僕が本格的にバスケを始めたのは、中学生での部活だった。
小学校の体育の授業でバスケをやった時に、それが楽しくて、そんな単純な理由でバスケ部に入部した。
僕はただ、楽しくバスケをしたかっただけなんだ。
だけど、現実はそれほど甘くはなかった。
バスケ部に入部する友達は、みんなそれなりに背が高かった。
理由はすぐに分かった。
みんな経験者だったからだ。
そういう彼らは、地味な基礎練習やフットワーク練習に慣れているようで、すぐにばてるようなことはなかった。
そしてすぐに戦力になった。
一方の初心者組の僕たちは、背がそれほど高くないメンツがそろっていた。
いつまでも基礎練習と基礎体力をつけることばかりに時間を取られ、コートに入ることはほとんどなかった。
先輩の中にも、もちろん背の低い人はいた。
だけどそういう人は動きも頭の回転も速かった。
でも初心者の僕たちには、そんなテクニックも頭脳もなかった。
ドリブル練習をしながら、コートの中で先輩たちと楽しそうに走り回る同級生を見ていた。
僕たちはいつまでたっても試合はおろか、練習中の簡単なゲームに参加することも許されなかった。
そんなことが一年続いて、僕はバスケ部をやめた。
そしてその時間と気持ちのすべてを、勉強に注ぎ込んだ。
勉強はやればやるほど成績が伸びた。
成績が伸びれば、周りの大人たちが認めてくれた。
進学先の選択肢だって広がった。
高校に入ってからも僕は部活には入らず、とにかく勉強に打ち込んでいた。
勉強は面白いと思った。
勉強自体がというより、人に認められたり、志望校に有名大学の名前が書けるようになっていくのが面白かったのかもしれない。
自分の可能性がどんどん広がっているようで、自分はすごい人間なんだって。
勉強は決して裏切らない。
バスケのように、経験もお金も体格も才能もいらない。
努力だけで平等に、どんどん道が開けていく。
だから舞花にも、バスケをやらせようとは思わなかった。
バスケは練習環境だって必要だし、普段から指導できる人がそばにいないと、すぐに差をつけられてしまう。
その点、勉強は鉛筆とノートがあればできるし、僕も教えてやれる。
勉強の方がずっと自分の可能性を広げられるし、将来の選択肢も増やしてくれるはずだから。
でもそれはどの習い事でも同じことが言えるわけで……。
だから、決して、バスケが気に入らなくてやらせなかったわけではない。
どんな理由にしろ、僕も歩美も、バスケをやりたいという舞花の気持ちを受け入れなかった。
それが、今後の舞花のためだと思った。
「あおい君、かっこいいからモテるでしょ」
「いや、そんなことないですよ」
僕がぼんやり昔のことを思いだしているうちに、歩美とあおい君の会話が弾みだす。
歩美からの誉め言葉を真面目な顔をして否定するあおい君の耳や頬は徐々に赤らんでいった。
確かにあおい君は顔だちが整っている。
だけど舞花イチオシの「青山君」とは似ても似つかない。
イケメンと言っても、あおい君は「青山君」には全然及ばないじゃないか。
僕が不満を貧乏ゆすりに置き換えていると、歩美とあおい君の会話に、舞花も参加する。
「あおい君ね、いつもあそこのバスケットコートで練習してるんだよ。昔から」
「あら、そうだったの。全然知らなかった。
えっと……二人は、いつから付き合ってるの?」
僕が気になっていたことを、ためらいながらも単刀直入に聞いてのける歩美の行動に僕はぎょっとした。
そして恐る恐る目の前の若い二人に視線を移した。
歩美の質問に、二人は初々しくはにかむような反応を見せた。
「付き合ってるというか……」
舞花が不安げな目を隣のあおい君の方に向ける。
何だか様子がおかしいのは明らかだった。
僕がその様子に怪訝な顔を露わにしている横で、歩美は身を乗り出して「うん、うん」とうなずきながら、まだ何か聞き出そうとしている。
口ごもっている舞花の隣から、「あのっ……」とあおい君が、背筋をすっと伸ばして改めて僕たち二人に視線を合わせた。
「すみません、僕がちゃんと言えてなくて……。
だから、正式にはまだ、付き合ってません。でも……」
あおい君はそこで言葉を切って、僕たちに向ける視線を強めた。
「僕は舞花のことが好きです。真剣です。結婚したいと思っています」
その言葉に、僕のまとっていた空気が凍り付く。
体中が固まって血液が上手く流せず、脳の辺りがひんやりとしてくる。
僕は無意識に鋭くした視線をあおい君の方に向けた。
「……結婚……?」
僕の口元からぽろりとこぼれ出るように、その単語が吐き出される。
僕にまっすぐと向けられたビー玉のような瞳に、不純物は一切含まれていなかった。
どこまでもまっすぐで透き通った瞳だった。
その澄んだ瞳に負けそうになるのを、僕は唸るような低い声でぐっと押し返した。
「結婚って、どういうつもりで言ってるんだ?」
僕の言葉に、幼い瞳が一瞬揺れる。
僕の方も、体の奥底から怒りに似たものがこみあげてきて、声がわなわなと震え始める。
__付き合うことだって、反対してやろうと思っていたのに……。
「結婚って……君はまだ中学生だろう。一体何年先の話をしているんだ?
