3
「久太郎君」
「どうしたの、葉山さん?」
「あのね、消しゴムのことなんだけど」
「あっ、そうだ。あの消しゴム、見つかったんだよ。ほらっ」
久太郎は楓にそれを見せると楓の目が潤み出した。
「あのね、その消しゴムね。私がとってなくしたの」
楓は正直に言った。
「ん? 消しゴム、ここにあるけど?」
「その、消しゴムがなくなったのは私がとったからなの。ごめんなさい」
「えっ? 葉山さんの言ってる意味がわかんない」
久太郎にとって楓の説明では要領を得てなくて状況を把握できない。ミミは助け舟を出す。
「あのね、久ちゃん、その消しゴムね、楓ちゃんに魔法を掛けたの」
「魔法?」
そう恋という魔法よとミミは心で呟く。
「だから楓ちゃんは魔が差してそれを持ってしまったの。楓ちゃんはすぐに返そうとしたのに、消しゴムが帰りたくなくて飛び出してどこかへいっちゃったの。その事を久ちゃんにずっと言えなかったの。でもずっと謝りたいって思っていたんだよ」
遠まわしに説明するが、ミミ本人も自分の言っていることに無理があるから苦しい。
「久太郎君、本当にごめん」
楓は涙ながらに謝ると、となりで美佐子も「ごめんなさい」と頭を下げていた。
「なんだかよくわからないけど、消しゴムは戻ってきたし、この消しゴムも外に出て楽しんで帰ってきたんだと思う。おばあちゃんが話してくれたんだけど、物 にも魂が宿って、持ち主を運命に導く力があるって言ってたんだ。きっとこの消しゴムもそうなんだと思う。だから気にしないで」
どこまでも久太郎の心は澄んで優しい。久太郎の祖母の言葉を聞く限り、いいおばあさんなのだろう。ミミまでも久太郎の言葉に心が温かくなった。
「久太郎君……ありがとう」
楓の目に溜まった涙がこぼれていく。でも気持ちはすっきりしてほっとした涙だった。
楓は正直に言った。解釈の仕方が違っても久太郎はそれを受けいれた。これで楓の問題は解決したのだ。
「楓ちゃん、よかったね」
ミミもほっとする。
「よぉ、久太郎」
ロクが現れた。
「ロク兄ちゃん、ほらこれ見て」
消しゴムを見せる久太郎。
「もしかしてこれって、なくしたっていう消しゴム?」
「そうだよ。お父さんが門の近くで見つけたんだ」
「お父さん? その人今どこ?」
ロクは詳しい話を聞きたいと辺りを見回す。
「仕事があるからもう帰っちゃった。僕もそろそろ帰らないと。早く帰るってお父さんと約束したし。それじゃ、葉山さん、また明日ね。ミミ姉ちゃんもロク兄ちゃんもまたね」
最後に美佐子と目を合わし軽く頭を下げる久太郎。
そこにいたものはみんな、去っていく後姿を見ていた。
「あの、逸見さん、ミミさん、色々とお世話になりました」
美佐子が改めて礼を言う。
「一体、どうなってんだ?」
ロクはまだ把握しきれてない。
「あとで説明するから」
ミミは肘鉄をつく。
楓と美佐子はお礼を言うと、すっきりとした顔をして帰っていった。
ミミはふたりを見送った後、手短に経緯をロクに話すと、ロクは腑に落ちないと顔を歪ませた。
「楓ちゃんが謝れたからこれは一件落着。それで、ロクは先生と何を話していたの?」
「久太郎の消しゴムのことに決まってるだろ。先生が用意したのかってことを確認したけど、何も知らなかったそうだ。それで放課後このクラスに入った大人がいなかったか確かめてたんだ。先生の知ってる限りでは不審な事は何もなかったらしい」
「そっか、大量の消しゴムは誰が用意したかはわからないままか」
「それで、その久太郎の父親って刑事って本当か?」
ロクがいうと、「刑事?」と後ろで瀬戸の反応する声が聞こえた。
その隣で、祥司がボソッといった。
「久ちゃんのお父さんでしょ」
「なんや、お前の友達の親はデカなんか」
瀬戸が聞き返すと、祥司は不機嫌に「うん」と首を振った。
「祥ちゃん、もしかして、どこか具合が悪いの。授業でもなんかいつもと違った雰囲気だったよ」
ミミがいうと、祥司ははっきりしない表情で首を横に振る。それが嘘なのが誰の目にも映った。
「もう、祥司、そんなに怒らんでも。ママも大変やねんって。その代わり、逸見さんとミミさんが来てくれたやんか。いつまでもそんな暗い顔してたらあかんで」
「そんなんじゃないもん」
祥司は走っていってしまう。
「祥司、廊下走ったらあかんやん。もう、しゃーない子やで」
「祥ちゃん、お母さんによほど来てほしかったんでしょうね。瀬戸さんと並んで参観日に来ているところを見たかったんですよ」
ミミは察して、祥司をかばった。
「そうだとしても、あんなに暗いあの子を見るのは初めてですわ。いや、待てよ、一回あったかな、そういえば、その時あのメモを書いたときかもしれません わ。急に黙り込んで元気なくなりよったんですわ。あの時もそういえば、ママが海外に出張に行くと決まったときでしたわ。あいつマザコンやったんですな」
「確か、お母さんはお疲れみたいって言ってましたね」
ミミが言った。
「そうですわ。あの子なりに母親のこと心配してたんですな。本当なら俺が働いて母親が家にいる方がええんですけど、俺の方が家事するのうまいとかいうて、外で働かせてもらえへんのですわ」
それぞれの家庭の事情もあるだろうと思いながら、ミミは聞いていた。
その時、ロクの表情は硬く考え事をしている様子だった。
4
ロクとミミが瀬戸たちと別れて家路についたのは午後四時を回ったところだった。
「さっきから黙り込んでいるけど、まだ消しゴムの謎について考えているの?」
ミミが訊いた。
「色々と気になる事があるんだけど、ちょっと今から出かけてくる」
「ええ、どこに行くの? 調査なら私も一緒に行くのに」
「ミミは先に帰っていてくれ。よかったら夕飯作って待っていてくれないか?」
「えっ、夕飯? いいよ。何が食べたい?」
「ミミに任せる」
「わかった」
ミミが承諾すると、ロクは来た道を戻っていった。
料理を作ってくれといわれると、ミミは断然やる気に燃える。ロクが喜ぶような料理を作ってみたい。ついでにデザートも作れば完璧だ。何を作ればいいかミミは考えながら歩いていた。
大通りからひとつ中に入った街並みは、個人の店とマンションの建物と住宅が密集している。看板や幟、至る所の自動販売機が飾りとなってごちゃごちゃして いた。そんなに広くない道を自動車が不定期に通っていく。自転車もすれ違い、それらが重なると一気に道が混み合う。その重なる瞬間を避けようとミミが道の 端に寄って前後の様子を見ているとふと違和感を覚えた。
ミミの後ろで男性が不自然に身を隠したように見えたからだった。その時は偶然かもしれないと自信がなかったが、自動販売機の前に立ち、商品を選んでいるふりをして後方をもう一度ちらりと見れば、先ほどの男性が不自然にミミの視界から消えるように建物の陰に近づいた。
――付けられている。
そう思ったとき、黒い車がすっと走ってきてミミの横で止まった。
見た事がある車だと思ったその時、後部座席のドアが開いた。出てくるのかと思えば、乗っていた人が奥へと詰める。
怖くなって逃げようと思ったときは、先ほど後ろをつけていた男がすでにミミの側にいて、ぐっと腕を掴んだかと思うと、車の中へと無理やり押し込んだ。
突然のことに驚きすぎてミミは声が出せずに、気がついたら両隣の男たちに挟まれてシートに座っていた。
車はすぐに発車し、ミミはつれていかれてしまった。
「ああー!」
やっと事態の深刻さに気がついたミミは悲鳴を上げるも、すぐに男に口を塞がれてしまった。
「むむむっむ、ぐぐむぐぐぐ(ちょっと何するのよ)」
「白石さん、お静かに、悪いようにはしません。ちょっと一緒に来て下さい」
運転手の隣にいた濃い顔の男性が声を掛けた。
――白石?
