時計の針は、止まっていた

「あれ、早紀。腕時計が止まってるよ」

 講義が終わり、ノートをカバンにしまっていたら、友人の結芽が私の左腕を指した。

 確認してみると、今の時刻と大幅に異なっている。

「あー……本当だ」
「気付いてなかったの?」

 役目を終えた腕時計を外す。

「そんな何度も見たりしないからね」

 見ていなかったけど、そこにあるのが当たり前で、なくなると違和感がある。

 なにもなくなった手首、そして止まってしまった腕時計を見つめる。

 止まった瞬間に気付いてあげたかった。

 気付けなくてごめん、今までありがとう。

 そんなことを思いながら、筆箱に入れる。

「早紀」

 感傷に浸っていたら、結芽に呼ばれた。

 結芽はカバンを持って帰ろうとしている。

「ああ、ごめん」

 まだ机上にあるノートたちをしまうと、結芽を追う。

 そして結芽との会話を楽しんでいるうちに、腕時計が止まったことを忘れていた。

  ◆

 家に帰ると、鍵が開いていた。これは鍵の閉め忘れでも、泥棒が来たわけでもない。

「ただいま」
「早紀ちゃん。おかえり」

 笑顔で出迎えてくれたのは、隣に住む彼氏の志田真宙。こうしてよく夕飯を作りに来てくれているのだ。

「今日のご飯、なに?」
「今日は肉じゃがを作ってみました」

 真宙は得意げに言う。

「味見してみる?」
「真宙の作る料理はいつも美味しいから、今はいいや」

 肉じゃがのいい匂いが鼻に届く。

 本当は小腹が空いている。だけど、真宙の料理には不思議な力があって、少し食べると止まらなくなってしまう。

 今は食事よりもするべきことがあるため、食べたい気持ちを隠して手を洗う。

「早紀ちゃん、今日も忙しいの?」

 真宙は料理を再開する。

「課題が難しくて、なかなか終わらないんだよね」
「そっか。大変だね、理系学生さん」
「まあなんとか食らいついていくよ」

 食卓テーブルにノートと講義資料、図書室で借りてきた本を広げ、椅子に座る。それとほぼ同時に、真宙がお茶を出してくれた。

「体、壊さないように気をつけてね」
「……ん」

 資料を読み込む私は、生返事をした。

「あれ、早紀ちゃん、腕時計はどうしたの?」

 いつもなら私がお腹が空いたと声をかけるまで放っておいてくれるが、手首の違和感に気付いたらしい。

「壊れちゃって。今度新しいのを買いに行くつもり」

 筆箱の中から、止まったままの腕時計を取り出す。真宙は私に近付き、腕時計を手にした。

 真宙のものではないのに、真宙のほうが寂しそうな顔をしている。

「本当だ、止まってる。でもこれ、気に入ってたものじゃないの?」
「んー……そうでもないかな」

 たしかに長い時間使っていたけど、初めて親に与えられて、壊れないから使っていただけで、特別思い入れがあるわけでもない。

 壊れたなら、買い直す。当たり前のことだろう。

「……ごめん、早紀ちゃん。僕、用事思い出しちゃった。ご飯できてるから、お腹が空いたら食べてね」

 真宙は笑顔を取り繕うと、時計を置いて帰っていった。

 あれが嘘の笑顔で、なにか隠していることはすぐにわかった。だけど、課題の量を考えると、真宙のことを気にする時間はない。

 課題を広げ、ノートや資料を読み込む。私の理解力がないのか、課題が難しいのかわからないが、思うように進まなかった。

 気付けば日が落ちていて、窓の外は暗い。

「真宙、カーテン……」

 その先は言わなかった。

 顔を上げると、いつもいるはずの場所に、真宙の姿がない。夕飯の支度でもしているのかとキッチンを見るけど、真っ暗だ。

「……帰ったんだった」

 それを忘れるくらい、私は課題に集中していたらしい。

 重い腰を上げ、窓に近付く。

 いつも、開けるだけのカーテン。自分で閉めたのは、いつぶりだろう。

 カーテンに電気が反射し、少しだけ室内が明るくなる。

 振り向けば、いつもより広い部屋。ちょっとした虚無感のようなものを覚えながら、キッチンに向かう。

 真宙が用意してくれた肉じゃがは、熱を失っている。

