キミの歩く草履の音、着物が着崩れるのも恐れずに豪快に絹音を立てる。手入れされた庭の、川のせせらぎの音。四季を感じさせる花々が植えられた花壇、木。
時代を映す四季は美しい。
その四季の中で、キミが浮かんだ。桜の舞う空も、キミの背より高い向日葵も、赤く染まった葉も、から傘に降り積もる雪も。全てキミが生きて、そこにいるから美しいのだと気づく。
この気持ちは、愛から超越してしまったようで自分が神にでもなったような錯覚に陥るので好きではない。
毎回毎回、死ぬ瞬間その時代に手を伸ばして惜しくなる。その匂いを嗅いで、死んでいきたいと願う。
最後の夜の月は、ぼやけた視界からでもはっきり分かるぐらいまあるく夜を光らしていた。
「お兄様、御身体にさわりますわ」
妹が上着を持ってやってきた。穏やかな気持ちでその優しさを受けとり微笑む。
「ありがとう」
「今宵は、月が綺麗ですね」
妹は、その言葉に深い意味などなかったのだろう。けれど、僕はその満月の下、真っ赤に腫れた目で笑うキミが愛おしくて、その気持ちが家族としてなのか輪廻する気持ちからか分からなかった。
「キミを思うと、満月が綺麗すぎて堪らない」
それが僕の気持ちだと知って、キミは優しく微笑んだ。
「私もお兄様を思うと、月が綺麗で苦しいわ」
妹から伸ばされた手を、僕は振りほどく事はできなかった。兄として、自分の為に泣く妹を振りほどくことなんて、――出来なかった。
「どうか、御無事で帰って来て下さい」
小さな、雨音のように小さな声でキミは言う。僕の服にしがみ付く妹の肩を支えてようとして、前世の記憶がそれを止めた。代わりに、腰まで伸ばされた絹のように美しい髪を撫でた。
「キミの為なら、死んでもいい」
冗談めいてそう呟くと、やっとキミは言葉の裏に意味に気付いて、頬を緩めた。冗談で言えるわけもない台詞を、寡黙なフリをした僕は言う。
死ぬのは、僕でも怖い。何か理由が無ければ怖いのだから。
腐っても旧華族。最後の最後まで戦地に行くのを逃れられていたのは、この地位のお陰だったがそれももう今日で終わりだった。
最後に母が握り飯を一つ持たせてくれた。代わりに広間に飾っていた祖母の形見の帯が無くなっていたのを僕の目にはっきりと焼き付ける。
「お兄様、私、寅年だから一番多く縫っているからね」
そう言って、千人針を持たせてくれたので、腹に巻いて軍服を身に付けた。
玄関に馬の蹄の音が響き、僕の迎えを合図するノックの音が響く。
カツカツと革靴の音を響かせながら、階段を下りて行く。妹と母には玄関まで見送るのは断ったからだ。重い足を蹴りあげるように階段を下りて行く。
今日で、運命が経ち切れるならば僕は本望だ。
「お兄様!」
それなのに、――それなのに。
命が消えてしまうと、キミは惜しくなる。
「お兄様、いいえ、貴方はお兄様じゃないわ! そうでしょう? ねえ、行かないで」
階段を慌てて降りてくるキミに、僕は一度も振り返らなかった。
「思い出したわ! 全て思い出した。もういやよ、離れたくない。行かないで」
背中に抱きつかれても、僕は振り切るように歩いて階段を下りる。こんな僕が死ぬからといって、思い出さなくて良かったのにキミは。
「静かに。非国民な発言は控えるんだ。もう僕もいない。キミと母さんだけになるのだよ」
「嫌。いやあ。こんなのあんまりだわ」
ああ。雨だ。また雨が降るのか。
せっかく運命を断ち切るチャンスだったのに、キミは雨を降らせるんだね。
「言っただろ? キミの為なら死んでもいいと」
その言葉を聞いて、キミは更に大声をあげて泣いたが、僕は振り返らなかった。
僕に泣く資格はないとさえ思う。まだキミが泣き叫ぶ中、僕は屋敷の扉を開けてゆっくりとその呪縛から逃げだした。
現世では此処は語り継がれるそうだね。
この階段の20段上がってすぐの踊り場で、この家の娘であった少女が、戦争へ行くと報告した婚約者に縋りつき止めたと言われている。
戦争へ行く彼を思い、彼は残していく彼女を思い、その気持ちは永遠に語り継がれる。
なので此処で式を挙げると、永遠の愛が誓えるらしいと。
正確には、妹と兄だ。言い伝えなんてあやふやに、勝手に美化してしまう。
僕たちの運命も此処で終わっていたら、きっと美しい物語になっていただろうに。
美しくない過去を塗りたくって隠して、だからこそ、僕たちみたいな悲劇がおこらないように、永遠の愛が誓えるのかもしれないね。
終わりが見えない時間のうねりにもう疲れてしまった。
純粋で汚れもなく、ただただ相手を思うだけなのに。
繰り返す恐怖から、逃れられない。
何度でも思い出して、その状況で僕たちは結ばれないことを知り、雨に流されて行く。
その手を離してしまったから?
