檸檬をかじると、思わず「間違えた!」と叫びそうになるくらい、口の中が耐えられそうにないほどの酸味で満たされる。失敗した。なんだこれ。なにこれ。こんなにすっぱいなんて聞いてないよ、お母さん。
たぶん小学生だった頃の私。レモンパイとレモネードが大好きだった。甘酸っぱい味と爽やかな香りが、「憧れのお姉さん」を匂わせる。早く素敵な大人のお姉さんになりたいと思っていた私にとって、レモンパイやレモネードは、口にするたびに憧れに一歩近づける気がした。だから、初めて生の檸檬を口にしたときは、食べるものを間違えたかと思うほど、私の想像する「檸檬」の味とは違っていた。
今思えば、バカなことをしていたと思う。生の檸檬をそのままかじるなんて正気じゃない。それに、檸檬を食べれば憧れのお姉さんになれるなんて、どれだけ単純思考なんだ昔の私は。
「今年は三年生担当ですね、吉岡先生」
勤めている旭中学校の職員室。二年先輩の井上穂花先生が私の肩をトンと軽く叩く。3月15日。終業式も間近に迫ったこの時期の職員室は、自分たちが学生だった頃に味わった新学期前のそわそわした感覚を思い出させてくれる。今年の卒業生を受け持った井上先輩はひと仕事終えたという清々しい顔をしていた。
「そうですね。すごいプレッシャーです」
二年前に新卒で中学校教師になって、今年で三年目を迎える。旭中学は自分の母校でもあるため、比較的すっと職場に馴染むことができた。仕事の量はかなり多い方だけれど、昔から就きたかった職業だったため、日々やりがいを感じながら過ごしていた。
だが、来年度からは今までとはわけが違う。中学三年生担当。一年後、受験を控えた人間を受け持つことになるのだから。
正直言って、まったく自信がなかった。教師たるもの、子供の人生を左右するプレッシャーの多い仕事だということは理解していたが、いざ受験生を受け持つとなると、考えるだけで背中の汗がすうっと伝うのを感じた。
「大丈夫ですって! これまでだって頑張っていらっしゃったんだから。吉岡先生なら安心して任せられます」
井上先生は、後輩の私にも丁寧な態度で接してくれる。この学校に来てからずっと。先輩だからと言っていばったり強い口調で叱ったりしない。彼女のそういうところが、心底素敵だと思っていた。井上先生は、まさに憧れの女性。
机の上のホットティーに、レモンシロップをトクトクと注ぐ。職員室には砂糖とシロップ、ミルクしか置いてないから、レモンシロップは家から持参している。気持ちを落ち着かせたいとき、私はいつもホットティーにレモン。本当は生のレモンを使いたいところだが、職場ということもあり自重していた。
ふわりと、微かにレモンの香りが漂う。気づくか気づかないか程度のこのすっきりとした香り。カップを鼻に近づけると、湯気が当たってこそばゆかった。
25歳の私はいま、子供の頃に憧れていた大人の女性になれているのだろうか。
「長谷君」
「……」
「長谷翔君」
その人は、何度名前を呼んでも目を覚さない。机の上につっぷしてぐう、といびきまでかいている。三年生になったというのに、なんという態度だ。クスクスと、周りの女子たちが笑うのを視界の端に捉えながら、私は諦めて授業を進めた。
「先生、長谷君また寝てたね」
授業が終わると、去年から引き続き担任をしている子たちが教卓の前に集まってきた。三年二組。今日は自分のクラスで五限目、国語の授業。五限終わりの日なので、そのまま帰りのHRを行うのだ。
「本当に。みんなからも何か言ってあげて。三年生になったんだからって」
「それ、あいつには通用しないと思うけどなあ。だってさ、あたしらと違って進学しないだろうし」
その子、花野凛は「言うだけ無駄無駄」と手をひらひら振って答えた。タメ口で話してくるのは感心しないが、彼女はうちのクラスでは成績トップ。二年の時から学級委員長も任せていた。
ちなみに、件の問題児——長谷翔は初めて担任を受け持つことになった生徒。周りの先生から彼は勉強ができない、よく居眠りをする、と聞いてはいたが、4月から早速その姿を見られるなんてさすがに思ってなかった。自分が学生の頃、初めて習う先生の前では自然と背筋が伸びたのを覚えている。慣れてきたらだんだんと気を抜くことができた。
