「なんだー。原の奥さん、そんなに怖いのか?」
「え、っと。すみません……」

 ニヤリと笑ってからかってくる伊藤さんに頭をさげながら、愛想笑いを浮かべる。

「そうじゃなくて! 愛妻家なんですよー、原さんは。伊藤さんも、少しは見習ったほうがいいですよ」
「はいはい。じゃぁ、原も次回は奥さんの許可を得て参加しろよ」
「はい、すみません」

 木部さんのおかげで、どうにかうまく退社できそうでほっとする。

「ごめんね、木部さん。ありがとう」
「いえ、奥様によろしく」

 眉を下げながら顔の前で軽く手刀を切ると、木部さんが口元をニヤつかせながらそう言った。

 新卒で文具メーカーに入社した僕は、今年で四年目の営業マンだ。営業部に勤める同僚たちに、僕が結婚報告をしたことは一度もない。
 けれどあるときを境に僕は左手の薬指に指輪を嵌めて出社するようになり、それ以来、同僚たちのほぼ全員が僕を既婚者だと思っている。
 最近では、営業部の(はら) 蓮二(れんじ)は、部署内きっての愛妻家だという噂までもが、勝手にひとり歩きしていた。
 噂はあくまでも噂だけれど、僕にとってありがたい状況を作ってくれているから、それを敢えて否定はしない。

「お疲れさま」

 ニヤケ顔の木部さんに軽く苦笑いを返すと、再びカバンの中で鳴り始めたスマホを気にしながら、会社を飛び出した。
 腕時計で時間を気にしつつ、会社から少し離れたところまで歩いてからスマホを取り出す。そこに至るまでに、カバンの中ではスマホがひっきりなしに鳴っていて。確認すると案の定、着信もメッセージも、全て《妻》の仁美からだった。
 それもそのはず。今日は夕方に急な仕事が入って、約束していた時間よりも帰宅が三十分以上も遅くなってしまったのだ。