 温め直してもよかったけど、肉じゃがが温まるのを待ちきれるとは思えなくかった。小皿を取り出し、肉じゃがを盛り付けると、食卓椅子に戻る。

 きっと、ご飯は炊けているだろうし、汁物も用意されている。お腹だって空いている。

 だけど私は、肉じゃがだけでいいと思った。

 真宙の作る料理はいつだって美味しくて。一度食べ始めれば、満腹になるまでやめられない。

 それなのに、今日は箸が進まなかった。
 次の日も。その次の日も。

 バイトから帰っても、真宙が出迎えてくれることはなかった。

 真宙が来ないことで、私の食生活のレベルは最悪なものになってしまった。惣菜だとか、カップ麺だとか、栄養バランスもあったもんじゃない。

 ただ、お腹を満たせるならなんでもよかった。

「なんか、元気ない?」

 そんな生活をしていたせいで、三日ぶりに会った結芽にそんなことを言われた。

「そんなことはないけど」

 答えると、結芽は顔を近付けてきた。そして私の右頬を突っついてくる。

「肌に艶がない。ちゃんと食べてないでしょ」
「食べてるってば」

 結芽の肩を押して、距離を作る。

 結芽は疑いの目をやめない。

 たった二日。二日、真宙の作ったご飯を食べないだけで、そんなに変わるのだろうか。

「まあいいや。まともにご飯作れてないのは私も一緒だし」

 結芽は隣に座って講義の準備を始める。

 結芽と私は違う。結芽は、少しは自炊をしていると聞いた。私は、真宙に作ってもらってばかりで、自分で作ったことがない。

 一緒じゃない。

「外食だと栄養が偏るとか言われるけど、私たちの場合、外食して野菜食べるほうが健康的だと思わない?」

 笑って誤魔化す。

 私は多分、真宙のご飯を食べているのが一番いい。

「そういうわけで、今日食べに行かない?」

 どういうわけかわからない。

「今日って、いきなりだね」
「忙しい?」

 いつもなら断るところだ。課題に追われ、バイトもあり、帰れば真宙のご飯が待っているから。

 でも、今日もまたいないかもしれない。

「……いや、いいよ。行こう」

 もしいるなら、連絡をしておけばいい。

 私は結芽の誘いを受けた。それはほぼ初めてのことで、結芽は満足そうに笑っていた。

  ◇

 結芽に連れてこられたのは、大学の近くにあるファミレスだった。

 四人席に、二人で座る。

「なに食べようかなあ」

 メニューを開いて、楽しそうにしている。私も同じように開くけど、真宙が作ったほうが美味しそうに見えて仕方ない。

「早紀、なににするか決めた?」
「うーん……」

 ただ、メニューをめくるだけ。食欲をそそられるものがない。

「でも珍しいね、志田君が食事会に参加するなんて」

 どこかから、女の声が聞こえてきた。

 志田君。

 私の知っている志田なのか気になって、メニュー表から顔を上げる。

 結芽の奥に、見覚えのある顔があった。両隣にはおしゃれな女子。

 真宙は、私のことなんて放ったらかして、女子と遊んでいたらしい。

 私が顔を上げたことで、真宙と目が合う。真宙も私の存在に気付いたはずなのに、わかりやすく目を逸らした。

 やましい気持ちでもあるのだろうか。

 遊びたかっただけなら、そう言ってくれればよかったのに。連絡してくれればよかったのに。

 女子とご飯に食べに行くくらいで怒るほど、私の心は狭くない。

「ちょっと、早紀。怖い顔してどうしたの」

 声をかけられて、結芽とご飯を食べに来ていたことを思い出した。

「……ううん、なんでもない。私、やっぱり帰る」

 メニュー表を元の位置に戻し、カバンを持つ。

「帰るって、なにか食べてかないの?」

 結芽は私のしていることが理解できないと言わんばかりに呼び止める。私も、自分がどうしたいのかわからない。

 だけど、一つだけ言えることはある。

「……気分じゃない」

 友達とご飯を楽しむ余裕はなかった。

 戸惑う結芽を置いて、店を出る。

 真っ直ぐ帰ろうかと思ったけど、真宙と話がしたい気持ちもあった。

 自分の部屋で、真宙の帰りを待ってもよかった。

 でも、私に隠れてあんなことをしていた真宙が、私の家に来るとは思えない。

