──ずっと一人我慢してきた。


「大体なぁ、いじめられる方にも原因があるんだよ」


 ──本を読んでいる時だけが、心が楽になれた。


「人間関係は本からは得られないぞ」


 ──なのに、全てを否定されるくらいなら。


「面白くなくても笑っておけば、仲間になれる。その方が白澤も楽だろ?」


 ──もう全てが限界で、心の糸はプツリと切れた。この言葉を吐かれて以降、私は学校へ行くことをやめた。








 ────生温い風に乗って、潮の匂いが車内に充満する。それにつられ、私は伏せていた視線をゆっくりと上げた。


 後部座席の窓の外に視線を向ければ、緩いカーブを描いたガードレールの向こう側に、全てを飲み込んでしまいそうなほど大きな海が太陽に反射し、ゆらゆらと波打っていた。


 空は嫌になる程真っ青で、入道雲が気持ちよさそうに浮かんでいる。


 真夏にしか見られないこのキラキラとした美しい光景は、きっと見るもの全ての心を洗ってくれるのだろう。


 けれど、今の私の心はそんなものでは洗い流せないくらいどす黒く、深く深く濁っていた。



「都、おじいちゃんとおばあちゃんの言うこと、きちんと聞くのよ」
「……うん」
「とりあえず、学校のことはお父さんとお母さんがなんとかしておくから、気にせずゆっくりしてね」



 運転席に座る母からの言葉に、私は視線を窓の外から外さずに小さく答えた。


 夏休み真っ盛りの八月一日、私、白澤都(しらさわみやこ)は、東京から一時間程の祖父母の家に一ヶ月間預けられることになった。


 祖父母の家は海辺の小さな田舎町で、漁業が盛んらしい。昔はよく泊まりに来ていたが、もう高校生にもなると自然と疎遠になっていた。


 海岸から車で十分程、緩い坂を登った先に、祖父母の住む瓦屋根の平家が建っている。駐車場に車を停め、車から降りて懐かしいその家を見上げていると、先に玄関の中に入っていた母が私を呼んだ。


 
「ほら、都。久しぶりなんだからちゃんと挨拶して」



 玄関の引き戸を潜ると、小上がりに祖父母が立っていた。目尻に皺を寄せ、嬉しそうにこちらを見つめている。私が小学生の頃は背筋をピンと伸ばし、シャキッとしていた二人は、少しだけ小さくなっていて、時の流れを感じる。


 私はどんな表情をしていいのか分からず、視線を下げた。



「今日から、よろしくお願いします」
「何言ってるの、子供がそんなに畏まってどうするの!」
「そうだよ都、昔みたいに自由にしてて良いからな?」
「……うん」
「……それじゃあ、お父さんお母さん、都を少しの間お願いね」



 母は午後から介護の仕事があるから、家に上がらずにすぐに車になり帰ってしまった。私はその後ろ姿を見送る。



「疲れただろ。ほら、居間で昼飯を食おう」
「あ、ありがとう」
「都は素麺食べられるわよね?」
「うん、平気」
「ならよかった。早くお上がり。手を洗っておいで」



 私は頷き、洗面所に向かった。手を洗いながらふと鏡を見ると、日焼けをしていない青白い肌の、不健康そうな見た目の自分と目が合った。


 まるで、世界中の不幸を背負ったような表情をしている。小説の主人公なら、ここから救いがあるのかもしれないが、私にはきっとない。



「……周りに合わせて、笑う」



 あれから、何度も脳内で反芻する担任の言葉、クラスメイト達の私を笑う恐ろしい視線が、私を追い詰める。


 ジャーーーーと、蛇口から流れる水の音が、洗面所に響いた。


 もう、終わりでいい。弱いと言われても、もうどうでもいい。





 そう、私はこの街の美しい海で、自分の人生を終わらせにきた。


 





 
 夜空をどんよりとした分厚い雲が覆っている。瞬く星や、闇を照らす月明かりもない。そんな、真夏の夜の海岸。海は黒くて、気持ちが悪いくらい静かだ。


 海から街を守るように建っている堤防に登り、その端まで歩く。そして端にたどり着くと脚をぶら下げて座り、海を覗き込む。黒くて飲み込まれそうな、底の見えない深い海。堤防にぶつかり音を立てる波に、私は息を呑んだ。


