1
ふたりは時々どきどきしている。しゃれたマンションの一角で見知らぬ者同士の共同生活が始まったからだ。
とは言っても、部屋はそれぞれ別々で、まるで宿泊施設のようにバス・トイレがそれぞれの部屋に完備され、ドアさえ閉めてしまえばお互いを干渉されない個室となっている。そこでは空間に一緒にいるだけのホテルの宿泊客と全く変らない。
唯一顔を合わせる場所はキッチンとリビングルームだ。ふたつの部屋の間に挟まって、そこはシェアするスペースになっていた。
最新の設備が整ったシステムキッチン。デザインもモデルルームのように外国の大きなオーブンを備え付け、洗練されたレストランの厨房並みに機能が整って いた。テレビの料理番組にも使えそうで、見栄えもいい。ダイニングテーブルの上には部屋を明るくする花が花瓶に添えられている。今日は元気が出そうなオレ ンジ色のガーベラが数本かわいらしく花びらをぴんとまっすぐに広げて咲いていた。
結構広々とした空間で、客人を呼んでパーティも催せるし、生徒を集めて料理教室だって開ける。そこはビジネスとして使ってもいいのだが、ここを管理している大家さんは探偵事務所を開いてほしいと条件を出していた。
「いきなり、探偵といってもな」
やることもなく暇を持て余した逸見ロクがソファーに腰掛け、依頼人が誰も来ない日々を落ち着かなさそうにしていた。
「でもロクは実際探偵さんなんでしょ」
キッチンで九重ミミがボールに卵を割って混ぜていた。シャカシャカと泡立てる音が聞こえ、ロクは振り返る。
二十歳を過ぎたばかりのミミはまだまだ子供っぽさが残っている。色気もお洒落気もなく、ロクの好みからは程遠い。
「こう、もう少し、丸みがあるメリハリがほしいよな」
後姿を見ながら思わずロクの本音が出てしまう。
ミミはゆっくりと振り返り、ギロリとロクを睨んだ。
「何か言いましたか?」
「いえ、その、やっぱり探偵するからには依頼人がほしいかなと」
ごまかし笑いで、その場を取り繕ってもミミにはしっかりと聞こえていた。ロクの指摘はミミのコンプレックス。そこを突かれるとイラついてしまう。
「ロクは確か、私と同じ年でしたわね」
丁寧に話してもミミの殺気が伝わってくる。
「おいおい、俺は二十五だぜ。ミミよりも五歳年上だ」
「あら、そうでしたの。頼りなさそうだから、子供っぽく見えててっきり私と同じかと思いましたわ。おほほほほ」
ミミの引きつった笑い声をロクは受け流そうとするが、子供っぽいと遠まわしに言われ内心カチッときていた。
「はぁ? 俺はハンサムで若々しいだけだ。老け顔よりはいい」
「しっかりしてる人ほど魅力がでて大人っぽく見えるけど、ロクはちゃらちゃらして、本当にそれで二十五歳ってのが信じられない」
「はいはい何とでもいえばいい。老け顔よりは若い方がいいから」
「だったら、私も若い方がいいってことでしょ。なんせまだ二十歳のピチピチよ」
「若いって言っても、お子様過ぎるとはまた違うもんがあるぜ。俺は女性的にやや色気がある方が好きなんだ」
「だったら私も大人の魅力に溢れた抱擁力のある男性が好きです」
泡だて器の音が乱暴にカチャカチャと部屋中に響いていた。
「とにかくお互い好みじゃなくてよかったってことだ。これなら変な気を起こす心配もない」
「はあ? 何をおっしゃるやら。私がここへ来たのは仕方なくであって、そうじゃなければ来ませんでした」
「俺の方こそ、仕事だから仕方なしにだ。金を貰えば今更断れないし」
「本当はいい話だと思って喜んで飛びついたんでしょ。あなたはそういう人だって言ってたわ」
「誰がそんなこといったんだよ」
「そっちこそ誰に頼まれたのよ」
気がつけばお互いの距離が縮まって顔が近づいていた。
はっとしたふたりは「ふんっ」と顔をそらして意地を張る。ミミはキッチンへ戻り、ロクはソファーで足を組んでどっしりと腰を据えた。
暫くはミミの作業する音しか聞こえてこなかった。
一体何を作っているのやら。
ロクが振り返れば、ミミは先ほどの苛立ちも消えて夢中になって何かを作っていた。
四月も中旬を過ぎ、暖かな眠気を誘う午後。何もしないロクは腕を組み、目を閉じて考え事をしていた。
ふたりはここへ来てまだ一週間。初めて会った日は多少の遠慮があったけど、すぐに打ち解けて、いまではよきライバル的な負けられない気持ちが芽生えていた。
一度意地を張るとどこまでも反発してしまうが、どっちも気兼ねなく気持ちを素直にぶつけ合えるところはとても楽だった。自分を偽ってよそよそしくするよりもはるかにいいと、ふたりはお互い腹を割って受けいれていた。
そして何より、お金を貰えてここで住める事を考えれば多少のことは我慢できた。
ロクは事の発端を思い出す。大学を卒業後、就職はしたものの長続きせずやめてしまい、毎日家でゴロゴロしていたある日のことだった。それを見て溜まりかねた親から家を追い出され、行くあてもなく歩いていた。
すっきりしない曇り空を見つめ、雨が振りそうだと思った矢先にポツポツと振り出してくる。仕方なく友達を頼ろうと駅に向かって賑やかな道路沿いを歩いて いたが、果たして歓迎してくれるのか半信半疑で足が重くなってしまう。やがて雨脚は強くなり、着ていたジャケットがどんどん濡れていった。
なかなか青にならない交差点の信号待ちで、濡れながら惨めに首をすくめていると、頭上に突然傘が現れた。
ロクがはっとして振り返れば、そこにも同じようにはっとしてロクを見ていた初老の女性がいた。
2
『あ、雨に濡れますよ』
しどろもどろに声を掛けられるも、その女性も無意識にしてしまったのか、ロクの顔を見るなり相当動揺していた様子だった。
その親切な気持ちだけでも人の優しさの有り難味を感じたロクは、悪くないと素直に受けいれる。
『す、すいません』
暫くそのままで、ロクはもじもじとしていた。やがて信号は青に変わり、周りが歩き出す。ロクたちもそれに続いて足を動かした。
『どちらまで行かれるのですか?』
『その、駅へ』
『私もちょうどそこへ行くところです。ご一緒しましょう』
『あっ、ありがとうございます』
紫外線対策用のつばが広めの帽子を目深に被り、帽子と同じ色のベージュのトレンチコートを羽織っている。
優しい色合いのチューリップ柄のフレアロングスカートは春らしく、歳をとっても小奇麗にしているお洒落をロクは感じていた。
『春とは言え、雨が降るとやっぱり冷えますね』
上品に女性は話しかける。
『そ、そうですね』
ロクは適当に答えていた。
『こういうときは、温かいものを飲んで体を温めたいですわ。でもひとりだと喫茶店に入る勇気がなくて、よろしければご一緒にどうでしょう』
『はい?』
大胆にお茶を誘われ、ロクは戸惑った。
『もちろん、私のおごりです。あそこのお店なんかどうでしょう』
『いえ、その』
雨の中、傘をさされたままでいると逃げるわけにも行かずロクははっきりと断りきれない。断る理由もなく、もともと彷徨っていただけのロクにとっては誘われることは悪くない。ただ目の前の婦人は自分よりも、さらに自分の親よりもかなり年上で変な気分だった。
『やはり若い方じゃないとだめかしらね。こんなおばあさんに誘われてお困りですよね』
『そんなこと』
気を遣って言葉を選んでいるうちに、それが肯定とみなされた。
『あらそう、だったら嬉しいわ。それじゃご一緒して下さるのね』
そういうや否や、ロクは腕を取られて〝エフ〟と言う名の喫茶店に連れられていた。
いわれるままについていって、喫茶店の中に入って席に着いて向かい合う。深いコクあるコーヒーの香りがテーブルや椅子にまで染み付いて、ロクもそれに染まっていく気分だった。