それなのに、彼といえば。
「昨日、眠れなかったんです」
私たちが自分のことを話題にしていると聞きつけたのか、彼は寝起きの目を擦りながら輪の中に入ってきた。ぬ、意外と積極的なやつだ。というか、自分のことを注意されているところにずけずけやってくるなんて、どんなメンタルの持ち主なんだ。
「また夜更かししてたからじゃん。どうせ、ゲームしてたんでしょ」
花野さんと仲の良い古田彩が長谷君に軽口を叩く。
「違うって。母さんが鬼のように課題を出してきたんだよ」
そういえば、長谷君のところは親御さんが教育熱心だと聞いた。お兄さんだかお姉さんだかどちらか忘れたが、上の子がかなり良い大学に進んだらしく、弟の長谷君にも期待を寄せているんだとか。
「うわ、出た出た。長谷んちの親、なんでこいつにそんな課題できると思ってんだろうね」
さすがにそこまで言うのは長谷君に失礼じゃないか……ということを古田さんに言われてもなお、長谷君は「だよなー」と特に気にするでもなく頷いていた。
初めて三年生を持つことになって、二週間。
想像していた“三年生”とは違い、今までどおり普通に過ごせそうだ。
緊張が続いていた数日間からようやく解き放たれ、ほっと胸を撫で下ろした。
***
「え……いま、なんて」
婚約者だった彼の訃報を聞いたのは、今からちょうど半年前、昨年10月15日のことだった。
会ったことのない彼の母親から着信があった。シャワーを浴び、眠りに就こうと準備をしていた時だ。発信者が彼——「唯人」になっていたから、当然のことのように彼が電話に出てくれると思っていた。
「もしもし、唯人?」
あくびをしながら電話に出たのを覚えている。教師の仕事で毎日とても疲れて帰っていた。それは今も変わらないのだけれど、その日は中間テストの頃で、余計に疲れが溜まっていた。
『……唯人の、彼女さんですか』
電話から聞こえてきたのは、知らない女の人の声。声質からして年配の人だったため、彼の母親だとすぐに察知した。
「こ、こんばんは。そうですけれど……お母さんですか?」
『はい、私は唯人の母親です。単刀直入に言いますが、唯人が亡くなりました……』
お母さんの声はまったく生気が感じられず、事の重大さを語っていた。
「え……いま、なんて」
すぐには事態が飲み込めない私は、詳細を聞くのに必死になった。唯人のお母さんは、唯人が川で溺れていた少年を助けるために自ら川に飛び込んだこと、少年を助けた代わりに死んでしまったことを、訥々(とつとつ)と話した。が、そのどれもが物語の世界の話に聞こえて、私はその時聞いたことのほとんどをその場で忘れてしまったように思う。
電話を切った後も、力がまったく入らなくてロボットのようにベッドに横たわった。
身体を沈めると、自分の魂もどこかへ連れて行かれるように感じた。
むしろ、このまま消えてしまいたい。
現実が、およそ現実とは思えない。
そのふわふわとした感覚は、彼が「少年の命を救った英雄」としてニュースで放送されても、彼の棺の前で手を合わせても、拭えなくて。
どこまでが現実でどこからが夢なのか、判然としないまま、今も教壇に立っている——。
***
「お疲れ、紬ちゃん」
4月17日。今日の授業が終わり、部活のある生徒は部活動へ、何もない生徒は帰ってゆく時間。職員室に戻ると、どっと疲れが押し寄せてきた。
「お疲れ様です」
この職員室で私のことを「紬ちゃん」と名前で呼ぶのはただ一人、天海瑠璃子先生しかいない。彼女は私の母親ほどの年齢のベテラン教師で、中学時代の恩師でもある。中学三年生の時、私は瑠璃子先生が担任をしていたクラスの生徒だった。教師になったのは、この瑠璃子先生に憧れたからと言っても過言ではないくらい、生徒想いの優しい先生だ。何の因果か、こうして今は同じ学校で教師をすることになっている。
「どう? 三年生の担任は」
「意外と普通だなって思ってます。三年になってもやる気のない生徒もいますしね」
「ふふ。そうでしょうね。紬ちゃんの時もそうだったわよ。まあ、あなたは真面目だったからあまり分からなかったかもしれないけれど」
