「そうでっか、そこにいる、ちょっと太った兄さんが」
「おいおい、太った兄さんってなんですか。僕は中井戸いいます」
「中井戸さん、しかもすぐそこのアパートに住んではるんですか。そこで猫が持ってきたかもしれないメモを見つけて、誰がそれを書いたのか、ここにいてはる探偵さんに依頼したということですな。そして白石さんも虐待かもしれないと疑って、協力したということですか」
 織香もコクリと頷き、正直に認めた。
 瀬戸が説明をうけていた間、中井戸もこの状況を把握し、この騒動のことの発端が自分だったとやっと気がついた。
「まさか、こんな近くにメモを書いた人がいるなんて。本当に灯台下暗しだったんですね」
「とにかく、メモはうちの子が書いたということで、この件は解決ということでしょ」
 瀬戸は中井戸をギロリと睨んだ。中井戸はドキッと身をすくませた。
「それだけで済ませられないわ。メモには助けてってあるんだから。正直に話してください、祥司君を叩いたことあるんですか?」
 ミミがはっきりといった。
「そら、悪いことしたり、我がままなときは、ちょっとこう、ペちっと言うくらいの力で叩いて『めっ!』というくらいはありましたけど」
「じゃあ、なんで祥司君は手首を捻挫したんですか?」
「それは、こいつがそそっかしいからに決まってますわ。落ち着きがないというのか、無茶なことしすぎなんですわ。バナナの皮は本当に滑るかっていう実験を自分でして、案の定滑った拍子に手を捻挫ですから。頭を打たなくてほんまによかったですけど」
 瀬戸の話を聞いて、一同唖然としていた。
「本当なの、祥ちゃん?」
 織香が訊けば、祥司はこくりと首を縦に振った。
「ちょっと待って、何も隠さなくていいんだよ。正直に言えば、私たちが必ず助けてあげるから」
 ミミが身を乗り出して訴える。
「お父さんが言った事は本当です。僕が自分で仕掛けたバナナの皮で滑ったんです」
 祥司は顔をあげミミを見つめていった。嘘を言っている様子が見られなかった。
「ね、言ったでしょ。ほんまに、あの時はびびりましたわ。妻は仕事先だし、こいつはこの世の終わりかというくらい痛がりよって、骨が折れたかと思いまし た。すぐ病院に連れて行って、白石さんが按配してくれてほんまにあの時は助かりました。こいつは、気になるものを見たらすぐに手が出て触るから、ひとりに して置けなくて、それで病院でも付きっ切りですわ。気を許したら、白石さんのお尻触ろうとしてて、アホかって思いました」
「へへへ」
 祥司は織香を見上げて誤魔化し笑いをしていた。
「こいつ、手当てをしてもらってから白石さんを好きになってしまって、白石さんに会いたいばかり言うんですわ。それで今朝、急に頭が痛いとか言い出して、 熱を測ったら四十度近くあって、えらいびっくりしました。だけどこれも小細工されて騙されたってことだったんですね。ついびっくりして白石さんを頼ってし まって、ほんまにえらいすいませんでした」
 瀬戸は頭を下げてわびた。
「あれ、仮病だったの?」
 織香が訊くと、祥司は申し訳なさそうに頷いた。
「ほらね」
 情けない表情の瀬戸。
「でも、あれは……」
 祥司は反論しようとする。
「だから白石さんに会いたかったんだろ」
「うん、そうだけど」
 祥司はしゅんとして、恐々と織香に視線を向けた。
 織香はどう反応していいのか分からず、困惑していた。
 その時ミミは、織香の魅力の手ごわさにぞっとしていた。中井戸も、小さな祥司ですら夢中にしてしまう織香。危機感が増してしまう。
 そっとロクを見つめれば、ロクはじっと突っ立ってこの状況を真剣に見つめていた。
「メモを書いたのも、こいつにとったらいたずらなんですわ。冷蔵庫にリモコン入れたり、背中に『バカ』と書いた紙を貼られたり、このメモも俺を困らすためにわざとやったに違いありません」
