ふたりは謎ときめいて始まりました。


「それでは、やっぱり心配で様子を伺いに来たということで、祥君の様子をできる限り探ってください」
 瀬戸の家の近くの角を曲がったところでロクは織香に念を押す。
「わかりました」
 織香は真剣な眼差しを向けた。
 ふたりが見詰め合っている姿にミミはむっとしてしまう。
「でもさ、あの瀬戸っていう男が側にいたら、祥君も正直に話せないんじゃないかな」
「それじゃ、私が祥ちゃんを外に連れ出して……」
 織香が言う途中でミミは遮る。
「病人を外に連れ出すのは継父も怪しむでしょ。それなら、継父を外に出したほうがいいんじゃないかな」
「どうやるんだ?」
 ロクが訊いた。
「私がまたインターホンを押して、なんとか外に出てくるようにいう。白石さんの前なら、邪険に扱えないと思う。その時に、白石さんは出来るだけ祥君からメモの意味を訊いて」
 ミミはメモを織香に渡した。
「分かったわ」
 織香はメモを受け取り、それをパンツのポケットに入れた。
「決して無理をしないで下さい。もし危ないと思ったりしたら、すぐに出てきてください」
 ロクは心配していた。
「あのさ、危ないってどんなこと? 相手は虐待を隠そうとするんだよ。馬脚を現してどうするのよ。危なくなった方が遠慮なく通報できて好都合じゃないの?」
織香を心配するロクに苛立ってしまうミミ。
「そうかもしれないけど……」
 ミミの機嫌が悪くなっている。急にしらけムードを感じてしまい、あまりいい気分になれず、ロクはこれで本当にいいのか迷い出した。
「ここで話すよりも、実際に様子を見てきます。なんとかなるでしょう」
 ロクが何かを言う前に織香は角を曲がって瀬戸の家に向かってしまった。
 身を隠してそれをロクとミミは覗き見するが、内心気が気でない。ロクは喉から心臓がせり上げてきそうにドキドキしていた。
 そんなロクの姿を見てミミは気に入らない。
 ――ロクの馬鹿、馬鹿。
 苛立ちをぶつけるように、ぶつぶつと小声で呟く。
「おい、なんかの呪文でも唱えているのか。落ち着け」
「そっちが落ち着きなさいよ。馬鹿」
「おいおい、いい加減にしろ。今になって俺も後悔してきたじゃないか」
「今更遅いでしょ。とにかくやるしかないじゃない。んもう! 肝心なところでへたれるんだから」
 ミミの口から欠点を言われるとロクの耳は痛かった。
 必死で形だけでも探偵になろうとしているが、実際はいつもこれでいいのかと不安になってくる。ミミの前では醜態を見せたくないと、踏ん張っているが、成 り行きでなってしまった探偵の仕事は思った以上に神経を使っておろおろしている。今のところは、ミミの助けもあってそれで成り立っているが、自分ひとりだ と推理だの解決だのなんてどうしていいのかわからない。
 ロクは昔から人並みに何かを器用にする事はできるが、そこから掘り下げて最後まで達成するという部分に欠けていた。
 だから仕事も就職できたらいいというだけで適当にサラリーマンになったものの、仕事をすれば単調でそれでいて面倒くさい事をずっと続けていくのが億劫になり、もっと自分に合う仕事をするべきだと豪語してやめてしまった。
 何かの資格を取ろうと本を買うまではよかったが、勉強も碌にせずに怠けてばかり、そのうち本気出すなんて思っていたが結局親からも見離されて家を追い出されてしまった。
「はぁ」
 ロクは自分の過去を振り返ってしまい、やるせなさがこみ上げてついため息を吐いてしまった。
 その間に織香はインターホン越しに何かを話している。病人を前にして働いているだけあって、物怖じせずに落ち着いていた。
「白石さん、瀬戸と上手く話を付けているみたいだね。これなら簡単に中に入れるかも」
 織香にわだかまりを持っている事は一旦置いておいて、ミミは事が上手く行く事を願った。
 話終わった時、織香がこっちを向いてオーケーのサインを指で作っていた。
 今から瀬戸がドアを開けて織香を招き入れると思ったその時だった。めがねをかけたふくよかな男が織香へと近づいてくる。
「織香さんじゃないですか。どうしたんですか、こんなところで。奇遇ですね」
 浮き浮きと嬉しそうに語りかけていた。
 ロクもミミも予期せぬアクシデントに、慌ててしまう。
「あれ、中井戸さんだ」
 ロクがまずい顔をしていた。

「えっ、中井戸さん? なんか髪型が違うし、こざっぱりと綺麗になってる」
 ミミは驚いていた。
 それよりもこのタイミングで、瀬戸がドアを開けて出てきた。
「白石さん、わざわざすみません……あれ、その人は?」
 瀬戸が中井戸の存在に気がついた。
「ああ、ええと、今偶然会って、挨拶をしていただけです」
 織香が答えた。
「そうですか、とにかく、中に入ってください」
「あっ、はい」
 織香が門を開けて中に入ろうとすると、中井戸の顔つきがきつくなった。
「ちょっと織香さん、この人とはどういうご関係ですか?」
「いえ、ちょっとね」
「まさか、何か言えない関係とか」
「ち、違いますって」
 ミッションがある織香には中井戸が邪魔で仕方がない。
「この人、奥さんがいて子持ちですよ。あなたもね、織香さんをそそのかすのはやめてください」
 瀬戸に向かって敵意を向けた。
「はぁ? 何言うてはるんですか。白石さんはただ息子を心配して様子を見に来てくれただけですがな。あまり変な言いがかりしやんといてくれますか」
 丁寧な口調だが、腹立つのを必死に押さえ込み、代わりに瀬戸のコメカミがピクピクとしていた。
「とにかく織香さん、帰りましょ」
 勘違いの中井戸は、織香の手を引いた。織香はそれにびくっとして嫌がった。
「おいおい、織香さんが嫌がっておられるやないかい。あんたこそ、勝手に誤解して、織香さんに触れて何してはりまんねん」
 益々ピリピリする瀬戸。
 一触即発の空気に、隠れて見ていたロクとミミはハラハラとしていた。
「ロク、なんかやばいんじゃないの。なんで、あそこで中井戸さんが出てくるのよ」
「これは俺たちが出て行って説明しないと」
「でも、今、私たちが出て行ったらもっとややこしくなるって。だって、さっき白石さんのところにいて姿を見られているんだよ。どうして私たちまでこんなと ころにいたんだってことになって、瀬戸にはどうやって説明するの。それだけで私たちが虐待を疑っているってバレちゃうよ」
「もう、ばれてもしかたないよ。ほら、あれを見ろ」
 怖い顔をした瀬戸が肩を怒らせて家から出てきて、中井戸を追い詰めながらタイマン張っていた。やはり血の気が多いそういう道の人だ。
「勘違いも大概にしておきや。これ以上白石さんを困らせたら、俺が許さんぞ」
 目を吊り上げた顔が瀬戸に似合いすぎている。喧嘩慣れしたチンピラそのものだ。
 中井戸も少し及び腰になりながらも、織香を前にして引けに引けずに、無理して抵抗する。意地だけで踏ん張っているが、顔から冷や汗が噴出し、相当ビビッている様子だった。
「ちょっとふたりともやめて下さい。私はただ祥ちゃんの様子を見に来ただけで」
 こじれてしまったこの状況に織香はどうしていいかわからず、ロクとミミの方向をちらりと見る。
 ロクが反射で飛び出そうとするのをミミは咄嗟に服を掴んで止めた。
「ミミ、離せ」
「ロク、落ち着いて」