それに……」
そこで僕は、口ごもった。
「君は、舞花のことをちゃんとわかっているのか?」
本当なら感情のままにぶつけたいところを、僕は場所と、相手がまだ幼い子供だということをわきまえてそれを何とか必死にこらえる。
だけどその自分のコントロールさえ、今は危うい状況だ。
もうあと一歩で、目の前の純粋な少年に殴りかかりそうになる。
それを抑えるのに必死だった。
「中学生ごときが、何言ってるんだ。……おままごとじゃないんだぞ」
頭を抱えた僕の口から、思わずふふっと笑いがこぼれた。
中学生が憧れるドラマのような恋愛ごっこに、笑えてくる。
そんな僕は、最低だろうか。
娘の初恋を素直に喜んでやることができないなんて、ただの物分かりの悪い父親だろうか。
「あの……」
「だめだ」
あおい君が何か言おうとするのを、僕はすかさず遮った。
何も言わせたくなかった。
何か言われたら、僕はきっと本気で殴り掛かるか、彼の口からこれから放たれるであろうまっすぐな言葉に負けてしまいそうな気がした。
どちらも、怖かった。
「会うのは、もうやめなさい」
それだけ言って僕は立ち上がり、席を離れようとした。
「どうして?」
舞花の震える声が、そんな僕を引き留める。
「どうしても、ダメだ。交通費は出さない。定期も買わない」
「あなたっ……」
「二人のために言ってるんだっ」
歩美に返す言葉が、思いのほか強く、厳しく、鋭くなった。
僕だって、こんなに激しく、大きな声を出したのは生まれて初めてだった。
その声の余韻が、ファミレス内にいつまでも浮遊する。
その返事のように、静寂と、周囲からの冷たい視線が突き刺さる。
ただの頑固おやじにしか見えないだろうが、もうそんなことはどうでもよかった。
僕が席から離れようとすると、「あのっ……」と、再び幼い声がはっきりと聞こえた。
無視してしまえばいいのに、僕は踏み出した足を思わず止めてしまった。
「あの……、僕はまだ、中学生です。
だけど、18になったら結婚できることぐらい知ってます。
18になったらすぐに結婚します。
僕より先に、舞花は18歳の誕生日を迎えてしまうけど……。
お願いします。これからも、舞花に会わせてください。
交通費は自分で出します。僕が会いに行きます。毎日行きます。
だから、お願いします」
あおい君の声も、ファミレス内に響き渡った。
高くてあどけない声で放たれた声は、その言葉を言うにはまだまだ頼りなかった。
中学生なのに、お辞儀の仕方がきれいだった。
しっかり腰から九十度に折り曲げて、まるで銀行員の営業みたいだ。
__今時の中学生は、何なんだろう。
その小さな背中を見て、僕はやっぱり不安になる。
こんな頼りない背中に、大きなものを背負えるのだろうか。
背負わせてもいいのだろうか。
「君は、それがどういう意味か分かっているのか?