辺りを見回せば、お気軽にテイクアウトできる今時の店と違って、昭和レトロな昔風の懐かしい雰囲気がする。この時間は客がまばらだが、それぞれのゆった りした時間を過ごしている。多分常連客だろう。こんな店は最近見なくなったと珍しく店内を見回していると、優しく向かいから話しかけられた。
『飲み物だけじゃなく、なんでもご注文して下さい』
メニューを手にしながら、その婦人はニコニコ顔でロクに勧めた。
ロクは返答に困りながら、メニューの写真に指を置いた。
『それじゃこれでお願いします』
サンドイッチセットとあり、それが目に飛び込んで咄嗟に選んでいた。
ウエイターがやってくると、婦人はその場を仕切るように話し始める。
『えっと、お飲み物は普通のコーヒーでいいのかしら』
途中でロクに確認を取った。
ロクは頷くと、初老の女性からふっと笑みがこぼれた。
『それじゃ、私はこのケーキセット。飲み物はラテでお願いします』
注文をとり終わった後、手持ち無沙汰からテーブルに置かれた水をロクは手にした。
何を話していいのか焦りにも似た気持ちでいると、婦人は物怖じせずに話し出した。
『まだ自己紹介してなかったわね。私は九重と申します』
『俺は逸見です』
『……そう、逸見さんですね』
優しく微笑むその九重の瞳は潤って艶を帯びていた。
『それでお仕事は何をされてるのでしょうか』
いきなり仕事の事を訊かれロクは、無職といい辛い。
『いや、その、なんていうのか。個人的なことをしてまして』
ここはどうにかして誤魔化したい。
『個人的なこと? それってフリーで何かをされていらっしゃるってことかしら?』
『はあ、まあそんなところなんですけど』
『一体何をされているのかしら』
わくわくとした九重の表情がどこかいたずらっぽく、詮索せずにはいられない。
『いえ、大したことはないんです。まだ駆け出しでして』
『もしかして漫画家、それとも小説家とか?』
『いや、そんなんじゃないです』
誤魔化せると思っていた目論見がはずれ、ロクは焦っていた。
『それじゃ、ちょっと手を見せて下さる?』
『手ですか』
どうしようとロクが迷っていると九重は自分の手を差し出して催促する。少し皺がある手だけど、指先が細くすらっとした綺麗な形をしていた。
『ほら、見せて』
催促されると断りきれず、仕方なくロクは両手をテーブルの上に手のひらを向けて置いた。
『まあ、繊細な手をされてますね』
『いや、それほどは』
『あっ、もしかしてコーヒーを入れるのがお上手じゃないですか?』
『えっ、どうしてそんな事を?』
ロクは少し反応した。
『綺麗な手先でコーヒーを入れてもらえたら美味しくなりそうって、ただ思っただけです』
『はぁ……』
九重の双眸はロクを捉え、年甲斐も無く舌をペロッと出しておどけていた。
『だけど、以前カフェショップでバイトをしていた事があり、その時色んなコーヒーの入れ方を学んだので、案外と期待に添えられるかもしれません』
ロクは敢えて間違いじゃないことを言ってみた。
『じゃあ、当たったわ。それじゃ次はお仕事ね。今度も当てるわよ』
調子に乗った九重は眉間に皺がよるほど集中して考え込む。
ロクは無職といえなくなったこの空気に気まずく、次に言葉が出たら当たりというつもりだった。 どうせこの場限りの嘘だ。何とでもなるだろうと軽く考えていた。
『もしかしたら、探偵業とかじゃないですか?』
九重の顔がぱっと明るくなっていた。自信たっぷりなその様子にロクもすんなり押されて認めてしまう。
『あっ、そ、そうです』
推理小説が好きなロクには探偵という響きは心地よかった。九重の前だけでも探偵になりきってもいいような気がする。
『あら、本当に、探偵さんなの? それはラッキー』
『えっ、ラッキー?』
『そうなのよ、私、探偵さんを探していたの。よかったら、私のところで働かない?』
『働く?』
その言葉はロクには魅力的だった。
話を聞けば、すでに住み込み可能な事務所があり、すぐにでも使えるということだった。
『但し、条件があるの。助手として〝九重ミミ〟を使ってほしいの』
同じ苗字からしてすぐに身内のものだとロクは推測する。娘、孫、もしくは姪あたりだろうか。
『助手はともかく、一体何をすればいいんでしょうか』
『もちろん、依頼人からの事件、謎を解決して、そこは臨機応変にすればいいわ。それは逸見さんの お好きな探偵事務所として使ってくれていいの。依頼料も好きに設定してね。それでその、ミミなんだけど、ちょっと訳ありなのよ。そこを面倒見てもらえたらと思ってね』
『面倒を、俺がですか?』
『そうなの。世の中の事が全くわかってなくて、我がままで、それにちょっと記憶が飛んでるの』
『記憶が飛んでる? もしかして記憶喪失ですか?』
何かの推理事件が始まったかのようにロクは少し興奮した。
『うーん、なんていうのか、詳しい事は話せないんだけど、ずっと隔離されて育ってきたので世間知らずな上に、この世の中の仕組みが全くわかってないの。本 当に何も知らないのよ。大げさだけど、電話すら操作の仕方がわからないの。今までの自分に嫌気も差しているし、自分自身で過去を封印したというのか、とに かく今の時代の記憶が曖昧なの』
『記憶が曖昧……』
『でも、安心して、生活するにはなんの問題もないし、とても健康よ。それにね、私に似てかわいいわよ』
九重はニコッと微笑んだ。
その点について、ロクは笑って誤魔化すしかなかった。
『でも、そんな子が探偵の助手なんてできるんでしょうか』
『世の中の問題を客観的に見て判断させたいの。そうすることで、自分の問題にも向き合うきっかけになるんじゃないかと思って』
あまりにも急なことに、ロクは不安になっていた。嘘からどんどん話が思いも寄らぬ方向へ進んでいく。
『嫌なら無理にとは言わないわ。こちらもお願いするのでそれなりの依頼料はお払いします。それプラス、事務所は無料でお貸しします。こちらも出来る限りのサポートをするつもりなので、よく考えて……』
『やります』
お金も、行くところもなかったロクは九重が言い終わらないうちに即答で答えていた。まさに今自分が必要としているものを断る選択なんてない。
『あら、そう、嬉しいわ。それでね、この子が……』
九重は隣の椅子に置いていたハンドバックからごそごそと中身を取り出すしぐさをし出した。
『あら、えっと写真があったんだけど』
テーブルに取り出した中身をひとつずつ置いていく。財布、スマホ、ハンカチ、百円玉……。
「あらやだわ、硬貨が鞄の底にいくつか落ちてたわ」
割と大雑把な人だとロクが思っていたその時、金の懐中時計が現れた。
今時珍しいアイテムのそれは、手入れがされピカピカに光沢を帯びている。まるで本物の金のようで ロクはそれに釘付けになった。
今時、懐中時計を持ち歩く人も珍しい。
『それは懐中時計ですか?』
気になってついロクは質問していた。
『ああ、これ? 大切な人から頂いてね、ずっと肌身離さずもっているの。でも時々しか動かなくて、時計としては役に立たないのよ。でも持っているといい事があってね、私のお守り』
ロクはそれを手にとってみたくなり遠慮がちに小さく呟いた。
『あの、それを近くで見てもいいで……』
いい終わらないうちに九重が声を上げて写真を取り出した。
『あった! これ、これみて』
ずっと持ち歩いているのか、写真は折り目がついてよれよれになっていた。白いドレスを着て木の前に立って写っている女の子がミミなのだろう。はにかんだ笑顔がなかなかかわいい。確かに目の前の九重にも似ていた。