「これで十分にわかったよ。直接祥司君に確かめるほどでもない」
 ロクはミミの手を振り払い、鉄砲玉のように走っていった。
「んもう、ロクの馬鹿」
 ミミはこの日何回そう言っただろうと情けなくなっていた。
「中井戸さん!」
 走ってきたロクに、そこに居た三人は振り返る。
「あっ、逸見さんじゃないですか。ちょうどよかった、助けて下さいよ」
 中井戸はこれで立場が逆転すると喜んだ。
「中井戸さん、よそ様のおうちの前で何しているんですか。とにかくこっちへきて下さい」
 ロクが中井戸の手を引っ張る。
「ちょっと待って下さいって。僕は織香さんを助けようとしているんですよ」
 中井戸は一歩も譲らない。
「ちょっと、兄ちゃん、あんた、さっき白石さん宅で会った人ちゃうん? なんや、あんたも白石さんの後付けてきたんかいな」
 瀬戸がギロリと睨んだ。
「いえ、俺はただの通りすがりで……」
「はぁ? なんかおかしいのう。一体あんたら白石さんをどうしようっていうねん」
「瀬戸さん、この人達は何も関係がなく」
 織香も必死に言い訳をする。
「白石さん、こいつらもしかしたらストーカーちゃいます?」
「いえ、違います、違います。あの、とにかく祥ちゃんの様子を」
 織香は話をそらそうとする。
 その間、勘違いした瀬戸は中井戸とロクにじりじりと近づき凄みを利かせていた。
 ロクは恐怖を感じ、中井戸は負けられないと必死で踏ん張る。
 三人の仲に入ってそれを止めようとする織香。
 瀬戸が顎を突き出し、強面をロクと中井戸へ見せ付ける。
「手を出したら、け、け、警察呼びますよ」
 中井戸がけん制した。
「おお、上等やないか。呼べるもんなら呼んでみ、そっちが先にいちゃもん付けてきただけで、俺には関係ないわ」
 混乱が生じている間、ミミは瀬戸が背中を向けている事をいいことに死角となり、素早く近づいて勝手に家の中へと入ろうとする。
 そこにいた瀬戸以外、ミミの行動をちらりと見て度肝を抜かれていた。
「なんや、変な空気今流れたで」
 瀬戸が振り返ろうとするところを、咄嗟にロクが気をそらす。
「ああ!」
「なんや、急に大声出して」
「む、胸が、く、苦しい」
「はぁ? 発作か」
 瀬戸の注意がロクにむいたところで、ミミはそっと家に入る。
「ああ、大丈夫ですか。瀬戸さん、ちょっと支えて下さい」
 織香も空気を呼んでひと芝居打ち、瀬戸が玄関を振り返らないように工作する。
「な、なんやねん。一体」
 瀬戸は織香から言われて手を差し伸べるが、困惑していた。
 ――ミミ、上手くやれ。
 仮病なのに、ロクの気分が本当に悪くなっていた。

 閉まりきっていなかったドアから、ミミはすっと体を滑らせ中に入っていくが、そこでドキッと体が跳ねた。
「お姉ちゃん、誰?」
 玄関先にぼんやりと立つ祥司。外が騒がしくて様子を見に来ていた。
「えっと、祥司君?」
「そうだけど」
「あのね、お姉ちゃんね、祥司君を助けに来たの」
「僕を助けに?」
「だから正直に答えて、あの継父に虐待されているの?」
「えっ?」
「ほら、メモを書いたでしょ。『助けて』って。その中に何か餌を入れて丸め、そして猫に投げたでしょ。猫が運んでくれるんじゃないかって。それを誰かに伝えたかったんでしょ」
「あっ、あれは」
「その左手は折檻されて痛めたんでしょ。今日、熱がでたのも仮病をつかったんじゃない? そして看護師の白石さんに助けてほしかったんでしょ」
 すれ違いざまにミミを睨んだ理由、それは邪魔をされたからだ。織香ならSOSに気づいてもらえると思ったのに、ロクとミミが現れたことで計画がおじゃんになってしまった。
「あ、あ、あ」
 祥司は何を言っていいのか考えがまとまらず、声が喉から跳ね返っていた。
「とにかく、ここから出よう。白石さんも祥司君を助けたいと、外にいるんだ。だから正直に教えて、あの継父に暴力を振るわれているって」
「ちょっと、姉さん、聞き捨てならんこといわんといてくれますか?」
 ミミの後ろで声がした。
 ゆっくりと振り返れば、ドアが大きく開いて瀬戸の強面が現れた。
「ああ!」
「勝手に家に入り込んで、なにしてくれますんや」
 瀬戸が凄みをかけている後ろで、ロクと織香が非常に焦っていた。瀬戸を上手く引き止められなかったと申し訳なさそうでいて、その裏で絶望している。
「表で兄ちゃんが発作を起こしたから、これはヤバイと思って救急車呼ぼうと電話しに中にはいってきたら、このざまですがな。予め仕組んだことやってんな」
 仕組んだことにはかわりないけど、あそこにいる中井戸はアクシデントで、計画していたことからかなりずれてしまった。
 そんな事を説明しても、今更何にもならないとミミは黙り込んだ。
「あーあ、俺が子供に暴力かいな。それ、近所でひろまってるんか?」
 ミミが責められている時、織香が必死の形相でやってきた。
「瀬戸さん、ちょっとこれ見て下さい」
 織香は持っていたメモを瀬戸に見せた。
「何ですの、これ」
「これは、祥ちゃんが書いたものと思われます。『助けて、祥司より』と読めます。これは一体どういうことですか?」
 織香は強気で立ち向かった。
「おい、祥司、この汚い字はお前が書いたのか?」
 祥司は弱々しく首を一振りした。
「一体、なんでや。助けてってどういうことや」
 瀬戸は祥司に食いかかる。
「瀬戸さん、やめて下さい」
 織香の声を聞いて、ロクと中井戸がひしめき合うように同時に玄関に入ってくる。
「大丈夫ですか、織香さん」
「中井戸さん、押さないで下さい」
ロクは中井戸とドアの入り口で暑苦しく挟まっていた。
「ちょっと、待てくれ。こんな狭いところで押しくら饅頭してどうするねんって。もうええわ、みんなちょっと上がって」
 瀬戸が先にサンダルを脱いで上がりかまちを跨いだ。
 皆、顔を見合わせながら、その後を続く。
 織香は立っていた祥司の肩に手を置いて、奥へと一緒に進んでいった。
「狭苦しいとこやけど、適当に座って」
 玄関から廊下を歩いたその先にはキッチン、ダイニング、リビングがひとつになった空間があった。
 織香と祥司は一緒にソファーに座り、ロクと中井戸は吐き出し窓を背に立った。
 ミミはダイニングテーブルの椅子に腰掛けた。
 瀬戸はローテーブルを挟んだ織香の前で床の上で胡坐をかいた。
「事の発端は祥司が書いたというそのメモやねんね」
「そうです」
 ロクが答える。
 瀬戸にばれた以上、こうなった経緯をロクは一通り説明した。
 瀬戸は目を瞑って考えながら聞いていた。

「そうでっか、そこにいる、ちょっと太った兄さんが」
「おいおい、太った兄さんってなんですか。僕は中井戸いいます」
「中井戸さん、しかもすぐそこのアパートに住んではるんですか。そこで猫が持ってきたかもしれないメモを見つけて、誰がそれを書いたのか、ここにいてはる探偵さんに依頼したということですな。そして白石さんも虐待かもしれないと疑って、協力したということですか」
 織香もコクリと頷き、正直に認めた。
 瀬戸が説明をうけていた間、中井戸もこの状況を把握し、この騒動のことの発端が自分だったとやっと気がついた。
「まさか、こんな近くにメモを書いた人がいるなんて。本当に灯台下暗しだったんですね」
「とにかく、メモはうちの子が書いたということで、この件は解決ということでしょ」
