「───八月朔日!」
その声にハッと顔を上げる。目の前には教室の扉があって、今にも衝突しそうな距離だった。ピタッと動きを止め、声がした方に視線を向けると、英語教師の木下先生が安堵のため息を吐いていた。
「何度も呼んだんだぞー。よかったな、顔面からぶつからなくて」
「すみません……」
「いや謝ることではないけども。どうした、今日はずっとぼーっとしてんぞ」
8月4日、補習4日目。英語は3限目に組まれていて、今日はもう帰るだけだ。どうやって学校に来たのかも、どう授業を乗り越えたのかも、どう帰り支度をしたのかも、何もかもがあいまいだ。昨日のことばかりが脳内をまわっていて、相馬くんに言われた言葉が離れない。
『俺は、男を好きになっちゃうんだ』
夏はすぐ終わってしまうからと言って補習をサボリ、『みずがめざ』でラムネとアイスを食べた。ぼんやりと空と街並みを眺めながら太陽に照らされていた時、唐突に言われたのだ。
そこから、私たちはどんな会話を交わしたのか。相馬くんの恋や過去の話はひとつも聞かないまま私たちは自転車を漕い帰路につき、家の近くの交差点で、「じゃあね」って最後にそれだけ言われた。
相馬くんは今日、学校には来なかった。昨日は一緒にサボっているので、2日連続で休んでいることになる。3限目の時間に合わせて学校に来て、隣の席が空いていて、どくんと心臓が鳴った。
私のせい、だろうか。たいして仲良くもない私に口を滑らせてしまったことが原因だとしたら、私は相馬くんになんて声をかけるのが正解なのだろう。
考えたら止まらなくなって、気づいたら今だった。
顔から衝突しなくてよかった。教室内には私と木下先生しかいなかったことも救いだ。
「相馬のことで、悩んでんのか」
どきり。唐突な質問に肩を揺らす。あまりにも直球で返す言葉に詰まってしまった。何も言わない私に、質問の答えを肯定だと捉えたのか、「そうかぁ」と感情の読み取れない声が落ちる。
相馬くんのことで悩んでいる。その悩みが指すものを、木下先生は知っているのだろうか。ふと、部屋に飾ってある木下先生の似顔絵を思い出す。美しかった。儚かった。頭の中で点と点が繋がっていく。
相馬くんの恋愛対象は同姓。木下先生がその事実を知っているとするならば───…
「俺の勝手な過保護だって分かってても、放っておけないんだよな。八月朔日とは仲良さげに話していたように見えたし、俺よりも年も近いから、もしかしたら何かお互いにとって良い方向に向かえばなと思っていたんだが…」
木下先生はやはり相馬くんの事情を何か知っているらしい。それってつまりどういうことですか。その意味を込めて数回目を瞬かせると、木下先生は「あぁ、いや」と言葉を続ける。
「個人情報もあるから詳しくは話せないんだが、相馬も相馬で家族の問題がな……」
何処まで話して良いのか考えているのだと思う。ごにょごにょと語尾を誤魔化され、深くは踏み込めなかった。家族のこと。私も、人には相談しがたい悩みがある。
「うん、でもなんとなくさ、八月朔日と相馬は、多分どこか似てると思うんだよ俺は」
それは褒め言葉か、否か。「あんまりぼーっとしすぎんなよ」それだけ言うと、木下先生は右手をひらひらさせて教室を出て行った。相馬くんが木下先生の似顔絵を描いていた理由も、『みずがめざ』に私を連れて言ってくれた理由も、私は何も知らないまま。相馬夏芽という人物にどこまで踏み込んでいいかもわからない。
似てるところって、どんなとこ?
抱えたモヤモヤが、また大きくなってしまった。