祖父母の家でシャワーをして服を着替え、昼食を済ませると、すぐに出掛ける準備をした。
玄関の引き戸をガラガラと開けると、目の前に洸が立っていた。
「おう、行くか」
「うん」
祖父母の家から海に向かってアスファルトの坂道を下るのはさっきと同じ。
そこからは住宅街を街に向かって歩いた。ぬるい風が海から潮の香りを運び、夏を感じる。
「あと少しで着くぞ〜」
数時間前までは、隣を歩いていることが違和感でしかなかったのに。今は何故か洸の隣を歩いていてしっくりくるから不思議だ。
「ここだ」
比較的新しい住宅街の隅に立つ、古いビルの一階、そこが洸の店らしい。入り口の横には小さな木の看板があり『paradise tattoo』と彫ってある。これが店舗名らしい。
「なんでパラダイスなの?」
「俺の技術で来てくれた人を楽園に連れてく的な」
「なにそのセリフ……めちゃくちゃ如何わしく聞こえる……」
「なにも如何わしくねーよ」
鍵を開け、中に入っていく洸の後に続くと、店内には、お香の匂いの中にほんのり煙草の匂いが広がっていた。
そんなに広くはない、黒を基調とした店内で目を引く光景。私は驚き目を見開いた。
「すごい……!!これ、洸が全部描いたの?」
「当たり前だろ」
「すごい上手……キレイ」
「自分で言うのもアレだけど、彫るのも上手いぞ」
壁の至る所に飾られた、タトゥーのデザイン画。
色とりどりの花や動物、洸の背中に彫ってあったトライバル柄や、和彫。全てが完成度が高くハイセンスだ。
これを全て洸が描いている。見た目からはまるで想像のつかない、すごい才能だ。
その全てに見入っていると、洸は作業台の上から一冊のカタログ私に手渡す。
「その他にも、このカタログからも選べる」
「カタログって、これも全部洸のデザイン?」
「そうだよ」
「……ほんと素敵。タトゥーって怖いイメージだったけど、キレイだね、かっこいいね」
感動から小さく息を吐くと、洸は喉の奥でくつくつと笑う。
「すげぇ素直に褒めるな。株が上がったか?」
「うん。ただの元ヤンの大人かと思ってたから」
「言葉選べよ。また海に投げられてぇの?」
ぐりぐりと髪の毛を乱されても、私は洸の描いたカタログから目が離せなかった。
どれも色の配色から形まで、何故か心を掴まれる。そして、その中で一際目を引く物を見つけた。
「薔薇の、蕾? これすごく好き」
「お、目の付け所がいいな。けどあんまり客からは人気がないんだよ。みんな蕾よりも開いてる薔薇が良いみたいで」
「そうなんだ。だけど私はこれが良いな」
「まぁ確かに、今の都に合ってるかもな」
「え?」
私に合うという発言が理解出来ず、隣からカタログを覗き込んできた洸に視線を向けると、柔らかく口角を上げていた。
「薔薇の蕾の花言葉は、夢と希望」
「いや、逆に合わなさ過ぎだから。今の私は夢も希望もないでしょ」
「は? これからだろこれから」
「えぇ?」
「せっかく生き長らえたんだ。夢も希望も、探してみようぜ。それが都がこの先幸せになる為のヒントになるから」
「……そうなの?」
「そうそう」
洸は当たり前のように二、三度頷く。
一番の復讐は、わたしを無意味に傷付けた人間達から離れ、幸せになること。
幸せってなんだろう。夢や希望ってなに? 今の私を形作っているものはなんだろう。暇さえあれば物語の海にどっぷり沈んでいるだけの私の幸せ──。
薔薇の蕾のデザインを見つめ、考え込んでいると、洸は再び口を開いた。
「彫ってやろうか」
「え、嫌だよ怖いもん」
「勿体無いなー、これでも俺、予約の取れない彫り師なんだぜ?」
「彫るのは嫌だけど、このデザイン画は欲しい」
隣に立つ洸を見上げると、とても驚いた表情をしていた。