 瀬戸は中井戸をギロリと睨んだ。中井戸はドキッと身をすくませた。
「それだけで済ませられないわ。メモには助けてってあるんだから。正直に話してください、祥司君を叩いたことあるんですか?」
 ミミがはっきりといった。
「そら、悪いことしたり、我がままなときは、ちょっとこう、ペちっと言うくらいの力で叩いて『めっ!』というくらいはありましたけど」
「じゃあ、なんで祥司君は手首を捻挫したんですか?」
「それは、こいつがそそっかしいからに決まってますわ。落ち着きがないというのか、無茶なことしすぎなんですわ。バナナの皮は本当に滑るかっていう実験を自分でして、案の定滑った拍子に手を捻挫ですから。頭を打たなくてほんまによかったですけど」
 瀬戸の話を聞いて、一同唖然としていた。
「本当なの、祥ちゃん?」
 織香が訊けば、祥司はこくりと首を縦に振った。
「ちょっと待って、何も隠さなくていいんだよ。正直に言えば、私たちが必ず助けてあげるから」
 ミミが身を乗り出して訴える。
「お父さんが言った事は本当です。僕が自分で仕掛けたバナナの皮で滑ったんです」
 祥司は顔をあげミミを見つめていった。嘘を言っている様子が見られなかった。
「ね、言ったでしょ。ほんまに、あの時はびびりましたわ。妻は仕事先だし、こいつはこの世の終わりかというくらい痛がりよって、骨が折れたかと思いまし た。すぐ病院に連れて行って、白石さんが按配してくれてほんまにあの時は助かりました。こいつは、気になるものを見たらすぐに手が出て触るから、ひとりに して置けなくて、それで病院でも付きっ切りですわ。気を許したら、白石さんのお尻触ろうとしてて、アホかって思いました」
「へへへ」
 祥司は織香を見上げて誤魔化し笑いをしていた。
「こいつ、手当てをしてもらってから白石さんを好きになってしまって、白石さんに会いたいばかり言うんですわ。それで今朝、急に頭が痛いとか言い出して、 熱を測ったら四十度近くあって、えらいびっくりしました。だけどこれも小細工されて騙されたってことだったんですね。ついびっくりして白石さんを頼ってし まって、ほんまにえらいすいませんでした」
 瀬戸は頭を下げてわびた。
「あれ、仮病だったの?」
 織香が訊くと、祥司は申し訳なさそうに頷いた。
「ほらね」
 情けない表情の瀬戸。
「でも、あれは……」
 祥司は反論しようとする。
「だから白石さんに会いたかったんだろ」
「うん、そうだけど」
 祥司はしゅんとして、恐々と織香に視線を向けた。
 織香はどう反応していいのか分からず、困惑していた。
 その時ミミは、織香の魅力の手ごわさにぞっとしていた。中井戸も、小さな祥司ですら夢中にしてしまう織香。危機感が増してしまう。
 そっとロクを見つめれば、ロクはじっと突っ立ってこの状況を真剣に見つめていた。
「メモを書いたのも、こいつにとったらいたずらなんですわ。冷蔵庫にリモコン入れたり、背中に『バカ』と書いた紙を貼られたり、このメモも俺を困らすためにわざとやったに違いありません」
「祥ちゃん、いつも瀬戸さんに意地悪してるの?」
 織香は確かめる。
「いつもじゃないけど、たまに……」
「ええ、じゃあ、あのメモもいたずらで、それでまんまと僕も騙されたってことか。なんだよ、それ」
 中井戸はやるせないため息を吐いた。
「どうして、そんな意地悪をするの?」
 ミミが訊いた。
「全てが意地悪じゃない。メモを書いたときも本当に助けてって気分だったんだ」
「それは瀬戸さんが、本当のお父さんじゃないから?」
 ミミが訊くと祥司の目が泳ぎ出した。そのことにはあまり触れたくない様子だった。
「ちょっと待って下さい。ええと、あんたは確か、メメさん」
「違います、ミミです」
「ミミさん、こういうことになっていい機会だから、はっきり言いますわ。祥司もよく聞いてくれ、ええか、今から言う事は本当のことやで」
 瀬戸は立ち上がり、食器棚にあった引き出しから一枚の写真を取り出した。
 それはまだ学生風の男女が赤ちゃんと一緒に映った写真だった。顔がぼんやりとぼやけてそれは鮮明じゃないが、若い父親に抱かれる赤ん坊、その隣で若い母親が体を寄せ合っていた。
 その写真をローテーブルの上に置く。
 ロクと中井戸が近づいてそれを覗き込む。ミミも椅子から立ち上がりその写真に視線を落とした。
「この赤ん坊は祥司、これが比井あかり――祥司の母親です。そしてこの男が、祥司の父親――瀬戸和成、すなわち俺です」
 皆、いまいちぴんとこず、「ん?」と頭に疑問符を乗せて辺りがしんとしてしまう。
「だから、祥司と俺は血の繋がった実の親子ってことなんです。あかりが出張先から帰ってきてから話す予定だったけど、こんな誤解をされた以上、言わざるを得ませんわ」
 一番驚いていたのは祥司だった。
「本当に、僕の本当のお父さんなの?」
「ああ、あの時はまだ学生でな、お互いの親から結婚は反対されるし、お金はないしで、どうしようもなくて、それで俺はなんとか金が入るいい仕事を見つけよ うと無理をした。まあ、そこは端折らしてもらいますけど、あこぎな商売してたんですわ。でもお金のために必死に働いているうちに、その組織から抜け出せな くなってしまって、ますます結婚できるような状況じゃなくなりました。このままではいけないとなんとか頼み込んで足を洗わせてもらったんです」
 婉曲に話しているとはいえ、瀬戸の話は誰しもあっち系のやばいものしか想像できなかった。
「親父と、いや、社長と上手いこと話がついて、それでやっと親子水入らずで暮らせるようになったんです。長いこと離れていたから、少しずつ慣らそうという ことで、妻が仕事をしている間、俺が主夫として祥司の面倒を見てました。そうすることで父親として一緒にいられなかった今までの時間を取り戻したかった し、継父と思われていても気に入ってくれたらそれはそれで儲けもんやしと暫く様子を見ていたんですわ。そしたら、まさかこんなやんちゃ坊主とは思わんで、 俺の方がびっくりでした。まあ、俺の子供時代に似ているんすけどね」
 恥ずかしそうに頭に手を置いて話す瀬戸の様子は見かけとは違う父親の顔が窺えた。ぶっきら棒で強面なのは環境がそうさせたのもあるのだろう。内面は純粋で真面目な面をもっている。少なくともここにいる者は瀬戸が虐待するような父親には見えなかった。
 本当の父だと知らされた祥司は目を潤わせている。
「いきなりで信じろというのは無理やろうけども、ママが戻ってきたらまた詳しく説明してもらい。そんだら祥司も理解できるかもしれん」
 顔が弛緩した瀬戸の表情もまた、話した事が嬉しいようであり、すまない気持ちが入り乱れている。実の息子にどう思われるのか不安も持ち合わせているのだろう。頼りなく微かな笑みを浮かべていた。
「祥ちゃん、お父さんが戻ってきてくれてよかったね」
 織香がにっこりと笑うと、祥司は「うん」と力強く首を縦に振った。
「お父さん!」
 目を輝かして迷いなく祥司は呼んだ。
「な、なんや、急に」
「へへー、お小遣いちょうだい」
 手を前に伸ばす祥司。
「お前、この状況で感動もへったくれもなく、いきなり小遣いせびんのか。ええ根性しとるやんけ」
「だってさ、今まで遠慮してたから、言いにくかった」
