鬼神の愛犬になりました

「動きはだいぶ洗練されてきましたね。では……実践といきましょうか」

 今度は夕樹がやってきて、戦いの練習。

「歌子、全力でかかってきて」

 これまでも、夕樹が強いと知っていたはずだけれど、実際に戦う彼女は本当にとっても強くて……。
 何度も何度も倒されて、アドバイスをもらって、そのなかでどうにか、戦いのコツを掴んでいった。
 夕樹のパワーにはかなわないから、私はスピードで戦う。

 やがて、安定して夕樹と戦えるようになってきた。
 とにかく私は夕樹の攻撃を避ける。
 すると、パワーを使う夕樹はだんだん消耗してきて――ほとんど互角になれることも、珍しくなくなってきた。

 ここまでで……二日……。
 あと、二日。

 そして、修行の六日目。
 夕樹が連れてきたのは、なんと――山華さんと氷子さんだった。

「山華様。氷子様。遠路はるばるありがとうございます」

 黄見さんが呼んだらしい……。
 なんでだろう?

 夕樹と戦う姿を二人に見せるように言われたので、私はそうした。
 二人とも、夕樹とそれなりに戦う私を見ると、感心してくれた。

「なんだ、あんた、強くなってるじゃんか」
「夕樹に向かっていけるなんて、すごいですね。犬の御姿で……」
「ね? 歌子、結構やるでしょ?」
「うん、気に入った! ごめん歌子、あんたが強くなったって聞いて、疑ってたんだけどさ」

 山華さんは、これまでに見たことない親しげな笑顔を向けてくれる。
 氷子さんも穏やかな顔を向けてくれた。

「あたしはあんたのことを誤解してたみたいだ。ただ守られるだけの理事長の贔屓かと思ってたけど、あんた、こんな短期間にここまで強くなって、夕樹に向かっていけるなんてさ。見直したよ」

 私が強くなったから、見直してくれる。
 さっぱりした性格のようだった。

 認めてもらえるのは、素直に嬉しくて――。
 自然と、こちらの頬もほころぶ。

「よし、協力してやるか!」
「ありがとうございます。山華さん――」
「山華でいいよ」
「わたくしのことも。氷子、と呼び捨てていただいてかまいません」

 そして、山華が教えてくれたのは――。
 狸の一族に伝わる、化術だった。

 化術を呪い持ちの私にも応用できないかと、黄見さんが呼んでくれたらしい。
 それは……つまり……。

「も、もしかして、ですけど……いつでも犬の姿になれるようにする――って、ことですか?」
「その通りです」

 黄見さんは肯定する。

「歌子様の場合は、化けるというより、化術を応用して自在に変化する――ということになりますが」

 山華は言う。

「狸でも狐でもないやつができるかなって族長に相談したらさ、身体が変化する存在なら、素質があるから出来るだろうって」
「ありがとう……そんな、狸の族長さんにまで相談してくれるなんて」
「大丈夫。あたしもあんたには強くなってもらいたいしね!」

 ありがたい……とっても。

 化術は……難しかった。
 自分の変身する姿を細かく思い描いて念じないと、変身できない……。

「犬の自分をよくイメージしてみて! 細かいところまで想像しないと、変身できないよ。あたしは化けた人間のこのすがたを徹底的にいつもイメージしてるんだ」

 犬の自分をイメージするって言われても、うまく思い描けない――。

 そんなとき。
 星夜の言葉を思い出した。

『おまえは可愛いな。もふもふで……白くて……水色の首輪がとてもよく似合っていて……抱きしめるのにちょうどいい大きさで……』

 星夜の言葉通りに、自分をイメージしてみると――。
 例の、強烈な予兆とともに。
 かっ、と全身が熱くなった。

 世界が小さくなる――ううん、私が縮んだんだ。

 満月の時でないのに、犬になった――。
 なれたんだ。
「できた!」

 山華が、飛び上がる。
 夕樹と氷子もはしゃいで喜んでくれた。

 人間の姿の自分はすぐに思い描けたから、戻るほうは簡単だった。
 一度できてしまえば――二度目、三度目は、そう苦労せずにできた。

 いつでも、自分の意志で犬に変身できるようになったのは――本当に、不思議な気分だ。

 そして、明日に天狗族との戦いを控えた日――。
 最後の最後に黄見さんに呼ばれて、暮葉さんがやってきた。

 結界のなかに、私と黄見さんが二人でいるのを見ると、心底驚いたように目を見開く。

「どういうことでしょうか?」

 黄見さんの説明を聞くと、暮葉さんはため息を吐いた。

「黄不本意ながら、まったく気づきませんでしたよ。星夜様も気づいておられませんでした。夜澄島で星夜様に気づかれずに動けるのなど、黄見さんだけでしょうね」

 はあ、と暮葉さんは更に深いため息を吐いて――。

「しかし……賭けではないのですか。歌子様を、よりによって、天狗族との決戦の場に出すなんて……」
「いいえ。いまの歌子様は、七日前の歌子様とは違います。宝剣で敵を攻撃し、敵の攻撃を素早くかわし、何より星夜様の霊力を高めることがおできになります。お強いですよ。いざとなればご自身で人間の御姿に戻ることもできます」
「歌子様がそこまで頑張られたのは……驚きですが……」
「……すべて星夜様のためになされたのですよ」