自分の人生に、一生舞花の存在を背負っていくってことだぞ。
そんな覚悟、あるのか?」
僕の声は、震えていた。
それは、怒りなのか、悲しみなのか、嬉しさなのか、驚きなのか……。
僕にはわからない。
曲げた腰をすっと起き上がらせたあおい君は、透き通るビー玉のような目を僕にまっすぐ向けて、突き放そうとする僕にしがみつく。
「僕はまだ、舞花のことをちゃんとわかってないかもしれません。
だけど、これからどうしていけばいいかはわかっています。
それは、一日でも、一時間でも、一分でも一秒でも、舞花と一緒にいることです。
一緒にいたいんです。
それ以外、……舞花と一緒に過ごす時間以外、僕は何もいりません。
好きな人と一緒にいられることほど、人生で最高の贅沢はありませんから」
その言葉に、僕は息をのむ。
中学一年生が言える言葉だろうか。
大人をも圧倒するセリフを、真剣なまなざしで、あおい君は淀みなく僕に言い放った。
その言葉で僕は知った。
あおい君は、舞花のことをすべてわかっているんだ、と。
僕には二人の間に何があるのか、何があったのか、何もわからないのに。
二人にしかわからない、誰にも入り込めないものが、見えてしまったような気がした。
その幼い眼差しには、確かに覚悟が滲んでいた。
名前しか知らなかったあおい君の存在が、一気に、明確に、姿を現す。
その目を見て、僕はもうわかっていたんだ。
どうしたらいいのか。
「定期、買おうか」
僕の心の声を、歩美が横からすっと代弁してきた。
歩美の方に視線を向けると、とても切なげな視線を僕に送っていた。
その目はもう、僕に同意しか求めていなかった。
「あおい君の分も」
わかっているのに、体が思うように動かない。
まるで、自分の体じゃないみたいに。
「お父さん」
舞花の声に、体がようやくピクリと反応する。
「私も会いたい。あおい君に。毎日会いたい。
あおい君に会えるなら、私は明日も、元気に生きられる気がするから」
そんな力が、あおい君にはあるのだろうか。
舞花に明日を見せる力が。
舞花を明日に連れて行く力が。
そのビー玉のように透き通る瞳を、僕はもう一度見た。
その瞳に映る未来は、どこまで続いているのだろう。
定期を買うために、帰りに駅に寄った。
この駅にやってきたのも3年ぶりだ。
3年もたっているのに、嘘のように何も変わっていない。
僕は辺りを見渡して、あの頃に思いをはせていた。
と言っても、思い出という思い出は特にない。
通勤も車だったから駅を利用したことだってほとんどない。
それなのに、この町の空気を吸っているというだけで、自然とあの頃の感覚が蘇ってくるのがやっぱり不思議だった。
僕たち夫婦が歩く前を、舞花とあおい君が並んで歩いている。
あおい君は時折舞花の方に、愛おしそうな視線を向けた。
舞花と視線が合うたびに、その言葉も声も、瞳の色にも、強さが増していくように感じた。
どうしてだろう。
久しぶりに会った二人なのに。
会ってからほんの数日しか一緒にいなかったはずなのに。
まるで、ずっとどこかで繋がっていたような。
そんな絆の強さを感じずにはいられなかった。
そして何より不思議なのは、舞花はこの風景に、しっくりと馴染んでいたことだ。
引っ越してから3年の月日がたったというのに、僕が最近見た舞花の中で、一番落ち着いていて、リラックスしていて、素を出しているような気がした。
僕も知らないような素顔の舞花を見ているような気がした。
その表情を見て、僕はふと思った。
__もしかして、舞花はここが好きなのだろうか。
思い返せば、一軒家を建てるために土地を探す時も、今の場所に土地を購入しようと決めたときも、僕たちは舞花に何も言わなかった。
舞花の気持ちを聞かなかった。
舞花に伝えたのは、すべてが決まった後だった。
引っ越しのことも、転校のことも。
舞花は、どんな気持ちだったんだろう。
僕たちだって、もちろん舞花のことをいろいろ考えた。
転校は避けたかった。
せっかく友達もできたし、慣れ親しんだ土地を離れるのもかわいそうだと思った。
だけど小学四年生なら、まだ大丈夫だと思った。