「そ、そうか、それはしゃーないな。何、買うねん」
「ゲーム!」
「よっしゃ、それやったら買ったるわ。ちょうど明日子供の日やしな」
「やった!」
 祥司は立ち上がってピョンピョンとその場で跳ねた。
「だから、家で暴れるのはやめなさい。また滑って怪我するぞ」
 ふたりのやりとりは、見ているものを和ませた。
「なんだか、取り越し苦労だったけど、これでよかったわ」
 織香が腰を上げようとした時、祥司はそれを止める。
「お姉ちゃん、まだ帰らないでよ」
 ドサクサにまぎれて祥司は織香に抱きつく。
「ああ、織香さんに触るな!」
 中井戸の体が反応で動くと、すぐにロクがそれを静止した。
「中井戸さん、落ち着いて。とにかく、俺たちは帰りましょう」
「あっ、兄ちゃん、ちょっと待ちや。誤解から変なことになったけど、結果オーライや。あんんたのお陰でもあるわ。礼くらい言わしてや。ありがとうな」
 律儀な瀬戸に頭を下げられ、ロクは恐縮する。
「そういえば、まだ、お茶も出してなかったわ。ちょっとゆっくりしてってや。ちょうど、子供の日やからってちょっと甘いもん作ったんや。みんなで食べたらパーティみたいで祥司にはええ子供の日の思い出になるわ」
「甘いもの!? あっ、私、食べたい」
 ミミが即座に反応した。
「そうか、そんなら、お茶の用意するわ。あんたらもそこに立ってないで、ちょっと座り」
 瀬戸はロクと中井戸に声を掛け、カウンターを挟んだ奥のキッチンで忙しく準備をし出した。
「僕は、甘いものも、お茶も控えていて」
 中井戸が織香をちらっと見ながら遠慮する。
「えっ、中井戸さん、どうしたんです? 普段は暴飲暴食で、そんなこと気になさってなかったくらいなのに」
 織香が不思議がる。
「だって、この間、頭が痛くて病院で検査したとき、数値がよくなくて食事には気をつけてっていってたじゃないですか」
「ああ、そうでした。偏頭痛はカフェンインは控えた方がいいし、中井戸さんはふくよか気味で糖尿病になったらいけないので、糖分にも気をつけてとはいいましたね」
 織香にしたら職業上の決まり文句みたいなものだろう。
「織香さんに『痩せたら健康になりますよ』って言われたから、今ダイエットしているんです。今のところ三キロは痩せたんです。それで見かけもよくした方がいいかなって思って、久しぶりに散髪してきたんです。どうです、ちょっとよくなったでしょ」
 きりっとした表情を中井戸は織香に向けた。そこに自分にもチャンスがあるといわんばかりに。
ロクはそれを見ながら、そういう理由でこだわりがあるのかと、何かを発見したかのようにそのやり取りを興味深く見ていた。
「そ、そうですね。とてもいいと思います」
 織香にとって中井戸は看護師と患者の間柄にしか過ぎず、邪険にも出来ず無難な対応するにも加減が難しそうだ。
「織香さんなら気に入ってもらえると思いました」
 ローテーブルを挟んだ織香の前に中井戸は腰をおろして正座した。祥司は露骨に嫌な顔をしていた。
 中井戸は調子に乗って織香と話をしだすが、祥司はそれを邪魔して織香に話し掛けた。中井戸と祥司は揉め、織香がその対応に困っていた。中井戸と祥司の織香を巡る戦いが始まりソファーの周りは騒がしくなっていく。
 ロクはダイニングテーブルについているミミの隣に座った。
「雨降って地固まるか」
「まだまだ固まってないんじゃないの?」
 中井戸と祥司の言い争いを見てミミは笑っていた。
「まあ、何にせよ、祥司はあれで楽しんでいますわ」
 瀬戸がミミとロクの前にお皿を置いた。

「あっ、これは」
 お皿の上にいくつか乗せられた丸みを帯びた三角の白いものをみて、ミミは反応する。
 半透明の中はうっすらと黒っぽいものが見え、軽く粉がかかっているそれは、小さな大福みたいだ。
 織香たちの前にも同じものをローテーブルに置いた。
「子供の日いうたら、やっぱり柏餅やチマキですやん。それを買おうと思うたら、こいつ、餡子は嫌いいうんですわ。それでも俺は息子と一緒の初めての子供の日やから、やっぱりなんかそういうのほしいてな、それでちょっとアレンジしましたんや」
 またキッチンに戻り、瀬戸はマグカップに紅茶を注ぎ出した。
「餡子が嫌いなら、一体中には何がはいってるんですか?」
 ミミが一番興味を持っていた。
「まあ、それは食べてみて下さいな」
 いたずらっぽく瀬戸は笑っていた。
「それじゃ、遠慮なくいただきます」
 ひとつ手にして、ミミは大福みたいなものを一齧りした。
「うそ、何、これ」
 ミミの手に残ったそれは、茶色にコーティングされた赤いものが顔をだしていた。
「どうです、チョココーティング苺ミルク餅のお味は?」
 湯気が立つマグカップをミミの前に置いて、ドスの利いた声で強面に訊いた。
「こ、これは…」
 ミミは残りをパクッと口にした。
「ああ、最高! なんかもうやられました。モチモチの触感の中にぱりっとしたチョコが加わり、そこに甘酸っぱい苺がジューシーに口の中でミルキーに広がる。これ、おいしすぎる」
 ミミの言葉で、皆興味を持ち、次々に口に入れだした。
「あら、美味しい」と織香が言えば、隣で祥司が「うん、うん」と口をもごもごさせていた。
 最初は食べるのを戸惑っていた中井戸も、美味しいといわれたら我慢できずに口にした。
「さっぱりしているのに、コクがある甘さでフルーティ」
 中井戸の目が見開いた。
「そうでっしゃろ。ちょっと俺も、これならいけるんちゃうかって自信作ですわ」
 瀬戸は紅茶をローテーブルに置きながら答えていた。
「触感も素晴らしいけど、このミルクのコクは一体どこからくるんだろう」
 ロクはゆっくりと味わっている。
「このミルクもちって、もしかしてコンデンスミルク入ってません?」
 ミミが訊くと、瀬戸はすぐ反応して振り返った。
「そうですわ。やっぱり苺いうたら、コンデンスミルクですやん。よう気つきましたな」
「この苺も口あたりがとてもいい。噛むと本来の苺の果汁がじゅわって広がる感じ。素材もすごくいい」
「ミミさん、結構料理評論家みたいですな。でも、苺の扱いは気つけましたで。苺は水洗いしたら、そこで水っぽくなって日持ちせえへんようになりますさか い、そこは水で濡らしたキッチンペーパーを固く絞って丁寧に拭きましたんや。それだけで苺の甘みを逃がさんようになるんです」
「こだわりの仕事されてますね」
 ロクも感心していた。
「そしたらチョコレートもテンパリングに気をつけられたんでしょうね」
 ミミは当然のことのように訊いた。
「はい、チョコレートは温度に敏感ですさかい、カカオバターの結晶を細かい粒子に安定させるように溶かし、滑らかな口どけになるように気遣いました」
「チョコレートは溶かすのに失敗すると、次固まったときに白くなって口当たり悪くなりますもんね」
「それファットブルームでっしゃろ。そうなるとチョコレートまずくなりますからね」
 専門的なミミと瀬戸の会話にロクはついていけなかった。
「瀬戸さん、もしかしてお菓子作り好きなんですか?」
 聞き込みしたときは邪険に扱われて嫌な奴だと思っていたけど、お菓子のことで話が合い、ミミは瀬戸に親近感を抱いていた。
「最近、主夫していて手作りに目覚めましたけど、なんか美味しく作ろうとしたらとことん追求してしまうんですわ。そういう細かいところ拘ってしまって」