ミミの耳には確かにそう聞こえた。
「むむむっむ、むむむむむぐ!(ちょっと、白石じゃないわよ!)」
「おい、うるさいから、薬でも嗅がしておけ」
後部座席のもうひとりの男が、ごそごそと何かをポケットから出しそれを布にかけてミミの口を塞いだ。
ミミは恐怖に慄いて暴れたが息を吸い込めば、なにやらいい匂い。
「ん?」
一瞬肩の力が抜けた。不思議に思って口を塞いでいる男を見れば目で何かを訴えるような仕草をした。この男は自分の味方だ。直感で感じる。
何かの意図があると悟ったミミは、目を閉じて頭をガクッとさせた。眠ったふりだ。
――でもこれ、バニラエッセンスだよね。ああ、いい香り。
ミミは暫く様子を見ることにした。
「おい、なんか甘ったるい匂いがしないか?」
「今、ケーキ屋かパン屋の側通りました」
「そうか。なんか腹減ってくるな」
「お前ら、後ろでごちゃごちゃ言うんじゃない。遊びじゃないんだぞ、分かってんのか」
「へい、すいやせん、兄貴」
ミミは何が起こっているのか、それを探ろうと男たちの会話を注意深く聞いていた。
5
ミミと離れた後、ロクはスマホを取り出し電話を掛けた。それはすぐに繋がった。
「もしもし、笹田さんですか? 逸見です。そちら変わりありませんか?」
――はい、今、瀬戸とその子供が家に入って行ったところです。それ以外は何も変わりありません。
「瀬戸さんが何か気づいた様子はどうでしょう?」
――見る限りは何も変化ない感じですね。
「でも、息子の祥司君が何か感づいている様子です。今日、学校でかなり元気がなく、あきらかに母親を心配していました。以前も母親の海外出張が決まった時も落ち込んだそうです」
ロクはあのメモの事を思い出していた。あれは継父と思っていたときの瀬戸の事で抱いた気持ちではなかった。あの時はそのメモを書いた動機は瀬戸に対する嫌がらせと、本人に追及することなくその場にいたものがそう思いこんでしまった。
『全てが意地悪じゃない。メモを書いたときも本当に助けてって気分だったんだ』
あの後瀬戸が本当の父親と説明したことで、この件はうやむやになってしまったが、あの時助けてと思った気持ちは母親に関することに違いない。
母親は出張から帰ってきてずっと疲れた様子でいたこと。参観日に父親と一緒に来てと昨晩、いや、今朝まで母親に言い続けてねばっていたに違いない。
だが、母親は仕事が忙しいといってこなかった。参観日に父親と一緒に来られないのはがっかりするかもしれないが、ロクもミミもお願いされて行ったのにあそこまで落ち込むのはおかしい。ロクは違和感を抱いていた。
もしかしたら、祥司は何か知っているのではないだろうか。
「笹田さん、俺、今から瀬戸さんのところに行って祥司君と会ってきます」
――しかし、瀬戸に知られたら事態はかなりややこしくなります。
「事態はすでにややこしくなってます。白石さんもこの件に巻き込まれてしまったんです。白石さんだって、今危ない状態じゃないんですか?」
――それは大丈夫です。他の刑事が警護に当たってます。それに今日は夜勤でずっと病院にいます。
「とにかく、瀬戸さんの目を盗んで祥司君とだけ話せるようにもっていきます。俺もそっちにいきますので」
――わかりました。今は逸見さんの協力なしではありえません。私がへまをしたばかりに、逸見さんにも迷惑を掛けてしまいました。すみません。
「いえ、俺も探偵の端くれ、警察の力になれるのなら本望です」
――逸見さんを見ていると、うちの署の伝説の話を思い出します。
「伝説?」
――昔、事件の解決に大いに貢献した探偵がいたらしいんです。確か名前は斉須ヒフミだったかな。
「セイスヒフミ?」
聞いた事があるような気がすると、ロクは繰り返した。
――その探偵が関わると、事件が次々に解決したそうです。
「今は、その探偵はどこにいるんですか?」
――私もそこまでは詳しくないんですけど、すでにお年で引退されてるそうです。
「そんなすごい人なら俺も是非会ってみたいな……あっ、そろそろ、そちらに着きます」
――こちらも窓から見えました。それでは何かありましたらすぐご連絡下さい。ここから見張っております。
「了解」
ロクは通話を切り、アパートの二階の窓を見つめた。その下の階は中井戸の部屋だ。電気がついていないところを見ると留守らしい。
ロクはぐっと気持ちを引き締める。
今を思えば、織香が持ってきたあの手紙から全てが始まっている。笹田は刑事だ。あの家に入り込んだのは捜査の一環だった。
捜査令状を持っていたが、織香にも危険があり、それを本人に知らせればもっと危険に晒されるために、ああするしかなかったと、ロクが笹田を捕まえた時に言っていた。
ミミが久太郎を家に帰そうと外に出た間に、笹田はロクにその目的を説明した。
笹田聖と名乗っているがそれはあの家の持ち主の息子のふりをしているからだ。本当は山下努という。白石に本当の事を話せないためにそのまま齟齬のないようにロクは笹田と呼んでいる。
当の本人の笹田聖はすでに捕まって今は警察で拘留中だ。
笹田夫妻は海外に住んで薬物や違法なものを日本に輸出する役目を担っている。それを息子の笹田聖が経営する会社名義で偽装して受け取り、その道のものたちにさばいていた。
織香はこの件については全く無関係でただ家を貸りている存在に過ぎないが、もし笹田が組織を裏切り不利益な事をしたときは危害を加えて笹田に擦り付けると脅していた。そのため織香にも警察の警護が入っていた。
山下が家に入り込んだのは本人の笹田が実家にも不法なものが置いてあると供述し、それを押収することだった。
最初はこっそりと忍び込み、押入れに身を潜め、織香が家を出たとき探りをいれた。だがすぐには見つからず、暫く潜伏することにした。押入れから天井裏に続く入り口を見つけ、そこが隠れるのに適していた。
長居をするつもりはなかったそうだが、捜査に手惑いどうしようかと油断をしているときに、ロクが入り込んだというわけだった。
ロクは全てを知った上で、山下に協力することにした。織香に危険があるのなら身近にいた方がいいということで笹田夫妻の息子のふりをして一緒に暮らす方向へ持っていった。
そうすれば堂々と家にいられ、織香のいない時に捜査ができるということだった。
唯一事情を知るロクは山下にとって心強い味方だった。探偵ということもあり、頼りにもなった。 時々ロクはミミの知らないところで山下の力になっていた。
ロクは今、瀬戸の家の前にいる。笹田夫妻の仕事が滞ったことで、組織は次のターゲットに瀬戸の内縁の妻である比井あかりに目をつけた。その情報が山下に入り、そこで中井戸が住んでいるアパートの二階を借りて、確かな証拠をつかもうと様子を探っている最中なのだ。
その情報が嘘であってほしいとロクは願うも、祥司の行動が違和感に変わり、あかりと組織に接点があると睨んでいる。
手遅れにならないうちになんとしてでも瀬戸とその家族を助けたい。その意気込みで、インターホンを押した。
――あかりか?