学年が上がれば、もっと気難しくなる。
新しい環境に入り込むのだってもっと難しくなる。
すでに出来上がった人間関係になじむのだって大変だ。
だから、今しかない。
今が転校のいいチャンスなんだと。
まだまだ人間関係とか、新しい環境とか、そういうことに無頓着な幼い時期に転校した方が絶対いい。
新しい環境で新しい人間関係を作れば、その後の舞花のためにもなる。
そんな風に考えていた。
どうしてそんなこと思ったんだろう。
小学四年生が、どうして大丈夫だなんて思ったんだろう。
どうして舞花の話を聞かなかったんだろう。
どうして、ここより今住んでいる場所の方が良いだなんて、思ってしまったんだろう。
舞花は、この場所が好きだったのに。
__僕も……。
そこで僕は、この場所に来てから感じた不思議な感覚の答えに出会った。
久しぶりなのに、懐かしさを全く感じないこと。
むしろ、「帰ってきた」という安心感に似たものがあること。
ここは、歩美と二人で生活を始めた場所。
舞花が生まれた場所。
舞花を育てた場所。
三人で行った場所。
三人で見た景色。
三人で日常を過ごした場所。
僕も、ここが好きなんだ。
この景色も、匂いも、音も、ゆったりと流れる時間も。
そして何より、この場所に馴染む舞花を見ているのが好きだ。
その仕草も、笑顔も。
もちろん、歩美のことも。
僕たち家族の場所は、本当は「ここ」なのかもしれない。
妙に都会感があって、おしゃれで、いつも何かに追われ、比べ、競り合ってきたあの場所じゃなくて。
そんなことを思いながら、僕は定期を買った。
二人分。
そして、舞花とあおい君と、それぞれに渡した。
あおい君は「あ、あの……僕はほんとに……」と定期を前にうろたえたけど、僕が手渡したばかりの定期を返そうとするその手を、僕はぐっと押し返した。
「持っててくれ。……いざという時のために」
「え?」
「覚悟は、できてるんだよな?」
僕の一言に、彼の背筋が一瞬伸びたのが分かった。
「……はい」
小さくかすれた声は、僕の耳に強い意志と共にはっきりと聞こえた。
「カメラが欲しい」
高校合格のご褒美にと舞花がねだったのは、デジタル一眼レフカメラだった。
無事高校入試を終え、合格発表を見た僕たちはその足で早速カメラを買いに行った。
舞花はどこに行くにもそのカメラを持っていった。
そして、行く先々の景色や、目に留まった置き物や食べ物をカメラに収めた。
カメラを持たせて数週間経つ頃には、舞花のカメラの腕前はぐっと上がった。
カメラについている様々な機能を駆使して撮られた写真は、どれも本物のように、時にはそれ以上に美しかった。
今のカメラ技術に驚くばかりだ。
それとも、舞花のカメラの腕前がいいのだろうか。
ただ、僕にはわからないことがある。
どうしてスマホのカメラじゃダメなんだろう。
そして僕には、もう一つ疑問がある。
「お父さん、写真撮るからお母さんと並んで」
舞花は僕たちの写真ばかり撮って、自分の写真を撮ろうとしなかった。
僕は言われるがまま、歩美の隣に立つ。
そんな僕たちの目の前で、舞花はカメラを構える。
その姿もすっかり様になっている。
ただ、舞花はシャッターを切るのにいつも時間がかかっていた。
それは何も、僕たちを撮る時だけじゃない。
風景や建物を撮るときなんかも、レンズや画面を覗き込んだままなかなか動かない。
ただ、カメラの画面を見る目は確かに輝いていた。
だから僕たちも、文句ひとつ言わず、舞花のこだわりに付き合った。
ただこだわるのは結構だけど、被写体の身にもなってほしい。
周りからの視線も気になるし、ずっと同じ表情でいるのもキツイ。
食べ物に関して言えば、舞花が撮り終わるまでお預けを食らう。
それなのに舞花は、決まって失敗をした。
そして何枚も何枚も、納得がいくまで撮り続ける。
僕たちはそれを呆れ顔をしながらも、ひたすら待った。
昔なら、ありえなかった。
舞花を待つなんて。
今日も舞花はカメラを首にぶら下げている。
今日は少し遠出をして舞花の大好きなキャラクターのいるテーマパークに遊びに来た。