「それはいい傾向だと思います」
 ロクはそういう部分が欠けているために瀬戸を尊敬の目で見つめた。
「きっかけは妻や息子に美味しいって言うてもらいたいっちゅうのもあったんですけど、俺が子供の時、自分の父親にホットケーキを作ってもらったことも影響しているんかもしれません」
「お父さんの父親って、僕のお祖父ちゃん?」
 祥司が訊いた。
「おお、そうやで、今はもうおらへんから、祥司は会われへんけどな。これがまたすごい人でな、アル中やったんや」
 一同、しーんとなってしまった。
「アル中って何?」
 織香に向かって祥司は質問する、あどけない声が響いた。
「ええっとね、お酒が好きってことよ」
 婉曲に織香は説明する。
「いつも酒抱えて暴れていた人やったけどな、一度だけ俺のためにホットケーキ作ってくれたんですわ。でも家にあるもんいうたら、お好み焼きミックスの粉し かなくて、それでも小麦粉には間違いないからそれに牛乳と卵と砂糖入れて作ったんです。いざ焼けたら、はちみつもなくて、しかたないからって、ソースかけ たんです」
「うわぁ」
 ミミが思わず声を出した。
「俺も、正直それを生で見ていて、ほんま『うわぁ』でした。父親が怖かったからそれを食べたんですけど、意外にお好み焼きみたいでうまかったんです」
「それ、実質、お好み焼き……」
 ミミが言うと、ロクはひじをついた。
「だけど、そのときそんなホットケーキでも俺が美味しそうに食べたのが嬉しかったんでしょうね。初めて父親らしいことができたって満足したみたいで、それ から俺のためにと酒を控えるようになりました。そんで料理作ってたらそんな父親のこと思い出して、祥司にも美味しいって思われるもの作ってやりたいなって 思うようになったんです。まあね、俺の父親はどうしようもなかったけど、それでも唯一父が俺に教えてくれた大切なことのように思えましたんや」
 先ほどのしーんとした冷えた空気の中に、じんわりと温かみが広がって和らいでくる。それがそれぞれの心に入り込んで皆言葉に詰まって違う意味で静かになっていた。
「お父さんの料理、ママが作るよりていねいで美味しい」
 祥司が言った。
「そうか。嬉しいこというてくれるな。でもそれはママの前では言うたらあかんで。ママは仕事もあって、忙しいだけやからな。ママの料理もおいしいで」
「うん、わかってる」
 本当の父と知ったあとの祥司からトゲがとれたように、落ち着いたものが見えた。祥司はまたひとつ苺ミルク餅を頬張った。
 その時、瀬戸の顔が優しく微笑んでいたのをミミとロクはしっかりと見ていた。
10
「あの苺ミルク餅、美味しかったな。もっと食べたかったけど、祥司君のためにつくられたものだから遠慮しちゃった」
 ミミはロクと肩を並べて歩きながら呟いた。
「自分でまた作ればいいじゃないか」
「あれは瀬戸さんの愛情とこだわりがさらに美味しさを引き立てていて、私にはあそこまで上手く作れないかも」
「本当に人は見かけにはよらないものだな。あんな強面の人がイクメンだなんて」
「イクメン?」
「子育てを積極的にする男の人たちのことを表わしているんだ」
「ふーん」
 ミミにはあまり聞き慣れない言葉だった。
「そういえば、谷原忠義さんも、息子さんの篤義さんのことを必死に守ろうとしていた。事情があって身を粉にして働いていたけど、それも子供のため、妻のためと結局は家族を守っていたんだろうね」
 ロクは先日のことを振り返った。
「忠義さんの介護は辛いものがあるだろうけど、父として成し遂げたものは篤義さんにも伝わっただろうね。瀬戸さんも自分の父親から受け継いだ愛を自分の息子へと紡いだ。どちらも状況は違うけど、どっちも感動しちゃった」
 ミミは空を仰いでいた。太陽が沈みかける前のピンクと紫の重なりが綺麗だった。
「そうだよね。ふたりとも男としてしっかりした芯がある人たちだ。なんだか羨ましい」
「どうしたの、ロク?」
「いや、自分ももっとしっかりしなきゃって思って」
「何言ってるの、ロクはしっかりしてるよ。だって次々謎を解いているんだから」
「いや、本当にそうなのかな。どれもなんか、偶然にことが進んでないか?」
「だから、たとえ偶然であったとしても、ロクが現れるから事が上手く起こるように歯車が噛み合うんだと思う」
「歯車が上手く噛み合う?」
「そう、ロクがその場にいて、物事が始まっていくみたいな」
「いや、それはミミもだろ。ミミがいるから全てが始まった」
 結局はミミを助手にするという条件で探偵職を手に入れた。それが本当の始まりなのだ。
 ロクはミミの横顔を見つめる。夕日の光に包まれたミミはトワイライトを纏っているようだ。まるでそこにいるようでいないような黄昏の不安定な存在。いつかミミがいなくなってしまうのではとふと頭によぎる。
「何?」
「あ、いや、ほらさ」
 ロクの胸が急にドキドキと高鳴り、何をどう誤魔化していいのかわからない。
「その、いなくなる……」
 つい本音が口から弱々しくでてしまう。
「えっ、なくなる? あっ、ロクもやっぱり思ってたんだ」
「えっ、それって」
「うん、ほんとにないよね」
「はっ?」
「だから、鯉のぼりのことでしょ。子供の日って年々鯉のぼりを掲げる家が少なくなったけど、この地域は全くないからさ、寂しいなってちょっと思ってたんだ」
「あっ、ああ、鯉のぼり。うん、鯉のぼり、見なくなったよね」
上手く誤魔化せたとロクはホッとする。
「さてと、夕飯、何食べよう。今日こそはキャベツ食べないと」
「ええ、キャベツまだあるの? かなり日にち経ってない?」
「結構もつからね、キャベツ」
「だったら、お好み焼きにしてみないか」
「ああ、それいいかも。キャベツのホットケーキとか作れないかな。なんか今、新しい料理方法が浮かんだ」
「ちょっと待て、シロップで食べるとかいうなよ」
「でもさ、お好み焼きソースって、ケチャップとソースとはちみつで代用できるんだよ。もっと甘くしても美味しいかも」
「あの、オーソドックスでいいから」
「瀬戸さん見てたらさ、私も拘って作りたい」
「だから、普通のお好み焼きを極めたらいいじゃないか」
「何よ、普通のお好み焼きって。広島の人や大阪の人が聞いたら、どっちだよって怒るぞ」
 ミミはわざと言ってロクを困らせている。
 ロクもそれをわかっていてわざと困っているふりをする。
 その馬鹿げたやりとりが、ふたりにとってとても心地よかった。
 夕焼けが空に広がるその日、ふたりは童心に返って手を繋いで歩きたくなる気持ちに恥ずかしくなりながら、くすっとお互い笑顔を見せあった。

 五月五日のこどもの日の朝、ミミは伸びをしてベッドから起き上がる。
「今、何時だろう」
 サイドテーブルの上の目覚ましを見れば七時前だ。
 身の回りのものをボストンバッグに詰め込んでここにやって来たが、ここは最初から自分の部屋だというくらい快適な空間だった。
 ホテルの部屋のようにトイレもバスも付いていて、ロクと一緒に暮らしていても個別で気兼ねなく過ごせる。
 寝起きの顔も、寝癖のついた髪の毛も、きっちり整えてからこの部屋を出ることができる。ロクとここで一緒に暮らせるのも、見られたくない自分を隠せるからやっていけるのだ。
