「まあまあかっこいいじゃん」
「……千秋の方が、かっこいい」
「……それはどうも」
わずかに照らされた横顔は、ずっと画面を見つめたままで、こっちを見ようとしない。
「なんか、怒ってる?」
「べつに」
「うそ。なんか、今日の千秋ヘン」
「……そんなことないよ」
優しく笑って、瞼に落ちてきたキス。そのまま頬へ移って、唇の横でそっと止まる。
一瞬だけ合った目は、なにか言いたそうだった。
「疲れたから、もう寝る」
背を向ける君に、それ以上を求めることはしなかった。
一度も考えなかったわけじゃない。君が私から離れていくこと。
お互い親には話していない。付き合っているわけでもないし、先のことなんて何も分からないから。
同じ毛布にくるまり、一緒に朝を迎える。他の人よりひとつ飛び抜けた関係に思えて、優越に浸れて、心地よい空気を吸っていたくて。
みんなの思い描く未来がハッピーエンドと言うならば、私は、迷わず君とのバッドエンドを選ぶ。
白い雪が降り続く夜更。私に覆い被さる君の瞳が憂いでいた。
何を考えているのか、なんとなく分かって。濡れた跡が残る目尻を、優しく指の腹でなぞる。
「……レナ。嘘はいらないからさ。ほんとのことだけ教えて」
いつもより真剣な瞳を見つめ返すことが出来なくて、私は視線を斜め下へ落とす。
「……うん」
「わたしのこと、好き?」
「なに、いきなり」
「いいから答えて」
低いトーンで、荒っぽく投げつけられる言葉。
「……当たり前じゃん」
「それって、恋愛感情で? それとも、友達の延長線?」
焦り、苛立ち、不安、期待。
君からは、いろんな音が溢れている。それを醜いとは思わなかったし、全て私へ向けられたものだと考えると、精神が昂った。
「レナはさ、わたしと違って可愛いんだから。そろそろ、ちゃんと恋愛した方がいいよ」
ずるりと落ちてきた頭が、鎖骨あたりに埋まって。こんなときでも、君の匂いに心臓が速まる。
「……いまさら」
どう反応したら良かったのだろう。
泣きじゃくって縋り付いたら、訂正してくれたのだろうか。
ただ、君だっだ。好きになった人が、たまたま同性だった。それだけなのに。
どうして、突き放すようなことを言うの。
ほろりと涙が流れるけど、すぐ手の甲で拭って跡を消す。
たとえどんな答えを出したとしても、誰も幸せになんてなれない。
「ごめん、ちょっと頭冷やしてくるわ。明日の朝、また話そう」
ベランダで煙草に火をつけて、君が戻ってきたのはしばらくしてからだった。ひんやりとした空気は、一瞬にして上昇する。
背中ごしに感じる君は、知り尽くした温かさで。その安心に抱きしめられて、私は重い瞼を閉じた。
ずっと、このままでいられたらいいのに。
強く絡まる腕に打ちひしがれながら、暗闇の中を彷徨い続けていた。
早朝、いつものようにスマホのアラームが鳴る。まだベッドに横たわる私の隣からのっそりと起きて、君はベランダへ出た。
開けられた窓から冷たい風が吹き込んで、あまりの寒さに布団の中で体を縮める。まるで子猫みたいに。
しばらくして、そろそろ起きようかと思ったとき。閉じたままの視界に影ができた。
感じたことのない感触が唇へ降ってきて、ざらついた舌が口の中を這うように動く。
すべてを食べ尽くすような刺激に、ぞくりと快感が込み上げた。
「レナ、好きだよ」
寝たふりの耳に、囁くほどの声。
知れた煙草と、ほろ苦いチョコレートの余韻が残ったまま。塞がった瞼は開かない。
顔を合わせたらなんと答えようか。そればかりが頭を占めて、なかなか起きるタイミングを決められなかった。
金縛りにあったような体が自由になった頃には、全てが終わったあとで。残っていたのは、昨夜から降り続けていた白い世界に、ぽつぽつと浮かぶ足跡だけ。
部屋着や下着、歯ブラシやマグカップまでごっそり無くなっていた。荷物はそれほど多くなかったから、私が寝たあとで身の回りの整理をしたらしい。
ーーレナ、好きだよ。
もう戻らないつもりなのだと、ここで初めて気付いた。
なにもなくなった部屋を見渡して、虚しさが込み上げてくる。
それから、窮屈な寂しさと、焦がれるような苦しさ。
答えを聞くつもりなんて、はなからなかったんじゃない。
そっと唇に触れてみると、まだ生ぬるい余韻が残っている。初めて知った、君の柔らかさ。
好きだなんて、今まで言ったこともなかったくせに。
張り裂けそうな胸を押さえながら、どこか納得している自分がいた。