 真宙の家の合鍵は持っているけど、真宙が帰ってくる保証もない。

 そういうわけで、私は店の出入り口が見える場所で真宙が出てくるのを待つことにした。

 そこは、街灯もない小さな公園だった。昼間は子供たちの元気な声が響いているのだろうが、月明かりに照らされるそこは、沈黙に包まれている。

 明かりがなければ勉強はできない。この暗い中でスマホを触る気もない。

 夜に闇を落とした要因である空を見て、真宙が出てくるのを待つ。

 雲が流れ、暗闇の中で輝く月を隠しては置いていく。

 星は見えるが、天文の知識がないため、星座などわからない。

 雲と同じように、静かに時間が流れていく。

 これほどなにもしない夜は、大学生になって初めてかもしれない。

 いつも、予習に復習、そして課題に追われているから。

 静かに過ぎていく時間も、案外悪くない。

 そう思っていたら、この静けさに不釣り合いな笑い声が聞こえてきた。

 私は店の出入り口に視線を移す。

 騒がしい集団の中に、真宙の姿があった。

 私には見せたことのない楽しそうな笑顔で、輪に混ざっている。

 聞きたいこと、話したいことは山ほどあるのに、真宙のその笑顔を見た私の足は、動くことを知らなかった。

 真宙たちがどこかに行ってしまうのを見送って、私は家に戻った。

 室内は、公園で見たのと同じ暗闇。

 だけど、あの不思議な温もりのようなものは一切ない。

 溢れたのは、涙だった。
 夢を見た。とても懐かしい夢だった。

 私と真宙が出会ったころの夢。

 それは、高校三年生の秋。

 そのころの私は、大学受験に向けて、勉強漬けの毎日だった。

 朝起きてから学校に行くまでは家で。授業合間の休み時間は教室で。放課後になって、日が落ちるまでは自習室や図書室で。そして、家に帰って眠くなるまで。

 ご飯を食べるときやお風呂に入るとき以外は、大体勉強していた。

 真宙の存在を知ったのは、放課後の職員室だった。

 私は理学部の数学科を受験しようとしていたため、難易度の高い問題はよく先生に質問していた。

「今日もまた難しい問題を持ってきたな……」

 先生は嫌そうな顔をしながら、私が見せた問題集と向き合う。

 そのときだった。

「先生、微分が全くわかりません」

 私がいるのに、真宙が邪魔をするように先生に質問しにきた。しかしわざとではないことは、顔を見ればわかる。今にも泣きそうだ。

 本気でわからなくて、周りが見えていないらしい。

「志田……またか。それは昨日も教えたところだろ」

 先生は大きく息を吐き出した。

 昨日説明を受けて、まだわからないというのが、理解できなかった。

 マンツーマンで教えてもらったなら、相当丁寧な説明だったはずだ。それでわからないとは、この人はかなり数学ができないのか。

 第一印象はそれだった。

「そうだ、神山。お前が教えてやったらどうだ?」

 先生は予想していなかったことを言ってきた。そのせいだろう。

「は?」

 教師に対する態度ではなかった。

「私、自分の勉強で忙しいので、無理です」
「でも、俺がこの問題を解くまで暇だろ?」

 それはそうだが、人に教えられる余裕などなかった。

「それに、人に教えるのも勉強の一つだぞ。志田が理解できたら、神山はその範囲は完璧に理解しているということになる」

 そうは言うが、人に押し付けようとしているのが見え見えだった。

 私はもう一度、きちんと断ろうとした。

 だが、真宙がそれを許してくれなかった。

「お願いします、神山さん!」

 私の腕を掴み、泣きそうになりながら言ってきた。

 初対面で馴れ馴れしいと思った。だがこれを断れば、私が悪者になってしまうような気がした。

「……じゃあ、私のクラスで教える」
「ありがとう!」

 真宙は本当に嬉しそうに笑った。その笑顔を見て、切羽詰まっていた私の心は、少し癒されたようだった。

 真宙と職員室を出ると、並んで廊下を歩く。

 何が楽しいのか、真宙はスキップでもしそうなくらい、足取りが軽かった。

「……志田君って、文系だよね」

 無言でもよかった。むしろ教室に着くまで、一切話さないでおこうと思った。