そしてしばらく沈黙が続き、どうしたのかと口を開こうとしたら、突然両手で髪の毛を掻き回された。
文句を言おうとその手を払い洸を再び見上げると、とても嬉しそうに、優しく笑っていた。私はその表情を見て、何故か胸が高鳴る。
「お前が地元に帰る日にやるよ」
「……本当に?」
「ああ、約束する」
どきん、より大きく胸が鳴る。
恋はするものではない、落ちるもの。この前読んだ小説の当て馬が言っていた印象的な台詞だ。
本当だ、簡単に落ちた。これは恋だ。しかも初恋。した事がないから確実とは言えないけど、だってこんなにもドキドキしている。
出会って一日もたっていないのに、死のうとしたばかりなのに。助けられて苛立ったのに。
私の口は自然と動いていた。
「明日も、ここに来てもいい?」
祖父母の家に来てから一週間が経った。
あれから私は毎日、朝起きて朝食を取ると、身なりを整えすぐに洸の店に向かっている。
洸の店に入っている予約は、日によって時間帯が様々だ。私はお客さんが入っている時は流石に帰るが、それ以外は洸の店のソファーで持ってきた本を読んでいる。
仕事をする洸の真剣な横顔はとてもかっこよくて、会話がなくてもそれを見れるだけで価値を感じる。
そして、そんな姿を見るうちに、私も出来る事は手伝おうと、掃除を担当することになった。
店内の掃き掃除を終え、店の前も掃いてしまおうと入り口のドアを開けると、今日も夏の青空が広がっていて、遠くから波の音と鴎の鳴き声が聞こえる。
箒とちりとりを持ったまま潮風を堪能し、深く深呼吸していると、ふと視線を感じた。
そこには、住宅街の曲がり角から私を凝視する、自転車に跨った青年が居た。肩までまでありそうな髪の毛を緩く一つに括っていて、気怠そうにこちらを見つめている。制服を着ていることから、多分年齢は同じくらいだ。
私はあまりの無遠慮な視線に後退りをし、勢い良く店に飛び込んだ。
「こ、洸っ! な、なんか居たっ!」
「なんかってなんだよ。ちょっと待て、今メールの返信してんだよ」
「なんかめちゃくちゃ見てくるの、変な男子が」
「あ? 変な男だぁ?」
洸はギャアギャアと騒ぐ私の話を流し掛けたが、男と聞くと私の手から箒を奪い、入り口に向かい歩いて行く。そして、ドアを思い切り開いた。
「オラ誰だ!!……あ、理玖」
「洸、お前女子高生連れ込んでなにしてんだよ」
ドアの目の前にはさっきの怠そうな青年が立っていた。半袖のワイシャツに制服のスラックス姿だ。
「何もしてねぇよ!!」
「あー、うるせー。ジジイは声がデケー」
「なんだとコラ……」
「……つーか、なんか、もう平気なの?」
「……ん、あー、まぁそうだな」
「へぇ」
理玖と呼ばれた青年は、洸の目をじっと覗き込む。すると洸は少しだけ俯き、曖昧に返事をした。
いつもはうるさいくらいなのに。こんな洸初めて見る。二人の間には妙な雰囲気が流れていた。
「そんなことよりこれ、ばーちゃんから」
理玖はその雰囲気を断ち切るように、洸に袋に入った何かを差し出す。袋を開く洸の後ろから中身を覗き込めば、パックの焼きそばが二つ入っていた。
「洸とそっちの奴にだって……で、誰なのそれ」
「白澤さんの孫の都。都、コイツは理玖。海の家のばーちゃんの孫」
「は、はじめまして……」
「ふぅん、白澤さんに似てねぇ」
先程と同じように無遠慮な視線がザクザクと刺さる。この人表情があまり無いから、何を考えているのか分からなくて怖い。
頭一個分以上違う身長で見下ろされ、ビクビクする私を洸は振り返る。
「都、今日の客、一人目午前からだけど……その間帰って何すんだ?」
「いつも通り本を読む」
「たまにはお前、ここ以外の場所に行ってこいよ」
「へ」
「理玖、コイツ遊び連れてってやれ」
「はい?」