「いえ、逸見です」
――逸見さん? はい、今行きます。
玄関のドアがすぐに開いた。花柄のエプロンをしている瀬戸の姿が現れた。
「どうも突然すみません」
ロクは頭を下げた。
「どないしたんですか? あれ、ミミさんは?」
「いえ、俺、ひとりなんです。ちょっと祥司君に訊きたい事があって」
「うちの祥司、何か悪いことしたんですか?」
「いえいえ、違うんです。あの、消しゴムのことについてもう少し当事の事を詳しく訊きたくて」
「ああ、あの不思議な話ですな。さあ、中へ入ってくださいな」
なんとか取り付く事ができた。
「もしかして、お料理中?」
「そうなんです。落ち込んでるときは祥司の好きなハンバーグでも作ろうと思いまして。よかったら逸見さんもどうです?」
「いえ、あの、ミミが今夕飯作ってるんです」
「ああ、そうですか。おふたりさんも仲がよろしいですな。ミミさん、かわいらしいし、ええ子じゃないですか。それで結婚はいつ?」
「えっ!? そ、そこまでは」
「なんですか、一緒に住んではるんでしょ。だったら早く式を挙げといたほうがいいですよ。うちは、事情があってまだ挙げてませんけど、やっぱり若いときに形だけでもウエディングドレス着せてやりたかったなって今になって後悔です」
「でも、今からでもいいじゃないですか」
「まあ、そのうち結婚式は挙げてもいいかなとは思ってるんです。だけど、足を洗ってカタギになったとはいえ、まだまだ一筋縄ではいかん状態でしてね。どこ で、昔の敵と出くわして何をしでかすかわからんのですわ。それでこのまま籍も入れず、事実婚のままでいいかと思ってるんですけど。祥司が父親と認めてくれ たらそれで俺も満足ですわ。いや、俺のことはどうでもいいんですけど、経験上、逸見さんタイミングは逃さんといて下さいね。好きだと思ったら勢いも大切 でっせ」
「は、はい」
アドバイスを受ける立場になってしまった。
「そうや、祥司でしたな。今、部屋にいてゲームしてますんやけど、下りてくるようにいいますわ」
「いえ、俺が直接部屋に行ってみます。ちょっとしたことを訊くだけなので、すぐに帰りますので」
「そうですか。そんなら、その階段上がったすぐの部屋です」
「すいません、お忙しいところ、お邪魔して」
「遠慮しゃんといて下さい。俺、あまり友達おりまへんやろ。こうやって逸見さんやミミさんと仲良くできて嬉しいんですわ」
瀬戸の笑顔が素敵だった。なんとしてもこの笑顔を守りたいとロクは思う。
瀬戸がキッチンで料理をしている間、ロクは階段を上り、祥司の部屋に向かった。
ドアを軽くノックし、少しだけ開けた。
「祥司君、入るよ」
隙間から覗いた祥司はベッドの上でうつぶせになってゲーム機を操っていた。ロクが姿を見せると、体を起こしベッドの淵に座った。
ロクは階段を見て瀬戸がいない事を確かめてから、部屋の中に入っていく。
祥司が怖がるといけないので、ドアは閉めなかった。
祥司が虚ろげな目でロクを見つめる。
「祥司君、これから訊く事はふたりだけの話にしてほしいんだ」
「うん、いいけど、何?」
「祥司君が今心配していることなんだ。それはお母さんのことじゃないかな」
「えっ、ど、どうして」
「祥司君はお母さんが仕事で困っている原因を知っていて、それが大変なことだってわかってるんじゃないのかい?」
ロクの質問は祥司を動揺させた。図星だ。
「俺がお母さんを助けてあげる」
「お兄ちゃん、ほんと? 本当にママを助けてくれる?」
「約束する」
「あのね、ママね、悪い人に脅されてるかもしれない」
ロクの思った通りだった。
「ある日、ママに電話が掛かってきて、その後、ちょっとコンビニ行くって言って出て行ったの。僕は何か買ってもらえるかなと思ってこっそり後をつけたら、 ママ、変な男の人たちと会っていて何かを話してたの。心配で、ママの元に行ったら、その人達、近くに止めてあった車に乗ってすぐどこかに行ったの。何の話 してたのってきいたら、仕事の話だから心配するなって、お父さんにも心配かけちゃだめだから変なこといっちゃだめだよって。そしたらその後、海外に出張が 決まって僕なんだか嫌な予感がしたんだ」
祥司の勘が働いたのだろう。それだけ異様な雰囲気を感じたに違いない。
「たまに黒猫がこの辺歩いていたんだ。その事を久ちゃんに言ったことがあるんだけど、そしたら魔女に変えられた黒猫かもしれないとかいって、その魔女が白 石のお姉ちゃんだとか教えてくれて、だったらメモをお姉ちゃんのところに咥えてもってもらってこっそりと魔法で助けてくれないかなって思ったんだ。でも届 かなかったみたいで連絡がなくて、それでお姉ちゃんに直接会って話そうと思ったの。仮病つかっちゃったけど、そしたらお兄ちゃんたちが来て邪魔したよね」
話がどんどん繋がってくる。
「ごめん。だから、今、助けにきたんだよ」
「ママ、出張から帰ってきて、ものすごく疲れてるんだ。きっと嫌な仕事してきたんだと思う。僕、そんなママを見るのが辛くて。きっとまたあいつらが来てママを脅すんだ」
脅す――。
輸入業に携わるあかりは組織には都合がいい。そして何より弱みがあり、それが瀬戸だ。瀬戸を守るためにあかりは犯罪の手伝いをせざるを得なくなった。一度手伝えばこの先ずっと脅され続けてしまう。
「大丈夫だよ。お母さんを脅すような奴らは俺がやっつけてやる」
とにかく、祥司の話で裏が取れた。あとは山下に連絡すればいいだけだ。
ロクは祥司としっかり約束をし、そして階段を下りていく。その時その先の玄関のドアが開いて、あかりが帰ってきた。
「あら、お客さん?」
「あ、どうも、お邪魔してます」
小学生の息子がいると思えないくらいあかりは若く、茶髪と赤いネイルが派手に見える。ロクはあかりを目の前にして恐縮していた。
「お帰り、あかり」
瀬戸がフライ返しを持って出迎える。
「この方は?」
「ほら、話したやろ、探偵の逸見さんや。この方のお陰で、カミングアウト上手いこといったんや」
「ああ、この人が。どうもその節はお世話になりました」
「いえ、特別に何もしてないんですけど」
どう答えていいかわからないロク。
「なんやあかり、ちょっと顔赤いで。飲んできたんか」
「仕事の付き合いで、ちょっとだけ」
「んもう、疲れてるんやから、内臓に負担掛けるアルコールはあかんで」
「ええやん、和君、ちょっとくらい。飲まなやってられないこともあるの」
あかりは靴を脱いで家に上がる時にふらついた。
「おいおい、結構飲んできたんとちゃうんか。ほんましゃーないな」
瀬戸は片手で支える。
祥司が階段を下りて、母の姿を見てショックを受けていた。
「ああ、祥ちゃん、今日は参観日いけなくてごめんね」
瀬戸の肩越しにあかりは祥司と向き合った。
「ママ、ママ」
祥司は心配でとうとう泣き出した。
「おいおい、祥司、何も泣かんでええやん」
瀬戸はあかりと祥司の世話におろおろしていた。
「祥司君、大丈夫。ママはちょっと休んだら元気になるから」
ロクは祥司をしっかりと見つめた。
「うん、そうだよね。大丈夫だよね」
祥司は涙を拭いあかりの側に行って、瀬戸の代わりに体を支えようとする。
「祥ちゃん、手伝ってくれるの。ありがとう。和ちゃん、水もってきて」
祥司に支えられ、あかりは居間へと連れて行かれた。
「逸見さん、なんか恥ずかしいところ見せて、すいませんな」
「いえいえ、それよりも早く水を持って行って下さい。俺はこれで失礼しますので」
「今度またゆっくりミミさんと遊びに来てくださいね。ミミさんにその時は一緒にお菓子作りましょうって言っておいて下さい」
「ありがとうございます。ミミも喜ぶと思います」
「あっ、そうや、これどうぞ」
瀬戸は、エプロンのポケットから写真を取り出した。桜の木の前でロクとミミが並んで写っているものだ。