 夜の深い時間帯、祖父母が寝静まったことを確認して家を出た。夜のこの街はとても静かで、ここに来るまでに誰ともすれ違うことはなかった。


 私がここに飛び込み死んでも、きっと誰も気付かない。



「……私がここで死んだら、アイツらを少しでも後悔させられるよね」



 私の呟きは波の音に吸い込まれる。


 アイツらに少しでも傷付いて、後悔してほしい。自分達のせいで人が死んだ、死なせたと、私のように眠れぬ夜を過ごして欲しい。


 ザザン、ザザン、黒い波が私を誘っている。それを見つめていると、波打ち際にある大きな岩の隙間で、何かがキラリと光った。



「なに、あれ……あっ」



 何かを確認しようと身を乗り出した瞬間、私の背を押すように、突然強い追い風が吹いた。そのまま私は手を滑らせ、スローモーションのように身体が傾いていく。


 こんな終わり方をするとは思わなかった。もっと心の準備をして、自分のタイミングでいきたかったのに。


 そういえば、来月好きな作家の半年ぶりの新刊が発売されるんだった。それだけは心残りだな。


 けど、もう遅い。私は襲い来るであろう衝撃と息苦しさに身構え、そっと目を閉じる。



「──っにしてんだよ」 



 波の音を割くように、掠れた低音が響く。私のTシャツの裾が引っ張られ、堤防の内側に思い切り尻餅をついた。


 それと同時に、身体中が脈打つように震え出し、呼吸が荒くなる。これは恐怖のせいだ。


 覚悟したのに、何でこんな──。



「子供が、こんな夜中に何やってんだ」



 不機嫌そうな声が頭の上から降ってきて、ゆっくりと顔を上げる。すると、こちらを見下ろすように、甚平姿の背の高い男が立っていた。


 短髪の黒い髪、涼しげな目元、耳にはピアスの穴が沢山空いていて、煙草を咥えている。多分二十代後半くらいだ。


 こんな時間に何故こんなところに人が? 不良だ、ヤカラだ。喉から引き攣るような音を出した私に、不良は煙を吐き出しながら器用に舌打ちをする。


 
「お前分かってんのか。死ぬところだったんだぞ」
「あ……」
「それとも、死のうと思ってたのか?」
「…………」



 まるで見透かすようなその言葉に、私は目を見開き固まる。


 言葉を失った私を、黒い瞳が射抜く。何も答えられずに居ると、男は煙草を深く吸い込む。煙を吐き出しながら、ジリジリと短くなったそれをポケット灰皿に押し付け、私の腕を引き立ち上がらせた。



「えっ、な、なんですか?」
「送る」
「……そんなことしなくても一人で帰れます」
「帰りに他の場所で死なれたら困るだろ」
「っ、なんで……貴方には関係ない」
「関係あるだろ。一度助けたのに死なれたら、寝覚めが悪すぎる」



 振り払おうとしても放してもらえず、そのまま引き摺られるように堤防から降ろされ、砂浜を進む。



「お前見ない顔だけど、誰の家の子供」
「…………白澤です」
「は、もしかして白澤さんのとこの孫なのか?」
「……はい」
「あそこのジジババにはガキの頃よく世話んなったんだよ」
「…………」



 男は私の腕を掴んだまま振り返る。そして、じいっと無表情で私の顔を見つめた。その視線に居心地が悪くなり、私は俯く。



「お前は、この街に居る限り死なせない」
「……なんでですか」
「俺がそう決めた」
「勝手に決めないでください」
「俺は、拾った命に責任持つんだよ。それにジジババが悲しむところは見たくない」
「っ、うるさい!! 私に関わらないでっ!」