写真は半分に折られている状態で、二つ折りになったその反対側には誰かが並んで写っている様子だ。でもそれを九重は見せようとしなかった。
『失礼します』
コーヒーとサンドイッチが運ばれてきた。
『あら、散らかしちゃった』
九重は慌てて、テーブルに置いていたものや写真をバッグにしまい出す。
『こちらが、サンドイッチとセットのコーヒーです』
それはロクの前に、九重の前にはケーキとカップが置かれた。
『それではごゆっくり』
ウエイターは洗練されたお辞儀をして去っていく。
静かになったところで、ロクは先ほど見た懐中時計の事を尋ねようとしたが、その時九重はカップを持ってラテの香りを嗅いでいた。安らかに心が落ち着いているその様子を邪魔していてはいけないとロクは何もいえなくなった。
今更見たいと要求すれば、詮索しようとする態度がどこかいやらしく思えて憚られる。
『逸見さん、ほら、遠慮なくお召し上がり下さい』
『あっ、はい。いただきます』
白い薄い食パンに厚切りの卵とハムが挟まれ三角形に切られたそれは、中身がこんもりと詰まっていた。それをひとつつまみ、ロクは頬張った。
カップを手にした九重は、見守るようにそのロクの様子をじっと見ていた。
『おいしい?』
『は、はい。おいしいです』
それは嘘じゃなかったけど、そういう答え方しかできなかった。もっと気をきかして工夫した言葉を考えればよかったのだろうか。例えば具が大きくて食べ応えがあるとか、厚切り卵がふわふわとして口でとろけるとかなど、褒めることはできただろう。
そう思いながら、口に頬張ってもぐもぐとしていた。
とにかくひとつ食べ終わった時点でもう一度感想を述べようと思っていたが、九重はいつまでもロクを見ていたから緊張してしまった。
『本当においしいです』
また同じ言葉がでてきてしまい、もうひとつを手にしてすぐさま口に入れた。
『美味しいって言葉は何よりも美味しいってことだものね』
初めて会った人なのに、九重の瞳は愛しい何かをみるような優しい眼差しをロクに向ける。人生経験豊富に悟りがあるような、博愛に満ちた余裕があった。
要するにロクの事を孫か何かとでも思って親しみを感じているのかもしれない。気品ある九重の姿は弥勒菩薩を想起する。
『あら、このケーキ、生地がふわふわして、生クリームもさらりとしておいしいわ』
いつのまにか手にフォークを持って九重はケーキを口にしていた。
童心にでも返った素直な喜び。自然に出た笑みは先ほど見せられた写真のミミと重なった。
『ケーキはね、スポンジの柔らかさと生クリームの味で左右されるのよ』
『あと、見た目の美しさも購買意欲をそそるには必要かもしれません』
九重が頼んだケーキはオーソドックスなどこにでもある苺のショートケーキだった。自分ならそういうのは選ばないと思ってロクは呟いた。
『そうね、確かにお店で買うなら綺麗なケーキに目が行くわね。でも手作りなら、やっぱり味』
『ケーキを作るのが好きなんですか?』
『若い頃はよく作ってたわ。でも中々思うように作れなかった。だけど食べてもらいたい人から美味しいって、言ってもらえた時は本当に嬉しかった』
九重はボールを持つフリをして、あわ立てるジェスチャーをする。回想にふけっているその姿を邪魔しないように、ロクはサンドイッチを静かに食べていた。
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思い返せば不思議な出会いだとその記憶はやがてフェードアウトし、次にキッチンで必死に卵を泡立てているミミがフェードインしてくる。九重とミミが重なりロクは思わず言ってしまった。
「お前のおばあちゃんもお菓子作りが好きみたいだぞ。やっぱり遺伝かな」
「なんで私のお祖母ちゃんのこと知ってるのよ。もしかして裏で糸を引いてるのってお祖母ちゃんってことなの? ん、もう……結局、お祖母ちゃんからは逃げられないってことか」
あからさまに落胆してミミの手元が止まった。
「どうしたんだよ」
ロクに訊かれて顔を上げるも目が虚ろなミミ。
「うちは色々と厳しいしきたりがあって、私はそれに縛られて生活してきたの。お祖母ちゃんは特に厳しい人でね、家では一番の権限をもっているの。孫の私が 生まれたら、母親よりもあれをしろ、これをしろって、いつも言われて自由なんてなかった。学生時代は仕方なく我慢していたけど、短大を卒業してこれから自 分のために生きようとしたときに、急にお見合いさせられそうになってさ、それで逃げて来たの」
「お、お見合い? そんなに嫌ならはっきりと断ればいいじゃないか」
「それが出来たらどんなにいいか。出来ないから逃げたのよ。一度顔を合わせたら、もう私には権限がなくて相手のいいなりになるしかないの」
「だけど、相手がミミの事を気に入らない可能性もあるじゃないか。わざと嫌われる事をすればそういうの問題ないだろ」
ロクは簡単なことのように茶化していた。
ミミは「はぁ」と大きく呆れたため息をつく。
「そんな簡単なことじゃないの。相手も断れないのよ。お互いの家のためにね」
「それって、まるで政略結婚みたいだな」
「みたいじゃなくて、まさにそういうこと」
「えっ、一体どんな家柄なんだよ」
「だから、そういう家柄なの」
ミミは力なく泡立てながら、家を飛び出したときの事をぼんやりと頭に浮かべる。
どこか知らない土地で、自分の力だけで生きていこう。逃げるんだ。それだけで電車を乗り継いで、何の計画もなく無謀に行動を起こしていた。
この先一体どうすればいいのかと不安を抱きながら見知らぬ駅に着いたとき、突然名前を呼ばれた。
『九重……ミミ……さんだね』
一瞬にして体が強張り、心臓が早鐘を打つ。いざとなったら逃げよう。そう思って恐る恐る振り返ったとき、泣きそうな顔をした初老の男性が震えるように立っていたから意表をつかれて暫く突っ立ってしまった。
相手はミミをよく知っているかの振る舞いにミミは邪険に出来ず、暫く成り行きを見守っていた。
その男性は声にならない詰まった息を何度か吐いて、ミミにどう接していいのか逡巡していた。恐れているのか、喜んでいるのか、どっちにも取れた。あの時はあの年取った男性の意図がわからなかったけど、今になってミミは理解した。
「だからか」
あの時の事が腑に落ちてつい声が出ていた。
「何だよ、急に叫んで」
「どおりで事が上手く出来すぎていたはずだ。お祖母ちゃんが仕組んだから、その命令に怯えていたんだあの人は」
「何の話だよ」
「あたかも味方のようなふりしてさ、結局は私騙されたの? どうしてよ」
ミミはぶつぶつと文句を垂れていた。
「あのさ、もっと分かるように話してくれないか」
「だから、私が逃げる事を知っていて、その逃げ場所を最初から用意されていたってことよ。私を案内した年寄りの男性もお祖母ちゃんに命令されて仕方なく私をずっと尾行して、そしてここに来るように誘導したってこと」
「年寄りの男性?」
「そうよ、家の事情を知っていたし、私は全然覚えてなかったんだけど、向こうは私の事をずっと知っていたらしくて、しばらく邪魔されずに過ごせる場所があ るからってここを紹介してくれたの。そこに間抜けだけど力になってくれる探偵がいる、私を待っているから面倒を見てやってほしいって言われた」
「ちょっと待て。間抜けっておい、どこのじじいだよ、俺の事をそういう奴は」
「こっちが知りたいわよ。文句があるなら私じゃなくて全てを計画したお祖母ちゃんに言ってよ」
シャカシャカと再び泡立てるミミ。投げやりでやる気が見られない。