私がギョッと目を大きくし、洸のシャツを後ろから思い切り引っ張ったが知らないふりをされた。
いや、待ってよく考えて。絶対この理玖って人も怠そうな雰囲気だし、断るはず──。
「分かった」
「分かったの!?」
「うわ声デカ」
「ははは」
思わず突っ込んだ私に、洸はカラカラと楽しそうに笑っていた。そして、ひそひそと私の耳元で呟く。
「安心しろ。理玖はいい奴だから」
キコキコ、ペダルが回る度、決して新しいとは言えない自転車が軋み悲鳴をあげた。
私は現在何故か、理玖と呼ばれる青年の自転車の荷台に乗り、住宅街を走っていた。
気まずい。洸は良かれと思ったのかもしれないけど、つい先程会ったばかりの人間とニケツなんて距離感間違えてる。そういえば、洸も最初から距離感間違えてたな。
私が現実逃避のように通り過ぎて行く住宅街の光景を見つめていると、自転車を漕いでいる理玖が私に声を掛けた。
「どっか行きたいとこあんの?」
「家に帰りたい」
「ふーん、かき氷でも食う?」
「ねぇ話聞いてた?」
「聞こえねーよ」
「ぎゃっ」
坂道に差し掛かり、自転車のスピードが急に上がった。思わず理玖のシャツにしがみ付くと、どんどん上がっていくスピードに似合わない、のんびりとした声が前から聞こえた。
「振り落とされたらそのまま置いてくから」
「ひっ」
私は理玖のシャツを掴む手の力を強くした。
「……ありえない」
「ブルーハワイと……都は何にすんの」
「……抹茶あずき練乳」
「めっちゃこだわるじゃん」
「……ハァ」
洸もしかり、理玖もしかり、普通に初対面から呼び捨ててくる。
あの後猛スピードで坂を降り、それを維持したまま海に向かってガードレール沿いの歩道を走った。その間私は鶏が首を絞められたような悲鳴を上げ続け、必死に理玖に掴まっていた。
そして、海水浴場の駐車場にポツリと建っている屋台に辿り着き、やっと自転車から降りられた。
マイペースな理玖に続くようにカキ氷を注文し、受け取ると屋台の隣に置いてある席に座る。パラソルがあり、やっと日陰に入れてホッとした。
自転車の荷台に乗っていて日差しがキツかったから。
カキ氷を一口含むと、干からびていた喉が潤っていく。向かいに座った理玖も同じなのか、額には汗が滲んでいた。大きな口でカキ氷を頬張り、その冷たさに目を細めていた。
「美味い」
「……うん。美味しい」
「俺、瀬名理玖。苗字で呼ばれ慣れてないから名前でいい。因みに高二。都はいくつ」
今更過ぎる自己紹介と質問に面食らう。返事をすべく、口の中に入れたばかりのカキ氷を急いで飲み込んだ。
「私も高二」
「ふーん。それで、なんで洸のとこにいんの」
「なんで……私夏休み中おばあちゃん達のところにいる予定で、おばあちゃん達が洸と知り合いだったから……えっと、流れで」
「流れね……まぁ、洸ならそうなるのも分かる。アイツ顔に似合わず妙にお人好しだから」
「えっと……理玖は洸と知り合って長いの?」
「物心つく頃にはもう知ってた。洸はこの街の有名人だから」
「有名人?」
「昔からどんなに素行が悪くても、年寄りや女子供にはすげー優しい。困ってる人間に迷いなく手を差し伸べる。だからこの街の人間はみんな洸が好き」
理玖はバクバクとカキ氷を食べ進めるが、私は自分の知らない洸の話が聞けるのが楽しくて、食べる手を止めてしまいカップに水滴が滲んでカキ氷が溶け始める。
そうか、だから海に行った時も洸はあちこちから声を掛けられてたんだ。顔もキツイし、仕事柄怖く見られることもありそうなのに、街の人との距離が近い。それは洸の人柄がそうさせてるんだ。
理玖は頬杖をつき、私を上目遣いに見上げる。
「都って、都会から来た感じ?」
「まぁ、そうなるかな」
「へぇ、いいな」
「なんで? 私はここいいと思うよ。海が近くて気持ちいいし、何より人が温かいから」