一度も触れようとしなかったから?
もう意地しか残っていないかのような、此処まで来てはもう、ただただこびり付いた忌々しい錆のようにしか感じられなかった。
例えるならば、雨。しっとりと降る雨の中、キミは雷鳴のように叫ぶ。
うねり、刻み、彷徨う時間の中、気持ちと身体がかくれんぼしている。
命が消えそうになると惜しくなる。
その証言が適切なのかもしれない。
その白く滑らかな肌の温かみが忘れられないのだろうか。
終わりが見えない時間のうねりにもう疲れてしまった。
純粋で汚れもなく、ただただ相手を思うだけなのに。
繰り返す恐怖から、逃れられない。
何度でも思い出して、その状況で僕たちは結ばれないことを知り、雨に流されて行く。
僕は終わらせたいのかもしれない。
キミが思い出さないように、キミを見つけても触れるのが怖くなった。
何度も何度も生まれ変わっても、僕は記憶が消えなくて。キミは上書きして生まれ変わる度に美しくなっていく。
なのに、なぜこの柵から抜け出せないでいるのか。何故君は、何度も裏切る僕をまた好きになってくれるのか。その問いを、僕は1000年近く聞けないでいる。
どうか、僕を忘れて、誰かを心から愛してくれ。安っぽい愛の言葉を囁いていた僕を、キミは忘れて真摯に向き合う誰を愛するべきなんだ。
悲恋四
出口なし。
言葉にすればする程に伝わらないならば、一言も言わないで、さよならを告げるよ。
叫んで、泣いて、何度も貴方の名前を呼びました。貴方の心に響かない私の言葉なんて、一体どれくらいの価値があるのでしょうか?
――貴方に響く言葉は、何ですか?
沢山の、扉があった。円上に並ぶ統一された扉。
僕は、沢山沢山悩んで、迷って、考えて、目の前の扉を開けました。嗚呼、沢山悩んだのに。本当に沢山悩んだのだよ。沢山、迷ったのだよ。
けれど、全ての扉はどれを開けても、同じ場所にたどり着いた。結論は変わらないんだ。
キミを愛しいと思う。この気持ちに出口なんてないと思ってた。
けれど、時は始まり終わりを告げる。
キミの言葉が響かない。
僕には何も、聞こえない。キミは何も言わないだろう。何も言わなくても、全て伝わってくればいいのに。
キミの体温、
キミの吐息、
キミの笑顔、
キミの全て。
触っただけで、分かればいいのにな。
僕は足掻く。もう一度、順番に扉を開く。答えは分かっていても、何度でも。
出口の先の光を信じて、さ。
そして、出口を探し彷徨っていて、キミと僕のかくれんぼを思い出す。僕が忘れたらキミも忘れて、僕が思い出したらキミも思い出す。
かくれんぼ。
どちらが思い出すのか、思い出したら悲恋だと決まっているのに。
屋上から、紙飛行機が飛んでくる。彼女が、楽譜を飛行機にして折っては飛ばしている。
僕は、ただ機械的にソレを拾う。彼女は、多分全部飛ばすんだろう。
――この曲も!
――あの曲も!
――今、弾いた曲も!
――全部、全部教えてよ。
白と黒を基調とした、キミの部屋で。白と黒のクッションが左右に置かれたソファーで、
キミのお気に入りの紅茶を飲みながら、キミが弾くピアノを聴くのが好きだった。
気持ちよくて、よく眠ってしまっていたっけな。
――おはよう
そう、キミが僕に囁くと、キミは雪を降らせる。真っ白な楽譜を、ヒラヒラと。
――びっくりした?