 思い切り腕を振り払い、自分よりも高い位置にある顔を睨みつける。男は驚きもせず、表情を変えずにこちらを見下ろしていた。あまりの怒りに呼吸が荒くなる。


 今日出会ったばかりのこの男に、私の生死を左右する権利は絶対にない。散々苦しんだ挙句、私なりに決断した。


 なのに、なんで──。



「俺は(こう)、呼び捨てでいい」
「……聞いてない」
「とにかく、今日は俺に見付かったのが運の尽きだ。とにかく帰って今日は寝ろ」
「…………」
「ジジババ叩き起こすぞ」
「……分かったから」
「よーし、んじゃ帰んぞ」



 再び私の腕を掴み、男──洸は歩き出す。私は抵抗することをやめて、腕を引かれるがまま歩き出した。


 行きとは違い、二つの足跡が砂浜に続く。私を誘っていた波の音は小さくなっていた。


 雲の隙間から顔を出した月が、静かに私達を見下ろしている。







 カーテンの隙間から漏れる日差しと、頭の痛くなるような蝉の鳴き声で目を覚ました。



 ぼやけた視界で掛時計を見ると、8時を回っている。随分寝てしまったらしい。


 和室から廊下に出ると、居間から祖父母ともう一人、男の声がする。こんなに朝からの来客に驚き、居間の前でしばらく聞き耳を立てていると、来客の声に聞き覚えがあることに気が付く。


 そう昨日、いや、今日、家に辿り着くと、洸は私のことを玄関に押し込んだ。そして──。



「リストカットなんてするなよ。あれは痛いし、なかなか死ねない。首吊りも失敗したら後遺症が残って一生病院生活だ。兎に角早く寝ろ」



 恐ろしい圧でそう言い残し、引き戸を閉めて帰っていった。


 そして、居間から聞こえるこの声は──。


 私は居間のガラス戸を勢い良く開いた。



「都、おはよう」



 今日、数時間前に私の自殺を邪魔した男、洸が、居間の真ん中にあるちゃぶ台に並べられた朝食を、祖父と共に我が物顔で食べている。


 そして、味噌汁を啜りながら私の名前を呼び片手を上げた。なんなんだ、この男は。


 洸は甚平ではなくカットソーにデニムというファッションで、昨日の甚平は寝巻きだったんだな、と半分パニックになった脳みそで考える。


 というより、もしかして洸は私が自殺をしようとしていたことを祖父母に伝えに来たのかもしれない。なんて余計なことを。


 自分がパジャマ姿なことも忘れ、警戒心丸出しで洸に冷たい視線を送っていると、台所から厚焼き卵をを運んできた祖母が私に気付き明るく笑う。



「都、起きたのね、おはよう」
「おはよう、おばあちゃん」
「この子は洸くん。今朝草抜きをしてたら久しぶりに会ってね、朝食に誘ったの。都のことを話したら都を遊びに連れて行ってくれるって言うから、是非にってお願いをしたところなのよ」
「…………は?」
「都、洸はこんな形でもいい奴だから安心してついていけ。悪い大人じゃないから」
「じーちゃん、こんな形ってなんだよ」



 まさか、こんなことになるなんて。


 洸とバチリと視線が絡む。すると、断ったら海でのことをバラすと言わんばかりの無言の圧を感じた。切長の涼しげな目が、絶対に逃がさないと私を追い詰めてくる。



 ────お前は、この街にいる限り死なせない。



 有言実行しにきたということか。


 あまりの外堀の埋め様に、私はパジャマの裾を握り、その場で小さく頷くことしかできなかった。


 
 


 