下着の好みが変わったのも、急に気持ちを聞いて来たのも、全部あの日から。結婚という現実を見た時から、君は少しずつ距離を作っていた。
そのサインに、もう少し早く気付くことができていたら、違う選択肢があったのかな。
お互い他の人と結婚して、子どもを産んで、親の喜ぶ顔を見る。そんな想像もしてみるけど、どれもイマイチぴんとこない。
空っぽの部屋で、ころんと横たわる。生まれたての赤子のように、小さく丸くなって。
「……会いたい……千秋、会いたいよ」
その日は、朝から夜通し泣いた。体中の水分がなくなるまで。
君のいない未来なんて、生きていても意味がない。
君が私の前から姿を消して、いくつもの季節が過ぎた。
結局、君にとって私はどんな存在だったのだろう。あの頃を思い出すと、ふと考える。
友達でなければ、恋人でもない。
名前のない日々が残したものは、幸せか、それとも後悔なのか。
子どもたちを寝かせたあと、薄明かりの中でカチカチとパソコンへ向かう。
諦めたつもりでいた小説を、サイトへ投稿するようになった。
自分だけの世界で書いていたものを、誰かへ発信するのは勇気がいることだけど。反応をもらえることが何より励みになって、少しだけ踏み出してみたくて。
たぶん、これが影響しているのかもしれない。リアリティがあって、けれど普通じゃなくて面白いと、SNSで話題になっている小説。
ブルーハッピーエンド。
初めて目にした瞬間、心臓が痺れた。
目頭に熱が込み上げてきて、気付くと乾いた頬を濡らしていた。
あの頃の私たちは、不器用だけど間違いなんかじゃなかった。
今があるのは、彼女との時間があったからだと、今なら前を向いて言える。
彼女と出会ったのは、ある曇り空の日。わたしが死のうとしていた日だ。
入社して一年。
まだ誰もいないオフィスの屋上から、飛び降りるつもりだった。こんな天気で外に出る人などいないだろうし、なにより朝早い。
なのに、先客がいた。
背中まである茶髪を揺らしながら、黄昏れている。
出直そう。引き返そうとしたら、彼女は振り返って言った。
「あっ、邪魔でした? 今、場所あけますから、どうぞ」
朝焼けでも見に来たと勘違いされたのか、彼女はくったくのない笑みを浮かべて隣へずれた。
そうじゃないんだけどな。
なんだか気が逸れてしまって、とりあえず煙草に火をつける。
「煙草吸うんですね。佐倉さん」
「……なんで知ってるの? 名前」
「入社式、私の隣でした。あと、今は隣の部署です」
「……そか。ごめん」
「いえ、私あんましゃべらないし、影薄いんで。気にしないでください」
ははっと笑った時に、右だけできたえくぼで思い出した。
霧島レナ。
同期入社で、可愛いと男性社員の注目を浴びていた子だ。
咥えていた煙草の火を消して、携帯灰皿に入れる。彼女が、少し煙たそうな表情をしたから。
「もういいんですか?」
「うん。てゆうか、タメ語でいいよ。同期なんだし」
「じゃあ、さくらんって呼んでいい?」
「……それは、ちょっと」
「やっぱダメかぁ」
この子といると調子が狂った。
ついさっきまで、命を絶とうとしていたはずの人間が、なにをしているのか。早くその場を去ればいいのに、出来なくて。
「ここね、早朝は誰もいないし、たまにこうやってパワーチャージしてるんだ。あっ、そうだ。はい」
聞いてもいないことをペラペラと話して、指先ほどの何かを差し出して来た。いらないとはさすがに言えなくて、なんとなく受け取る。
きらきらしたピンクの包み紙を開くと、ハートのチョコレートが出てきた。
特に欲してないんだけどな、と思いつつ口へ入れる。甘ったるくて、やっぱり好みじゃない。
「鉄分補給。頭の活性化にいいよ」
「ふーん、そうなのか」
なぜかは分からない。それがきっかけで、わたしたちはよく話すようになって、いつしか二人でいることが多くなっていた。
自分の存在意義を見出せなくて、屋上のフェンスに立とうとしたあの日から、数ヶ月が過ぎた。
彼女が部署を異動して、仕事とプライベートで同じ時を刻むことが増えた。
ーーなんとか、生きている。
暇つぶしにしていた小説。今まで、数千字の短編しか完結出来なかった自分が、初めて長編を執筆したいと思った。
彼女の隣で寝ていると、たまに不思議な感覚に陥る。
柔らかな髪を撫でたくなって、くるんと上がった睫毛や、小さくぽてっとした唇に触れてみたくなる。
女として、わたしは、おかしいのか?
