でもとにかく、この子たちを鶏小屋に戻さなきゃ。
あたしはすぐに雨戸の横に立て掛けていたホウキを取って、それからニワトリたちを鶏小屋のほうへ追い立てた。
一羽、また一羽と、ニワトリが開いたままの扉から鶏小屋の中へと入っていく。
よしっ、ぜんぶ戻したっ。
あおり止めをしっかり掛けると、汗がつーっとこめかみを伝った。
でも、どうしよう。
ベートーベンを捜しに行くのが先か、それとも弟たちの朝ご飯を作るほうが先か。
あたしも早く用意しないと、新入生の遅刻第一号になっちゃう。
そうして、うううと唸ってホウキを胸に抱き寄せたとき突然聞こえたのは、朝の静けさに似合わない叫び声。
「うわっ! うわぁぁぁ!」
えっ?
ハッと声のしたほうを見る。
聞こえたのは、山家さんのアパートのほう。
右も左も窓が開いている。
声は……、山家さんの声じゃない。
もしかしてっ!
あたしはすぐにアパートのほうへ駆け出した。
物干しを通り越して、石垣をよじ登る。
アパートの階段は、建物の向こう側。
タタタとその階段へ駆け寄って、バッと一段目に足を掛けた。
いっ? 前よりボロボロになってるっ!
錆びてあちこち穴が開いた階段。
ところどころ欠けて落ちているパイプの手すり。
うわぁ、怖いよう。
すると、またその声が聞こえた。
「ちょ、ちょっと待てっ、こっち来るなっ!」
ううう、頑張れあたしっ!
恐る恐る、一段ずつそっと足を掛けて、ゆっくりと階段を上る。
階段の先は二階の通路。
右が山家さんの部屋、左が見知らぬ声のヌシの部屋。
やっと上り終わると、左側の部屋の中からガタゴトと音がした。
もしかしてっ。
見ると、玄関扉のすぐ横のお風呂場の高窓が開いている。
思わず、その窓に首を突っ込んだ。
まさか、まさか、まさか!
次の瞬間、突然聞こえた、その度肝を抜かれる朝鳴きの声。
コケコッコーーッ!
この声っ! やっぱり!
我が家のリーダー雄鶏、『ベートーベン』がこの窓から入り込んだんだ!
あたしは思いきり伸び上がってその高窓から身を乗り入れると、それから湯舟の縁に手を掛けて体を滑り込ませた。
うわっ、バランスがっ!
ドスンっ! と重たい音。
ううう、痛ぁい。
いや、痛がってる場合じゃない。
ハッと起き上がってお風呂場から這い出ると、先の薄暗い部屋の中に、窓から差し込む淡い朝日を受けてよちよちと歩くニワトリが見えた。
「こらっ、なにしてんのっ!」
思わず声を上げて、そのふわふわを目掛けて薄暗い部屋へ飛び込む。
ガチャン!
突然、足になにかが触れた。
鈍い音。
ぐるりと回る部屋。
「ああっ!」
無意識に声が出る。
そしてその声に続いて、なにか陶器のような物が弾け飛んだ音がした。
カシャーン!
コントロールを失って、まるで勢いよくプールに飛び込むみたいに空間を泳ぐあたし。
すると突然、両手を伸ばしたその先の暗がりに、キラリとふたつの目が光った。
ひいいいいいっ!
ゾワッと背筋に冷気を感じて、思いきり目をつむる。
次の瞬間。
ゴツッ!
頭蓋骨に重たい衝撃があって、ひと呼吸遅れて激痛が走った。
痛ぁぁぁい!
でも声が出ない。
直後に柔らかなものに体が沈み込んで、耳のそばで、「うう……」と押し殺した唸りが聞こえた。
怖い怖い怖い!
ギューッと目をつむって体を縮こまらせると、食いしばった歯が小さくカタカタと鳴った。
一瞬の沈黙。
ん……?