 だけど、そんな状態でいきなり勉強を教えられるかと言われると、自信はなかった。

 少しでも打ち解けておいたほうがいいと判断した。

 そういうわけで、私は真宙に質問をする。

「うん、文系。数学とか理科とか、ずっと苦手なんだ」

 私は緊張しているのに、真宙は変わらず笑顔だった。

「私と逆だね」

 私の笑顔は、ぎこちない。自分でもわかるくらいだ。

「数学ができるなんて、神山さんは凄いなあ」

 でも、真宙は感心するばかりで、それには触れなかった。私は胸を撫で下ろす。

 しかし自分では普通だと思うことを褒められると、どうすればいいのかわからない。

「じゃあ、苦手な教科って何?」
「一番低いのは、日本史だけど……」

 素直に応えると、真宙は目を輝かせた。

「僕、日本史得意だよ。数学教えてくれるお礼に、教えようか?」
「……大丈夫、一人でできる」

 可愛くない言い方をしてしまった。

 真宙を見ると、気まずそうに眉尻を下げた。

 何か謝罪のような言葉を出そうとしたが、教室に着くほうが早かった。

「同じ作りなはずなのに、別のクラスの教室ってだけで特別な感じがするね」

 ころころと表情を変え、楽しそうにするところは、子供のようだった。

「それで、どこがわからないの?」

 そして私は真宙の楽しいという気持ちを、簡単に壊した。便乗しなかった。

 一緒になって笑う余裕が、私にはなかった。

 私の冷たい態度に、真宙は苦笑する。

「微分ってなに?って感じでして」
「……わかった」

 本当はわかっていなかった。だけど、わからない人はなにがわからないのかがわからないと聞く。

 真宙は全てを理解できていないのだろうと思った。

 私が答えると、真宙は一番前の真ん中の席に座った。

「……なにしてるの」

 向き合って教えると思っていたから、真宙の行動がよくわからなかった。

 でも、真宙は私の質問の意味がわかっていないようだった。

「だって、神山先生でしょ?」

 それはつまり、黒板を使って教えろ、ということだった。

 私はチョークを手に取り、本当の教師のように授業を始める。

 真宙は、終始首を捻っていた。

「……本気で一つもわからないのね」

 先生が教室に来たことで、説明は終わった。そして私の感想が、それだった。

「俺たちも何度も丁寧に説明してるんだけどな。ずっとこの調子なんだ」

 真宙は机に突っ伏している。寝ているのではない。自分の理解力のなさに落ち込み、死んでいるのだ。

「だが、さすが神山だ。わかりやすくまとめられている」

 先生は私が書いた黒板を見て言った。

 でも、生徒である真宙が理解できなかったのだから、わかりやすくまとめることができても意味がない。

「ごめんね、神山さん……僕、微分は捨てるよ……」

 簡単に諦めたのが、気に入らなかった。真宙は何度も先生に説明されていても、私が説明したのは今日が初めてだ。

 それで理解してもらえなくて、諦めると言われ、納得がいかなかった。

「ダメ。私、志田君がちゃんと微分の問題を解けるようになるまで、何回も説明するから。諦めないで」

 真宙も先生も目を丸めた。

 自分でも驚いた。誰かに教える余裕なんてないと言っていたくせに、と思った。

「神山、志田に付き合うと終わりが見えないぞ。いいのか?」
「……二週間やってみて、それでもダメだったら、私も諦めます。それに、自分の勉強にもなりそうなので」

 さすがにそれ以上他人に時間を割いていたら、自分の勉強が危うくなる。

 そう思って答えたら、真宙が私に抱きついてきた。

「ありがとう、神山さん!」
「ちょ、離れて!」

 こうして、私は放課後、真宙に勉強を教えることになった。

 そこまではよかった。

 二週間、どんな工夫をして教えても、真宙は微分の問題を解くことができず、私が微分の範囲を完璧に理解しただけだった。

 いや、さすがに基礎問題はできるようになった。少しレベルが上がると、途端にできなくなるのだ。

「あとちょっとなのに……」

 真宙の解答用紙を睨みつける。

「神山さん、もういいよ。本当にありがとう。簡単な問題が解けるようになっただけマシだ。もう自分の勉強に集中して?」