平日の方がゆっくり回れるし、人混みもないからという理由で、仕事も、学校も休んで泊りがけで来ている。
舞花は激しいアトラクションが昔から苦手だった。
どちらかというとゆったりと見て回れる船や乗り物を好んだ。
パレードも好きだった。
いつもは混みあっていて人混みを縫いながらじゃないと見えないパレードも、今日は空いていたので、ベストポジションを確保した。
パレードまでの待ち時間、歩美と舞花はトイレに出かけた。
それっきり戻ってこない。
おそらくお土産屋に寄っているのだろう。
舞花のカメラは、今僕の首に提げてある。
何気なく、カメラの電源を入れた。
カメラマンになったつもりで、カメラを構える。
ユニークな建物やキャラクターを象った植木にピントを合わせてみる。
舞花のように、いろんな機能も使ってみる。
慣れないカメラ操作に戸惑いながらも、メニュー画面を順に触っていく。
効果を選ぶたびに画像が加工されてなかなか面白い。
思いがけず、プレビューボタンを押してしまった。
そこには、舞花がこれまで撮りためた写真が収められていた。
僕は好奇心の赴くままに、その写真を一枚一枚スクロールしていった。
家族の写真。
友達の写真。
様々な時間帯の風景。
動画もあった。
同じような写真が何枚も何枚も撮られている。
失敗作なら消してしまえばいいのに。
すぐにメモリがいっぱいになってしまうじゃないか。
写真を見る中で一番多いと感じたのは、あおい君の姿だった。
特に多いのは、バスケをしている姿だ。
あおい君はバスケットボールの強豪校に進学した。
舞花もその学校の普通科に進みたいと言った。
その高校は確かにバスケは強いが、決して進学校ではなかった。
家からは電車で十分ほどのところで、あおい君が住む町と、僕たちが住む町との中間地点だった。
舞花なら家から近い、有名大学合格者を何人も出している進学校を目指せるはずだった。
目指す予定だった。
今のところに引っ越したのは、その高校が近いからというのも大きかった。
だけど僕たちは、舞花の希望を聞いた。
そして高校の合格を機に、僕たちは今住んでいる家を売り払って、前住んでいた町に戻ってきた。
引っ越し先は、あおい君がよく練習しているというバスケットコートのある近くのマンション、つまり、僕たちが元々住んでいたマンションだ。
さすがに同じ部屋番号ではないけれど、間取りは同じなので、昔とほぼ変わらない生活を送ることになる。
今回の引っ越しは、特に舞花が望んだことではなかったけど、その方がいいと思った僕たちが舞花に提案したことだ。
今回は勝手には決めなかった。
ちゃんと舞花の気持ちも聞いた。
中学を卒業すればみんなそれぞれ自分が選んだ進学先に進むし、転校もないので、タイミングとしてはベストだと思った。
舞花も渋る理由がないどころか、きっと舞花自身もそうなればいいと思っていたのだろう。
その顔は喜びに満ちていた。
僕たちはようやく、舞花の気持ちに寄り添えたような気がした。
理解できたような気がした。
引っ越しの費用は、あの500万円から出した。
やっと親らしいお金の使い方ができたような気がした。
昔に戻ったように僕たちは過ごした。
義両親の家にもたびたび顔を出すようになった。
舞花とあおい君は、もちろん一緒に登校したし、帰りもあおい君の部活が終わるのを待って二人は一緒に帰ってきた。
そして帰ってからも、舞花はあおい君とバスケットコートで時間を過ごす。
あおい君のシュート練習を、ただひたすら眺めて帰ってくる。
そのお供に、いつもそのカメラを携えて。
だから自然と、バスケ姿のあおい君が多くなる。
何枚も続くあおい君の写真。
舞花とおそろいの制服やジャージ姿。
部活のユニフォーム姿。
あおい君の横顔。
あおい君の笑った顔。
何気ない、あおい君の仕草。
あおい君の寝顔。
舞花に一番近い、男の子。
ちょっとした嫉妬心を隠すように、僕はカメラの電源をオフにした。
それと同時に歩美と舞花が帰ってきた。
夕方になって僕たちは帰ることにした。
パーク全体にオレンジ色の柔らかな光がどこまでも広がっている。