 衝動で家を出てきたミミにとって、ここはとても有難い場所であるのだが、それが祖母から仕組まれたことだと気がついた今、いつかはここを出て行かなければならない日が来ることに怯えていた。
 ここにしがみ付いているから、多少変わった事があっても深く考えず、違和感があっても気にしないようにと見て見ぬふりをして踏ん張っていた。自分の想像を超えたこの見知らぬ土地は、ミミにとって夢のような世界だった。だから夢のごとく、全く知らないものが多すぎる。
 何かが抜けているのに、よくわからない。魔法のような最新設備が整った申し分のないこの部屋で朝を迎える度、ミミは自分がどこにいるのか混乱する。ここは本当に自分の居場所なのか。この先どうしていいのか。何が起こっているのか。考えると不安に襲われ苦しくなってくる。
 ずっとロクと一緒にいたいと切に願い、ミミはベッドの隣のサイドテーブルに置いていた金の懐中時計をぐっと握り締めた。
『これを預かって君に渡すようにと言付かった。これは君を守ってくれるものだ。肌身離さず持っていれば、きっといい事がある』
 ここを紹介してくれた名前も知らない初老の男性から渡されたものだった。
 頼れるものがないミミには、お守りのようにいい事があるという言葉だけを信じてしまう。
 ミミがこれを握る時、カチカチと秒針が動いているのを感じられた。
 蓋を開ければ、秒針のずれはあっても側にある目覚ましと同じ時刻を差している。
 時を告げるそれは、ずっと手にしていると生きもののように思えてきた。不思議と心が安らぎ、何かに守られていると思えてくるのだ。だから出かけるときも鞄に入れて持ち歩く。そうやって自分を励ましてミミはここで毎日を過ごしていた。少しでもロクの役に立ちたいと。
 そして探偵の助手という仕事も冒険心をくすぐられた。謎から始まるそれぞれの人生物語に関われば、ミミはこの世の中のそれぞれの秘められた思いに心奪わ れていく。些細なことから暴かれていく真相は、心に秘めた何かが引き出され、気づかなかった事と向き合うきっかけになっていく。
 ロクと知り合ってまだ間もないけれど、ミミはこれが運命のことのように思えてならなかった。
 懐中時計に思いを込めて握り締めるミミ。自分の心もロクに伝わってほしいと願いを込めていた。
「いい事があるんでしょ? だったら、ロクと……」
 その時、ドアをノックする音が聞こえ、ミミは跳ね上がる。
「おい、ミミ、起きてるか」
 ロクの声だ。
「起きてるよ」
 ドキドキと胸を高鳴らせながらミミは返事した。
「これから、ちょっと出かけてくる」
「えっ、こんな朝早くに? どこいくの?」
「ちょっとな……」
 言葉を濁して、ロクはドアの前から立ち去った。
 ミミは追いかけようと咄嗟に体が動いたが、まだ身支度をすませてない姿を晒す事が憚られてしまった。どうしようかと迷っているうちに玄関のドアが閉まる音が聞こえていた。
 ロクが出て行ったと分かったとたん、先ほどよりも辺りはもっと静寂になっていた。
 急いで身支度を済ませ、部屋から出れば、いつもの空間が寂しいものへと目に映る。ロクがいないだけで大げさだと思いつつ、ミミにとってロクと一緒にいられることの大切さが浮き彫りになっていく。
「だけど、こんな朝早くどこへ行ったのだろう」
 仕事ならば、助手の自分をつれていく。それをしないのなら、私用で出かけたということだ。目的もはっきりといわずに、朝早くにでかける用事とはなんなのだろう。
 ミミはそれを探りたくて、ロクの部屋のドアの前に立った。
 勝手に人の部屋に入るのは憚れるが、好奇心が抑えきれない。
 ドアノブに恐る恐る手が伸びていく。ドキドキと心臓が高鳴って、体に熱がこもっていった。大きく息を吸った後、ミミはドアノブを掴んだ。
 ゆっくりとまわそうとしたとき、それは固定されて動こうとしない。
「あっ、鍵が掛かっている」
 そう知ったとき、ミミは一抹の悲しさが心に湧いてくる。自分を信用していないといっているのも当然だ。
 「なんでよ!」と怒りつつも、黙って入ろうとしている行為はまさに信用の置けない行為だ。
ずるい事をしているのに、信用されていないと思われて怒るのは矛盾しているのだが、そこが複雑な乙女心というものだ。ガチャガチャとドアノブに触れながら、ミミは自己嫌悪に陥った。
「こういうときはお菓子作りでもして気分を紛らせよう」
 気分を切り替えたとき、先に温かいものを飲んで、何かを食べたくなった。
 キッチンの隅に置かれたコーヒーマシーン。銀色に輝く四角い装置に目が行く。何かの実験道具かと思うくらい、ミミにはちんぷんかんぷんだった。
 ロクに淹れてもらったラテを飲んで以来、ミミは泡立ったミルクが癖になって大好きになってしまった。
 飲まず嫌いだったコーヒー。ロクが変えてくれた嗜好は自分が変わる第一歩のような気がしていた。
 思った事をつい口にして、生意気な態度になってしまうミミ。厳しいしきたりに抑制されて反発し、我がままに育ってしまったけども、それが結局は世間知らずなだけだったと悟っていた。
「ああ、ラテが飲みたいな」
 優しい泡のミルクがたっぷりのコーヒーを頭に浮かべるも、自分では淹れられないので、仕方なくミミは紅茶で我慢する。ラテが頭によぎりながらケトルをコンロに置いた。
「ロク、早く帰ってこないかな」
 ティーパックを箱から出し、マグカップにいれてお湯が沸くのを待っていた。あくびが出て口を大きく開けてしまう。
 袋に数枚残っていた食パンを一枚取り出し、それをトースターに差し込んだ。適当にダイアルを合わせてスイッチを入れて放っておいた間、冷蔵庫からバターを取り出す。
 その時、電話のベルが鳴り響く。
 ロクからだと思ったミミはスティックバターを握り締めたまま壁際の台へと走っていく。そこに置いてあった電話の受話器を取った。
「もしもし」
 耳に当ててもまだ電話のベルが鳴り響き、ミミは持っていた受話器を見つめた。
 家の電話は全てお手伝いさんや家族が先にとり、外からの接触を制限されて電話すら自由に使えないミミは操作の仕方がよくわからない。
 ボタンがいっぱいある中、落ち着いてじっくりと見れば通話と書かれたボタンがあるのに、慌しく鳴るベルの音が焦りを招き、反対側に持っているバターが邪 魔で指が動かず、そこにトースターが「ポン!」と音を立てパンが焼きあがれば、驚いて肩が揺れ、その拍子に手が滑って受話器を落としてしまった。
「あらららら」
 受話器を落としただけなのに、しゃがんで取ろうとしたとき台に額を強くぶつけ、「痛!」と叫んでしまう。
 ベルは足元で鳴り響き、ぶつけた部分をバターで覆いながら、痛みにもだえて受話器に手を伸ばす。
 痛さは怒りに変わって、受話器に腹を立ててしまう。
「んもう」
 やっと通話のボタンを見つけて押した。
「もしもし」
 涙目に答えるミミ。
 ――……。
 相手の声が聞こえない。
「もしもし?」
 ――……。
 受話器の向こうに誰かがいるのは分かるが、何も話そうとしない。
「あの、どちら様でしょうか?」
 ――……あなたこそ誰なのよ。
 気分を害した、ミミを責めるような言い方だった。
「誰と言われても」
 ――そこで何してるのよ。
「ええ? ここに住んでいるんですけど」
 ――嘘、嘘よ!
