ある日のこと。
 気がつけば私は、ざーざーと雨の降りしきる街中に立っていた。


「……?」


 ここはどこだろう?
 寒いな。
 お腹がすいたな。


(なんだか、)


 ――……懐かしい感覚する。

 でも、わからない。だって、何も覚えてない。

 名前はなに?
 年齢はいくつ?
 住所はどこ?


(……わかんない)


 ぽたぽた、ぽたぽた。髪から水が滴って。
 ざーざー、ざーざー。冷たい雨が打ちつける。

 何も覚えていないけれど、以前にもこんな事があった……ような、気がした。
 ぽいと無造作にほったらかされて、寒くて寒くて震えていたことが。


「……」


 道行く人は皆、様々な『色』のビー玉二つを向けてくる。
 訝しむような目、好奇の瞳、哀れみの眼差し。


(さむい……)


 今、私が身につけているのは膝丈の白いワンピース。
 濡れて体に張りついてくる感触が、きもちわるい。


「……」


 ぺたぺたと、裸足で街をさ迷った。
 どこに行けばいいのかもわからなくて、うろうろ、ぺたぺた。

 そうして歩いているうちに大きな駅へ辿り着いたけれど、たくさんの人で賑わっていて少し戸惑ってしまう。


(どう、すれば、)


 変な感じ。『電車』とか『駅』『切符』という存在はきちんと理解できているのに、どうやって切符を買えばいいのかがわからなかった。

 そもそも、私の年齢は?
 大人なの?それとも子供?


「……?」


 とりあえず、自分の両手に目線を落としてみる。

 細めの指が、合わせて十本。手のひらは、ちょっと小さい?
 でも、『子供』というほどのサイズではない気がして。


「……、っ、」


 周囲を歩いている誰かに、

『何歳に見えますか?』

 そう聞いてみようかと思ったのに、


(こわい)


 人が、怖かった。


(……どうしよう)


 なにも覚えていない私は……これから、どうしたらいいんだろう。


(どう、したら……)


 途方にくれて、膝を抱いたまま座りこむ。
 駅のホーム。その入り口あたりに、ちょこんと。


(さむい、さむい……)


 しばらく水溜まりを眺めていると、私の存在に気づかなかったらしい人がぶつかって、


「ちっ、邪魔だな……」


 一言、そう漏らした。


(あっ……)


 邪魔。そっか……私は、


(じゃま、なんだ)


 別の場所に移動した方がいいのかなと考えるけれど、寒くて体が動かせない。
 季節もわからないけど、このまま凍ってしまいそう。


(わたし、しんじゃうのかな)


 カタカタと体が震えだしたから、自分の両腕でぎゅっと抱きしめた。


「……っ、」


 吐き出した息は、あっという間に空中で白く染まる。


(さむいよ)


 ――……誰か、助けて。私を拾って。

 前にも、そんな願いを抱いた気がした。
 ぼんやりとしか思い出せないけれど、あの時はたしか……誰かが、


「……大丈夫?」
「!」


 突然、私の頭上だけ雨が止む。
 弾かれたように顔を上げるとそこには、傘を私に差し出す知らない男の人が立っていた。


「濡れるよ。……っていうか、濡れてる」


 心配そうな色を滲ませた黒い双眸が細められて、口元は優しい笑みを浮かべて見せる。
 綺麗な黒髪が雨粒を弾いて、白い肌を伝い落ちた。


「っ、……」


 あなたまで、濡れちゃいますよ。

 黒いスーツにできていくシミを見ながらそう言おうとしたけれど、


(……こえって、どうやってだすんだっけ……)


 俯いて言葉を詰まらせれば、


「どうしたの?」


 低い声が、ふわりと私の耳を撫でた。
 どこかで聞いたことのある、チェロみたいに落ち着く音。


「……」
「……」


 しばらくの間お互い無言で見つめ合っていたけれど、男の人は何か思い出したような顔でジャケットを脱ぎ始めた。

 それを私の背中にそっと羽織らせて、


「少しは寒くなくなるかな?」


 そう言いながら、微笑むその人。


(ありがとうございます)


 声が出せないから、心の中で感謝してぺこりと頭を下げる。
 ほんのり暖かくなる体と、微かに鼻をくすぐる珈琲の香り。


「んー……」


 名前も知らない男の人は、少しの間だけ悩んでいる素振りを見せてから、


「……じゃあね。これもあげるから、早く家に帰りなさいよ。ずっと一人でここにいたら危ないし、風邪も引くから」


 私のすぐそばに傘を置き、その場を立ち去ろうとした。


(あっ……!!)