ロクもまた、自分が間抜けといわれたことで気分を害すも、何かしっくりこない違和感を抱いていた。
自分が出会った九重のおばあさんはミミが言うような厳しい人にあてはまらない。寧ろミミを守りたいとここを用意したように思えてならなかった。
ミミは何か勘違いしているのかもしれない。
『世の中の事が全くわかってなくて、ちょっと記憶が飛んでるの』
確かそんな風に九重が言っていたとロクは思い出す。
「なあ、今は暫く様子をみてみないか。それからどうすればいいのか考えたらいいじゃないか」
「だったら、ロクはいざというとき私の味方になって助けてくれる?」
「何を助けたらいいのかわからないけども、それはミミ次第だな」
「どういう意味よ」
「だから、俺に優しくして、何でも言う事をきいてさ」
何かがしゅっとロクに向かって飛んできた。ロクはそれをひょいと避ける。
「おい、木べら投げるなよ。手裏剣じゃあるまいし」
「じゃあ、こっちもロク次第だわ。あなたが優秀な探偵なら敬意を持って接します。そうじゃなかったら、見切ってどこかへ逃げるわ」
「おー、言ってくれるじゃないか」
鼻でフンと笑うも、内心気が気でなかった。
ミミの前だからとロクは少しばかり虚勢を張っていかにも自分がいい探偵だと演じようとしている。今まで一度も謎解きなどした事がないというのに。
ミミに馬鹿にされるのも嫌だったが、九重との約束を破るのも嫌だった。ロクは九重を放っておけない。
喫茶店でご馳走になった後、このマンションを紹介され、設備の説明を受けているとき、九重は感極まって少し涙ぐみ、必死に泣くまいと力を入れていた姿が印象的だった。
ミミとの間で何か言えない事情がありそうだと、ロクは見て見ぬフリをする。
『ミミは気の強い子だと逸見さんの目に映ることでしょう。だけど、あの年頃は素直になれずについ意地を張ってしまうのです。どうかその辺を理解してやって 下さい。決して逸見さんのことを嫌いとかじゃないんです。ずっと籠の中に閉じ込められていたので、男の人と接することに慣れてないのです。それでも精一杯 にあの子は逸見さんと向き合おうとすることでしょう』
『九重さんはとにかくミミさんの事が心配なんですね』
『そうかもしれないわ』
九重は口元を軽く上げてくすっと笑った。そしてじっとロクを見つめる。
『ま、任せて下さい』
期待されていると思ってついつい調子にのってしまうロク。
『それじゃ、お願いします』
九重は右手を差し出した。
ロクがその手を取って握手すると、九重はもう片方の手を添えロクの手を握って力を込めた。
『ありがとう』
涙を堪えた震える声がか細く九重の喉から搾り出された。九重は暫くロクの手を離さなかった。
4
ミミを助ける事は九重を助けることにもなる。力になりたい気持ちが湧いてきた。
初めて会ったのに、年の差を感じさせない気楽な態度の九重にロクはすでに親しみを感じていた。それを思い出しながらミミと向き合おうとする。
「ミミ、そう心配するな。きっとなんとかなるよ。ミミがこの先安心して暮らせるように、ちゃんと見守ってやる」
「な、なによ、突然優しくなって」
ロクが折れるとミミは戸惑う。ロクが見せた態度はミミをドキッとさせた。まともに見ればロクはかっこいい部類に入る。それは初めて会ったときから気づいていたけど、深く考えないようにしていた。
それが今、ミミのスイッチがまともに入って取り消せないほどドキドキと胸の鼓動を早くしていた。それを悟られるのが嫌で泡だて器をシャカシャカと激しくかき混ぜた。
それから小一時間後、部屋いっぱいに甘い香りが漂う。
「おお、焼けてる焼けてる」
オーブンを開けミミが覗き込んでいた。強烈に立ち込める焼き立ての熱気。それをまともに顔に受けてもなんのその、喜びを抑えきれない満足した笑みを浮かべてミトンをつけた両手で慎重に取り出す。
「いい感じに焼けた」
丸いホールケーキ用のデコレーション型にはこんがりと狐色に表面が焼きあがったスポンジケーキが焼きあがっていた。真ん中がこんもりとしてそこに少しだけひびが入っていたが、却ってそれが美味しそうだ。
得意になった子供のようにミミは褒められる事を期待しながら、ソファーに座っているロクに近づく。
「ほら、ちょっと見てよ」
「な、何だよ」
うつらうつらしていたロクはミミの大きな声にびくっとした。
「ほら、ほら、いい感じに焼けたよ」
焼きたてのケーキを押し付ける。
「おい、そんなに近づけるなよ。熱そうじゃないか」
「だって焼きたてだもん」
ホカホカと湯気が立ち込めるスポンジケーキを持ったミミ。その甘い香りと共にロクは知らずと和んでしまう。
「わかった、わかった。なかなか上手く焼けてるよ」
「でしょぉ」
嬉しさが隠せず、ミミの顔が緩んでいる。
「で、それどうするんだよ」
「もちろん生クリームやフルーツで飾りつけするの」
ケーキを持ちながらロクの前で軽やかにミミは舞い踊る。持っていたケーキを激しく横に揺らし、調子に乗って上へとその力を向けた。
「そんなことしてたらケーキ落と……」
ロクが言い終わらないその時、スポンジケーキが型からすぽーんと上に飛び出しミミは「あー」と声を出した。
それはロクにはスローモーションに目に映り、気がついたら咄嗟に立ち上がってスポンジケーキに向かって手を差し出していた。
「あちー! アチアチ」
悲鳴が部屋いっぱいに響く。
ロクは恐るべき速さで手を動かし、必死の形相でそれをミミが持っていたケーキ型に再び入れた。
「おい、焼きたてのケーキで遊ぶな」
「遊んでたわけじゃないけど、あー危なかった」
「何が危なかった、だ。こっちは手が火傷だ」
ロクは手のひらをひらひらとふっていた。
「大丈夫? ごめん」
ロクの手が赤くなっている。ミミは申し訳ないと顔を歪めた。
「まあ、落とさなくてよかったよ。だけどさ、それさ……」
ロクは慌ててケーキ型に戻したスポンジケーキを見つめ黙り込んだ。
「どうしたの?」
ミミも手元に視線を落とす。
スポンジケーキは斜めになってケーキ型にきっちりと収まっていなかった。ミミが軽く揺らせばストンとはまり込んだ。
「なんかとても丈夫だな、それ」
熱々だったそれは、衝撃を与えながら手のひらで跳ねるように何度もむちゃくちゃに揺らしていたが、全く形が崩れなかったことをロクは不思議に思っていた。
焼きたてのケーキは膨らみきって安定していない柔らかさがある。ましてやスポンジケーキのようなふわふわとしたものは壊れないようにと型から取り出すのにも神経を使うはずだ。
そう考えるとロクはそのケーキが硬いように思えてならなかった。
「無事でよかった。本当にありがとうね。ロクって割と頼りになるんだね」
恥ずかしげにミミは言う。自分も照れくさかったのか、ケーキを持ってキッチンへと戻った。
「いや、それよりもそのケーキ、味は大丈夫なのか」
「もちろん大丈夫よ」
「ちょっと味見した方がいいんじゃないか?」
「ああ、もしかしてケーキ食べたいんでしょ」
「いや、そうじゃないけどさ」
「恥ずかしがらなくていいからさ」
ミミは網目のケーキクーラーに乗せようとケーキ型を逆さまにしてスポンジを取り出した。
「これじゃ反対だ」
それを素早くくるっとひっくり返した。ロクはその乱雑な様子を見ていて、ケーキが硬い事を確信した。
ミミは刃にぎざぎざがついたナイフを持ち、中心の盛り上がっていたところを削り落として平らにしようとする。
「ケーキのこういうところがおいしいんだよね。はい、どうぞ」
丸く切り取った部分を掴み、それをロクに差し出した。