「ちょっと、あの、落ち着いて」
 訳がわからないまま、電話は切れた。
 ツーツーという音がミミの耳元で聞こえていた。
「何よ、もう」
 腹立ちまぎれに強く受話器を置いて、バターを握り締めた。
気を取り直して、パンを取りにキッチンに向かえば、それは黒っぽく焦げていた。
「なんで、こげこげなの」
 パンを食べる気が失せて、バターを冷蔵庫にもどせば、握り締めすぎて変形した形になって冷蔵庫の扉の棚に置かれた。
「お茶だけでいいや」
 コンロの前に立ってお湯の湧き具合を確認すれば、火がついてない。
「ああー! ガスが!」
 ガス爆発の危機に焦り、慌ててガススイッチに手を触れれば、それはまだ点火されていない『止』の位置だった。
「あれ? 火をつけるの忘れてた?」
 それでよかったと安心し、「ん?」と思ってケトルの蓋を開ければ水が入っていない。
「うわぁ、水も入れてなかった」
 ミミは数々の失態に驚きショックを受ける。
 ついてないと思ったその時、ふと電話の内容に違和感を抱いた。
 あれは女性の声だった。ミミがここに住んでることに衝撃を受けて腹を立てたあのやりとり。それらが今になってミミの不安を駆り立てていく。
「まさか」
 今まで考えなかったことの方がおかしかった。それはロクに恋人がいる――かも。
 朝、出かけたのも恋人と会う約束をしていた。相手は待ち合わせ時刻に痺れを切らしてここに電話を掛けて確認する。そしてミミの声を聞き、一緒に住んでいると知って激怒したに違いない。
「そんな」
 織香に目が行くことを心配していたが、それよりももっと考えるべきだった。
 ミミの目に映るロクは、線の細い頼りなげな風貌だが、そこが中性的で整った容姿でもあり、はっきりってかっこよく見える。
 お菓子に例えたら、シンプルな苺ショートケーキ。でも実際はその中に味わいのあるクリームのコクと、しっとりとした柔らかな触感のスポンジがさりげなくケーキの味を引き立てている。
 ありきたりの定番のかっこよさの中に真のものが秘められ、それが素朴すぎて却って目立たない。 それでも一口食せば、明らかに普通のものと違う繊細さ。まだ自分が最高の定番ケーキだと気づいてない苺ショートケーキ――それがミミのイメージだった。
 他の人が聞けば分からないたとえだろうが。
 だが、あの女性からの電話の真の意味がわかると、その苺ショートケーキに余計なチョコレートがかかって、別のケーキになっていく。
「ロク、あなた真っ白じゃなかったの?」
 泣きたくなるような、落ち着かなさ。そわそわとしながら、ミミはスツールに腰掛けた。
「落ち着け」
 ロクに問い質したら、きっと感情に流されて怒りをぶつけてしまう。思うようにならなかったとき、感情を露にするのはミミの悪い癖だ。
「そんなところを見せたら、簡単に嫌われてしまう。でも、どうしよう」
 こういうとき、無になるのがいい。ミミは立ち上がり、冷蔵庫の前に立つ。
 そして扉を開けて、冷蔵庫の中を確認する。
 今自分が作れるもの。
 卵と牛乳をみたとき、ミミの頭の中にはカスタードプディングが浮かんでいた。


 ロクが手に荷物を持って「ただいま」と戻ってくると、キッチンのカウンターで頬杖をついて、スツールに座って落ち込んでいるミミの姿が目に入る。
「どうしたんだミミ」
 ロクが側に近づけば、振り返って見上げるミミの目が赤く睫毛が湿っていた。次第にひくひくと肩を揺らしだした。
「一体何があったんだよ」
 ロクが周りを見れば、ボールや鍋がシンクにおかれ、何かを作った痕があった。
 その隣のカウンターの上には、数個の小さな丸いアルミカップが置かれている。中身が黄色いことから、プリンだとすぐにわかった。
「ああーん」
 とうとうミミは泣き出した。
「おい、ミミ、泣いていたら分からないじゃないか」
 ミミはひっくひっくとしながらロクを見つめる。そのときなぜか八つ当たってきっとにらんでしまった。
「なんだよ、そんな顔して。もしかしてプリン失敗したのか?」
 ミミの機嫌が悪くなるのはお菓子作りが上手く行かない時だと察知したロクは、ひとつプリンを手にした。
 まだ温かなそれに、スプーンを取り出して一口食べた。
 それは家庭でよく作る一般的なプリンの味だ。
「結構美味しいじゃないか。何も失敗してないぞ」
 慰めるロク。
「それは失敗。お皿にひっくり返したらわかる」
 ミミが言うままに、お皿を取り出し、スプーンで入れ物とプリンの端に溝をいれ、隙間に空気を流した。お皿を上に置き、ひっくり返して、軽く二、三度上下に振れば、型から落ちる気配を感じた。
 そっと型を持ち上げてみれば、カラメルがプリンを伝わってお皿に流れていく。しっとりと琥珀色のソースを纏った柔らかな黄色に、ぶつぶつと空気の穴が入っていた。多分、これが原因だとロクはミミに振り返った。
「焼きすぎたってことか」
 プリンは火が通り過ぎると、すがはいって穴がぶつぶつとあいてしまう。これが食感を悪くして美味しくなくるなるのだ。
「なんで、上手くいかないのよ」
 今日全てにおいて、ミミはついてない。
「そうだな。この型はアルミ製だな。アルミは熱を伝えやすい。それで温度が高くなるのが早くて焼きすぎに繋がったんだろう」
「それだけじゃないもん」
「湯煎せずにオーブンにいれたとか?」
「それはした」
「じゃあ、他に何があったんだよ」
 ロクもいい加減あきれ返ってくる。
「電話」
「えっ? 電話?」
「朝の七時半くらいに女の人から電話があった」
 ミミはロクの反応を注意深く見ていた。
「仕事の依頼か?」
「違う。私がここに住んでいる事が信じられないって、驚いている電話」
「何だよ、それ?」
 ピンとこないロクに、ミミはありのままの電話の受け答えを再現する。
 それでもロクは訳がわからない顔をして、頭に疑問符を浮かべていた。
「なんで、ミミがここに住んでいる事が信じられないと驚くんだろう」
「えっ、心当たりないの?」
「なんの心当たりだよ」
「だから、ロクの知っている女の人とか」
 ミミは上目使い気味にちらっと様子を窺う。
「白石さん?」
「なんでそこで、白石さんがでてくるのよ。白石さんなら私がここで一緒に住んでいること知っているでしょ」
「だから、心当たりがないっていってるじゃないか」
 ロクの言葉でミミの顔が晴れて行く。
「じゃあ、ストーカーでロクの様子を探っている人?」
「そんな女がいたら、怖いよ。でも、それもないと思う。その電話、本当にここにかかってきたのか」
「掛かってきたから私が受話器とったんじゃない」
「そういう意味じゃなくて、ここの電話番号に掛かったけど、本当は他の違う人に掛けたんじゃないかってことだ」
「間違い電話?」
「そう、それ!」
 ロクは紙とペンを用意し、この家の電話番号を書いた。それをじっくり見つめ最後の数字に丸をする。
「最後のこの『6』は書きようによったら『0』に書き間違えるときがある。電話番号を書いたメモを見ながら電話をかけたなら、見間違えることもありうる」
 ロクは電話機に近づき、受話器を手にした。そこで操作し始める。
「電話するの?」
「ああ、確かめた方が間違った人のためにもなる」
 ロクが最後の数字だけ変えてナンバーをプッシュする。最後にスピーカーボタンを押せば、呼び出し音がミミにもはっきり聞こえた。
 ――もしもし。
 男の人の声がした。その後ろで女の人が騒いでいる声もする。
 ――もしかして女の人からなの、ちょっとその電話貸しなさいよ。
 ――だから誤解だっていってるだろ。ちょっと待て。
 男女が受話器を取り合っている様子が伝わってきた。
 ――もしもし!
 怒った女性の声。ミミには聞き覚えがあった。
「あの、恐れ入りますが、今朝、七時半くらいにこちらに電話をかけられた方ですか?」
 ――えっ?
「うちの助手が取りまして、何やら誤解されて切られたとあったので、そちらも勘違いして大変なことになっているんではと思って電話させて頂きました」
 ――あっ、あの。
 電話口の女性の怒りがすっと消えたのが伝わってくる。
 ロクはミミに受話器を渡した。
「もしもし、今朝、ここに住んでいるのかと訊かれたものです」
 ――ああ、あなたは。あの時の?