瑠璃子先生が目を細めて昔のことを思い出していた。先生の言う通り、自分が中学生だった頃なんて、自分のことばかり考えて、周りなんか見えてなかった。将来の期待と不安でいっぱいで、今を過ごすのに精一杯。きっと今年の三年二組の生徒たちだって、あの頃の私と同じだろう。
「つくづく思うんですけれど、私、昔憧れてた先生みたいな人に、いつになったらなれるんだろうって、ちょっと不安になります」
自分でも不思議に思うのだが、瑠璃子先生の前では自然と弱音が出てしまう。
瑠璃子先生は、ふっと優しげに微笑み、私の肩に手を置いて言った。
「『檸檬』教えてた時のこと覚えてる?」
「『檸檬』……もちろんです」
先生が梶井基次郎の『檸檬』のことを言っているのだということはすぐに分かった。私は先生から聞いた『檸檬』の授業が大好きで、毎回その時間になるとどんなに眠くても頭が冴えて、先生の教えてくれる『檸檬』を心に刻んでいった。
「あの時、紬ちゃんの目がすごく活き活きしてて楽しそうだった。だから私も、担任をしていた紬ちゃんのクラスで授業をするのが楽しかったわ」
瑠璃子先生はいつも、私にひだまりみたいな温かな言葉をくれる。先生と話していれば、悩んでいたことがいつの間にかどこかへ行ってしまうのだ。中学の頃から、そんな先生が好きで、憧れだ。
***
婚約者だった唯人は、絵に描いたような優等生だった。母子家庭で大変なことが多かっただろうに、そんなことを感じさせないくらいに勉強も学校生活も一生懸命頑張っていた。生きている、という言葉があんなにしっくりくる人はいないんじゃないかと思うくらいに、彼の生き様は私を虜にした。
「紬はさ、俺にとって木陰なんだ。なーんか疲れたなって思うとき、紬のそばにいれば自然と心が休まる。絶対に必要なんだ。俺にとってはその木陰が」
唯人が口癖のように言うことは最初、褒め言葉なのかどうか分からなかった。私はもっと、彼にとって心のど真ん中にいると分かる言葉で褒めて欲しかった。けれど、彼と付き合ううちに、彼が「木陰」をどれほど欲していたのか理解した。母親と二人で過ごしてきた幼少期、小学生になってできた義理の父親と「家族」をやった数年間。どの時間も、彼は精一杯泳いでは何度も息継ぎをしなければ、普通でいられなかったのだと思う。親の前でも友達の前でも肩の力を抜けなかったのだろう。
だから私が、彼の「木陰」として、これからずっと支えていこうと心に誓ったのだ。
「また、サボりですか?」
あっという間に4月が去り、ゴールデンウィークが明けるともう中間テスト前。先生たちはテストの問題をつくるのに必死になる時期だが、生徒も同じ気持ちでいてくれるとは限らない。
昼休み前の4限目の授業だった。三年二組の教室で、ある生徒がいないことに気がつき、私は思わず声を上げる。長谷翔。また彼だ。彼は授業中に居眠りを繰り返したりサボったりが常習していた。どうして。中学三年生にもなって。いくら進学しないのだとしても、空気を読むでしょう、普通。
私が本当にサボりの理由を問いたい張本人は、ここにはいない。だから、生徒たちは私の怒りが早くおさまるのを待つしかない。
……無駄なことはやめよう。心の中だけでため息をつく。これ以上、他の生徒を巻き込むわけにはいかない。
「……授業を始めます」
私は、黒板に大きく『檸檬』と書いてその下に「梶井基次郎」と記した。今日から『檸檬』の単元が始まる。昔、瑠璃子先生が私にしてくれた話が、鮮明に頭に残っている。初めての三年生。初めての『檸檬』の授業。できれば、このクラスの全員に聞いて欲しかった。
私は、初めて檸檬をかじった瞬間を思い出す。あの超酸っぱかった味。やっぱり私は、甘いレモンパイがいいと、唯人に話した時、彼はぷっと笑いを堪えきれずに吹き出した。そりゃ、そうだろう。生のレモンなんて、魚にかけるか味付けでかけるかしかしちゃダメだよって笑いながら諭された。
授業が始まるところだというのに、余計なことばかりが頭に浮かぶのがもどかしかった。