「祥ちゃん、いつも瀬戸さんに意地悪してるの?」
 織香は確かめる。
「いつもじゃないけど、たまに……」
「ええ、じゃあ、あのメモもいたずらで、それでまんまと僕も騙されたってことか。なんだよ、それ」
 中井戸はやるせないため息を吐いた。
「どうして、そんな意地悪をするの?」
 ミミが訊いた。
「全てが意地悪じゃない。メモを書いたときも本当に助けてって気分だったんだ」
「それは瀬戸さんが、本当のお父さんじゃないから?」
 ミミが訊くと祥司の目が泳ぎ出した。そのことにはあまり触れたくない様子だった。
「ちょっと待って下さい。ええと、あんたは確か、メメさん」
「違います、ミミです」
「ミミさん、こういうことになっていい機会だから、はっきり言いますわ。祥司もよく聞いてくれ、ええか、今から言う事は本当のことやで」
 瀬戸は立ち上がり、食器棚にあった引き出しから一枚の写真を取り出した。
 それはまだ学生風の男女が赤ちゃんと一緒に映った写真だった。顔がぼんやりとぼやけてそれは鮮明じゃないが、若い父親に抱かれる赤ん坊、その隣で若い母親が体を寄せ合っていた。
 その写真をローテーブルの上に置く。
 ロクと中井戸が近づいてそれを覗き込む。ミミも椅子から立ち上がりその写真に視線を落とした。
「この赤ん坊は祥司、これが比井あかり――祥司の母親です。そしてこの男が、祥司の父親――瀬戸和成、すなわち俺です」
 皆、いまいちぴんとこず、「ん?」と頭に疑問符を乗せて辺りがしんとしてしまう。
「だから、祥司と俺は血の繋がった実の親子ってことなんです。あかりが出張先から帰ってきてから話す予定だったけど、こんな誤解をされた以上、言わざるを得ませんわ」
 一番驚いていたのは祥司だった。
「本当に、僕の本当のお父さんなの?」
「ああ、あの時はまだ学生でな、お互いの親から結婚は反対されるし、お金はないしで、どうしようもなくて、それで俺はなんとか金が入るいい仕事を見つけよ うと無理をした。まあ、そこは端折らしてもらいますけど、あこぎな商売してたんですわ。でもお金のために必死に働いているうちに、その組織から抜け出せな くなってしまって、ますます結婚できるような状況じゃなくなりました。このままではいけないとなんとか頼み込んで足を洗わせてもらったんです」
 婉曲に話しているとはいえ、瀬戸の話は誰しもあっち系のやばいものしか想像できなかった。
「親父と、いや、社長と上手いこと話がついて、それでやっと親子水入らずで暮らせるようになったんです。長いこと離れていたから、少しずつ慣らそうという ことで、妻が仕事をしている間、俺が主夫として祥司の面倒を見てました。そうすることで父親として一緒にいられなかった今までの時間を取り戻したかった し、継父と思われていても気に入ってくれたらそれはそれで儲けもんやしと暫く様子を見ていたんですわ。そしたら、まさかこんなやんちゃ坊主とは思わんで、 俺の方がびっくりでした。まあ、俺の子供時代に似ているんすけどね」
 恥ずかしそうに頭に手を置いて話す瀬戸の様子は見かけとは違う父親の顔が窺えた。ぶっきら棒で強面なのは環境がそうさせたのもあるのだろう。内面は純粋で真面目な面をもっている。少なくともここにいる者は瀬戸が虐待するような父親には見えなかった。
 本当の父だと知らされた祥司は目を潤わせている。
「いきなりで信じろというのは無理やろうけども、ママが戻ってきたらまた詳しく説明してもらい。そんだら祥司も理解できるかもしれん」
 顔が弛緩した瀬戸の表情もまた、話した事が嬉しいようであり、すまない気持ちが入り乱れている。実の息子にどう思われるのか不安も持ち合わせているのだろう。頼りなく微かな笑みを浮かべていた。
「祥ちゃん、お父さんが戻ってきてくれてよかったね」
 織香がにっこりと笑うと、祥司は「うん」と力強く首を縦に振った。
「お父さん!」