「ミミさん早く見たいやろうと思って、さっきコンピューターでプリントしたんですわ」
「ありがとうございます」
「和君、水」
あかりが呼んでいた。
「今もって行くって。ほんましゃーないねんから。それじゃ逸見さん、気つけて帰ってな」
瀬戸は申し訳ない顔をしてキッチンに戻る。
ロクは靴を履いて、そっとドアを開けて去っていった。門の外へ出たとき、一度振り返った。色々な事情があるかもしれないが、瀬戸はとてもいい夫でありいい父親だとロクは思った。なんとしでてもそれを壊してはならない。
スマホを取り出し、山下に電話を掛けようとしたその時、夕方の日が暮れかけたぼんやりとした暗さの中でスーツを着た男が現れた。
6
「逸見……さんですね」
「あなたは?」
「久太郎の父の宇野海禄と申します。山下にはそのままここを見張るように指示を出しました。あとは任せて下さい」
海禄はアパートの方に視線を向けた。ロクもその方向を見れば、窓のところで手を振る仕草がちらりと見えた。
「山下……あっ、笹田さんのことか。そうか、あなたも刑事さんなんですね。あの、ちょっと話したい事が」
「私もです。よろしければ、私の車に乗ってお話しませんか」
前方に白いセダンが停まっていた。ロクは助手席に乗車した。
海禄はエンジンを掛け、車を走らせた。前を見つめる表情が緊張している。その隣でロクは瀬戸の妻の脅しについて、海禄に報告する。
「瀬戸の妻のことはこちらでも把握しましたので、後は上手くいくはずです」
「本当ですか?」
「はい。彼女はとても賢い人です。すでに警察に相談し脅しにも屈服しませんでした」
「でも、かなり疲れて大変そうですけど」
「全てが終わるまでは安心できないのでしょう。そのうちいい知らせが届いて元気になられるはずです」
「ということは、上手く事が運んでいるのですね」
「そういうことです」
それを聞いてロクは肩の力が抜けてほっと自然に息をついた。
暫く会話が途絶えたあと、海禄は話題を変えた。
「久太郎が逸見さんをとても気に入ってまして、家でも話をしてくれるんです」
「久太郎……君、とてもいい子ですよね。素直で心が真っ直ぐで澄んでいて、本当に優しい。きっとお父さん、お母さんの育て方がいいんですね」
「そうでしょうか。私はまだ父と言う実感がわきません。もうすぐ一歳になる娘もいるというのに」
「娘さんもいらっしゃるんですね。きっと久太郎君のように素晴らしいお子さんに成長されることでしょう。お仕事忙しいと思いますけど、子供ってしっかりと親を見ているんじゃないでしょうか」
「本当にそう思いますか? もし逸見さんにお子さんがいたらどう接するんでしょうか」
「そうですね、俺はまだまだそういう結婚とか子供とかピンとこないんですけど、でももし自分が親になったら、それなりに努力しているんじゃないでしょうか」
ロクは谷原忠義の犬の死から息子を守ってきた話や瀬戸のわざと継父から始めた子育てのことを振り返り、父親としてのあり方を少なくとも学んだと思っていた。
「もし自由に子供と会えないとしたらどうでしょう。子供は寂しい思いをしていると思いませんか?」
「宇野さんは刑事でしょうから、急なこともあって大変だとお察しします。だけど、会えた時は会えなかったときの分まで、俺は思いっきり子供と遊んでやりたいです。できる限りの事をやるしかないんでしょうね」
「子供がそれに不服を抱いて父親と向き合えないと思ったらどうでしょう」
「そうですね、いずれ時が経ち、自分が親になったときに考え方が変わるかもしれません。子育てって、口で言うほど簡単じゃないですよね。父親にも事情がありそれを全部子供に話せなくて、いつか何らかの形で伝わる事があるかもしれません」
それが谷原忠義のケースだったとロクはしみじみ思う。
「そうですね。時が経ちなんらかの形で父を理解する……そういうことあるかもしれませんね。すみません、変なこと色々とお伺いして」
「いえ、全然そんなことないです」
「折角ですので、ご自宅までお送りします」
海禄はスピードを上げた。
「場所をご存知なんですか?」
「色々と逸見さんの事は職業上調べさせて頂きました」
「そ、そうですか」
急に居心地悪くなるロク。
「ご安心下さい。何も犯罪者としてではなく、山下のことで色々とお世話になりましたので、どういった方なのかと、ただの好奇心です」
「それでどういう事がわかりましたか?」
「探偵業を無理やりさせられたってことでしょうか」
「無理やりというほどでも。いい条件だったのでつい。本当は探偵業が務まるほどの能力なんてないに等しいんですけど」
ロクはつい白状してしまう。
「逸見さんは、斉須ヒフミをご存知ですか?」
「その名前、笹田さん――いえ、山下さんから聞きました。以前もどこかで聞いたことがあった気がするんです」
「かつて名探偵といわれ、警察署内でも伝説になっています。その探偵が活躍していた頃、私はまだ子供でした。次々と事件を解決していく話を聞き、いつしか 自分もそんな探偵になりたいと憧れたものです。高校生になって、斉須と話したとき、自分は全く能力のない探偵だと言った言葉が印象的でした。たくさん事件 を解決しているのになぜ能力がないといったのか、長年の疑問です」
海禄が言った後、ロクは暫く考え、そして口を開いた。
「助手が『事が上手く起こるように歯車が噛み合う』と以前言ってたんです。俺がそこにいるから物事が導かれていく。そうすると不思議と偶然の重なりが発生 して解決へ向かうんだそうです。俺もかろうじて謎を解いたんですけど、結局は関わった人達の意識の集合体が形になって解けただけのようがします。決して自 分ひとりの力じゃないと、その探偵はそんなことを言いたかったのかもしれません」
ロクの意見を聞いて、海禄はふっと息を漏らして微笑んだ。
「逸見さん、お会いできて本当によかった」
車はマンションの近くまで来ていた。
「もし、まだお時間ありましたら、コーヒーでもいかがです? ミミに、あっ、助手の名前なんですけど、山下さんが刑事ということをずっと黙ってたんですけどそろそろ報告しないといけなくて、宇野さんが一緒にいてくれると、解決に向かっていると説明しやすいんですが」
「わかりました。そしたら少しだけお邪魔します。
海禄があっさりと承諾してくれて、ロクはほっとした。
車を道路の脇に止め、そこから歩いてあたり障りのない会話をしながらマンションのゲートに向かう。そして自分の部屋のドアの前に来たとき、鍵を取り出して開錠する。レバーハンドルを押し下げドアを開け、ロクは部屋の暗さに驚いた。
「あれ? 真っ暗だ。ミミ? いるのか?」
すぐさま電気をつけ、ミミを探す。
海禄は玄関先でその様子を心配しながら見ていた。
「何か、問題ですか?」
「おかしい。ミミがいない」
「買い物で遅くなっているんじゃないですか? 電話をすれば居場所はすぐに……」
「それが、ミミはスマホを持ってないんです」
その時、スマホの電話のベルがなった。
ロクと海禄はそれに反応してスマホを取り出す。
「あっ、私でした。山下からです」
海禄が通話を始めた。
「もしもし、ああ、今、逸見さん宅だ。えっ、なんだって。白石さんが? すぐに病院へ確認してくれ」
海禄は電話を切った。
「白石さんがどうしたんですか?」
「本当の笹田のメールアドレスにメッセージが入ったそうです。それによると、白石さんを拘束した。危害を加えてほしくなければ、早くブツを渡し、仕事を再開しろとの内容だったそうです」
「そんな、警護しているんじゃなかったんですか」
「そのはずです。誘拐が起これば現行犯で即逮捕は確実です。笹田が逮捕された情報はやつらには漏らしてません。ただ連絡が取れない、逃げたと思わせていました」
「じゃあ、なぜ」
その時、また海禄のスマホに電話が掛かってきた。