授業が終わると昼休みにどっと疲れが襲ってきた。ご飯を食べる手が、いつもより遅い。井上先輩が「どうかしたの」と声をかけてくれたけれど、「なんでもないです」と答えるしかなかった。
翌朝、昨晩あまり眠れなくて、ぼーっとした頭を抱えながら学校へ向かった。
毎朝8時に出勤し、朝礼が始まる前に今日の時間割を確認する。授業は全部で4時間。5限目だけが空いていた。主要語科目の先生は毎日ほぼ全ての時間に授業が入っているが、時々空きコマがあるのが普通だった。とはいえ、その空き時間には予習をしたりテストの問題を作成したりと、やることは尽きないため、心はずっと忙しない。とくに私のような新参者は特急列車のような日々を送っている。
「えー、今月末には進路懇談会があります。すでにお知らせのプリントは配布済みです。三者面談ですので、各自担任をしている者は生徒と日程を確認しておいてください」
朝礼で、3年生の学年主任である江藤先生が懇談会のリマインドをしてくれた。そうだ。目先の中間テストのことに気を取られていたが、テストが終わるとすぐに3年生は進路懇談会なるものが開かれるのだ。私、自分が中学だった頃、すっごい嫌だったなあ。先生と母親と私。「先生と私」や「母と私」という構図には慣れているのだが、その三者が集合するとなると、なんとなくむずがゆい気分になる。先生とお母さんが話している間、机の下で膝をぎゅっとつねっていたのが懐かしい。
その時、私は「生徒」だった。しかし今回は、立場が全然違う。あの時はただ黙って先生と親が話をするのを聞いていれば良かったが、今度は私が話の流れをつくらなきゃいけない。ああ、気が重い……。
なんだか余計に頭が重たくなった気がして、朝礼が終わると私はいつものようにレモンティーを淹れた。ふう。やっぱり朝からこれを飲むと頭が冴える。これで今日も乗り切れますように。
その日、3年2組で授業がなかったので、帰りのHRで三者面談の話をしたが、生徒たちはほとんど興味がないようだった。それも、そうか。私だって子供の頃、面談よりも今日の放課後の時間に何をするか、夕ご飯は何かということにしか関心がなかった。目の前の行事を一つずつこなしていくことで精一杯なのだ。それにしか興味がないのがむしろ正常だろう。
心の中でため息をつきながら、挨拶をして放課となった。さ、これから職員室に戻って明日の準備をせねば、と思ったが、ふと視界の隅に長谷翔の姿が見えたので、声をかけることに。
「長谷君、今日は起きてた?」
「はい。あ、でもしんどかったっす」
彼は一見話しかけづらいオーラを放っているのだが、一度話してみると意外にもよく喋る。前髪が長いからか? 髪の毛で目が半分隠れているせいで根暗なイメージがついているのかもしれないが、実際は性格の明るい子だ。すらっとしていて肩幅もあるため、所属しているバスケ部ではレギュラーとまではいかないものの、かなり上手なのだと花野さんが教えてくれた。
「あーあ、また? ゲームもほどほどにしないと。勉強、ちゃんとついていけてる?」
「違いますって。昨日は好きな漫画の発売日だったから」
「いや、一緒の意味でしょう。というか、勉強は」
「……母親みたいなこと、言わないでくださいよ」
彼の口から出た「母親」という言葉に不覚にもドキリとしてしまう。どうしたんだろう。私今、彼のお母さんのような口調になっていたんだろうか。それとも、発言の内容が似ていたのだろうか。教育熱心なお母さんらしいから、きっとどっちもだろう。少なくとも、私はショックを受けた。
昔、瑠璃子先生が私の担任だった頃。私は先生の言葉に親とは違う不思議な力を感じていた。それはきっと、私だけではないはずだ。瑠璃子先生は勉強のしない子を決して嗜めたりはしなかった。「勉強をしなさい」だなんて、ありふれた言葉で私たちをがんじがらめにしない。彼女はいつも、「勉強がいちばん大事だなんて、先生は思わない。ただ、勉強ほど努力が報われると感じるものは、これから先そうないわよ」と静かに教えてくれていた。その言葉を聞いて、はっとしたのを覚えている。
勉強をしなさいだなんて、あの人は言わない。
でも、それ以上に効き目のある魔法の言葉で、生徒の背中をそっと押す。そういうところが憧れでもあったんだ。