 祖父母の家から、緩く傾斜したアスファルトの坂道をゆっくりと海に向かい下っていく。


 ジリジリと照り付ける日差しが素肌を焼き、汗が滲む。もうすでに帰りたい。


 私の隣を歩く洸は、キャップを目深に被り、大きな欠伸をしている。眠いならこんなことしなくていいのに。普通に迷惑だ。


 朝食を食べ終え、祖父母に背中を押され家を出されたが、目的地がどこなのかが先ず謎だ。



「あの」
「ん? なに」
「……遊びって、何を」
「夏と言えば?」
「え」
「海だろ」
「は?」
「行くぞー」



 坂を下り終え、洸はガードレールに手を掛ける。


 そして、その向こう側に広がっている大きな海を指さした。真夜中の不気味な程黒い海はそこにはなく、太陽に反射し、キラキラと揺らめいている。


 その光景に、少しだけ胸がときめいた。



「ほら、早く」
「…………」



 ガードレールを軽々越える洸の後に続き、その隙間から砂浜に下りる。


 砂に足を取られ、よろけると、手首を掴まれ支えられる。そしてじろりと何か言いたげな目で見下ろされる。



「お前もっと飯食え。ヒョロすぎ」
「余計なお世話なんですけど」



 歩き出した洸の後をついていくと、とたん屋根の建物に向かっていることに気が付く。


 洸は躊躇いなく開きっぱなしの戸を潜り、中に入っていってしまい、私は恐る恐る建物の中を覗き込んだ。



「何ビクビクしてんだよ。ただの海の家だ」
「えっ」
「あー、裏口から入ったから分からなかったのか」



 確かに、建物の中にはテーブルと椅子が並び、カウンターには手書きのメニュー表がズラリと貼り付けてある。


 カウンターの中から、エプロン姿の元気そうなお婆さんが顔を出す。


「なんだい洸、久々に来たと思ったら開店前に。誰なのその子は」
「白澤さんのとこの孫。夏休みはこっちに居るらしい」
「あら!! 白澤さんの!! あらあらあら! それならこれ! 持っていきなさい!」



 お婆さんは、カウンターの横で氷水の張ったクーラーボックスに入っていたラムネを二つ洸に渡す。



「ばーさん、金払う。そのつもりで来たし。パラソルと適当なレジャーシート貸して」
「何言ってんだい、金はいいから早く行きな! パラソルもシートも勝手に持ってきなさい!」
「けど」
「うるっさい!! 早くいけ!! 孫ちゃんも待ちくたびれてるでしょ!!」
「イテェ!!」