「もしもし、ああ、そうか。わかった。また後で連絡する」
「なんて?」
「今、病院で張り込みの連中に確認を取りましたら、白石さんは忙しく病院で働いているとのことでした」
「それじゃ、ただのはったりでしょうか?」
「はったりなんて、そんな事するような奴らじゃないんですが」
「じゃあ、一体誰を拘束したと……」
ロクがそこまでいったとき、ありえないと否定しながらも、嫌な予感がよぎった。部屋の隅々を見渡し、ミミの部屋のドアを開けた。
それはすんなりと開いたが、中には誰もいなかった。
「こんなこと馬鹿げていると思うんですが、まさか、白石さんと間違われて助手のミミが拘束されたということは考えられないでしょうか? 白石さんとは接点もあって勘違いも考えられるかも」
「すぐ、確認とります。確か、今日学校でお会いしたとき、白いドレスを着てらっしゃいましたね。そのままの服装ですか?」
「はい、そうです。あっ、写真があります」
瀬戸から貰った写真をシャツのポケットから取り出し見せた。
海禄はそれをスマホに写した。スマホを操作しながらロクに質問する。
「ミミさんと別れたのは何時ごろですか?」
「四時過ぎだったと思います。コウシラン通りで別れました」
「香子蘭通り、四時過ぎですね。この辺りの監視カメラを調べさせます」
海禄はメールを送った後、すぐに電話を掛けて署のものと話し始めた。
それを側で聞きながら、ロクは動揺する。もし、ミミに何かあったらと考えると、気が気でならない。キッチンを見つめ、文句を言い合った姿、お菓子を作っている姿、初めてラテを飲んだときのハッとした時の顔などが色々と頭に浮かぶ。
暫くしたのち、海禄は悲痛な表情をロクに向けた。
「監視カメラに、白いドレスの女性が車に乗り込む画像が見つかりました。時刻も四時を過ぎた頃と一致しています」
「嘘だろ。どうして」
「逸見さん落ち着いて下さい。今、周辺の監視カメラから行方を調べてます。すぐ居場所が分かるはずです」
その時、ロクのスマホにメール受信の音が鳴った。ロクはすぐそれをチェックする。全く知らないアドレスからだった。それを開いた時ロクは困惑した。
「なんだこれ。『すぐさま南埠頭の倉庫へ行け。斉須ヒフミ』……なんで俺のメールアドレスを」
「斉須ヒフミからのメールなんですね。それはきっとミミさんがそこにいると知らせているに違いありません」
「しかし、なぜ俺のメールアドレスを」
「そんなことは後回しです。とにかくそこへ。こちらからも応援を要請します」
海禄の行動は早かった。体がすぐに反応する。それとは対照的にロクは何をどう動いていいのか固まっている。いろんなことが頭の中でぐるぐるするのに、ロクはそれを整理できない。取り乱し、体の自由が利かずただ突っ立っていた。
「逸見さん、何をしているんですか。早く!」
海禄の声でハッとし、スイッチが入ったように叫んだ。
「ミミ!」
ロクは海禄の後を追いかけた。
7
夕日が沈む準備に入った頃、雲は黄金色の輝きを見せ、空の青がどんどん濃くなって紫を帯びてくる。辺りがだんだんと暗くなる頃、ミミを乗せた車は海に面した倉庫の中へと入って行った。
目を瞑って寝たふりをしていたミミはいつ起きていいものかそのタイミングを計っていた。
車のドアが開く。体を持ち上げられ、足が引っ張られる感触に不快を感じながら、バニラエッセンスを嗅がした男に身を任せる。
倉庫の冷たい床に体が横たわり、できるだけぐたっとしていると、紐で手足を縛られた。
「お前らここで見張ってろ。おい、行くぞ」
ボスらしき男と、多分運転手がそこを離れた。「バタン」と言うドアが閉まる音がしたあとエンジンがかかり、次第にそれはフェードアウトしていった。
「ヒコ、お前さ、腹減ったとか行ってたよな。なんか買ってきていいぞ」
「そうか、この辺、店あるかな」
「コンビニくらいあるんじゃないか。ついでに俺にもなんか買ってきてくれないか」
「ゴローは何が食べたい?」
「適当にあるもんでいいよ。俺の好み知ってるだろ」
「まあな、お前、男の癖に甘いもん好きだからな」
ミミの後をつけて車に押し込んだのがヒコ、バニラエッセンスを嗅がせたのがゴローだとミミは認識する。
ヒコが遠ざかったのか、ゴローが声を掛けた。
「もう起きても大丈夫っすよ」
ミミは目を開けた。ただっ広い空間に積み上げられた段ボール箱が壁際で並んでいる。他にも梱包された円柱の大きな物体や、パレットが積み上げられてい た。入り口付近にはフォークリフトが斜めになって乗り捨てられたように置かれていた。暮れかけた夕日がかろうじて倉庫内に入って辺りがセピア色に染まって いる。
ゴローを見れば、まだミミと歳が変わらないくらいに若い。ミミが身を起こそうとするとゴローが支えた。
「あの、私、白石さんじゃないんですけど。勘違いの誘拐です」
「あんたが誰であろうと白いドレスを着ていた。俺は白いドレスの女が拉致されたら、その時バニラエッセンスを嗅がせると全て上手く行くといわれたんだ」
「誰に?」
「昔お世話になった探偵さんとその奥さんに」
「なんで?」
「俺、別に組織の人間じゃないんだ。ただの助っ人要員。だからあまり犯罪には手を染めたくなくて、仕方なくダチの手伝いしてるだけなんだ。その手足の縛りだけど、動かしたら外れるようにしたから、頑張ってみて」
「そんな、取ってよ」
「おれ、ちょっと席外す。その間に、逃げてね」
「ちょっと、待って。なんで自力? 助けてくれないの?」
「おれが手を加えたことばれたら俺がやばいじゃん。ヒコが戻ってくる前に早くしてね」
中途半端なゴローの助けに困惑しながら、ミミは手足を動かした。だがそれは思ったほど簡単に外れない。
「嘘つき! 簡単じゃないじゃない」
後ろで縛られた手を何かに擦りつけようと辺りを見回したとき、入り口で話し声が聞こえた。ヒコが戻ってきた様子だ。
「コンビニを見つけられなかった。あまり離れたら怖いから、戻ってきた。あの女の様子はどうだ?」
「うーんと、目が覚めたみたいだったけど……」
「おい、何で邪魔するんだ?」
ヒコが倉庫に入ろうとしているのをゴローがドンと手をついた。
「ごめん、なんか体に虫がついてて」
ゴローは誤魔化す。
「おっ、そうか」
簡単に信じるヒコ。
「俺さ、面倒なことごめんなんだけどさ、もう帰っていい?」
「ゴロー、もうちょっと付き合ってくれよ。ひとりだと怖い」
「じゃあ、なんでこんな仕事引き受けたんだよ」
「だって脅されて怖いもん」
泣きそうなヒコ。
「どっちみち怖がってどうすんだよ。こうなったらふたりでバックレないか?」
「そんなことしたら、ボコボコにされるじゃないか」
「でもさ、あの女、白石じゃないって言ってたぜ」
「だって、あの家から出てきたんだぜ」
「だから、あの女もたまたまそこにいただけだろ」
ミミはこのとき、そういえばひとりで織香の家に行ったときの事を思い出していた。あの時に見た黒い車に乗っていた強面の男たちだと認識した。
「人違いしたからといって、俺の責任でもないし、あいつらが勝手に命令しただけだから」
ヒコは開き直る。
「で、いつまでここに監禁しとけばいいの?」
「さあ?」
手伝っている割にヒコはよくわかっていない。
「これってさ、組織は俺らが勝手にやったとか言ってさ、俺たちだけが罪を被るんじゃないの?」
ゴローの方が物分りがいい。
「その前に証拠が残らないように始末すんじゃねえ?」
「誰が?」
「やっぱり、俺たち?」
「俺やだぜ。ヒコがひとりでしろよ」
「俺だってやだよ」
ヒコとゴローの会話はどこか抜けていてた。ゴローが時間を稼ぐためにわざとそんな会話をしているのかもしれないと、ミミは必死で紐を解こうとパレットの角の部分にこすり付けていた。
――全然切れないじゃないの!