ロクは仕方なくそれを手にする。表面はクッキーみたいなパリッとした硬さだった。そして口にした。
ミミはロクが食べるのを固唾を飲んで見守っていた。
「美味しいとは思うけど……」
ロクは言いにくそうに語尾を濁す。
こういうケーキの端くれ、パリッとした部分は基本美味しい部類だ。だが、市販されているケーキと比べるとやはり質が違う。
「何、その奥歯にものがはさまったような言い方は」
「違うんだよ。味は本当に悪くないよ。でもこれでデコレーションケーキ作るんだろ。ちょっとこれでは硬くてパサパサなんじゃないかなって思うんだ」
「ええっ、ケーキってクリームやフルーツつけたら、それだけで美味しいじゃない」
ミミは感覚でケーキを作っている。
「でもさ、スポンジの部分がパサパサしたら触感悪くならないか? そうすると美味しさも……」
ミミは急に気分を損ねて、投げやりにスポンジの真ん中にナイフを当てると二枚におろし始めた。
切りにくそうにボロボロと端からケーキクラムがこぼれ、切り口がガタガタになっていた。ミミの気持ちはどんどん消沈していく。
切り終わってミミはため息を一つ吐いた。
「本当だ。これすごくパサパサだ。切ってて分かった」
「でもいいじゃないか。味は悪くなかったし、食べられない事はないよ」
ロクも罪悪感を覚えて慰めようとする。
「食べられても、食感悪かったら美味しくないんでしょ。いいよ、無理しなくても。なんかちょっと疲れちゃった。少し休んでくる」
ケーキをそのままにしてミミは肩を落として部屋に行く。そのうち小さくドアが閉まる音が聞こえた。
その一部始終を見ていたロクもまた気まずくなってくる。そこまで貶すつもりで言ったわけではなかった。つい思った事が口から出ただけだ。
「ああ、やっちまった」
なんとかしたいと思ったとき、パッとアイデアが閃き、スマホを取り出し何かを検索し出した。
「ええっと、確かトレス何ちゃらだったな」
そして探していた情報が見つかると、棚を開け缶詰を探し出した。
5
一方でミミはベッドの上に寝転び、枕を頭に被せて足をバタバタさせていた。道具も材料も全て揃っていたしケーキ作りの本に書いてあったレシピ通りに作ったし、焼けばスポンジもいい色だった。
型から取り外ししやすいように、バターを塗って粉をまぶしてそれも完璧だった。だから簡単につるりと型から抜け出たわけだけど、あれならあのまま床に落ちた方が救われていた。
必死で受け止めてくれたけど、それが却って落ち込む結果になるとは思わなかった。
ケーキを作ろうと思ったのは、設備のいいキッチンや予め用意されていた材料を見ていると、無性にお菓子作りの意欲が湧いたからだ。
もともとお菓子作りは趣味ではあるが、ロクの前で少しいい格好したいと思ったとき、お菓子作りの本に載っていた写真がとても素敵で作りたくてたまらなくなった。これを作ればすごいと思われるかもしれない。独りよがりの思いあがりだった。
自分にも作れると思って挑戦したけども、卵白をかき混ぜている時に雑念が入って集中できずにいい加減になってしまった事を今になって反省する。最後は疲 れてこれでいいかと投げやりになってしまった。ふわっと仕上げるにはメレンゲが大事だというのに、しっかりそれが作れてなかった。
「ああ、自己嫌悪」
また足をばたつかせていた。
あの年老いた男性からもらった地図を手にしてここへきたけども、その道のりがよくわからず、一向に目的地に着かずに途方にくれていた。方向音痴と言えば それまでだが、見知らぬ場所は何度地図を見ても、見たこともない景色だと何があるか頭に定着せずに混乱してくる。どうしようかと思っていたとき、雲から太 陽が顔を覗かせた。不思議なことに辺りが眩しくなると同時に突然視界が開けていった。目を細くして見た先に、このマンションがあることに気がついた。
あれに違いないと、思って夢中で近づけば、やっと地図通りに歩くことができた。目の前ばかり気にして街の全体を見ていなかったのがその原因だったのかもしれない。
信号を渡り、角を曲がっているうちに街の中にポンと広場が現れた。木がたくさん植えられてまるで森のようだ。住宅街にある子供の遊び場の公園と違ったそ の風貌は、芸術色が濃く、噴水やオブジェが置かれて広々としていた。その向こう側に建っていたビルはまるでリゾートホテルのようだとミミには思えた。ゆっ くりと近づき突然足を止める。
中に入ろうとするが、ここで合っているのか急に自信がなくなり躊躇してしまう。今時の最新設備がミミの想像を超えすぎて怖じ気ついてしまっていた。
自分が今どこにいるのか分からず混乱している時だった。マンションのエントランスから男性が出てきた。それがロクだった。
まるで以前会ったかのようにミミに近づき、親しみを込めて笑うその顔にミミの心臓がドキッと跳ね上がった。体が急に火照っていく感覚を覚え、息が荒くなる。
自分の中の欠けていたピースがピタリとそこに当てはまったようなハッとする驚きがあった。
それが衝撃過ぎて、ミミは以前どこかで会ったような感覚に捉われた。
まだこの時、それがどういう意味だったのかミミは深く考えなかったけど、今ベッドの上で足をバタバタさせながらようやく気がついた。
「一目惚れだったんだ!」
ミミは恥ずかしさから体がキュッと熱くなり、自分の失敗にいてもたってもいられない。当分はロクの前に顔を出せないと、ほとぼりが冷めるまでジタバタしていた。
そうしているうちに疲れていつの間にか寝てしまっていた。
6
「おい、ミミ、何してんだよ」
コンコンとドアをノックする音と一緒にロクの声が聞こえる。
ミミははっとしてベッドから飛び上がった。
「えっ、何か用なの?」
ミミは髪の毛を触り、服の乱れがないか慌てて確認する。
「おい、早く出てきてくれ、依頼人が来た」
「うそ、依頼人?」
その言葉にミミはドアの扉を勢いで開けた。
「うそじゃないぞ」
困った顔つきのロクが無理に笑いながら、リビングルームを指差している。
ミミは部屋から顔を出し覗き込む。そこにはロングヘアーの女性がソファーに座っていた。ミミを見ると立ち上がり一礼する。
ミミも部屋から飛び出し、慌ててペコリとお辞儀した。
「ど、どうも、いらっしゃいませ」
初めてのことに動揺してしまった。
「ミミ、とにかくお茶をお出ししてくれないか」
「あっ、はい」
ロクも緊張しているが、ミミも同じだった。
「あの、お構いなく」
タイトスカートを穿いたその体つきは、ロクが好みそうなメリハリした女性らしさが強調されている。黒っぽいストッキングを履いたすらっとした足も色っぽい。
ミミは急に落ち着かない嫉妬にも似た危機感を感じてしまった。そわそわしながらケトルに水をいれる。
「どうぞ、お掛けになって下さい。とにかく話を聞きましょう」
ロクに言われ、女性は腰を下ろした。
ソファーはコーヒーテーブルを挟んで対面式に置かれている。ロクは女性の向かいに座わった。
リビングルームとして使っているその空間は依頼人が来ると事務所に変貌し、慣れないことにロクは足を無意識に揺らしてしまう。
「あの、私、白石織香と申します。看護師をやっています」
「俺は逸見です。そしてあそこにいるのが助手のミミです」
正式に紹介を受け、織香はお茶の支度をしているミミに軽く会釈した。
「あの、ここをどうやって知ったんですか?」
お茶の葉を急須に入れながらミミが訊くと、織香は手提げバッグからチラシを出した。
「これが家のポストに入っていたんです」
ロクはそれを受け取り声に出して読んだ。