楽しそうに僕を覗き込む。腰まで伸びた長い髪が、楽しそうな彼女に合わせて靡く。
――綺麗だった。
目を細めて僕が言うと、君も蕩けるように甘く微笑んだ。
――貴方が諦めた夢を私が叶えてみせるわ。
――……ありがとう。
――貴方が教えてくれるなら。
無邪気に、笑う。
長い手足、長い指、美しい歌声、優しく奏でる音。
キミならば、できる。僕が全力で教えるから。
沢山沢山、沢山、キミが望んだ曲は全て教えるよ。
逢う時間は全てそれに注ぎ込もう。キミが望んだ夢を叶える為ならば、犠牲は仕方ないからさ。
キミが欲しいと言った楽譜は、全て与えたじゃないか。なのに、キミにはもう全て要らないんだね。僕が、夢を諦めて、一人で絶望した日に、キミは、僕に諦めないでと叫んだ。叫んで、泣いて、何度も何度も僕の名前を呼んだ。
けれど、ごめんね。煩わしかったんだ。僕にはもう、スポットライトは当たらない。
けれど、キミにはこれからも当たり続ける
――僕が教えたその指先で。それが悔しかった。
キミに分かるものか。
僕の腕はもう動かないんだ。それがどれだけ絶望的か、分かるわけない。簡単に諦めたわけじゃないのに、諦めないで、と叫んでも、煩わしいだけなんだ。
そしてキミは、捨てるんだ。
――分からない。理解できないよ。
キミは僕には諦めないでと叫んだのに、キミは簡単に諦めるんだね。
その程度のものだったの?僕が命をすり減らしてでも叶えたかった夢を、キミはいとも簡単に捨てられるんだね。
キミが言葉にすればする程に、僕の体温が下がっていくのを感じてた。
沢山、沢山考えたよ。沢山、沢山悩んだよ。けれど、結果は変わらないんだ……
ヒラヒラ、ヒラと、舞い降りる紙飛行機。
僕は無表情で彼女が落とした紙飛行機を壊す。中から見えた楽譜は、彼女と共に過ごした証。
カノンから始まり、雨の庭……、木枯らしのエチュード……、エオリアンのハープ……。
皺や折れ線を伸ばしても、もう二度と綺麗にはならない。
キミの繊細な指が奏でる優雅なメロディ。キミが落とした最後の楽譜は、紙飛行機じゃないね……。
僕が綺麗だと言った、雪だ。
「愛の夢」第3番
――愛しうる限り愛せ
今の僕達には、極端に反対でつい笑ってしまった。キミを見上げたけれど、キミは一度も僕を見なかった。
先に心を閉ざしたのは僕。
先に心を冷ましたのはキミ。
先に心を傷つけたのは僕。
先に心を踏みにじったのはキミ。
なんだか僕達はお似合いなのかもしれないね。
けれど、沢山沢山、考えても結果は変わらない。別れて、別々の道を歩みだすしか、ね。互いに縋りつく若さもないし、互いに相手だけを慈しむ思いやりもなかった。
だから、だろう。扉は沢山あるのに、扉は沢山あったのに、結果が変わらないのは。
それに、抗えないのは。
――捨てました。詰まらない、言葉を捨てました。貴方は拾っていますが、貴方に響かなかった音の羅列に何の未練を感じるのですか?
私は未練を感じません。煩わしいだけです。貴方に響かない言葉は、私の心の中で箱に捨てました。その箱が満杯になったら、私は振ります。静かに、そして激しく。箱に閉じこめられた言葉は、音として貴方の耳に届くでしょう。
言葉が響かないならば、私は言葉を音に変えました。言葉より素直で真っ直ぐな音色になるでしょう。貴方が先に私の言葉を拒絶しました。
私は貴方の歌声、貴方の音色、貴方の声色、全て、全て大好きで愛しかったのに。
愛しくても、その唇に触れたくても、許せられない傷もあるのです。
貴方に、言葉を拒絶された私は、縋る程に純粋に貴方を思えなくなりました。
だから、言葉を閉じ込めて、変わりに音として貴方に届けます。貴方に届く時には、直向きで、純粋な音色に生まれ変わっているでしょう。私の言葉は意味を持たなくても、私の音色は貴方に届くでしょうから。
もう、貴方に優しい雪は降りません。代わりに、凍てつく雪が降るでしょう。
言葉は残さないけれど、さようならの変わりに、貴方に届きますように。彼女は、出口に向かって行った。
この運命の輪廻にうんざりして、やっと出口へ向かう。
これで雨は止むのかもしれない。俺はそう期待した。
永遠に思い続けるのは、僕はきっと不誠実な男だろう。
今回は、二人の間に家柄も戦争も何も隔ては無かったのに、僕たちはお互いの手を離してしまった。結ばれたいと願いながら、その手をやっと離せれたんだ。
時間は狂う。雷鳴の様に。
もう終わりにしよう。
愛情はあっても、価値観が擦れ違えば一緒になんて居られないのだから。
僕は、沢山の扉の向こうをまだ開けずにいる。
どの扉を開けても、結論は変わらないのに、だ。彼女は一言も話さなずに去って行った。