このままではゴローが折角くれたチャンスを生かせない。
「とにかく、見張っておかないと」
ヒコが中に入ろうとしてくる。焦るミミ。ゴローもまた上手くいっている事を願った。
その時、白い車がこっちに向かってくるのが見えた。
ヒコとゴローが他の仲間かとそれに気を取られていたが、その車が目の前に停まって、すぐさまふたりの男が勢いつけて飛び掛ってきた。
「おい、ミミ、九重ミミを誘拐したのはお前らか」
「ミミ? 九重ミミ?」
ゴローが呟いた。
「そうだ。どこにいる」
ロクがすごい剣幕で胸倉を掴むが、ゴローは困惑した表情でロクを見ていた。
その隣で海禄がヒコを取り押さえていた。
「白いドレスの女性を拉致したのはお前らだな。彼女はどこにいる」
ヒコが顎で倉庫の中を示した。
ロクはゴローを突き飛ばし、倉庫の中へと入っていく。すでに夕日は落ち外は薄暗く、倉庫の中は闇のようになって中が見えなかった。
「ミミ! どこだ、ミミ!」
ロクが声をかけても返事がない。
その頃、パトカーのサイレンの音が遠くで聞こえたかと思うと、どんどんこちらに近づいてけたたましくなっていた。
ロクはスマホのライトをかざして辺りを照らすが、ミミの姿はそこにはなかった。
「おい、ミミはどこなんだ」
ゴローに走りより、怒鳴った。
「えっと、白いドレスの女ですか? その人ならさっきまで、すぐそこにいたんですけど、いないんですか? じゃあ、逃げたんじゃ……」
数台のパトカーが回転灯を赤く放ちながら騒がしく集まった。無造作に停めて中から出てきた他の刑事が海禄の元へとすぐさま駆け寄る。ゴローとヒコは取り押さえられて、力ずくでパトカーへと引きずられていった。
「おい、ミミをどこへやったんだよ」
ロクはゴローに吼えた。
「だから、知りませんって」
「知らないってことはないだろう。無理やり連れてきたじゃないか」
「あの人はミミさんじゃなくて、ただ白石と間違えられて連れてこられた人です」
「だから、それがミミなんだって」
「ええっ? ミミさんてあんなに若くないですよ。だって俺、九重ミミさん知ってますから」
「お前、何を言ってるんだ?」
ロクは混乱したが、ゴローも不思議そうな顔をして、刑事に頭を抑えられてパトカーに乗せられた。
ロクは倉庫の周りを探し出す。
海禄も他の刑事に指示を出し、周辺を見回った。だが、ミミを見つける事ができなかった。
「ミミ! どこに隠れてるんだ。もう大丈夫だぞ。あっ、まさか、海に落ちたとか」
ロクが水辺を覗きに行こうとしたとき、海禄が肩を抑えた。
「逸見さん、ミミさんはここにはいない」
「でも、もし間違って海に落ちてたら」
「それはないと思います」
その時、倉庫の中から海禄を呼ぶ声がした
「警部!」
海禄とロクはすぐさま駆けつけた。
8
「どうした」
「被害者がここにいた形跡があります」
ライトを照らし、足跡や体が擦れた埃と砂の跡を見せた。
「ここから、ひきずるあとがそこの積み上げられたパレットに続いてました。ここで紐をこすりつけたのでしょう。多少の繊維らしきものが落ちています」
説明を聞きながらロクはその周りを見渡した。荷物が密集して隙間に体が入るスペースがなく、荷物の上にいるようにも見えない。
「もし、縛られていた紐が切れていたとしたら、ここに残っていないとおかしいのですが、被害者はまだ縛られた状態だと考えられます」
「じゃあ、どうやって逃げたというんだ?」
ロクは呟いた。
「誰かが担いで行ったのかもしれません」
「誰が担いだんだよ。他にも仲間がいるのか?」
ロクは走ってパトカーの中に拘束されているゴローに詰め寄った。
「お前たちふたり以外にも誰かいたのか?」
ゴローは首を横に振る。
「じゃあ、だれがミミを」
ロクの顔から血の気が引いていく。急に寒気がして心底体が冷えていた。ミミが危険に晒されていると考えるだけで、恐ろしく足が震えてくる。
「そんな、嘘だろ、ミミ、一体どこにいったんだよ」
海禄が後ろからロクを支え、そして車へと連れて助手席に座らせた。ロクはがっくりとうな垂れた。
後の始末を他の刑事に任せ、海禄はロクを送っていく。
「宇野さん、ミミは一体どこへ消えたというのでしょう」
ロクが力なく訊いた。
「そうですね、この事件を解決するには斉須ヒフミの力が必要かもしれません」
「あっ、そういえば、俺にメールをくれたんだった。なぜミミがここに拉致されたとわかったんだろう」
「今から真相を聞きにいきましょう」
「宇野さんは斉須ヒフミがどこにいるのかご存知なんですか?」
「はい。私の父ですから」
海禄はふーっと息をはき、助手席のロクに薄く微笑んだ。
ロクは驚き、声が喉の奥で反射した。
ふたりは沈黙したまま車は走行し、街へと帰ってくるとやがてロクもよく知る場所へと到着する。
「先に降りて、中に入って待っていて下さい。車を停めたら私も行きますので」
ロクは車から降り、暫く目の前の看板の前に佇んだ。
「――喫茶エフ。どうしてここに」
店のドアには『CLOSED』とサインが出ていたが、ロクが手をかけて押せば、それは抵抗なく開いた。
カウンターの中で、グラスを拭いていたマスターが顔を上げた。
「これは、これは、いらっしゃい」
「あの、斉須ヒフミ……さんって……」
「逸見ロク!」
いきなり呼び捨てにされた。
「さて、逸見ロクならこの謎をどう解く?」
マスターは挑戦状を叩きつけるようにロクを指差す。
「すでに必要なヒントは手に入れているはず。後は逸見ロクがミミの居場所を探し当てるだけ」
「待って下さい。ミミがどこにいるのかご存知なんですか?」
「もちろん」
「だったら教えて下さい」
「どうして?」
斉須ヒフミはからかうように訊いた。
「どうしてって、普通、拉致されたら助けたいじゃないですか」
ロクは斉須ヒフミの態度に憤ってしまう。
「本当にミミを助けたいのなら、逸見ロク、お前は自分の人生を賭けないと助けられない」
「自分の人生を賭ける?」
「そう。そうじゃないとミミとはこの先二度と会えなくなるだろう。自分を犠牲にしてまでミミに会いたいか?」
「自分が犠牲になるって、この命を捧げろということですか?」
「そうだ。身も心もミミに捧げられるのか」
「なんでそんな大げさに」
「どうなんだ!」
その時、ドアが開いて、ロクは振り返った。
9
「あらまあ、何をそんなに怒鳴ってるの? もう歳なんだからあまり興奮しないで」
ロクを探偵にした九重だった。
「この正念場に興奮しないでいられるか」
「それでも、落ち着いて下さい。ねぇ、逸見さんもそう思うでしょ」
九重はロクに同意を求めた。
「あの」
ロクは戸惑っていた。
「何ですか、おふたりはまた喧嘩ですか」
九重のあとから海禄が入ってきた。
「おお、海禄。久しぶり。久太郎と未来(みく)は元気か」
「もちろん、元気ですよ、お父さん」
海禄がお父さんと呼んだ事で、やはりマスターは斉須ヒフミだとロクは確信した。
「海禄、これでわかっただろう」
斉須ヒフミが尋ねる。
「そうですね。正直、ずっと半信半疑でしたけど、こうなってしまった以上、信じるしかありません。お父さんもお母さんも複雑でしょうね」
「えっ、お母さん?」
ロクは九重に振り返った。
「ううん、私はとても楽しんだわ。なんて素晴らしいんでしょう」
「あの、一体何が?」
ロクだけが分からず、居心地悪い。
「さて、逸見さん、この謎を解かない限り、あの可愛らしい女の子には会えませんよ。フフフ」
九重の言葉に、斉須ヒフミと海禄が呆れた顔を一瞬見せた。
「ちょっと待って下さい。ミミは一体どこにいるんですか?」
「逸見ロク、お前、まだわからないのか!」
あんなに紳士的だったこの店のマスターが急に豹変していた。
「お父さん! 何も怒らなくても」
海禄が諌めた。
その時、ふとロクは疑問を抱いた。
「斉須、九重、宇野――夫婦、親子なのに苗字が全部ばらばら」
「ようやく気がついたか。それで次は?」
斉須ヒフミが促した。
「九重さんはミミの祖母ですよね。そして海禄さんは九重さんの息子? そこにもう一人九重さんに息子がいて、それが海禄さんのお兄さんとしたら、海禄さんはミミの叔父? でもそれだったら、親戚としてのミミは海禄さんに面識があるはずだ。しかし小学校で会ったとき、海禄さんと初対面に接してたのはなぜだ」
「あら、いいところをつくわ」
九重が言った。