なんだか、いいにおい。
あたしはすーっと息を吸って、それからじわりじわりと目を開いた。
ゆっくりと顔を上げると、なんとそこに居たのは……。
「うわ、お前、なにしてんだ」
ななな、なにっ?
どうして彼がここにっ?
のけ反って顔を離すと、そこには目を丸くしてポカンと口を開けている、三条聖弥くん。
「さささ、三条くんっ? どうしてここに居るのっ?」
「いや、それはこっちのセリフだろ」
少し目が慣れた。
見回すと、ここは畳のお部屋。
部屋の真ん中ではガラステーブルが派手にひっくり返っていて、そのすぐそばには、畳に転がった空のマグカップ。
なぜか、あたしが居るのは畳の上に置かれたふかふかのベッドの上で、さらになぜか、品《ひん》のいい紺色のパジャマを着た三条くんにしっかりとしがみついてて。
意味が分からない。
すぐ近くに三条くんのキレイな瞳。
「えっと、えっと、えっと……」
このシュールな状況を把握しようと頭をフル回転させていると、なにやらモゾモゾとあたしの背中を異様な感触が這い上がった。
次の瞬間、どさりとあたしと三条くんの間に毛の塊が落ちる。
「ベートーベン!」
「うぎゃぁぁぁぁ!」
なんでなんでなんでっ?
どうしてここに三条くんが居るの?
「こっ、こら、あっち行けっ!」
バサバサと羽を広げてベッドから飛び降りるベートーベン。
そのベッドの上で壁に背をつけて、身をよじっているパジャマ姿の三条くん。
そしてその三条くんに飛び乗って、しがみついているあたし。
頭の中がごちゃごちゃ。
目が覚めたら、小屋に居るはずのニワトリたちが庭を歩き回っていて……、居なくなったベートーベンを捜していたらこの部屋にたどりついて……、そしたら三条くんが居て……、えーっと。
「おい、いつまでそうしてるつもりだ」
「へ?」
「へ? じゃない。早く降りろ」
ハッと我に返る。
うわぁぁ! あたしっ、なにしてるのっ?
「ごごごっ、ごめんなさいっ!」
あわわと彼の胸を掴んでいた両手を離して、思わずのけ反る。
ありゃ、後ろは手をつくところがないっ。
「こらっ、危ない!」
突然、ぎゅんと近くなる彼の顔。
頼りなく傾きかけた背中が、ギュッとなにかに支えられた。
反動でふわりとなった髪が彼の顔に掛かる。
えっ?
うわぁぁ、三条くんの手が背中にっ!
「ごごごっ、ごめんなさいっ!」
「ごめんはもういい。気をつけて降りろ」
「は、はいっ」
今度はゆっくり体をよじって、彼に背中を向けてベッドの下に足を伸ばす。
あ、ベートーベンが台所のほうに……。
痛いっ!
えっ?
足に力が入らないっ。
「おい、お前、ケガしてるぞ」
ベッドの縁に腰掛けたあたしを後ろから覗き込んで、三条くんがちょっと大きな声を出した。
お日さまが本気を出し始めて、もうずいぶん明るくなった部屋。
よく見ると、右足のスネあたりのスウェットが赤黒く汚れている。
あっ、三条くんのベッドのシーツまで汚れてるっ!
「ごごご、ごめんなさいっ。シーツ、弁償するっ」
「シーツ? ああ、こんなのどうでもいい。こりゃ、さっきテーブルにぶつかったときだな。大丈夫か?」
「だ、大丈夫っ! すぐにベートーベンを連れて帰るからっ!」
そっとあたしをよけながらベッドを降りて、ゆっくりとこちらへ向き直った三条くん。
なにかびっくりしたような顔。
「えっと……、なに? ベートーベンがどうした」
「え? あああ、その、ベートーベンは、あの……、雄鶏の……、名前」
「は?」
三条くんが、スーッと台所のベートーベンに目をやって、それからまたすぐあたしに視線を戻した。
「ニワトリに、ベートーベン?」
「え? あ、その、この子、ヒヨコのときに小屋を修理してくれた大工さんにすっごく懐いて、ずっと後ろをついて回ってたんで……」
「大工さんって、もしかして、交響曲第九番の『第九』と掛けてるのか?」
「えっと、……うん」
一瞬の沈黙。
それから、三条くんはこれでもかという呆れた顔になって、深い深いため息をついた。
「はぁ……、まぁ、そんなことはどうでもいい。お前、その足じゃ、歩いて帰れないだろ」
「え? あ、大丈夫っ! すぐにベートーベンを――」
元気よく立ち上がる。
いいい、痛ぁぁぁいっ!