 気づけば、私の体は勝手に立ち上がっていて、指先は男の人の袖をつまんでいる。

 くちをぽかんと開けたまま、目をまん丸くさせる彼。
 その顔を真っ直ぐに見据えた。


「っ、あ……っ、」


 やっと出せた声は、ろくな『言葉』も紡げずにばらばらと崩れて空気に変わる。


(まって……!)


 じっと、気持ちを目線に混ぜて送ることしかできない。


「……家、帰らないの?」
「……っ、」
「……女の子が、素性も分からない男を簡単に誘ったりしたら駄目だよ」


 なだめるみたいにそう言って、彼は私の手を優しく引き剥がす。

 あたたかい、男の人の大きな手。
 それを両手で捕まえて、ぎゅっと握りしめた。


「……もしかして、家出?」


 否定の意味を込めて、ぶんぶんと左右に首を振る。

 ううん。『家出』なのかすらわからない。何も覚えていないから。


「帰る場所、ないの?」
「……」
「……俺に、一緒にいてほしいの?」
「……!!」


 今度は肯定する意味で、何回も何回も赤べこみたいに首を縦に振った。
 すると、男の人はちょっと困ったみたいに眉を寄せて、


「じゃあ……うちに来る?」


 そう聞いてきたから、


(行く!)


 また、こくこく頷いた。


「……わかった」


 ついてきて、と傘を手に取って広げ、あくまでも私が濡れないようにとこちらへ傾けてくれるその人。

 私はもうびしょびしょなのに、変なの。……でも、優しい人。



 ***



 しばらく歩けば、小さなマンションに到着した。

 エントランスに入ると男の人は傘をたたんで、二人でエレベーターに乗る。
 男の人が『5』のボタンを押せば、扉が閉まってガタンと振動してから動き始めた。


「――っ!?」
「ははっ」


 びっくりしてその場に屈んだ私を見下ろしながら、その人は小さく笑う。

 少ししてから止まったエレベーターを降り、またちょっとだけ歩く。
 マンションの突き当たりにある部屋――『203』と書かれたプレートのすぐ下には『千葉』の二文字。


(……? よめない……)


 板とにらめっこする私に、男の人は「どうぞ、入って」と促した。


(おじゃまします)


 心の中で呟きながら扉をくぐり、室内へ。
 靴は履いていなかったから、そのまま素足で上がり込もうとした。


「あ、ちょっと待って。タオル持ってくるから」


 それに気づいたその人は、慌てて室内に消えていく。
 そしてすぐにタオルを数枚抱えて戻って来ると、片手で自分の髪を拭きながら小走りで私に駆け寄り、


「こんなに濡れて……何があったの?」


 受け取るために差し出した私の手を無視して、わしゃわしゃと髪を拭いてくれた。


(きもちいい……)


 目を細めてなすがまま、男の人に体を預ける。

 私の髪を拭き終えると、彼は「足と……体も、適当で良いから拭いてね」と言って、新しいバスタオルをくれた。


(あしと、ふくのした……)


 言われた通りに全部綺麗にして、


「拭けた?」


 こくり、頷きを一つ。


「よし。じゃあ、中にどうぞ」


 もう一回『おじゃまします』。

 玄関からまっすぐ行った先にある扉を開けると、中はリビングに繋がっていて外よりとても暖かい。

 どこに座ればいいのか迷って、うろうろ。
 そんな私を見て、男の人は「好きに座って」と、また微笑む。


(でも、)


 服はまだ湿っているから、部屋が濡れちゃう。


「ああ……大丈夫。濡れても拭けばいいだけだし、気にしないで座って。……あ、そうだ。後で着替え渡すから、もう少し暖まったらお風呂に入っておいで」


 俺の服だから大きいだろうけど。なんて付け加えながら、片手でリモコンを操作する彼。

 ピピッ、ブオー。

 どこからか温かい風が吹いてきて、思わずビョンと飛び上がった。


「ははっ、猫みたい」
(……ねこ?)


 何か思い出せそうで首をかしげていると、男の人は私のすぐそばに来る。


「……昔、猫は拾ったことあるけど……人間を拾ったのは初めてだ」


 私の頭に片手を置いて、口元に柔らかい三日月型を描くその人。
 それがまた懐かしくて、私は首をかしげるばかり。