埠頭でミミを拉致した若い男の言葉をロクは思い出す。
『ええっ? ミミさんてあんなに若くないですよ。だって俺、九重ミミさん知ってますから』
――あの男はミミのことを知っていたが、若くないと言った。若くないミミは年を取っているということだ。
「あの、九重さんの下のお名前はもしかしてミミですか?」
海外ではよくあることだが、日本も稀に漢字を変えて身内で同じ名前をつけることがある。
「あら、正解。分かったの?」
九重は嬉しそうに目を輝かす。
「いや、まだこいつは分かってないぞ」
斉須ヒフミはいらだっていた。
「あらそうなの?」
九重はがっかりする。
「あの、暢気にこんな事を話し合っている暇ないと思うんですけど。俺は早くミミを助けに行きたいんです」
ロクもまた苛立ってくる。
「だから、さっきから言ってるだろう。逸見ロクがこの謎を解いて、人生を賭けないとミミとは二度と会えないと」
斉須ヒフミは強く言う。
「ねぇ、逸見さん。ミミの事はどう思っているの?」
九重は優しく問いかけた。
「俺、その、ほっとけないんです。わがままで、思ったことずけずけ言って、気分やで宥めるのに苦労するけど、俺のこと助けてくれて、俺のために料理やお菓 子を作ってくれて、俺の面倒みてくれるんです。ミミがいなかったら、いろんなこと発見できなくて、自分を見つめ直せなかったと思います」
「それで、だから、お前はミミの事をどう思っているんだよ」
斉須ヒフミが繰り返す。
ロクは答えるのを躊躇するも、みんなが自分を見ていることで言わざるを得なくなった。
「……俺は、ミミの事が、好きです。今すぐ会いたいです」
「おお!」
後ろで海禄が声をあげ、九重が目を潤わせて拍手した。
「そっか、やっと言ったか。遅いんだよ」
斉須ヒフミは口角を上げた。
「ありがとう、ロク」
九重がお礼をいう。そして目頭を熱くしてまた呟く。
「ヒフミなんかよりもロクの名前の方がやっぱり響きがいいわ」
「何を今更。セイスヒフミもまたいいじゃないか」
斉須ヒフミがカウンターから出てきて、九重の側に寄った。
ロクは頭に疑問符を乗せてふたりを見ていた。
「イツミロク、セイスヒフミ。そうね、同じようなものね」
九重が斉須ヒフミの腕を取って絡めた。
「あの、どういうことでしょう」
ロクが訊く。
「トレスレチェ」
ケーキの名前を囁く九重。
「トレスレチェ。あのスリーミルクケーキですよね」
「じゃあ、セイスは? ヒフミは?」
「セイス……あっ、スペイン語の六? えっ、ヒフミはいち、に、さん」
「もっと読み方を工夫してみろ。英語を混ぜるとか」
斉須ヒフミが言った。
「一、二、三はワン、ツー、スリー。あっ、待てよ、いっ、ツー、ミー、逸見……なんだこれ? それって、俺の名前をもじったってことに」
「そうだよ。やっと気がついたか」
「ん?」
ロクはまだわからない。
「自分がここまで勘が悪いとは、苛々してくる。しっかりしろ、ロク! お前は俺だ」
「はぁ?」
ロクは目の前の年老いた男をじろじろと見た。かつては紳士っぽく、優しいマスターだと思っていたが、そのイメージが崩れ、そしてその男が自分だと主張する。
「無理もないわ。ロク、この写真を見て」
九重は以前見せた半分に折った写真を取り出し、折った反対側を真っ直ぐに戻して見せた。そこには瀬戸がくれた写真と同じものが映っていた。ただそれはとてもボロボロで年季が入っている。
ロクもポケットからその写真を取り出して比べた。
「あら、持ってたのね。これってパラドックスっていうのかしらね」
九重はくすっと笑った。
「そういえば、久太郎が、参観日におじいちゃんとおばあちゃんが見に来てくれるっていっていましたが、案外それは本当でしたね」
海禄が言った。
「ちょっと待って下さい。みんなが言ってることって」
ロクは後ずさった。
10
「私も、本当の事を話されたときは半信半疑でした。でもこの日が来て確信に変わりました。若い頃のお父さん!」
海禄はロクの肩にぽんと手を乗せた。
「はぁ? 俺が海禄さんの父親? それで斉須ヒフミが俺で、九重さんが、ミミ? 嘘だろ」
「嘘じゃありません。あなたは過去に行かないとミミに会えないんです。もしここに留まったままでいると、私も今、ここにいないでしょうし、海禄も消えてしまいます」
「それって、俺とミミは」
「だから言っただろ、身も心もミミに捧げられるかって」
斉須が笑っていた。
「これをみて下さい」
九重がハンドバッグから金の懐中時計を取り出した。かつてロクがそれについて詳しく見たかったものだ。
「この懐中時計は今は止まってます。でもこれが再び動き出すとき、タイムトリップが始まるのです。この時代から消えた若いミミも今、これを持っているはずです」
「それがこの状況を生み出している……といいたいんですね」
「そうです。この時計は決まった時間に閉じ込められて何度もループしているのです。なぜそのような現象が起こるのか色々と考えましたが、どうしても魔法と しか考えられませんでした。ただ、不思議なことにこの時計は私たちにはとても縁があるものがかかわっているのは分かりました」
九重は懐中時計の蓋を開けた。丸いそれは普通の時計と変わりないものだが、文字盤に記されている数字は、三、六、九の部分だけだった。
「この数字は」
ロクが気がついた。
「そうです。九重ミミの名前には数字の三と九、ロクには六が関わっています。ミミは過去から未来、そして未来から過去へ二度タイムスリップします。ロクは一度だけ」
「じゃあ、俺は過去へ行くと、この現在には戻ってこれないってことか」
「大丈夫だ。戻ってきている。但し、歳を取ってだが。過去はそんなに悪くなかったぞ。ちょうどバブル前の一九八〇年、予め知っているといろいろと役立つことも多かった」
「だから、斉須ヒフミは名探偵と有名だったのは、予め事件の真相を知っていたということになる」
「そうだ。中には忘れていたのもあって苦労したが、なんとか切り抜けた」
「それって、もう俺は過去に戻るって決まっているんじゃ」
「それはなぜだか自分でよくわかっているくせに。まあ、その時が来るまで逸見ロクには今からみっちりと勉強してもらわねばならない」
斉須ヒフミはカウンターに戻り、中からノートを数冊だしてきた。それをロクに渡した。
「これは?」
「それは、俺が関わった事件の記録と新聞のスクラップだ。これを今から丸暗記しろ」
「はあ?」
ロクはパラパラとめくった。かなりの情報だ。
「これを持っていけばいいだけじゃないか」
「そうは行かん。懐中時計は時間の中に閉じ込められた永久的な存在だ。だが、ノートは違う。これは俺とミミが作ったものだ。お前も過去に行ってノートに記録を書き上げ、俺のようにいつか若いときの自分に見せるのだ。言っておくが、俺はかつてのお前だったんだぞ」
ロクは困惑する。だが、海禄が微笑んでいるのを見て、そこに久太郎の面影を感じた。それは自分の孫ということになる。久太郎のあの素直で優しい姿を思い出し、ロクはミミとの運命的なこの状況を受けいれたくなってくる。
「分かりました。これを全て頭にいれます。そしてミミに会いにいきます」
「ええ、ちゃんと過去で私は待っているわ。だって、私はあなたを見たときすでに一目惚れだったのよ。今でも大好き」
九重はロクを見つめた。
「おい、ミミ、そっちじゃなくて、俺の方を見て言え」
斉須ヒフミが慌てた。
「でもやっぱり、ロクは若いときかっこよかったわ。だからまた若いあなたに会えた時、とても感動したの」
「それは俺もそうだ。若いミミを見たとき、心が再びときめいたよ。俺たちあんな感じだったんだなって。ペアルックをしてケーキを食べている姿を見てもだえたくらいだ」
ロクはこの時、全てがこのふたりによって計画されていたことだと気がつく。
「そっか、久太郎の消しゴム事件も、あんたたちの仕業か」
「だって真相を知っていたんですもの。楽しまなくっちゃ」
九重は説明する。
あの日、久太郎と楓と道端であって消えた消しゴムの話をしていたとき、久太郎はお祖母ちゃんと会う約束をしていると言っていた。それが九重だ。
九重は久太郎と楓を一緒にこの喫茶店に連れてきた。そこで真相を知っていた斉須ヒフミも一枚噛んで、わざと楓に水をこぼした。その時九重が楓の制服の上着を脱がし、水を拭きながらポケットの消しゴムを抜き取ったということだった。