「海が近くていいことばっかりじゃねーよ。潮風で家がダメになることもあるし、チャリだって錆びる。冬は吹き付ける風のせいで鬼のように寒いし」
「うわ、確かに。けど都会だって人でゴミゴミしてるし、空気は汚いし電車はいつも混んでるよ」
「お互い、ないものねだりってやつか」
「たしかに」
人は無い物ねだりで夢を見がちだ。だからこうやって実際に話を聞くと、デメリットを知れていいのかもしれない。
けど、海の近くに住むことにそんなデメリットが。驚いていると、理玖は目を伏せる。サラリと一つに結んだ髪が首にかかり、同じ歳なのに妙な色気を感じた。
「俺、高校出たらこの街出たいんだ」
「へ」
「都会の美容専門学校に行きたい」
突然の告白に驚く。会ったばかりなのに、私にそんなことを話してどうしたいのか。
けれど、よく考えたら洸も私の学校での話を聞いた時に、知らない人間の方が話しやすいと言っていて、確かにそれは本当だった。もしかして、これがその状況に当てはまるのかも知れない。
私はとりあえず理玖の話を最後まで聞こうと、言葉を飲み込み、すっかり溶けてしまったカキ氷をジュースのように飲みながら頷く。
「自分のことを誰も知らない場所に行って、一からやってみたいんだよ」
「うん。いいと思うよ」
「この街ってどこに行っても顔見知りばっかりだろ? みんな家族みたいなもんなんだよ。だから、ここを出たらどこまでやれるのか試したい」
理玖は真剣だ。住み慣れた優しい土地にずっと居れば、きっと変わらず幸せで居られる。
けれど、そんな場所から飛び出し挑戦をしたいという理玖は、将来のビジョンがしっかりしているんだろう。
「……けど、家族か……そういうのいいね」
「悪いことしたらすぐバレるぞ」
「悪いことしないもん」
「都も学校で進路のこととか言われるだろ。希望は大学? 専門? それとも……就職とか?」
理玖の質問に、私は身体を硬くする。これは別に変な質問ではない。けれど、それ以前に私には問題が山積みだ。
理玖は固まった私を見て、不思議そうに首を傾げた。
「……私、今不登校で。気晴らしで夏休みいっぱい祖父母に預けられてるの」
「え、そうなの」
「うん。なんか色々あって、疲れて行けなくなっちゃったんだ。だから進路のことは不登校問題が片付いてから」
「……ああ、そっか」
「だけどいいな。街の人達がみんな家族みたいって……私は親でさえ言いたい事がなかなか言えないや」
不登校になった時、両親にどうして? と理由を聞かれ、謝ることしかできなかった。不登校になったことが恥ずかしかったし、何よりいじめられていたという事実を知られたくなかった。自分が他人から嫌われる人間だと知られ、幻滅されたくなかった。心配掛けたくなかった。
こんな私にも、誰か一人でも心を開ける人が居たら違ったんだろうか。それとも、周りに合わせる努力をしたほうがよかったんだろうか。そしたら、こんな状況には──。
気持ちがどんどん下を向き、俯くと、理玖のなんでもないような声がした。
「だったらこれからは、俺に話したいあったら話せば」
「え」
「もう洸には話してるんだろうから、同年代代表ってことで俺。連絡先交換しよ」
「待って、けど私、そんな面白味ある人間じゃないし」
「そんなの求めてねーよ。けど都はクラスの女子みたいなズケズケした感じもないし、俺は話しやすい。だから友達になりたい」
私にスマホを取り出させ、チャットアプリからQRコードを読み取ると、理玖は気怠げな表情は崩さぬまま、ニマリと笑った。
「だから都も、ちょっとしたことでいいから連絡してきていーよ」
ふわりと夏特有のぬるい風が私達の間を通り抜けていき、理玖の髪の毛が揺れる。