話さずに去ったのは、話さなければ話さない程に、音に深みが生まれるからだ。
言葉の代わりに、涙が落ちる音を残して。
結論は変わらない。縋る程に純粋でもない。けれど、まだ足は重い。
まだ、僕は足掻き、待ち望んでいるのだ。新しい、出口が出現することを。
悲恋五
まだ気づかない。まだ見つからない。かくれんぼ。
――
長い石の階段を登ると、大きな桜の木があった。
戦前からある、桜木。
桜の花びら、フワリと風に舞う。
吹かれて吹かれて、舞って舞って、幸せを街に。
――
「この桜の木って切られちゃうの?」
僕が、校長先生にそう尋ねると先生は静かに頷いた。
「児童クラブのサッカーに入っているのかしら?」
「うん! 校長先生、この木どうなっちゃうの?」
サッカーボールを、僕は頭に乗せてバランスをとって遊びながら何気に聞いた。
「そうね…花びらが全て舞ったら斬られちゃうの。斬られた木はどうなってしまうのかしらね……」
上品に微笑み、桜の木を見つめていた。
僕のおじいちゃんと校長先生は同い年らしいけれど、おじいちゃんより若々しく上品で、
とても優しい優しい校長先生。いつも、ブラウスに黒のスカート、短く整えられたショートカットで深い皺には優しさが刻まれている。僕はそんな優しくて、温かい校長先生が大好きだった。
僕の学校は、長い長い石の階段を登った坂の上にある。街全体を見渡せる、丘の上。そこに咲く大木の桜。
校長先生が学校を作る前から生えている、神々しい桜の木。
校長先生が、その桜の木を大切にしてるのは知ってたよ。毎日毎日、眺めて影で涼んで、眠るように目を閉じて、とても気持ち良さそうだった。その時の校長先生の表情は優しくて、僕は好きだった。だから、校長先生は否定してくれるって思ってたのに。
長い階段を、桜の木目掛けて登って、桜を優しく見つめる先生を見つめてたのに、全部無くならないって否定して欲しかったのに。
「あの桜の木って大きいし、通り抜ける度に不気味だったのよ。でも校舎に入るには必ず通る場所にあるでしょ?」
ぐつぐつ煮込んだおでんを食べながら、母さんが箸を指のように自由自在に動かし話す。
「不気味じゃないよ。夏は涼しいし冬は手入れしてるよ」
大根を割りながら怒りを抑えて言った。
「アンタじゃなくて大人の意見が一致したんでしょ。前々から毛虫が多くて毎年刺されて問題になってたじゃない」
姉ちゃんは桜の木なんてどうでもいいらしく、玉子に辛子をつけながら淡々と言う。
「儂は最後まで反対したんだがな~ 街のマドンナだった校長先生が悲しむのは見たくないからな」
「父さん、酒零れてるよ」
酔っ払ったじいちゃんから、父さんは酒を奪いとった。
「桜が散ったら切るみたいだよ」
「あら、だいぶ先なのね」
他人事のように言うと、見たいテレビにチャンネルを変える。
母さんも、姉さんも、じいちゃんも父さんも、普段通りだ。皆、ずっとずっとあの桜の木を見て生活してきたくせに。無くなる事に何も疑問も持たない。無くなってから寂しいと思っても遅いんだからな。
街のどこにいても、丘の上の桜の色は見えていた。生活の一部だったはずだよ。
今日もまた、児童クラブでサッカーしてたら校長先生が来ていた。木の下で、僕達に手を降ってくれている。それが何だか、無性に抱きついて泣きたくなるぐらい、胸を締めつけられた。その理由を僕はまだ知らない。その気持ちを振り切りたくて、僕は園長先生の元へ走って行く。
「校長先生、ショメイカツドウしようよ」
「あら、難しい言葉知ってるのね」
先生が僕の身長まで屈んで、にこにこ笑って言う。
「友達に聞いたんだ。ショメイカツドウで沢山の人数を集めたら、反対の声も聞いてくれるって」
「君はこの桜の木が切られる事を反対してくれてるのね」
先生が言うから僕は頷いた。先生は目を細めて、僕をずっと見つめてくる。
「ありがとう。けどね、先生も切られる事は寂しくて悲しいけれど、反対じゃないのよ」
立ち上がって、愛しげに桜の木を見つめて言った。
「この木は大きいし目立つから、どこからでも見えて素敵だったけれど、今年は沢山毛虫の被害にあったでしょ」
毛虫の毛に触れただけで、体中にブツブツができた人が沢山いた。プールも3日間中止になったっけな。
「大好きな桜の木のせいで、大好きな子どもが被害に合うのは嫌なのよ。それに、桜の木も嫌われたら悲しいわ」
「じゃあ、毛虫が悪いじゃないか。毛虫を取り除けばいいじゃないか」
僕がサッカーボールをゴールに蹴飛ばして、そう言うと、先生は悲しそうに首を振った。
「桜の木に集まってくれた毛虫は悪くないのよ」
と、そう言って黙ってしまった。
「今日、工事の人と校長先生が話してたよ」