 目を輝かして迷いなく祥司は呼んだ。
「な、なんや、急に」
「へへー、お小遣いちょうだい」
 手を前に伸ばす祥司。
「お前、この状況で感動もへったくれもなく、いきなり小遣いせびんのか。ええ根性しとるやんけ」
「だってさ、今まで遠慮してたから、言いにくかった」
「そ、そうか、それはしゃーないな。何、買うねん」
「ゲーム!」
「よっしゃ、それやったら買ったるわ。ちょうど明日子供の日やしな」
「やった!」
 祥司は立ち上がってピョンピョンとその場で跳ねた。
「だから、家で暴れるのはやめなさい。また滑って怪我するぞ」
 ふたりのやりとりは、見ているものを和ませた。
「なんだか、取り越し苦労だったけど、これでよかったわ」
 織香が腰を上げようとした時、祥司はそれを止める。
「お姉ちゃん、まだ帰らないでよ」
 ドサクサにまぎれて祥司は織香に抱きつく。
「ああ、織香さんに触るな!」
 中井戸の体が反応で動くと、すぐにロクがそれを静止した。
「中井戸さん、落ち着いて。とにかく、俺たちは帰りましょう」
「あっ、兄ちゃん、ちょっと待ちや。誤解から変なことになったけど、結果オーライや。あんんたのお陰でもあるわ。礼くらい言わしてや。ありがとうな」
 律儀な瀬戸に頭を下げられ、ロクは恐縮する。
「そういえば、まだ、お茶も出してなかったわ。ちょっとゆっくりしてってや。ちょうど、子供の日やからってちょっと甘いもん作ったんや。みんなで食べたらパーティみたいで祥司にはええ子供の日の思い出になるわ」
「甘いもの!? あっ、私、食べたい」
 ミミが即座に反応した。
「そうか、そんなら、お茶の用意するわ。あんたらもそこに立ってないで、ちょっと座り」
 瀬戸はロクと中井戸に声を掛け、カウンターを挟んだ奥のキッチンで忙しく準備をし出した。
「僕は、甘いものも、お茶も控えていて」
 中井戸が織香をちらっと見ながら遠慮する。
「えっ、中井戸さん、どうしたんです? 普段は暴飲暴食で、そんなこと気になさってなかったくらいなのに」
 織香が不思議がる。
「だって、この間、頭が痛くて病院で検査したとき、数値がよくなくて食事には気をつけてっていってたじゃないですか」
「ああ、そうでした。偏頭痛はカフェンインは控えた方がいいし、中井戸さんはふくよか気味で糖尿病になったらいけないので、糖分にも気をつけてとはいいましたね」
 織香にしたら職業上の決まり文句みたいなものだろう。
「織香さんに『痩せたら健康になりますよ』って言われたから、今ダイエットしているんです。今のところ三キロは痩せたんです。それで見かけもよくした方がいいかなって思って、久しぶりに散髪してきたんです。どうです、ちょっとよくなったでしょ」
 きりっとした表情を中井戸は織香に向けた。そこに自分にもチャンスがあるといわんばかりに。
ロクはそれを見ながら、そういう理由でこだわりがあるのかと、何かを発見したかのようにそのやり取りを興味深く見ていた。
「そ、そうですね。とてもいいと思います」
 織香にとって中井戸は看護師と患者の間柄にしか過ぎず、邪険にも出来ず無難な対応するにも加減が難しそうだ。
「織香さんなら気に入ってもらえると思いました」
 ローテーブルを挟んだ織香の前に中井戸は腰をおろして正座した。祥司は露骨に嫌な顔をしていた。
 中井戸は調子に乗って織香と話をしだすが、祥司はそれを邪魔して織香に話し掛けた。中井戸と祥司は揉め、織香がその対応に困っていた。中井戸と祥司の織香を巡る戦いが始まりソファーの周りは騒がしくなっていく。
 ロクはダイニングテーブルについているミミの隣に座った。
「雨降って地固まるか」
「まだまだ固まってないんじゃないの?」
 中井戸と祥司の言い争いを見てミミは笑っていた。
「まあ、何にせよ、祥司はあれで楽しんでいますわ」
 瀬戸がミミとロクの前にお皿を置いた。