「……ごめんなさいね」
ふと、気がつけば長谷君に向かって謝っている自分がいた。
「いや、べつにそこまで真剣に謝ってくれなくても!」
長谷君からしたらほんの冗談で言った言葉だったのだろう。それが私があまりに真面目に反省するものだから、彼だって戸惑ったに違いない。
「そっか。ねえ、今度少しゆっくり話せないかな。3年生だし、もし困ってることがあればその時にいろいろ話して欲しい」
実は前々から、彼とは話をしたかった。勉強のこと、部活のこと、進路のこと。どうしたら授業中眠らないで済むようになるのか。
「分かりました。明日の昼休みなら大丈夫だと思う」
意外だった。彼が素直に私の提案にのってくれるとは思ってもみなかったから。きっとまたゆるっとかわされるのだとうと思っていた。
でも、鼻の頭を掻きながら肯く彼を見ていると、もしかしたら彼の方も私に話したいことがあるのかもしれないと感じて。自惚れかもしれないけれど、ちょっと嬉しかった。
「ありがとう。じゃあ明日、どこか教室を借りておくから、よろしくね」
職員室に戻ると、いつもよりどこか騒々しい雰囲気で何があったのかと不思議に思った。
「あの、何かあったんでしょうか」
隣の席に座っている3年3組の織田先生に声をかけた。
「あー、なんかさっき保護者の方から電話があったみたいで。三者面談の存在を知らなかったんだと。だいぶお怒りだったみたいだ。なんでもっと何回も知らせてくれないのかーって。今も江藤先生が事情を説明していて」
「はあ」
織田先生から言われて気づいたが、学年主任の江藤先生が電話の前でペコペコと頭を下げながら普段よりも高い声のトーンで「大変申しわけございません」を繰り返していた。
時々、こんなふうに学校に苦情の電話を入れてくる保護者がいる。こちらに非がある場合は誠心誠意謝罪するのだが、今回のように、明らかにこちらのせいではない場合、対応の仕方はその都度変わってくる。
「それでバタバタしているんですね。ちなみに、どなたでしょうか」
私は、電話の主について何の気なしに尋ねた。
「えっと、確か、長谷さんだったかな」
「ええ、本当ですか!」
長谷という名前を聞いた私は思わず大きな声を上げてしまい、職員室にいる先生の視線が一気に集まるのを感じた。
「……すみません」
急に恥ずかしさがこみ上げて、身体を小さくした。
それにしても、なんということだ。私は、三者面談についてクラスで説明した時のことを必死に思い出す。一度だけではない。二度、三度と面談については伝えているし、お知らせの手紙だってきちんと渡した。長谷君にだって、ちゃんと手に渡っていることはこの目で確認したはずだった。
それなのに、長谷君の親御さんから苦情の電話が来るなんて。確かに、あの長谷君のことだ。他の子たち以上に、いっそう気をつけて個別に声をかけるべきだった。それを怠ったのは私。それならば、今電話で謝るべきなのは江藤先生ではなく、私じゃないか。
「あ、2組の生徒だっけ」
「そうです……。あの私、電話代わった方が良いですよね」
私よりも10年先輩の織田先生に、どうするべきかを聞いた。
きっと、いや間違いなく、ここにいる全員が、「早く吉岡先生が代わってよ」と心の中で思っている。もしも他の誰かのクラスの保護者からクレームが来たら、私だって同じことを思う。自分の尻拭いは自分でしないと。
「いや、やめた方がいいよ」
しかし予想していたものとは違い、織田先生は冷静な声色で動こうとする私を制止した。
「どうしてですか」
「だって、今吉岡先生が電話代っても、解決しないと思うよ。それに電話に出てきた相手が吉岡先生みたいな若い女の先生だと、足元見られかねないからさ。いや、変な意味じゃなくて。こういう時は、ベテラン教師に任せるのが一番さ」
クレーム処理に慣れているのか、織田先生は手をひらひらさせてそう答えたのだ。
そういうふうに、考えるんだ。
呆気にとられた私は、「いや」「でも」と再び食い下がろうとしたが、真面目な表情の彼を目にすると、出しゃばったことはしない方が良いのだと教えてくれているようだった。