『お困りのことならご相談下さい。良心的な値段でご依頼承ります。逸見探偵事務所』
住所と電話番号の他に虫眼鏡を持つシャーロックホームズのようなキャラクターが添えられて、いかにも手作り風のチラシだった。
ロクはミミに振り返り、ミミが作ったのかといいたげな顔を向けたが、ミミも知らないと首を横に振っていた。
そうなると、九重のおばあさんしか心当たりがなかった。これがそのサポートのひとつなのだろうとロクはすぐに理解した。
「そうですか。それはどうもありがとうございます」
「それであの料金なんですが、おいくらくらいでしょうか」
「あっ、その、そうですね、まずは無料でご相談を承り、その後お見積もりをさせて頂きます。あとは白石さんが正式にご依頼するかどうかご判断下さい」
実際何も考えてなかったロクは、とにかく先にどんな依頼なのか知りたかった。
「わかりました。実は最近、誰かが見ている気配を感じたんです」
「ストーカーですか?」
「いえ、その、付けられているとかじゃなく、家にいる時なんです。窓を開けていたとき、ふと庭の茂みから微かな物音が聞こえて、そちらを見れば何かが逃げていって核心に変わりました」
「泥棒でしょうか」
「私も怖くなって気をつけて戸締りをしっかりし、その日は友達にも泊まりにきてもらったんです。結局何もなかったので、ただの動物だったのかもと思い始め ました。実際、どこかの猫が窓から入ってくる事が多々あったので思い過ごしだったのかとそれで片付けたんですが、先日、変な手紙がポストに入っていて、な んか怖くなってそれで困っていたところ、逸見探偵事務所のチラシも入っていたのでそれでふらっとここを訪ねたというわけです」
「その手紙とは?」
「はい、これです」
織香はまた鞄から紙を取り出し、それをテーブルの上に置いた。
『まじょさん、ねこを男の人にもどしてください。ねこがかわいそうです』
子供の字なのか、わざとそういう風に筆跡をかえているのか、どっちにも取れた。ロクはそれを声に出して読み上げた。
「どういう意味だろう?」
ロクが首を傾げる。
「だから、私もそれを知りたいんです」
「はい、それは分かってます」
ロクは自分が探偵だったと姿勢を正した。
うーんと考えるが、実際何のことか全然わからない。依頼人の手前、わからないと根をあげることはできず、ただ困ったと脂汗が出てくる。
「いたずらの可能性もあるかもしれません」
「一体なんのいたずらなんでしょう。実際見られている妙な感覚もありましたし、何かが庭に入ってきたことも考えれば、これはいたずらではすまされない問題があるように感じるんです」
織香はすぐに答えが知りたいとじっとロクを見つめながらも、本当に謎を解いてくれるのかと半信半疑に表情が硬かった。
「ええと、白石さんのお住まいですが、一階のアパートですか?」
「借家なんですが、平屋の一軒家です。知り合いからの紹介で、持ち主のご夫婦が暫く海外で住むことになったので安く借りてます。その間、郵便物や家の面倒を見てくれということで、掃除はもちろんですけど、時々風を通したり、庭の草木に水をやったりしてます」
「平屋とは、最近は珍しいですね」
「昔ながらの日本家屋をリノベーションしているみたいです」
「この、まじょ、ですけど、これは魔法使いの魔女を意味しているとして、白石さんはこういう呼ばれ方を誰かにされてますか?」
「いえ、全くないです」
ロクは腕を組み考え込む。内心、全然わからず、謎が解けるのか非常に不安で気が気でなかった。
「どうぞ」
ミミがお茶を織香の前に差し出した。
「ありがとうございます」
織香は頭を下げるだけで手をつける気配がなかった。そこにロクを探偵だと信じ切れてない疑いがあった。
ミミはロクの隣に座り、テーブルの上に置かれていた手紙を手に取った。そして話しに加わる。
「この猫を男の人に戻すって、返すってことでしょうか? 以前猫が家に入ってきたと仰ってましたが、もしかして隠れて飼っているとか?」
「いいえ、それはありません。動物は飼ってはいけないという約束なので、いくらノラ猫がやってきても、餌を与えたことも一切ありません」
「それじゃ、この男の人というのは誰を指しているのでしょう。家にお友達を呼んだとき、その時に来た人ですか?」
できたら恋人であってほしいとミミは願う。
「いえ、家に来てもらったのは女友達です」
「それじゃ、彼氏とかいます?」
「いいえ、それがいないので」
プライベートな質問に織香は戸惑うも、ちらりとロクの様子を窺った。ミミはそれを見逃さなかった。これはロクに興味を持っているかもしれないと不安になっていた。
「じゃあ、きっと織香さんの知らないところで誰か知らない男の人が好意をもっていて、その男の彼女がこの手紙に書いている『ねこ』さんという名前なので は? だから第三者からみてねこさんという彼女がいるのに、勝手に白石さんにお熱を上げているからかわいそうに思って、誘惑をするなっていう遠まわしの脅 迫なのではないでしょうか? だから白石さんのことを誘惑する女の例えとして魔女さんと皮肉っているんですよ。誘惑している心当たりないですか?」
ミミにはその気持ちがものすごくよくわかるだけに、訊き方が意地悪っぽくなっていた。実際、ロクを誘惑する魔女に見えていた。
「おいおい、ミミ、勝手に話を飛躍させるな。白石さんにとっては寝耳に水だ。勝手にお熱を上げられていたとしても、白石さんは被害者で彼女には何の落ち度もないんだから、誘惑などの心当たりとかあるわけないだろう」
「あっ、あります」
織香は言った。
「ええっ、あるんですか」
ロクは驚いていた。
「いえ、私が誘惑とかじゃなんですけど、職場で、既婚の医者から思わせぶりな事を言われました。彼は奥さんがいますし、遊ばれるのが見えているので、無視 しているんです。だけどもしかしたら、そのお子さんが母親の事を心配して私が誘惑してると思いこんで手紙を書いたんでしょうか?」
「そのお子さんと会った事は?」
ロクはもしかしてと身を乗り出す。
「全く無いです。でもその推理だとちょっと当てはまったので、万が一と思いまして……」
織香はさらに考えを巡らしていた。
「会った事もない人の家を子供が突き止められるのかな? その医者に言い寄られている事を他の誰かは知ってますか?」
ミミが質問した。
「まだ誰にも言ってません。でも雰囲気で分かる人にはわかるかもしれませんが」
「職場では親しい方とかいらっしゃいますか?」
「はい、仲いい同僚は数名おります」
「その方たちから医者から言い寄られているのを最近心配されましたか?」
「いいえ、それはないです」
「だったら、職場ではまだそういう噂は流れてない可能性が高いです。もし流れていたら、私が白石さんの友達ならすぐに確認取ります」
ミミは勝手に話を進めていた。
「でも、たまたまその噂を知らなかったとか考えられるかもだぜ」
ロクは口を挟む。
「雰囲気で分かる人には分かるのなら、一番仲のいい同僚の方たちが気づかないっておかしい。友達ならそういう変化はすぐに気がつくと思う」
ミミは淡々と話す。
「そういえば、その中のひとりは情報通な人で、その人の耳に入ってないのはそういうことなのかもしれません。なにせ、一番詮索好きなところがありますから」
織香もミミに同意した。
「だったら、医者の息子さんの線もありえないですね。夫が浮気をしたら一番に気がつくのは奥さんだと思います。この場合まだ白石さんに相手もされない常態ですから、奥さんは白石さんのことすら知らない可能性が高いです」
ミミは思った事をズバッと言った。