「でも……」

 ここまで来たら、最後までやりきりたい。

 だけど、本人がいいと言っているのに、まだやる、とは言えなかった。

「神山さんは、僕が理解できなかったら、自分の説明が悪いんだって、僕のことを諦めないでくれていた。でも、これ以上は神山さんの邪魔になる。だから、ね」

 ね、じゃない。

 初めは面倒だ、そんな時間はないと思っていたけど、真宙のためにいろんな参考書を読み込んで、どう教えればいいのかを考えるのは、楽しかった。

 それを、邪魔になると言われ、少し苛立ちを覚えた。

「僕、もう行くね」

 私が思ったことを言わないでいたら、真宙は自分の参考書を片付け、立ち上がった。

 ドア付近まで歩いていく真宙の背中を、見つめることしかできない。どう引き止めるべきか、迷った。

「……そうだ」

 待って、という私の念が通じたのか、真宙は足を止める。

「一生懸命な神山さん、かっこよくて素敵だったよ。受験、頑張ってね」

 それを聞いた瞬間、私の体は動いた。真宙の腕を掴む。

「……このまま、志田君と話せなくなるのは、嫌だ」

 なぜかわからないけど、このときの私は、妙に素直だった。

 私は、真宙のことを考える時間が終わってしまうのが、嫌だったのだ。

 すると、真宙は困ったように笑った。

「実は、僕も」
 あのころの私たちは、未熟で、素直で、可愛らしいところがあった。

 今では、本音を話す機会も少ない。だから、昨日みたいなことが起きるのだろう。

 思い返しただけでも腹が立つ。

 一言あれば、こんなに気にすることもなかったはずだ。

 そう思うと、真宙に直接文句を言いたくなった。まだ朝が早いから、出かけていることはないだろう。

 真宙が家に帰っていればの話だが。

 真宙の家の合鍵を手に、自分の部屋を出る。

 隣の部屋に行くと、鍵を開けた。

 玄関には、真宙がいつも履いている靴が揃えられている。

 よかった。帰っている。

 片手で数える程度しか来ていない部屋に、足を踏み入れる。

 昨日遅く帰ってきたのか知らないが、真宙はまだ眠っていた。

 真宙が起きるのを待っていられなくて、私は真宙を揺すって起こす。

 真宙は目を擦ると、私を見つけた。

「早紀ちゃん……? なに、してるの……」

 私がいることに驚いているらしい。

 まあ無理ないだろうが。

「真宙に言いたいことがあって」

 真宙は体を起こすと、小さく欠伸をする。ベッドを降り、カーテンを開けた。

 寝ぼけているのか。私の話を聞いていない。

「……僕も、早紀ちゃんに言っておきたいことがあるんだ。ちょっと顔を洗ってくるから、適当に座って待ってて」

 真宙はキッチンに行った。

 私が悪いことをしたわけではないのに、怒られているような気がした。真宙の姿が見えなくなったことで、一気に体が軽くなったようだ。

 戻ってきた真宙は、両手にお茶を注いだコップを持っている。

「ごめん、おまたせ」

 それをローテーブルに置くと、腰を下ろした。

「それで、話って?」

 いつもの柔らかい笑顔や声ではない。

 なぜ真宙のほうが不機嫌なのだろう。腹が立っているのは、私だ。

「昨日のこと。遊びに行きたいなら、そう言ってくれればよかったのに。わざわざ隠れるようなこと、しなくても」

 真宙は文句を言う私に対して、鼻で笑った。

「ねえ、早紀ちゃん。それは……どの立場で言ってるの?」

 どの立場と言われると難しいが、私たちの関係には名前がある。

「もちろん、彼女だけど」
「……彼女ね」

 間違っていないはずなのに、正しい答えを言った気がしない。

「……僕たち、少し距離を置こう」

 真宙がなにを言っているのか、わからなかった。

「それって、別れるってこと?」

 つい、口調が厳しくなる。

「そうじゃなくて……」

 真宙ははっきりと言わない。その態度に、余計に苛立つ。

「なんでそんなことを言うの? 私のことが嫌いになったなら、そう言えばいいでしょ」

 真宙の言葉を受け入れないということは、私は別れたくないのだろう。

