「……ねぇ、先生」
ピアノをウットリと聴く少女は僕に尋ねた。
「最初から書かれた楽譜を弾くのと、自分で作曲するのはどちらが大変?」
僕は、弾くのを止めずに答える。
「僕は作曲する才能はありませんから、後者かな」
「じゃあ、最初からある楽譜を、途中から自分でアレンジしたり作り変えちゃうのは?」
「そんな高度な事、さらに無理ですね」
「……そう、ですか」
少女はテーブルに手を置き、指先を見つめる。
泣き出し、崩れるかのように、その視線は哀しげだった。
「私、最初からあった楽譜を、皆が当たり前に弾くはずだった楽譜を、全て破って、忘れる新しい楽譜を作らなければいけないの」
何を揶揄したのか、はたまた比喩なのか、
その時点では僕には分からない。
分かっているのは、万年咲き誇る桜が風に靡き、開いていた窓から入って来ている事だけ。
「先生って前世とか輪廻転生とか信じますか?」
「クルクルと話が変わりますね」
苦笑しつつも、違和感はあるがいつもの事なので気にしませんでした。
「僕は今が楽しければ、来世も前世も興味ありません。輪廻転生とか、どうでも良いですね」
そう言うと、少女は何故か安心したように笑った。
「やっぱり、先生は先生だわ」
芝居かかったような大人な口調は、彼女が無理しているかの様で儚げだった。
放課後の第二校舎なんて、誰も訪れないはずなのに、彼女は毎日のようにやって来るから。
「私が、ソレを実行し、成し遂げたなら素晴らしい未来が待ってるわ」
彼女は広げた楽譜を指で弾き飛ばした。
「『ソレ』ねぇ」
聞いて欲しくて、でも誰にも言えなくて、誰かに聞いて欲しくて、
彼女は此処にいるんだね。
「君は、何に縛られようとしてるの? 出来ない事を、苦しいなら1人で抱えないで」
僕がそう言うと、少しだけ此方を見て、鍵盤に視線を落とした。
「本家には、一年中咲き誇る桜があるの。本家が起こした悲劇のせいで。でも『ソレ』っておかしいわ」
――まるで、呪いみたいで。
そう、彼女は言った。
「今、好きなら、今をずっとずっと好きな人で染められたら良いのよ。それが出来なかったからって、こんなの呪いだわ」
そう、彼女が本音をぶちまけようとした時だった。
コンコンと優しくノックされ、1人の少年が顔を出した。
副会長であり、彼女の家の分家にあたる、少年が。
「用事が済んだなら急がないと」
そう、事務的に。
彼女は少年にエスコートされるまま、音楽室を後にした。
名残惜しげに此方を一瞥しながら。
少年は、銀色の上品なフレームの眼鏡を指であげた。
「来年も此処で働きたいならば、会長に興味を持たれないで下さいね」
そう、古い風習や身分に捕らわれた人が目の前にいたんだ。
ピアノを弾きながら、その日は心が休まらず。
気づけば彼女が浮かんだ。