 おばあさんは洸の尻を思い切り蹴る。洸は蹴られた部分を摩りながら、痛みに耐えていた。


 おばあさんは私に向き直ると、にこりと目尻に皺を寄せて笑う。



「今日の海は穏やかでいいよ。泳ぐも良し、眺めるもよし。暑くなったらまた涼みにおいで!」



 背中を皺々の手でバシンと叩かれ、シャッターを開けた入り口から、洸と共に外に押し出される。



「ん、これ持っとけ」



 洸にラムネの瓶を渡される。


 貸し出し用のレジャーシートとパラソルを持った洸は、砂浜に向かっていく。私もその後を黙って追った。


 この海は海水浴シーズンなのにそこまで混み合っておらず、観光客というよりも地元の住民達で賑わっていた。


 あちこちから洸が名前を呼ばれ、私の紹介をする。すると皆祖父母を知っていて、お菓子やジュースを分けてくれた。


 私の両腕が貰ったものでパンパンになったくらいに、人混みから外れた場所にパラソルを立て、レジャーシートを敷いた。



「よし都、座っていいぞ」
「……すごい量貰いましたね」
「お前のジジババの人徳だな」
「いや、それだけではないと思う……」
「ラムネ飲もう、喉乾いた」



 ラムネを手渡され、私は人一人分の隙間を空けて洸の隣に座る。パラソルで作った日陰のおかげで、やっと一息つけた。


 ラムネの蓋を押し込むと、ビー玉が瓶の中でくるりと回る。喉が渇いていたのもあり、しゅわりとした甘い炭酸が干からびた喉を潤していくのが気持ちいい。


 ぷはっと息を吐くと、先にラムネを飲み干していた洸がジッとこちらを見つめているのに気が付いた。



「都、お前いくつだ?」
「十七です。高校二年」
「若ぇな」
「洸、さんは?」
「さんはいらねー」
「……洸は?」
「俺、二十七」
「二十七歳……」



 思った以上に大人だった。十も違う。


 洸は愛想もあまりないし、耳は穴だらけで元ヤン感がありすぎるが、地元民からの信頼は厚く、悪い人間ではないらしい。


 ……それはそうか。夜中の海で自殺しかけていた見ず知らずの子供を、わざわざ家まで送ってくれるような人だ。


 そういえば、ふと疑問が湧いた。




「洸は、あんな時間の海で何をしてたんですか」
「…………」



 洸が、どんな目的があってあそこに居たのか気になった。一瞬の間、私の質問に洸は静かに答えた。



「あの日は、何となく行かなきゃいけない気がした」
「……あんな時間に?」
「そう、あの時間に。運が良かった。それで都を見つけられた」



 この人は、思ったよりずっと優しい人なのかもしれない。


 無愛想だし、連れ出し方があまりにも強引で不信感を抱いていたけど、少し警戒心を解いてもいいのかも。


 そんな私の考えを知ってか知らずか、洸は話題を振ってくる。



「休み時間とか何してんの」
「……私は、本を読んでました」
「本? 漫画?」
「小説」
「へぇーーーー、ジャンルは?」
「基本何でも読みます。学生の青春恋愛ものとか、ホラーも好きですし、ミステリーもヒューマンドラマも」
「すげぇ、色々読んでるんだな。俺は小説って文字が小さくて中々内容が頭に入らないんだよ。だから、漫画ばかり読んでる」
「勿体無い」
「え」



 私は思わず洸に向かい身を乗り出す。手に持ったままのラムネの瓶の中で、ビー玉がカランと転がった。



「確かに文字も小さくて、それだけで読む気が失せちゃうかもしれないけど、絵と違って文字で一から十まで全てを表現するから、すごく想像力も働くし……こう、グッと引き込まれますよ」
「……ふぅん」
「ミステリー小説の全てをひっくり返すミスリードとか、恋愛小説の繊細な心理描写とか……絵では表現しきれない全てを、文字は表現してくれるんです。美しいんです」
「…………」
「今は人気漫画の原作が小説だったりするので、そこから入ってもいいかも。好きなジャンルありますか? もし特になければ────」
「ちょっと待て。ストップ」



 私がスマホの画面を見せようとすると、洸はこちらに向かい手を翳した。


 ────やってしまった。


 さぁっと顔が青褪める。自分の好きなことだからって饒舌になり過ぎた。どうしよう、きっと引かれただろう。俯いて目をギュッと閉じると、ぶふっと噴き出す音が聞こえた。


 顔を上げると、洸は肩を揺らして笑っている。


 あれ? 引かれていない……?
 


「ははっ……都、お前、めちゃくちゃ話すじゃねぇか」
「……ごめんなさい。思わず」
「いや、良い。自分の知らない世界を知れるのは楽しい。だけど、もう少し落ち着け」
「はい。今私のオススメの話ししちゃうと、きっとまた暴走するのでクールダウンします」
「そうしろ。あー、面白すぎる」



 洸は無愛想だと思っていたが、意外に表情豊からしい。一見見た目が怖いから、ギャップがある。


 じっと笑った顔を見つめていると、考えていることがバレたのか、大きな手で顔面を掴まれた。



「ちょっ……! 痛いんですけど!」
「お前失礼なこと考えてただろ。俺だって面白けりゃ笑うわ」
「思考を読まないでっ!」
「読まれるような顔してんだろーがー」



 何とか洸の手を顔面から外すことに成功し、こめかみを摩っていると、さっきとは打って変わって優しく大きな手が頭の上に乗った。



「────都は、何で死にてぇんだよ」



 洸の黒い目が、私を真っ直ぐに射抜く。直球の質問に、私はヒュッと息を吸い込み、黙り込んだ。



「そんなに夢中になれるものがあって、なんで海に飛び込むような決断に至るんだ」
「……色々あるんです」
「色々ってなんだよ。別に俺、お前のジジババに言わねぇよ。ただ、知りたいだけ」
「知りたい?」
「ほら、独り言だと思って話してみろよ。会って一日も経ってない他人だと思えば、少しは気楽だろ」
「…………」