 責めるような言い方をしたからか、真宙は顔を上げない。

「……嫌いになったわけじゃない。怖くなったんだ」

 真宙の表情が見えないが、私を怖いと言っているのは、本気だろう。

 なにがどうなれば私を怖がるのか。考えてみるが、答えが見つからない。

「確かに僕たちは恋人同士だ。でも、やっていることは僕が早紀ちゃんの家に行って、ご飯を作っているだけ。それだけなんだ」

 私たちなりの交際の仕方があると思って、そのことに疑問を抱いたことはなかった。

 だけど、真宙はそれが気に入らなかったのか。

「……嫌なら、やらなきゃよかったでしょ。私、頼んでない」

 真宙は顔を上げる。今にも泣きそうだ。

「うん、その通りだよ。頑張る早紀ちゃんを支えたくて、僕が勝手にやっていたことだ。だから、それは別にいいんだ」
「じゃあ、なにが気に入らないの」

 真宙の話し方に、苛立ちを隠せなくなった。

 真宙は私から視線を逸らす。

「僕も、役目が終わったら……いらなくなったら、壊れた腕時計みたいに捨てられるのかなって思ったら、怖くなったんだ」

 私は、腕時計が壊れた日の夜のことを思い出した。

 あの日、真宙は用事を思い出したからと、夕飯前に帰った。私が腕時計を修理せずに買い直すと言っただけで、そんなことを思っていたのか。

 そんなつもりはなかったのに。

「……わかった。真宙の言う通り、距離を置けばいいのね」

 私は出されたお茶に手をつけず、立ち上がる。そして一度も振り返らずに、真宙の部屋を出た。

 自分の部屋に戻っても、苛立ちが収まらない。

 思ったことがあったら、すぐ言えばよかったのに。今さら遠慮し合う関係でもないのに。

 というか、そんな小さなことを気にするような奴だとは思わなかった。

 一つのことに怒り出すと、今まで気にならなかったことが気になってくる。

 いちいち甘えてくるところとか。空気を読まずに笑っているところとか。

 真宙の長所であるものが、急に短所になる。

「あー、もう!」

 一人の部屋で、無意味に叫ぶ。

 そんなことをしたところで、なにかが変わるわけではない。

 でも、少しでも気持ちをリセットさせたくて、深呼吸をする。

 これで真宙のことを考えるのはやめる。

「……大学行こう」

 用意していた鞄を手に、家を出た。

 大学に着くと、私はなにかに取り憑かれたように手を動かした。

「うわ、朝から勉強してる」

 結芽は講義が始まる三分前に来た。

 嫌そうな顔をする。

「……別に悪いことはしてない」

 真宙への苛立ちを引きずっていたらしい。私の声は冷たかった。

 結芽は目を丸める。

「どうした。今日は不機嫌?」
「……ごめん、ただの八つ当たり」
「この授業が終わったら、私が話を聞いてあげよう」

 なぜ上から目線なのか。そう言いたかったが、講義が始まる時間になった。

 私は文句を飲み込んで、教授の話に集中した。その間は、余計なことは考えずに済んだ。

 講義が終わると、いつもは自習をする。でも、今日は結芽に引っ張られて学生の休憩スペースに連れてこられた。

「さてと。話してみな?」

 嫌だ、と言ってもよかった。わざわざ結芽に話すようなことではない。

 そう思っていたはずなのに、誰かに話すことで楽になれたりしないだろうかという考えが頭に過り、私は真宙とのことを話した。

 高校卒業から約一年半付き合っていること。

 隣の部屋に住んで、半同棲のようなことをしていること。

 ずっと、真宙に夕飯を作ってもらっていたこと。

 そして、真宙と喧嘩をしてしまったこと。

 全てを聞いた結芽は、呆れた表情を見せた。

「早紀が悪い」
「……どうして?」

 私は悪いことなんてしていない。そう言われるのは、納得がいかない。

「恋人なのに家政夫みたいなことしかしてないってなると、不安になるって。デートとかしてないの?」
「……勉強で忙しくて、そんな余裕なかった」

 結芽はため息をつく。

「早紀の彼氏君も同じ大学生だよね? 忙しいのは一緒じゃない?」

 そう言われてしまうと、返す言葉がない。

「早く彼氏君に謝りなよ? 多分、早紀は彼氏君がいないと生きていけないだろうから」