楓もまさか久太郎の祖母がそれにかかわっているとは思わず、何も疑問に思っていなかったことで、そこでなくしたとは考えられなかった。
そして斉須ヒフミが学校に忍び込んで久太郎の机の中に消しゴムを入れた。あとは、海禄が消しゴムを拾ったと嘘をついて参観日に来たときに久太郎に渡した。
「これって、自作自演になるのかしら?」
九重はいった。
「違うよ、壮大な時を越えてのマジックさ」
斉須ヒフミが答える。
予め用意されたマンションの一部屋。ロクを探偵に持っていくために誘導した九重。じっと若い頃の自分を見守っていた斉須ヒフミ。ミミの記憶が曖昧だとい うこともタイムスリップしたことで、未来に戸惑っていることをカムフラージュするためだ。ペアの服もそうだ。あれが謎を解決する鍵だった。斉須ヒフミも九 重もすでに分かっていたからそう仕向けた。
「ミミはタイムスリップしたことにいつ気がついたんだ」
ロクは九重に訊いた。
「そうね、うすうす、なんか変だとは常に思ってたんだけど、日付と曜日は一九八〇年と一致してたし、ただここが都会だからと思うとそれはそういうものだっ て常に思い込んでいたの。だけど、中井戸さんのギフトカードにお金が入っていることや、コンビニで買い物したとき、賞味期限の二十五という数字に違和感を 持ったわ。だって昭和だと五十五にならないとおかしいから。それで一万円札を出したら、店員の女の子が困惑したの。隣のレジでも一万円札出してたんだけ ど、それ聖徳太子じゃなかったの。そこで初めておかしいって思った。瀬戸さんのデジカメも、写してすぐに見られることもびっくりだったわ。だけど、タイム スリップって信じるのが難しかったわ。そのあとの事は過去に行ったときにわかるでしょう」
九重は斉須ヒフミをみて笑っていた。
「俺はいつミミに会いにいけるのですか?」
「今から三日後だ」
斉須ヒフミが言った。
「時間がそんなに残されてない」
ロクはノートを見て焦り出した。
「そうだ、それまでにしっかり勉強しろ」
斉須ヒフミは自分だと分かっていても、上から目線で命令されるとうるさい。
しかしいずれ自分もそういうときが来るのだ。今のロクは年老いたロクからみるともどかしさがある未熟者なのだろう。
ロクはノートをしっかり抱える。ミミのために斉須ヒフミになってやろうじゃないか。
「必要なものは全てこの中に入っている」
斉須ヒフミから紙袋を受けとった。中を見れば老人のゴムマスクがはいっている。
「いいか、三日後の朝九時、駅の構内へ向かえ。そこで変装してタイムスリップ前のミミに会うんだ。そして探偵が待っているからと言って地図と懐中時計を渡せばいい。その時点でお前は過去に行っている。ミミに渡された懐中時計はまた未来へと導く」
「そのあと、俺はどうすれば」
「どうすればいいかぐらいもうわかるだろう」
斉須ヒフミは微笑んだ。
九重が封筒を差し出す。ロクはそれを受け取り中を確認する。そこには聖徳太子のお札が多数入っていた。
「昭和五十五年に使えるお札を出来るだけ用意したわ。あなたは身分を証明するものが何もなくなる。不利な立場になるかもしれない。だけど、あなたはお金を稼ぐことをよく知っているわ」
「ありがとうございます」
目の前の年老いたミミとロク。ふたりは寄り添いこれから旅立つロクを優しく見つめた。
11
その夜、ロクは海禄に車でマンションへ送られた。
自分が父親と知った今、なんだか照れくさいものがあった。別れ際、海禄はロクと真剣に向き合った。
「年上の私が、あなたをお父さんと呼ぶとおかしいですが、でも言わせて下さい。お父さん。どうか、あなたのやりたいように過去で頑張って下さい。思春期の 私はあなたに反発をするでしょう。それはまだ何も知らなかったからです。あなたは過去で自分の身分を証明するものがないために、母とは結婚する事ができ ず、そのため私は母方の実家で親類から色々と後ろ指を差されて育ちました」
ロクは言葉を失った。
「でも母はあなたを一途に愛しました。籍をいれなくても事実婚でいいといいきりました。自由に父と会えなかった私でしたが、会えた時はそれ以上に可愛がっ てくれました。それでも不満を抱き私はなぜ父と母が結婚しない生活なのか理解できなかった。あなたを恨んだこともあります。そして親族から歓迎されなかっ たせいで九重という苗字も嫌いでした。だから私は結婚した時妻の苗字に変えたのです。宇野という名前もまさにスペイン語の一という意味で気に入りました し」
ここで海禄は笑った。
「結局父の後姿を見て、気がつけば私も刑事になってました。父を越えたいとライバル心もあったんですけど、でも刑事になってよかったと思います。私もまた このからくりに必要だったのでしょう。だからこの後のことは私に任せて下さい。白石さんや瀬戸さんたちのことも何も心配することはないと保障します」
「わかった」
最後に海禄と固い握手を交わした。
ロクには父親としての実感はないが、無条件にこの男を愛せる自信はあると思った。
まだまだ不安は残る。だが自分が突き進めばいいだけだとロクはこの三日間寝るのも惜しんでノートの情報を読み漁った。
自分がある程度大きくなったときに起こった、話題になった事件は記憶があり、全く知らないわけではなかった。
生まれる前の事件も有名どころはなんとなく分かる。こまごまとしたローカルな事件を重点的にロクは覚えていた。
「お金を稼ぐのは知っていた……か」
実行を明日に控えての夕暮れ時、ふと九重に言われた言葉が頭によぎった。
「なるほど。多分これはギャンブルごとだ。予め何がお金を増やすか分かっているってことだ。そうすれば、この場合いい手段は競馬や競輪、ボートレースといったものだろう」
その情報も過去に遡ってネットを使って有名どころのレースの結果を自分で調べ上げた。こればかりは紙に書き後にポケットに忍ばせる。
ミミのいない設備が整った部屋は、肝心な電気が通っていないほど何も機能していない。彼女がいない生活はもうロクには考えられなかった。
「さあ、ミミに会いに行く」
懐中時計の蓋を開ければ、九時を指して止まっている。明日これが動き出す頃、ロクは一九八〇年の四月未明にいるはずだ。
そしてその時が来た朝、ロクは言われたとおりに老人に変装し、鏡を見て笑っていた。
緊張しながら駅の中を歩いている時、初夏を思わせる頃から、まだ肌寒い四月初旬へと一瞬にして気温が変わり、景色も設備がととのってない古い時代のものへと変貌した。
はっとして、ロクが懐中時計を取り出すと、秒針が動き時を刻んでいた。自分は過去にいると確信すれば、前方に行くあてがなさそうにどちらへ行こうか思案しているミミを見つけた。
心の中で「ミミ!」と叫ぶも、ロクは一度深呼吸した。
「九重……ミミ……さんだね」
警戒心を持って振り返るミミ。
やっと会えて嬉しくもあったはずなのに、まだロクのことを知らないその姿に、もどかしさを覚えた。抱きしめたい衝動でそれを堪えると体が震える。
「あの、どうして私のことを?」
ロクは懐中時計を取り出した。
「これを預かって君に渡すようにと言付かった。これは君を守ってくれるものだ。肌身離さず持っていれば、きっといい事がある」
「誰に言われたの?」
その質問には答えず、ロクは金色のピカピカの懐中時計をミミに手渡した。
「君のことはよく知っている。なぜここにいるかも分かっている。今困っているのは住む場所だろう。俺はそれを紹介できる」
ロクは地図を渡した。
「その地図の丸で囲ってあるマンションへ行きなさい。そこは暫く誰にも邪魔されずに過ごせる快適な部屋がある。そこには間抜けだけど力になる探偵がいる。名は逸見ロクという。君の事を待っているから面倒を見てやってくれないか」
「あの……」
「行くあてがないのなら、そこへ行きなさい。その懐中時計が全てを導いてくれるはずだ。さあ、早く」
「わかりました。そこへ行けばいいんですね。探偵って……どんな人なんだろう」
目的が出来るとミミの足取りはしっかりと進んでいく。ロクは去っていくミミを見つめ、初めて出会ったときの事を思い出した。懐かしく感じていると、ミミの姿が消えたり、現れたりと揺らいでいた。
過去と未来の移り変わりに時空のゆがみが生じているのだろう。
ロクはミミの姿が見えなくなるまでその場に佇んだ。