 洸は私が話しやすいようにする為か、私から視線を外し、先程知り合いから貰った焼きそばのパックを開け、割り箸を咥えてパキッと半分に折る。


 焼きそばを食べ始めた洸の横顔に、私の心は自然と傾いていく。洸と同い年くらいの担任は、私を否定した。だからもう、誰にも話す気なんてなかったのに。


 話してみても良いかな、と思わされてしまった。
 

 私は体育座りをして、膝に額をくっ付けながら、口を開く。



「……小さなきっかけだったんです。友達だった子のSNSに自分の写真を載せないで欲しいって頼んだら……ノリが悪いって、気付いたらクラス中から無視されるようになってて」
「…………」
「親にも心配掛けるし、誰にも相談出来なくて……二年生になっても物が無くなったり、空気扱いされたり状況は変わらなくて」
「……へぇ」
「誰も助けてくれないと分かってからは、とにかく目立たないように過ごしました。陰口を言われても、物が無くなっても反応してやらない。それが精一杯の抵抗だったんです」



 小学生の男子達が、笑いながら私達の横を走り抜け、海に入っていく様子に私は顔を上げる。そして話を続けた。



「そんな中、小説だけはどんな時でも私の味方でした」
「味方?」
「大好きな本を読んでいれば、辛い現実を忘れられたんです」
「……そうか」
「けど、担任からは、本ばかり読んで協調性のない私が悪く見えるみたいで……なんだか私、馬鹿みたいで、疲れてしまって。その発言をされて以降、学校には行ってません」



 楽しそうに遊ぶ子供達、見守る大人、砂浜を散歩する老夫婦、その全てが幸せそうで、私だけが存在を許されていないような、酷い孤独感に襲われる。


 そんな気持ちのまま、言葉を繋いだ。



「私が死んだら、担任もクラスメイト達も、自分のした事を後悔するかもって思って」



 情けなく声が震える。


 後悔して、私と同じくらい苦しんで欲しかった。側から聞けばきっと馬鹿だと思われる。


 だけど、私にとっては、これしか──。



「都こそ、勿体ねーよ」



 その言葉に、私は隣に座る洸に視線を向けた。


 洸の目は、痛々しいほど歪められていた。



「そんな奴らの為に命を投げ出すなんて、勿体ねぇよ。それにそいつら、都が死んだところで時間が経ったらお前のことを忘れて生活するぞ」
「……忘れる?」
「そうだ、忘れる。だから勿体ない」



 あっけらかんと告げられた事実に、私は言葉を失った。


 散々苦しみ、最後に自分で自分を殺しても、あいつらに恨みを返せるわけではないの?


 だとしたら、私はどうすればいい? 死ぬことが無意味なら、私はまだこの先も心に付けられた傷に痛み苦しみながら、学校にも通えずに縮こまっているしかないの?


 徐々に自分の目に水の膜が張っていく。やっと辿り着いた答えだと思っていたのに、それじゃあ、私は──。



「復讐なら良い方法がある」
「…………え」



 復讐なんて物騒なことを言っているのに、洸の口調はどこか明るかった。私は俯きかけた視線を上げる。



「都のことを傷付けた奴等とは離れた場所で、そいつらよりも幸せになることだ。そんな奴らのこと考えてる時間が勿体ない。死んでやる必要ない」
「…………」
「自分を傷付ける環境に依存しなくて良い。逃げは立派な生存本能だ」
「……生存本能」
「そんな学校行かなくて当然だろ」



 洸はガツガツと焼きそばを掻き込むように食べ終え、すっくと立ち上がった。


 そして、手首を掴まれ強制的にパラソルの日陰から引っ張り出される。


 学校へ行かなくて当然。そんなこと初めて言われた。


 不登校になったら、担任からいつになったら登校できるかと家に電話が掛かってくるようになったし、両親も、理由を頑なに話さない私の様子を伺いつつ、夜な夜などうしたら私が学校へ行けるのか話し合っていた。