「大袈裟じゃない?」

 一人で生きようと思えば、それくらいできるはずだ。

「自分でご飯が作れない人がなにを言ってるのかな?」

 結芽の目は笑っていない。私は言葉に詰まる。

 そう言えば、いつの間にか真宙が私の部屋にいることを当たり前だと感じていた。

 家事のようなことは、いつも真宙に頼っていて。自分でやったことなんて、片手で数える程度しかしていない。

 結芽が言っていることは、間違っていないのかもしれない。

「真宙とちゃんと、話さないと……」

 私の気持ちを一方的に押し付け、真宙を押さえつけていては、同じことを繰り返す。

 落ち着いて、真宙と話し合わないと、私たちの関係は変わらない。いや、私が変わらないと、なにも変わらない。

「……早紀、本気で彼氏君のこと、好き?」

 結芽の質問の意図がわからなくて、私は首を捻る。

「彼氏君が便利だから手離したくないわけじゃないよね?」
「違う」

 好きという気持ちがどういうものかなんてはっきり言えないが、真宙が使えるから一緒にいるわけではないことはわかっている。

「……真宙がいない部屋は、広くて寒かった。私は、真宙に家事をしてほしいわけじゃない。ただ、そばにいてほしい」

 そう答えると、結芽は満足そうに笑う。

「行ってらっしゃい」

 結芽に見送られて、真宙を探す。

 だけど、真宙を見つけることはできなかった。

 真宙は、私の前から姿を消したのだった。
 真宙と距離を置くように言われて、一週間ほど経っただろう。

 私はほとんど家に引きこもり、なにも食べなければ勉強もしていなかった。ただ食卓椅子に足を抱えて座っているだけだった。

 こんな過ごし方をしていたから、時間の感覚などないに等しい。

 真宙のいない、非日常。

 静かで暗くて冷たい私の部屋。

 心に穴があいたような感覚。

 目の前の食卓テーブルには、今朝ドアポストに入っているのを見つけた、この部屋の合鍵だけが置かれている。

 それすらも、私の心を表しているように思えてくる。

 ちなみに鍵と一緒に手紙もあり、そこにはこう書かれていた。

『早紀ちゃんのことを嫌いになったわけじゃない。一つのことに一生懸命になる早紀ちゃんを、尊敬している。でも、やっぱり、これ以上交際を続けるのは無理だ。ごめんなさい』

 別れの手紙だった。

 これを読んだとき、声が出なかった。頭が真っ白になった。

 結芽に言われた通り、私は真宙がいなければ生きていけなかったらしい。

 これほど、なにも手につかなくなるとは、予想していなかった。

 込み上げてくるのは後悔と悲しみだ。

 もっと、真宙との時間を大切にしておけばよかった。真宙と向き合っておけばよかった。

 自分の悪いところに気付けていたら、こんなことにはならなかったはずなのに。

 広い部屋の中で、私はそんなことばかりを考えていた。

 しかしそれだけではない。疑問に思うこともあった。

 いつから、真宙の私に対する恋愛的な愛情が消えていたのだろう。

 真宙との楽しい時間は止まっていたのだろう。

 そこまで考えて、ふと思った。

 私は、この感覚を知っている。

 長年使っていた腕時計が止まっていたのを知ったときの感情と似ている。

「……そうだ、腕時計」

 久々に出した声は掠れていた。

 壊れてしまった腕時計。まだ買い直していないし、捨ててもいない。

 私は立ち上がって、鍵置きの隣に置いていた壊れた腕時計を手に取る。

 真宙にあんなことを思わせてしまったから、修理をしようと思って取っていた。だけど、もうできない。

 きっと、これを見る度に真宙のことを思い出してしまうだろう。

 私は腕時計を捨てることにした。

 スマホで腕時計の捨て方を調べる。電池を取り外し、不燃ごみとして出せばいいらしい。

 調べた通りに行い、ゴミ袋に入れる。

 腕時計と一緒に、思い出も消えてなくなりますようにと願いを込めて。

 私の頬に伝った雫は、止まることを知らなかった。


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