突然、右足に激痛が走った。
やっぱり力が入らない。
「お前は子どもか。ヒビが入っているかもしれないな。すぐに冷やして、病院へ行ったほうがいい。今日は学校休め」
「え? いや、今日は初めての音楽の授業があるから」
「そんなのどうでもいいだろ。とにかく病院へ行け。とりあえず家まで連れて行ってやる。隣のイチゴ農園だろ?」
そう言って、あたしの前に背中を向けてしゃがんだ彼。
どうして、あたしの家が隣の農園って知ってるの?
それよりも、なに? これって、おんぶして運んでくれるってことっ?
ちょっと待って。
そんなことしてもらったら、あたしっ、もう二度と立ち直れなくなってしまう。
「い、いや、大丈夫っ。ひとりで戻れるからっ! ほんと、ごめんなさいっ!」
「うるさいっ。大人しく乗れっ」
あ、怒った。
怖いよぉ。
もうっ、仕方ないっ!
「おっ、おっ、お願いしますっ!」
ちょっと裏返った声。
「それでいい」
「……うん」
ゆっくりと彼の背中に体を預ける。
心臓の音が聞こえてしまいそう。
彼があたしを背中に乗せてよいしょっと立ち上がったとき、台所の流しでじっと目を閉じて瞑想しているベートーベンが目に入った。
「あ、でも、ベートーベンが」
「ニワトリはあとでいい。俺が連れてくる」
「でもでも……」
「大丈夫だ」
そう言って、彼はドア前の土間まで行って、あたしを落とさないように体を前に倒したままトントンとローファーを履いた。
「靴は?」
「え? えっと、サンダル履いてた。お風呂場の窓の外かも」
「そうか」
そう言いながら、彼が扉を押し開けると、もう外はすっかり朝。
少しでも彼の腕に掛かる体重を軽くしようと、ちょっと恥ずかしいけどしっかりと彼の首に腕を回して、ギュッと頬を寄せてしがみつく。
そのとき、彼の肩越し、お風呂場の窓の下に、バラバラのほうを向いて転がっているサンダルが見えた。
「あれか? お前のサンダル」
「う、うん」
うわぁ、子どもが脱ぎ散らかしたみたい。
もう、恥ずかしすぎて死にそう。
あたしが不法侵入したお風呂場の窓の前まで、ゆっくりと進んだ三条くん。
「落ちるなよ」
そう言って、ひょいとあたしをしょい直すと、彼が「よっ」と言って体を折った。
サンダルを拾ってくれるみたい。
すっと体が起きて、彼の背中に掛かっていたあたしの重さが、再びゆっくりとその腕に移る。
もう……、恥ずかしいよぅ。
そのとき。
チラリと目に入った、お風呂場の摺りガラス。
それまでおぶられているあたしには見えなかった三条くんの横顔が、一瞬だけその窓に映った。
え? 笑ってる?