ちょっとしたことでいいから、連絡してもいい人なんて出来たことがない。心がじわりと温かくなる。
洸が言っていた、理玖はいい奴だからという言葉を実感し、私はこくこくと何度も頷いた。
「……っつーか、洸って初対面からあんな感じだった?」
「あんな感じ……? うん、比較的」
「洸、ついこの前まで全然笑わなかったんだよ。だから、今日会って前の洸に戻ったみたいで驚いた」
「えっ? 全然笑わなかったって……なんで?」
「……洸が話してないなら言えない。けど、周りが触れられないくらい、ここ数年ピリピリしてた」
周りが触れられないくらい……?そんな洸を想像できない。
けど、出会ったあの日、夜の堤防。洸の表情を思い出す。
確かにあの時の洸は、表情が抜け落ちたように冷たく感じたんだ。
「すごい。星が掴めそう」
「星は掴めねーよ」
「例えだし。例え」
「ふーん。いい景色だろ」
現在夜9時。私は洸に連れられ街一面を見下ろせる、小高い山の上の公園に居た。
公園といっても子供が遊ぶような遊具はなく、年季の入った東屋と数メートルの距離ごとにポツポツと置かれているベンチだけの小さなものだ。
その一つに腰掛け、今にもこぼれ落ちてきそうなほどの星が輝く、美しい夜空を見上げる。すると、隣に座った洸が口を開いた。
「理玖とどうだった? あいつスカしてるけど悪い奴じゃねーだろ」
「いい人だね。話してて楽しかったよ。だけどなんで洸も理玖も海に人のこと投げ入れるの? そういう呪いにでも掛かってるの?」
「なんかお約束なんだよ。仲良くなりたかったらとりあえず海に投げる」
「こわ……」
今日、かき氷を食べ終え砂浜に走って行ってしまった理玖を追ったら、何故か揉み合いになり海に投げられた。
そこからヒートアップしてお互いびしょびしょになり、そのまま洸の店に戻ったら大笑いされた。
けれど、確かに理玖との距離は縮まった気がするから、この海辺の街特有のコミュニケーションはそれなりに機能しているんだろう。
夜空を見るふりをして、洸の横顔を盗み見る。少しだけかさついた薄い唇や、きりりとした鼻筋、穴だらけの耳。太い首に主張する男らしい喉仏。洸は、私とは性別も年齢も違う、大人の男だ。その事実にどうしようもなく胸が鳴る。
しばらくお互い無言で夜空を眺め続け、どちらともなく会話を切り出す。
「都、お前最近どう? 楽しいか?」
「うん。楽しい。生きてるって感じ」
「死のうとしてた奴がそんなこと言ってると思うと、なんだか心に沁みるな」
「洸が仕事してるのを見てるのも楽しいし、どこに連れて行ってもらっても目新しくて刺激になるよ。何より、この街の潮風を感じながら本を読むのがすごくいい」
「なんだそれ」
「なんだかこの街は無駄な情報がなくて、物語がいつもよりスッと入ってくる」
「へぇ……都は書いたりはしないのか? 小説」
「えっ」
「俺の店にいる時も、窓開けて食い入るように本読んでるだろ。それだけ好きで、読んでるなら、作り手に回らないのかと思って」
私は黙った。そんなこと誰にも言われたことはない。それに、私自身読んでいるだけで満たされていたから。
けれど、美しい景色を見た時、美味しいものを食べた時、心震わされた時、さまざまな経験をした時に、そこに物語を添えたらどうなるんだろうと、ふと頭をよぎったことはある。
何かが動き出す時、必ずきっかけがある。それはいつ、どこにあるかは分からない。だから人はそれがきた時に迷わず掴めるかを試されているのかもしれない。
────そうか、これがきっかけか。私は妙に納得してしまった。
「うん。書こうかな」
「……もしかして今決めた感じか?」
「なんか、書き始めるきっかけって人それぞれだし。それが巡ってきたなら書くしかないでしょ」
「うわ、俺、未来の大人気作家を生み出しちまった」
