「すみません、引き留めちゃって」
「僕のほうこそ、話を遮ってごめん」
「大丈夫ですよ、ただの彼氏の悪口なので」

 申し訳なさそうに眉を下げると、木部さんが顔の前で横に手を振る。

「木部さんの彼氏が言うように経済的に余裕ができてから結婚したいっていうのも、男らしいと思うよ。それって、木部さんのことを幸せにしてあげたいって思ってるからでしょう?」
「原さん、良いように言いますね」

 去り際にそう言ったら、木部さんはハッとして、少し照れたように笑っていた。木部さんに笑い返しながら、彼女と彼の関係を少し羨ましく思う。
 僕と仁美の夫婦関係は、ルールがなければ壊れてしまう。思い込みと同情が作り出した、ニセモノの幸せだから。

 会社を出てから電話をかけると、耳にあてたスマホから、いつになく機嫌のよさそうな仁美の声が聞こえてきた。

「葉ちゃん、お疲れさま。あとどれくらいで帰れる?」
「今会社を出たばかりだから、あと三十分はかかるかな。遅くなってごめん」
「大丈夫だよ。待ってるね」

 普段なら、約束した時間を五分過ぎただけでヒステリックになる仁美が、今日は別人みたいに穏やかだ。
 仁美のことをなるべく怒らせたくないと思っているくせに、彼女が穏やかだとそれはそれで心配になる。

「仁美、今日は何かあったの?」
「え……、何もないよ」

 僕の質問に答えるとき、仁美が不自然な間を空けた。

「なるべく急いで帰るね」
「うん、待ってる」

 明るい声でそう答える仁美とは裏腹に、僕は妙な胸騒ぎを感じながら家路を急いだ。