「そうです。そちらも勘違いで何かもめているんじゃないですか?」
 ――あ、そ、その、そうです……。
「間違って掛けてこられたみたいですよ」
 ――そ、そうですか。その節はどうもすみませんでした。
「いいえ、いいんですけど、どうか、誤解といて下さいね。それでは失礼します」
 お互いどう言っていいのかわからないけども、どちらの心もすっかりと軽くなっていた。電話を切った後、ロクを見れば何だか恥ずかしい。きっと間違った女性も同じ気持ちだろう。
「ロク、ごめん」
「別に構わないけどさ、間違って掛けてきてキレられたら、やっぱりムッとするよな」
「あの、そういう意味じゃないんだけど……」
 これ以上ロクに本当のことはいえなくなった代わりに、ミミは質問する。
「ところで、朝から一体どこに行っていたの?」
「ああ、笹田さんとモーニングセット食べてきた」
「笹田さんって、白石さん宅に住んでる変態?」
「変態はいい加減忘れろ。あれでも大変そうだぞ。昨日会ったとき、白石さんとあまり顔を合わせないようにかなり気を遣っているの見ただろ。白石さんのスケ ジュールは朝早くの出勤、遅番、夜勤、そして休みとローテーションなっているから、それに合わせてかち合わないようにしているんだって。朝の出勤のときは 白石さんがゆっくり身支度できるように早朝に喫茶店で過ごすらしいんだけど、それを昨日会った時きいていたから、ちょっとお供してみた」
「笹田さんと喫茶店ってもしかして『エフ』?」
「そうだよ」
「だったら、私も行きたかった。あそこの喫茶店好き。マスターもすごくいい人そうで、ああいう大人な人、魅力的」
「おい、かなりの年寄りだぞ、あの人」
「でも年取っても素敵な人にはかわりない。若いときはもてただろうな」
 ミミの一言で、九重がマスターと仲良く話している様子が思い出される。ミミの前では祖母の事は言えないからロクは黙っておいたが、あれはふたりともいい感じに見えた。
「ああ、そうそう、そのマスターだけど、お土産もらった」
「えっ、何々? もしかしてケーキ?」
 ミミは期待する。
 苦笑いしながらロクはロゴもはいっていない茶色の紙袋をミミに渡した。
 ミミが中を覗けば、そこにはパックに入った卵があった。
「あっ、卵だ」
「今朝、産みたての卵らしい」
「この卵、なんか青くない? 青色なんて初めてみた」
 紙袋から取り出し、珍しそうにミミは眺める。宇宙戦艦ヤマトのデスラー総統のようだと思ったが、口にはしなかった。
「幸せの青い卵?」
 ロクがぽろっと呟く。
「それ、幸せの青い鳥をもじったの?」
「なんか閃いた、へへへ」
 照れくさそうにロクが笑う。その笑顔がミミを幸せにする。
 ずっとついてないとひとりで嘆いていた事がばからしくなってしまった。電話も誤解で、ロクは見事にそれも推理して解決してくれた。
 不安やネガティブに負けちゃダメだ。ミミは強くなろうと自分を奮い立たせ、失敗したプリンをじっと見ていた。
「そんなに気にしないでさ、この卵でまたプリン作ればいいんじゃないか? 失敗は成功の元というだろう。次はきっと上手く作れるよ」
「もう失敗は気にしてないけどもさ、この卵で作るのは勿体ないな。これはこのままご飯に掛けて食べたい」
「それいいね。卵かけごはん」
「じゃあ、お昼はそれだね。ご飯を炊かなくっちゃ」
 ミミは急に元気が出てくる。急いで支度を始めた。
「でも、ロクって本当にすごいな。間違い電話の番号ですら見つけるんだから」
 鼻歌交じりにさらりと褒めるミミ。
 ロクは持っていた受話器を本体に置きながら、そこにあるディスプレイをみていた。誰がかけてきたかは、操作ボタンを押せばそこに出てくる。普通ならそれを調べればいい。ミミは機械音痴で気がついてなかった。
「まあ、いっか」
 正直に話すのを諦めた。

「えっ、何?」
「いや、昼ご飯食べたら午後はどうしようかなと思って」
 とっさに誤魔化すロク。
「だったらさ、買い物にでもいかない? そろそろ暑くなってきたし、新しい服が欲しいんだ」
「そういえば、中井戸さんがギフトカードくれたじゃないか。それを使えばいいよ」
 瀬戸とその息子の祥司の一件。メモを見つけたことで中井戸がその真相を探ってほしいとの依頼だった。結果的には上手く解決できたが、織香や依頼者の中井戸までもが関わって、一騒ぎあっての賜物だった。
 瀬戸の家から出た後、依頼料をどうすればいいかと中井戸に言われた。自分ひとりで解決できなかったロクはいらないと拒否すれば、中井戸も払わなくて済むと一瞬喜びかけた。だが、織香がそれをダメ押しした。
『逸見さん、ビジネスなんですからやはり依頼料は受け取るべきですよ』
 織香がそういえば、中井戸は見栄を張る。
『そ、そう。依頼したのは僕ですから、それはちゃんと払う義務があります』
 織香を意識して格好をつけていた。
『でも皆さんの助けがあったから、解決したわけで』
 ロクはなんとかしてくれとちらりとミミを見た。
 本来ミミが言うべき事を先に織香に言われたことで、ミミは仕事を奪われたみたいで少しむっとしている。
『ロクがしたいようにすればいいんじゃないの?』
 つい意地悪になってしまう。
 「おいっ」と突っ込みたいが皆の前でそれも出来ず、ロクは仕方なく屈服した。
『わかりました。それじゃ提示した通りにヨロシクお願いします』
『それじゃちょっと取ってくるから』
 中井戸は自分のアパートを指差して慌てて走っていった。遠ざかる中井戸を背にロクは織香と向き合う。
『白石さん、お休みのところ本当に申し訳なかったです』
 ロクが頭を下げたので、ミミも形だけはそれに習った。
『却って、楽しかったくらいです。どうかこれからも頑張って下さいね』
『有難うございます』
『それじゃ私はこれで失礼します』
 織香は一礼して去っていった。角を曲がるとその姿は見えなくなり、ミミはほっとして肩の力を抜いていた。
 その後、中井戸が現れ、織香が帰ってしまったことにがっかりしてしまう。
『なんで引き止めてくれなかったんだよ』
『もしかして、中井戸さんは白石さんの事が好きなんじゃ』
 ミミが言うと、中井戸ははっとして慌て出した。
『いや、この間の診察のことで、お礼をきっちりといいたかったからさ』
『でも中井戸さんと白石さんって結構お似合いだよ』
 ミミの言葉に中井戸の顔がパッと明るくなった。もちろんリップサービスだ。その裏には織香と上手くいってくれたら嬉しいという願望も隠れていた。
『ほんと?』
『あともうちょっと痩せたら、中井戸さんの魅力に気がつくかも。だからダイエット頑張ってね』
『うん、が、頑張ってみる。それじゃこれ』
 中井戸はカードを出した。
 ミミは『ん?』と顔をする。
『現金が今なくて、ギフトカードで悪いんだけど、ちゃんと三千円分入っていると思うから』
『ああ、わかりました。それじゃ頂きます』
 ロクはそれを受け取った。現金を受け取るよりもいいような気がした。
 ミミが訝しげにカードを見つめている。三千円がきっちり入っているのか訊きかねない様子だったったので、ロクは中井戸とそこでさよならし、さっさと家路についた。
 カードにお金が入っていなくてもロクはどうでもよかった。
 でもそれを確かめるにはミミと買い物にでかけるにはいい機会だ。
 ミミもまたロクとデートができるとルンルン気分になっていた。