「大袈裟だよ」
「好きこそものの上手なれだろ」
「……読むことは好きでも、書くことは好きか分からないじゃん」
「けど都は好きになる。きっと」
私が笑うと、洸はとても優しい目で私を見つめた。私は洸のこの目がとても好きだ。
「洸は、何で彫り師になったの」
何となくの質問だった。何故洸がこの仕事についたのかを私は知らなかったから。
私の質問に、洸は珍しく目を伏せる。その目は何かを懐かしむようなものだった。
「最初から、彫り師になりたかったわけじゃねーんだよ」
「え」
「けど、刺青に対してカッコイイとかキレイって、漠然と憧れてて。そんな時背中を押してくれた奴が居たんだ」
「…………」
「やってみなよ、洸なら掘れるようになるよって、何の根拠もないのにそいつが言ったから。今の俺がいる」
「……そうなんだ」
洸は優しい表情をしているのに、どこか寂しそうだった。戻らない過去に想いを馳せている、そんな表情。
ふと理玖の言っていた、洸が周りから触れられない程ピリついていたという言葉を思い出す。
この話題が何か関係あるのかもしれない。一体何があったんだろう。聞きたいけど聞けない。
モヤモヤしながら、なんと相槌を打ったらいいのか迷っていると、突然洸が真剣ない表情で顔を覗き込んできた。
「都、お前明日、父さんと母さん来るんだろ」
「……何で知ってるの」
「逆に、何で言わねーんだよ」
「っ」
──きっと、祖父母が洸に話したんだろう。私はぐっと言葉を詰まらせる。
明日両親が私の様子を見に来る。そして、学校側と話したことを私に伝えに来るらしい。
どうせ、担任が猫を被り、あることないことを両親に伝えている。そして両親はそれを信じている。だって私は、両親にこれまであった事を話していないから。
「親に、やっぱりイジメのこと言わねーのか」
「……言いたくない。子供がいじめられてたって知ったら親は嫌でしょ」
「どっちかっつーと、突然学校に行かなくなった娘から何も相談されない方が悲しいだろ。誰かの手を借りなきゃ難しいこともある。行かなくていい、けど頼るべきところは頼らなきゃダメだ」
洸の言葉は間違ってない。間違えているのは私だ。そんなの、ずっと前から分かってる。でも、だけど──。
鼻の奥がつんとする。次第に視界が潤み、雫となって目から溢れ、ぽろりと私の頬を伝う。
洸は黙って私のその様子を真っ直ぐに見つめていた。
「…………だって、クラス中から無視されてるなんて……私に何か問題がある以外ないと思われても仕方ないじゃん」
「都」
「不登校ってだけで迷惑なのに……これ以上お父さんとお母さんに幻滅されたくない……」
情けない私の本音に、洸がピクリと反応する。そして、それと同時に、私の両肩が力強く掴まれた。
「するわけねーだろ!! 馬鹿なのか!!」
「ひぇっ」
洸の額には青筋が浮かんでいて、怒っていることが手にとるように分かる。あまりの声量と迫力に涙も止まってしまった。
「お前の親は、娘が自殺するほど苦しんでるのに、その理由を知って幻滅するような親なのか? だとしたら殴って根性叩き直してやる」
「そ、そんなことない、だけど」
「死ぬ勇気があるんだ。本当の勇気の使い所はここだろ都」
洸は私の肩を力強く叩く。
「ここまで育ててくれた親はお前の味方だ。勇気を出せ」
「……本当に?」
「それに、俺もいる」
「……洸も?」
「ああ、俺だって、何があっても都の味方だ。当たり前だろ」
満点の星空が私達を照らす。私は洸のシャツに震える手でしがみ付き、嗚咽した。洸はそれを受け止め、私の髪の毛を優しく撫でる。
色々なきっかけが詰まった、美しい夜。
小説を書くきっかけ。
両親に全てを打ち明けようと思えたきっかけ。
そして──。
洸を、もっともっと好きになる、きっかけ。