その光の中に溶け込む舞花の姿は、とても満足げだった。
少し疲れたのか、目もとろりとしている。
寄り添い合いながら歩く歩美と舞花の後ろ姿が印象的だった。
この場面を忘れたくなくて、目に焼き付けた。
だけど、それでは足りなかった。
僕は疲れ切った舞花が僕の首にかけたカメラを構えた。
そして、西日に輝く二人の後ろ姿にピントを合わせた。
カシャンという軽い音に気づいた二人は、同時にこちらを振り返った。
「お父さん、何してんの?」
「写真、撮っただけ」
「もう、勝手に撮らないでよ。メモリいっぱいなんだから」
「整理すればいいだろ? 何枚も同じの撮ってるんだから。
それより今せっかく夕日がきれいだし、写真撮るからお母さんと並んで」
「えー、いいよ別に」
不満げな声を上げる舞花に、「お母さんも舞花と一緒に撮りたいな」と歩美が僕をアシストする。
「自分の写真なんて、あんまり残したくないんだけど」
微かに聞こえた舞花のボヤキに、僕の胸はぎゅっと締め付けられる。
それは、歩美も同じだったのか、何気なく見た歩美の表情は硬かった。
「じゃあ、一枚だけだよ」
そう言って、舞花は歩美とパークを象徴する建物の前に並んだ。
僕はカメラを構えた。
肉眼で見る夕日は美しいけれど、いざそれをそのままカメラに収めるとなると難しい。
パレードの待ち時間に一通りのボタンは触ったので、何とか設定はできた。
「お父さん、早く」
急かされてもう一度カメラを構える。
舞花と歩美の顔が遠くに見えた。
ズーム機能を使って距離を調整する。
慣れないせいで拡大と縮小を無駄に繰り返す。
「まだあ?」と言いながら二人は笑う。
僕はその問いかけには答えないまま、ピントを合わせ続けた。
本当は、手元のカメラのピントは、とっくに合っていた。
それなのに、僕はなかなかシャッターを押すことができないでいた。
カメラからは笑い合う二人の顔が、よく見えた。
今のカメラは性能が良いんだ。
僕が知っているカメラとは違うんだ。
それを、思い知った。
涙が出そうになるほどに。
この画面に映る二人は、画面の中とは思えないほどリアルだった。
実物そのものだった。
カメラの画質や性能は、これほど進化したのかと驚きたかった。
だけど、そんなこと思っている余裕はなかった。
僕の手は、いつの間にか震えていた。
画面の中の二人をもっと見ていたいのに、目がかすみ始める。
「お父さん?」
「はいはい。じゃあ、撮るよ」
そういう僕の声も、微かに震えていた。
僕は二人の笑顔をじっと見つめたまま、ゆっくりとシャッターボタンを押した。
この瞬間を、しっかりと残そう。
そんな思いで。
いや違う。
このまま、時間が止まってほしい。
そんな願いを込めて。
カメラから顔が離せなかった。
カメラ本体の大きさが、辛うじて僕の顔を隠してくれていた。
だから僕は、カメラの背後で静かに涙を落とした。
とめどなく溢れてくる涙をどうにかする方法がわからなくて、僕は思わず「失敗したからもう一枚」と言って、もう一度カメラの後ろに顔を隠す。
そしてピントを合わせてシャッターボタンを押す。
それを何度か続けた。
そのたびに呆れて笑う二人の顔に、僕の涙は誘われる。
「カメラって、便利だな」
僕は弱々しく笑いながら言った。
それに舞花が「もう、何今さらそんなこと言ってんの?」と呆れた声で返す。
そう、僕は今頃カメラの便利さを思い知った。
__だから、カメラなのか? 舞花。
こうしてそっと、好きな人の顔を見ていられるから?
泣き顔を、見られないように。
舞花も僕と同じように、カメラ越しに美しい世界を、大好きな人の姿を自分の目にとどめようとしていたんだろうか。
面と向かって見つめると、泣いてしまうから。
僕みたいに。
カメラ越しだって、こんなにリアルすぎて、泣いてしまうのに。
僕はシャッターを押し続けた。
失敗か成功かなんてもうわからなかった。
ただこの瞬間を切り取りたかった。
__そりゃあ、整理なんて、削除なんて、できないよな。
だって、どんな場面も、どんな風景も、舞花の愛した瞬間なんだから。