「じゃあ、この手紙は何が目的なのでしょう」
結局は振り出しに戻ってしまった。
ロクは暫く考えた後、この場を取り繕う。
「現場を見て周りで何か不審な事が起こっていないか聞き込み捜査をしないと、話だけでは情報が不十分です」
「そうですか。それでこの謎の料金はどれくらいになりそうですか」
「ええと、子供のいたずらということも頭に入れて、これでしたら、三千円ですね」
ロクは織香の様子を窺う。
「そんなものでいいんですか」
織香は予想以上の良心的な値段にかなり驚き、一気にロクへの高感度を上げていた。
「それじゃお願いします」
織香は正式に依頼する。
この後のことはロクとミミに任せ、仕事があるからと織香は去っていった。
7
とりあえず次に繋げ、ロクは少しほっとする。依頼人を前にして推理を働かせるほどロクは慣れていない。
これが安楽椅子探偵ならすでに答えが分かっているのだろうと思うと、自分の不甲斐なさが悔しい。
「なあ、ミミ、初めてにしては結構さまになってた対応だったな」
自分よりもいい質問しやがってと、少し嫉妬した。
「そうかな? で、ロクはこの謎をどう解くの?」
「いや、どうしようかな。とにかく家の鍵を渡されて、必要なら入ってくれとまで言われたけど、参ったな」
「それだけ、私たちを信用してくれたってことだと思う。そしてやっぱりこんな手紙がはいってたら気持ち悪いし、早く原因を知りたいのよ。ロクにも期待しているんじゃないかな。とにかく今から白石さんの家の周辺を見にいこう」
ロクとミミは織香の家へと向かった。マンションを出て徒歩十分くらい歩けばビルが建ち並んだ街の喧騒が遠くなり、閑静な住宅街へと移り変わっていく。ちょうど下校時刻なのか、ランドセルを背負った学校帰りの子供たちがまばらに歩いて家路についている姿がちらほら伺えた。
「車が来てるのに急に走って危なっかしいな」
「ロクも子供頃はあんな感じだったでしょ」
「俺は大人しい優等生だったぞ」
「はいはい」
すれ違う無邪気な子供たちの姿をミミは微笑んでみていた。
「そういえばこの辺ってコンビニが多いね」
「そうか、こんなもんだろ」
「家の建ち方もデザインが箱みたいで、モダンと言えばそうなんだろうけど、変ってるね。時々すれ違う車もコンパクトでカクカクしてる」
「最近の家はこんなもんだよ。で、ミミは免許もってるのか?」
「持ってない」
「じゃあ、普段どんな車が走っているのかあまり興味ないだろ」
「うん、そういえばそう。家の車にはお抱え運転手がいて、いつも送り迎えされてる。景色も目に映して流しているような毎日だった」
「どこのお嬢様なんだよ」
ロクが突っ込むと、ミミは軽く笑って受け流していた。
「こうやって自分の足で見知らぬ街を歩くと変な気分。竜宮城から戻ってきた浦島太郎になったみたい」
封印している記憶と向き合おうとしている前向きな姿勢なのかもしれない、とロクは思った。
ミミはロクの想像を超えた上流階級のお嬢様といっていい。その点についてはロクも詮索しない事を決めていた。
それも九重の忠告のひとつであった。
『できたら、自分から話すまであまり過去の事を訊かないでやって下さい。ミミも自分が置かれている立場が通常と違うと気がついています。いつか必ず過去のことと向き合う日がきます。それまで彼女にできるだけ合わせるように適当にあしらって下さい』
マンションの鍵を九重から渡される時に、色々な注意事項を話された内のミミに関しての項目がそれだった。
ミミがここへやってくる当日、ロクは待っているよりも迎えにいこうとエントランスを出ようとしたときだった。マンションのエントランスで入るのを躊躇っ ている女の子が目に入る。それがすぐにミミだと判別できたのは予め写真を見ていたお陰だった。すぐさま近寄っていきなり馴れ馴れしさを出した。依頼された 仕事だったから、そこはサービスで親しみをこめて接した。ミミも初めてにしてはすでにロクの事を知っていたような態度に、物怖じしないものを感じた。
すぐさまミミを部屋に招きいれるも、見ず知らずの異性とこれから共に生活するのはかなりおかしな状況だ。それを深く考えないようにし、なるべくビジネスだからと思い込んだ。
ミミにもここがそれぞれの部屋に鍵がかかる安全なつくりと強調し、プライベートにはお互い干渉しない事を申し出た。
ミミもある程度の理解があり、すぐにそれを受け入れ仕事の話をし出した。
『それで探偵の助手って何をすればいいんですか?』
最初はミミも敬語で緊張していた。
『そうだな、まずは俺のおもてなしを受けてもらおうか』
早く打ち解けたいと、ロクはキッチンに常備されていたエスプレッソマシンでお得意のラテを作った。家庭用とは思えない本格的な機械だが、カフェでアルバ イトをしていたロクにはお手の物だった。商品としてコーヒー飲料を売っていた腕を少し自慢したくて、ロクは自分が入れたコーヒーを気に入ってもらえると自 負していた。
ダイニングテーブルに座り、ロクがコーヒーを入れるところをミミは珍しそうに黙ってみていた。 やがてそれが自分の前に差し出されたとき、ミミは困惑した。
『あの、私、コーヒーも牛乳も嫌いなんです』
申し訳なさそうに首をすくめていたミミ。
『そ、そっか、それは悪かった。じゃあ、紅茶なら大丈夫かな』
得意分野が否定されたような一抹の寂しさがロクの胸にこみ上げた。急に気まずい空気も漂い、ロクは躓いたみたいにぎこちなくなっていた。
その慌てているロクを見ていると、ミミはいたたまれなくなって、カップを手にした。折角の好意を無下にするのは失礼だ。しかもしょっぱなで。この変な状況にも関わらず一生懸命自分を歓迎してくれていることに歩み寄らねばとぐっと腹に力をこめた。
カップをじっと見つめれば、白い泡がふわふわとしている。普段コーヒーを飲まないミミにとってラテは不思議な飲み物に見えた。ふーふーと冷まして一口飲めば、口辺りがまろやかで、自分の知っているコーヒーじゃないことに目を丸くした。
『あの、これ、砂糖を入れてもいいですか』
『ああ、もちろん』
ロクは小皿に数個の角砂糖を入れたものを差し出した。ミミはひとつ、ふたつとつまんで入れてスプーンでかき混ぜる。
もう一度それを飲んだとき、ミミの目が見開いた。
『これ、本当にコーヒーなの? なんて口当たりまろやかで美味しい』
再びカップに口をつけ、病み付きになったように味わっていた。
『よかった』
ロクは素でほっとして、顔を弛緩させた。
『ごめんなさい』
ミミはカップを置いて畏まる。
『な、何が?』
『私を歓迎してくれているのに、つい失礼な態度を取ってしまって。私、世間知らずで、つい本音が出ちゃうんです。反抗期もあるかもしれません』
『いいよ、別に。嫌いだって言っていたものを美味しいって新発見してくれた方が、嬉しさも倍増した。これでも、コーヒー入れるのはプロ級なんだぜ』
『どおりで美味しいはずです』
『だろ、だって、美味しくなーれっていつも魔法をかけているからね』
『まるでコーヒーの魔法使いですね』
ミミと知り合ったばかりの頃を思い出しながらロクが歩いていると、いつしか織香の家の前に到着していた。
8
「ここだ」
ミミが入り口に走りよっていく。
茶色い壁のかわらの平家。今風に綺麗にリフォームされていた。それとは対照的に家の周りには少し年季が入ったブロック塀が囲んでいた。
そのブロック塀の入り口付近からそっと覗きこんで中を確かめる。
玄関は少し入り口から離れ、全体的に広い土地に家が建てられていた。洗濯物もたくさん干せる広めの庭。木や低木に囲まれちょっとした日本庭園風だ。その庭に面して大きな吐き出し窓があり縁台が置かれていた。