ほんの一瞬だけど、なんだか彼が笑っているように見えた。
いやいやいや、彼が笑うはずがない。
そうとう怒ってるはずだもん。
ああ……、もうこれは絶対、お母さんにぜんぶ話さないと。
あちこち穴が開いた、朽ちかけの鉄の外階段。
あたしをおんぶした彼がゆっくりと下りるたびに、朝の静かな空気に、カン……、カン……と、その音が小さく響いた。階段の周りでは、春らしく澄んだ朝焼けが、アパートを囲む雑木林の木々をキラキラと揺らしている。
砂利道を下って表の通りに出たところで、あたしはちょっと分かりにくい我が家の入口を指さした。
「あの……、卵の自動販売機があるところが入口。家は林の奥に引っ込んでるの」
「知ってる」
「え?」
そうか。アパートから見下ろすと、雑木林の中に家があるのが分かるもんね。
隣がイチゴ農園ってことも……。
なんかちょっと恥ずかしい。
それからものの数秒、なにも言えずに三条くんの首にギュッとしがみついていると、彼がちょっと立ち止まって、腰を落としてよいしょっとあたしをしょい直した。
そのときだ。
あ……、これはちょっとマズい展開。
三条くんの頭越し、歩道のずっと向こうに見えたのは、見覚えのある特徴的な坊主頭。
うわ、なんでこのタイミングでっ。
「あ……、やばい。三条くん、ちょっと戻って?」
「は? なんでだ」
「え? なんでって、翔太が――」
不思議そうに三条くんがこちらへ顔を向けたとき、もうその向こうには、息を切らせながら走って来るあの坊主頭が……。
思わず声を上げた。
「おおお、おはようっ、翔太っ。あ、朝からランニング、偉いねっ!」
「おうっ、おはよ……って、え? ええっ?」
三条くんの背中から斜めに顔を出したあたしを見て、ジャージ姿の翔太がギョッとして足を止めた。
「日向? え? コイツはこの前、女に囲まれていた……、ままま、まさかお前ら、イイ感じになったのかっ?」
「なによ、イイ感じってっ! そんなんじゃないっ!」
「それにお前、ケガしてんじゃねぇか! おいっ! 日向になにしやがったんだっ!」
首に掛けたタオルの両端を引っ張って、大股で三条くんに喰って掛かる翔太。
三条くんの肩がぎゅっと上がる。
「あ? 俺がなにしたって?」
どどど、どうしてそうなるのっ?
ちょっと待ってっ!
「あのっ、翔太っ、これにはわけがあって――」
「ごらぁぁーーっ! 日向をよこせぇぇ!」
「だからぁ、わけは話したでしょー?」
「いや、おかしいだろ。ニワトリを追ってよそ様の部屋に窓から入り込むバカがどこに居るんだよ」
はい。ここに居ます。
だってぇ、夢中だったんだもん。
もうすぐ、お昼休みも終わり。
ずいぶん遅れて学校へ着いたら、やっぱり翔太はものすごく不機嫌だった。
昼休みの間に、今朝の出来事をちゃんと正直に話したんだけど、まったく信用してくれない。
あたしの右スネには、ちょっと大げさなキズテープ。
まぁ、ビックリするよね。
翔太が一番嫌いな『ガオカのイケメン』に、あたしがガッツリおんぶされてたんだから。
しかも彼はパジャマだったし。
「お前なぁ、そんな作り話が通用すると思ってんのか? それにその足のケガだってちょっとおかしいだろ。本当はどうやってケガさせられたんだよ!」
「だぁーかぁーらぁ、暗い部屋の中に飛び込んだときに、置いてあったテーブルにぶつかったって言ったじゃない」
「いや、それはバットで叩かれた痕だっ!」
ベッドはあったけど、バットはありませんでした。
もしかして、野球部ってそんなことやってるの? まじ、野蛮。
どうも翔太は、あたしが三条くんとなにかあって、彼からケガさせられたと疑ってるみたい。
三条くんは、あたしを家まで運んでくれていたのに、どうやったらそんな考えになるんだろう。
翔太、理解力なさすぎ。
結局、あのあと、翔太がひったくるようにあたしを三条くんから引き離して、あたしを家まで運んでくれた。
ちょうど市場から帰って来たお母さんがすごくビックリして、それからそのまま軽トラックで病院へ連れて行かれて。
結局、弟たちは全員そのまま朝寝坊。
翔太のお父さんが応援に駆けつけてくれて、弟たちを起こして学校と保育園へ送ってくれたみたい。