仁美はこの一ヶ月間で、事故に遭った以降のことを全て忘れてしまっていた。
 夫の葉一が亡くなったことも、自身もケガを負って流産したことも。そして何故か、僕のことを兄の葉一だと思い込んでしまっていたのだ。

 僕と兄は五つ歳が離れていたし、そもそも僕らはそんなに顔の似ている兄弟ではなかった。
 兄は父に似ていて、僕は母に似ている。だから本当に不思議なのだが、両親や僕が何度「違う」と説明しても、仁美は僕を「葉ちゃんだ」と言って聞かなかった。

 仁美が僕の実家にやってくる度、親戚が彼女を連れ戻しにくるのだが、彼女は僕から引き離されるとパニックになる。
 病院に行くと、事故で大切な人を失ったショックで一時的に記憶が欠如して混乱しているのではないかと医師に言われた。

 仁美のパニックは、彼女が「葉ちゃんだ」と思い込んでいる僕と会えなかったり、引き離されそうになると起こる。だが、僕がそばにいると、仁美の情緒は安定していて穏やかだった。
 僕がいれば、彼女はこれまでと変わらずいたって普通なのだ。事故のことと、兄やお腹の子どもの死を忘れていること以外は。

 毎日のように親戚の家を抜け出して実家にやってくるようになった仁美を見かねた僕は、しばらく彼女と一緒に住むことにした。
 同情かもしれないけれど、自分がいなければ不安定になってしまう仁美のことを放っておけなかったのだ。

 仁美の親戚は、僕が彼女を引き取ることを喜んだ。しょっちゅう不安定になって家から抜け出す仁美のことが手に負えなくなっていたのだ。
 それに対して、僕の両親は、僕が仁美と暮らすことに反対だった。