「いい雰囲気がある家だね。あの縁台に座ってビール飲みながら過ごすのもいい感じだ」
ロクが言えば、ミミも「バーベキューもできそう」と答えていた。
ふたりは家の外見を捜査じゃなく好奇心で見ていた。
「平屋だけど、屋根が高いところをみると梁天井になっているのかも」
「鍵があるんだから、後で中を見せてもらおうよ」
「おいおい、よそのお宅はそうそう勝手に入るものでもないだろう」
ロクはあまり乗り気がしなかった。
「えっ、つまんない」
「それよりも、何か変わった事がないか、この家の周辺を探ってみよう」
ロクは塀にはめ込まれていた郵便受けを覗きこんだ。そして玄関へと向かい、辺りを見回した。
ミミは低木や茂みをかき分け「にゃーお」と猫の鳴き声を真似をしだした。
「おい、何やってんだよ」
「だって、手紙に猫ってあったから、どんな猫か一応調べないと」
「猫を調べて分かったら苦労しないよ」
ロクが呆れていたとき、ふと門の入り口から視線を感じた。振り返ればランドセルを背負った男の子がこちらを見ていた。
ロクが見つめ返しても男の子はふたりが何をしているのか気になるのか、その場に立ち止まっていた。
「おい、ミミ、小学生の男の子がなんか見てるぞ」
小声で伝えるロク。
屈んでいたミミは立ち上がりにこっと微笑んで小学生を見つめた。
「えっと、何か用かな?」
「ねぇ、もしかして黒い猫を探しているの?」
期待が混じった男の子の力強い声に、ロクもミミもはっとした。
ミミが猫の鳴きまねをしながら探したが、色までは何も分かっていない。
「なんで黒い猫だと思うんだ?」
ロクがはっとしてつい力強く訊くと、男の子は急に怖じ気ついて逃げようと後ずさった。
「待って。そうよ、猫を探しているの。ねぇ、何か知っていたら教えてくれない?」
ミミはできるだけ優しく問いかける。男の子は思い留まりミミを見つめた。
「じゃあ、あの男の人の知り合いなの?」
男の子が何を言っているか分からず、ロクとミミは顔を見合わせた。
「とりあえず、お前、ちょっとこっちこい」
ロクが手招きし、ミミも隣で首を縦に振ってそうするように勧めた。
男の子はゆっくりと近づいた。
「まず、名前訊いてもいいかな?」
ミミは男の子の目線にかがんで顔を近づけた。
「きゅうたろう」
「えっ、オバケの?」
ミミはつい反応していた。
だが、男の子はキョトンとし、ロクも「はぁ?」と呆れてミミを見ていた。
「なんだよ、オバケって」
「ええー、オバケのQちゃん知らないの? 毛が三本の」
「はぁ? 知らないよ。お前、知ってるか?」
ロクは男の子に確認するが、男の子も首を横に振っていた。
「うそぉ! 有名な漫画じゃないの。ドラえもんと同じ作者の」
ミミはふたりが知らないことにびっくりしていた。
「ドラえもんは知ってる」
「僕も」
ふたりは顔を見合わせて頷いた。なぜか息が合っている。
「まあいいけど、きゅうたろう君ってどんな漢字書くの? もしかしてアルファベットのQ?」
ミミが訊くと、ロクは「なんでアルファベットのQが漢字なんだよ」と突っ込む。
「ええと、久しぶりの久に普通に太郎です」
「今、何年生?」
「三年生です」
ミミが尋ねた質問に久太郎ははきはきと答えていた。
「それじゃ、さっき俺たちが黒猫を探しているか訊いたよな。それで『あの男の人の知り合い』ってどういう意味だ?」
今度はロクが質問する。
「お兄ちゃんたちこそここで何してるの? 一体誰なの?」
久太郎は素直に質問に答えて良いのか今になって躊躇していた。
「ごめん、ごめん。えっとね、こっちがロクで、私がミミ。ちょっとここに住んでいる人に頼まれて、それで調べものしてたの」
「もしかして、あの魔女?」
その言葉に、ロクとミミは反応した。
「あの手紙を出したのはお前か!」
ロクは早速手がかりがつかめて飛び掛らんばかりに興奮する。ミミはすぐにそれをけん制した。
「ちょっとロク、落ち着いて。久ちゃん怯えてるじゃない」
急に大声を出されて、久太郎は体を強張らせていた。
「やっぱり子供のいたずらじゃないか。ああ、よかった。これで解決だ」
ロクはすんなり事が運んだことで安心した。
「いたずらじゃないもん。あの魔女が男の人を猫に変えたんだよ。僕見たんだ」
久太郎は必死に訴える。
「久ちゃん、落ち着いて。このお兄さんはとりあえず放っておいていいからね。とにかく、私に、なぜあの手紙を出したのか教えてくれない?」
理由がなければ、手紙なんて出さないだろう。あどけない子供の目だが、そこには悪気のない信念を感じた。久太郎の言い分を聞けばもっと納得できるはずだ。ミミは真剣に久太郎と向き合った。
「あのね、ある日、ここを通りかかったら、男の人がそこの窓から入っていったの」
「えっ、窓って、これのこと?」
庭に面した吐き出し窓をミミは指差した。
「うん、その時、開いてたの。暫くすると女の人が先がもこもこってした棒をもって振り回している姿が見えた。その時何かぶつぶつ言って詳しくは聞き取れな かったけど、最後は『猫になーれー』ってそこだけ聞こえて、そしたら暫くしてから黒猫が窓から飛び出してきたの。きっと男の人が猫に変えられて追い出され たんだと思う。あの女の人は魔女なんだよ」
ロクは家を見ながら考え込み、ミミも慎重になっていた。
「何かの思い違いじゃないかな。もこもこした棒はきっとダスターで掃除をしていたんだと思う」
「僕もはっきりとさせたくて、ついここに入っちゃったんだ。ほら、そこに小さな木の茂みが並んでいるでしょ。それでそこに身を隠して暫く家の中を見ていたの」
「それ覗きだぞ」
ロクが突っ込む。
「うん、悪いと思ったけど、もし本当に男の人が猫に変身してたら、事件でしょ。やっぱり放っておけないよ」
久太郎は悪くないと胸を張った。
「それでどうだったの」とミミ。
「うん、女の人はひとりだったし、男の人の姿は見えなかった。そのうち『誰かいるの?』ってばれそうになって、それで逃げたの」
「ふんふん」
ロクは頷く。
「時々、その黒い猫がこの辺りにいて、きっと人間に戻りたいんだろうなって思うと、ついかわいそうになって、猫を男の人に戻してくださいってお手紙を書いたの」
「なるほど。そういうことか」
ロクの目が鋭くなっていた。
ロクは玄関に向かい、鍵を取り出して鍵穴に差し込んだ。
「ロク、家に入るつもり?」
ミミが驚く。
「ミミと久太郎はここにいろ」
「何するの?」
ミミの心配もよそに、ロクは引き戸を開けてスタスタと中に入っていった。
「お兄ちゃん大丈夫かな」
魔女の家と信じ込んでいる久太郎は怖くなってミミの服の裾を引っ張った。
ミミを頼っているそのしぐさがかわいい。
「大丈夫だよ。ロクはああ見えてもしっかりしているところがあるんだよ。コーヒーを美味しく入れるのがすごく上手いんだから」
「コーヒーを美味しく入れる人ってすごいの?」
「うん、すごいよ。だって、おいしくなーれって魔法が使えるからね」
「ええ、じゃあ、あのお兄ちゃんも魔法使いなの?」
「そうだよ。だから大丈夫」
「うわぁ、すごい」
とりとめもない話なのに、久太郎はとても素直でありのままを受けいれていた。
ふともれたお互いの笑顔がふたりの緊張を解きほぐした。
しかし直接口には出さなかったが、内心ミミはこの状況を心配していた。久太郎の話に少しだけひっかかりがあって、それがとても悪い予感を感じさせたからだ。
その時、「うわぁ!」と驚きの声が聞こえ、急にバタバタとした騒がしい音が聞こえてきた。