 入学式に連絡先を交換した程度のクラスメイトから、誰かに頼まれて渋々送ったような、当たり障りのない私を待っているというメッセージもくるようになった。


 みんな、学校へ行かない私がおかしいと、行かないと言う選択をした私を肯定してはくれなかった。
 

 洸は私がサンダルを履く間もなく手を引き、海に向かって砂浜を進む。足の裏に、太陽に焼かれ熱くなった砂の感触が伝わる。


 やがて波打ち際に辿り着き、洸はデニムが濡れることを気にせず、全く躊躇いなく海へと入っていく。それを見て驚いた私は立ち止まった。



「ちょっ……私水着じゃないです!」
「俺も水着じゃねーよ。んな細かいこと気にすんなよ」
「気にしますよ!待って、引っ張らないでっ、服が濡れるっ」
「服が濡れること気にしてるような奴が、飛び込み自殺しようとしてたなんてなぁ」
「うっ」
「はい、せーの」
「わっ」



 抵抗する私に面倒くさくなったのか、洸は私の両脇を掴み、海に向かって放り投げた。


 抵抗虚しく、私は頭から海に落ちる。バシャンという音と水飛沫がキラキラと宙に舞う。ゴポゴポ私の口から酸素の泡が水面に向かって登っていき、水の中は透明でゆらゆらと陽の光がさしている。


 ああ、すごい、すごくきれい。


 浅瀬だったこともありすぐに地面に足をつき、水面に顔を出すと、洸が少し離れた場所で腹を抱えて大笑いしていた。



「ははははっ……!!軽いから随分飛んだなっ!」
「……洸、やったね……」
「やんのか? 海で俺に勝てると思うなよ?」
「やってみなきゃ分からないでしょ!! くらえっ!!」



 もう敬語を使うことも忘れ、私は洸に向かい波に脚を取られながら走る。そして、バシャーーーーンと大きな水飛沫と共に、私は洸に向けて水を掛けた。するとそれは洸の顔面に直撃し、洸は鼻を抑え俯く。



「テメー……痛ぇじゃねーか……!!鼻に潮水がっ」
「あれ? 負けちゃうの? あれだけ大口叩いておいて」
「都っ!!」
「ぎゃっ、ごめんって! ストップ!!」



 それから私は何度も洸に海に向かって投げられ、その光景を見ていた小学生男子達が加勢してくれて、最終的に洸は水鉄砲責めに遭い、逃げ惑っていた。


 久しぶりに心の底から笑い、最終的に二人でくたくたになり、パラソルの下に戻った。


 すると洸は、疲れ果てた私を見て、満足そうに笑う。



「な? 海、楽しいだろ」



 その子供のような笑顔に、否定なんてできなかった。だってとても楽しかったから。


 私は小さく頷くと、洸はぐしゃぐしゃと雑に私の頭を撫でた。



「あー、だいぶ濡れたな」



 すると、洸は突然シャツをガバリと脱ぐ。確かに濡れたし、私も脱ぎたいくらいだけど。


 ちらりと横目で洸の身体を見て、私は固まった。



「え……」
「ん? あー、これ?」
「な、な、なにそれ」



 ────筋肉質な洸の背中には、大きな虎の刺青が入っていた。色はついておらず、黒い線のみで彫られた凶暴な肉食獣は、まるでこちらを睨みつけているようだった。


 その迫力に、私は顔を青くして思わず後ずさる。



「えっ!? ヤクザ!?」
「ちげーよ。和彫じゃねーし、トライバルタトゥーってやつ」
「やんちゃしてたから……?」
「まぁヤンチャはしてた」
「怖い怖い」


 私がひたすら引いていると、洸は楽しそうに薄い唇の口角を上げた。そして口を開く。



「俺、彫り師なんだよ」
「え?」



 ────彫り師? 彫り師って……刺青を彫る人のこと? 


 未知との遭遇に再び固まった私を見て、洸は良いこと思いついたとばかりに、こちら向かって身を乗り出した。


 洸の身体の正面にも、胸や脇腹、至る所にいくつもタトゥーが彫られていて、思わず見入ってしまう。



「今日は夜しか予約入ってねぇし、見に来るか? 俺の店」
「へ、え……いいの?」
「良いから聞いてんだろ。それなら一回着替えてまた集合な。迎えに行く」



 純粋な好奇心、そして久しぶりに感じる高揚感に身を任せ、私は深く頷いた。