そんな感情を掻き消してしまうくらい、彼女が愛おしく思えた。
「佐倉サーン。これ、教えて欲しいんですけど。今いいですか?」
一期下の女子社員が、上目遣いに寄って来た。ゆるっと巻いた髪。少し濃いめの化粧と、完璧に施されたネイル。
その手が、さりげなくわたしの腕を掴んでいる。
「ああ、ごめん。ちょっと手が離せなくて。他の人に聞いてもらっていい?」
「……はーい。分かりました」
あきらかに不貞腐れた顔で、しぶしぶ自分の席へ戻っていく。
悪いとは思ったけど、本当に忙しいのだから仕方ない。パソコンへ目を戻して、ふと思う。
触られても、特になにも感じなかった。やっぱり、わたしは普通だ。
言い聞かせながら、斜め前をちらりと見る。彼女だけに抱くこの感情に、名前があるのだとしたら。果たしてそれは、なんと言うのだろうか。
「見たらコロス」
彼女のアパートへ入り浸るようになって、半年。書きかけの小説を見られたくなくて、わたしは彼女を押し倒した。
もちろん、必死の抵抗でなったことだけど、それだけでは終われなくて。乱れた髪と、虚な瞳があまりに美しくて、初めて彼女の頬に触れた。
拒絶されるのではと、慌てて離れるけど、恥じらうように染まり上がる顔に、理性が飛んだ。
これまで、ひた隠しにしてきた欲望があふれ出すように、彼女の体中に痕をつける。ただ、唇だけは除いて。
「……ねぇ、千秋。なんで、こんなことするの?」
衣服がずれ落ちて肩が露わになったまま、彼女は甘い吐息を漏らす。
「……したかったから。じゃ、だめ?」
心の底を見抜かれるのが怖くて、濁した答え方をした。
小さく首を振る彼女の首に顔を埋めて、もう一度キスをする。
唇にさえ、しなければいい。
なんのお守りにもならない暗黙のルールを作って、わたしたちはお互いを求めるようになった。
『おい、千秋。今月の分がまだ振り込まれてないぞ。支払いが出来ないじゃないか』
「……ごめん。ちょっと、バタついてたから」
『早く頼むぞ。まったく。延滞料金で上乗せされちまう』
父からの電話を切って、しばらく放心とする。
どうしてわたしばかり、こんな目に遭わなければいけないのか。
小学三年生の時、母が家を出た。ひとりっ子のわたしは、父と二人で生活することになって、勉強のかたわら家事もこなした。
朝早くから遅くまで父は働き、いつも家には一人だった。休日でも、どこかへ遊びに出かけた記憶はない。
それでも、父が自分のために頑張っていることは分かっていたから、弱音や愚痴を言わないでいた。
高校へ通い始めて、しばらくして、父の会社が倒産した。なかなか次の就職先が見つからず、酒に明け暮れる毎日。喧嘩が絶えなくなって、早く家を出るために東京の大学へ進むことにした。
対面キッチンの向こうから、彼女が野菜を切る音がする。
「電話、家から?」
「……うん、まあ」
「全然帰ってないんでしょ? 会わなくていいの? 私が言えたセリフじゃないけど」
「……ほんと、それ。レナはちゃんと帰んな」
「今度の連休は帰りますよー」
あははと笑う彼女に、晴れなかった気持ちが少しだけ和らぐ。
生活費をせびられるようになったのは、社会人になってから。
毎月、五万の仕送りと奨学金の返済があるから、正直キツい。強く断れないのは、男手一つで育ててもらった恩があるから……なのかもしれない。
キッチンに立つ彼女を、背中からそっと抱きしめた。恥ずかしそうに頬を染めながら笑みをこぼす横顔に、わたしはずっと救われている。
二十五歳になって、同じソファーでテレビを見ていた時のこと。今までなら、流れる水のようにスルーしていたCMをぼんやり見ながら。
「……キレイだなぁ、ドレス」
彼女が、ぽつりとつぶやいた。
結婚式場で笑い合う二人が、幸せそうに頬を寄せ合っている。それを眺める彼女の横顔から、そっと視線を逸らした。
「そういえば、中学のときの友達が結婚するんだって」
「へぇ、そう」
「急に連絡来るから、何事かと思った。千秋は、結婚式って出たことある?」
「……ない。友達少ないし」
視線を他へ向けたまま、そっけなく返し過ぎたかもしれない。
「うちらも、もうそうゆう歳かぁ」
無理して笑ってみたけど、彼女はふいっとスマホを取り出して、話題を変えた。
少し、わざとらしかったかな。これでも、ポーカーフェイスを保とうとしたつもりだった。憧れの眼差しを向ける横顔に、胸が押し潰されかけながら。
ずっと曖昧にしてきた関係を、見つめ直す時が来たのだと、警告された気がした。