

 私の笑顔は、ぎこちない。自分でもわかるくらいだ。

「数学ができるなんて、神山さんは凄いなあ」

 でも、真宙は感心するばかりで、それには触れなかった。私は胸を撫で下ろす。

 しかし自分では普通だと思うことを褒められると、どうすればいいのかわからない。

「じゃあ、苦手な教科って何?」
「一番低いのは、日本史だけど……」

 素直に応えると、真宙は目を輝かせた。

「僕、日本史得意だよ。数学教えてくれるお礼に、教えようか?」
「……大丈夫、一人でできる」

 可愛くない言い方をしてしまった。

 真宙を見ると、気まずそうに眉尻を下げた。

 何か謝罪のような言葉を出そうとしたが、教室に着くほうが早かった。

「同じ作りなはずなのに、別のクラスの教室ってだけで特別な感じがするね」

 ころころと表情を変え、楽しそうにするところは、子供のようだった。

「それで、どこがわからないの?」

 そして私は真宙の楽しいという気持ちを、簡単に壊した。便乗しなかった。

 一緒になって笑う余裕が、私にはなかった。

 私の冷たい態度に、真宙は苦笑する。

「微分ってなに?って感じでして」
「……わかった」

 本当はわかっていなかった。だけど、わからない人はなにがわからないのかがわからないと聞く。

 真宙は全てを理解できていないのだろうと思った。

 私が答えると、真宙は一番前の真ん中の席に座った。

「……なにしてるの」

 向き合って教えると思っていたから、真宙の行動がよくわからなかった。

 でも、真宙は私の質問の意味がわかっていないようだった。

「だって、神山先生でしょ?」

 それはつまり、黒板を使って教えろ、ということだった。

 私はチョークを手に取り、本当の教師のように授業を始める。

 真宙は、終始首を捻っていた。

「……本気で一つもわからないのね」

 先生が教室に来たことで、説明は終わった。そして私の感想が、それだった。

「俺たちも何度も丁寧に説明してるんだけどな。ずっとこの調子なんだ」

 真宙は机に突っ伏している。寝ているのではない。自分の理解力のなさに落ち込み、死んでいるのだ。

「だが、さすが神山だ。わかりやすくまとめられている」

 先生は私が書いた黒板を見て言った。

 でも、生徒である真宙が理解できなかったのだから、わかりやすくまとめることができても意味がない。

「ごめんね、神山さん……僕、微分は捨てるよ……」

 簡単に諦めたのが、気に入らなかった。真宙は何度も先生に説明されていても、私が説明したのは今日が初めてだ。

 それで理解してもらえなくて、諦めると言われ、納得がいかなかった。

「ダメ。私、志田君がちゃんと微分の問題を解けるようになるまで、何回も説明するから。諦めないで」

 真宙も先生も目を丸めた。

 自分でも驚いた。誰かに教える余裕なんてないと言っていたくせに、と思った。

「神山、志田に付き合うと終わりが見えないぞ。いいのか?」
「……二週間やってみて、それでもダメだったら、私も諦めます。それに、自分の勉強にもなりそうなので」

 さすがにそれ以上他人に時間を割いていたら、自分の勉強が危うくなる。

 そう思って答えたら、真宙が私に抱きついてきた。

「ありがとう、神山さん!」
「ちょ、離れて!」

 こうして、私は放課後、真宙に勉強を教えることになった。

 そこまではよかった。

 二週間、どんな工夫をして教えても、真宙は微分の問題を解くことができず、私が微分の範囲を完璧に理解しただけだった。

 いや、さすがに基礎問題はできるようになった。少しレベルが上がると、途端にできなくなるのだ。

「あとちょっとなのに……」

 真宙の解答用紙を睨みつける。

「神山さん、もういいよ。本当にありがとう。簡単な問題が解けるようになっただけマシだ。もう自分の勉強に集中して?」
「でも……」

 ここまで来たら、最後までやりきりたい。

 だけど、本人がいいと言っているのに、まだやる、とは言えなかった。

「神山さんは、僕が理解できなかったら、自分の説明が悪いんだって、僕のことを諦めないでくれていた。でも、これ以上は神山さんの邪魔になる。だから、ね」

 ね、じゃない。

 初めは面倒だ、そんな時間はないと思っていたけど、真宙のためにいろんな参考書を読み込んで、どう教えればいいのかを考えるのは、楽しかった。

 それを、邪魔になると言われ、少し苛立ちを覚えた。

「僕、もう行くね」

 私が思ったことを言わないでいたら、真宙は自分の参考書を片付け、立ち上がった。

 ドア付近まで歩いていく真宙の背中を、見つめることしかできない。どう引き止めるべきか、迷った。

「……そうだ」

 待って、という私の念が通じたのか、真宙は足を止める。

「一生懸命な神山さん、かっこよくて素敵だったよ。受験、頑張ってね」

 それを聞いた瞬間、私の体は動いた。真宙の腕を掴む。

「……このまま、志田君と話せなくなるのは、嫌だ」

 なぜかわからないけど、このときの私は、妙に素直だった。

 私は、真宙のことを考える時間が終わってしまうのが、嫌だったのだ。

 すると、真宙は困ったように笑った。

「実は、僕も」