 黄見さんの言葉は、シンプルだったけれど――だからこそ、私の心にしみた。

「鬼神族の長たるもの、弱みを持ってはならない。であれば、歌子様を追い出すほかないと、ずっとおっしゃっていたのは黄見さんではありませんか」
「そうですね。歌子様があのまま、弱きまま、夜澄島を去ろうとすれば、あたくしは考えを変えなかったでしょう。……強くなりたい。鬼神の子らも、みなそう強く願うものです。七日前。歌子様の瞳には同じ光がありました。だからこそ、あたくしは賭けてみたいと思いましたの。歌子様に。……星夜様の弱みであった御方は、強みとなりうるのか」
「しかし――鉄の掟は、先代が護られた、代々続く掟です。歌子様に、このまま夜澄島にいていただくのですか? 代々の一族の想いを裏切ってでも?」
「……暮葉さん。ご存じでしょうけれども、あたくしはいま鬼神族でもっとも年長の者となってしまいました。あたくしよりも年上だった先代も、すでにこの世にはいらっしゃいませんから。代々の一族の想いは……あたくしは、よく存じておりますよ……もう思い出せないほど遠い、幼き日よりずっと、ここ、夜澄島で感じてきたのですから」

 暮葉さんは、黙り込む。
 彼にしては珍しく、うつむき、葛藤をあらわにして――。

「それで……いいのですか……黄見さんは。あれほど、先代の想いを大事にされてきたのに」
「先代の想いとは、常に鬼神族が強く在ること」

 黄見さんは長いまつ毛を伏せて、歌うように語る。

「きっと歌子様が新しい時代を見せてくださいましょう。そうでなければ――実家にお帰りいただくのみ」

 ……決戦は、明日。
 怖くないと言えば、もちろん嘘になるけれど。

 私はずっと星夜と一緒にいたい。
 離れたくなんかない。

 そのためになら、強くなれた。
 そのためになら、犬の身体で戦えた。

 そして、だれにも言ってはないけれど。
 もうあのひとに、私はひとりで戦ってほしくない。

 もう、あなたをひとりにはしない。
 争うことが嫌いなのに、修羅の道をこれからも進まねばならないのなら。
 せめて、私がそばにいる。

 ……私が自身の呪いを受け入れられたように。
 今度は――星夜の修羅の道を、私が一緒に進もう。
 決戦の日。
 戦争の開始時刻は、午後の五時。
 晩秋の日没は早い。もう既に、暗くなり始めていた。

 私は、黄見さんの運転する車でこっそりと吾妻橋に来た。
 ちなみに、いまはまだ人間の姿だ。化術もそれなりに気力を使う。戦いに備えて、少しでも気力や体力を温存しておきたかった。
 黄見さんが結界を張ってくれているおかげで、私の気配は、鬼神にも天狗にも気づかれていない。

 吾妻橋周辺は、大層賑わっていた。
 屋台でも出ていれば、お祭りなのではないかと思っただろう。

 血気盛んな鬼神族と、みな一様に団扇を持っている天狗族たちが集結している。
 互いに数百名いる夜澄島の鬼神族と神参山の天狗族が勢ぞろいしているのは、異様な光景だった。

 吾妻橋の西側には鬼神族、東側には天狗族が控える。
 橋は、戦い開始まで渡れない。
 西側の先頭には、星夜が。東側の先頭には、仙の後ろに、大団扇で自身を扇いで宙に浮く永久花がいた。

 星夜の殺気が……すごい……伝わってくる。
 紅い……どこまでも紅く、すべてを燃やし尽くしてしまうかのような。

 こんなに離れた距離なのに、びりびりと、空気を裂くかのような殺気だった。
 私が修行をしたから、感じられるのだろうか……。
 でも、鬼神のみなさんや警察のひとたちもかなり緊張した面持ちだったから、みんなが感じられるくらいに、強い殺気なのかもしれない。

 一方で、星夜の殺気に紛れて、永久花の殺気も感じられた……。
 笑顔で浮いてはいるけれど。
 飛空永久花……相当、怒っている……。

 それだけでも壮観なのに、更に、人間たちも集結しているのだ。
 原則、人間は立ち入り禁止。避難指示が出る。
 だけど警察、救急隊に消防隊、テレビ局や一部の動画配信者など、特別な許可を受けたひとたちは、あちらこちらにいた。
 なんとも、ものものしい……。

 治療や作戦のために待機する鬼神や天狗、それに許可を受けた人間たちは、吾妻橋をすぐそこに臨む隅田(すみだ)公園に集まっている。

 隅田公園は桜の名所。春なら、桜がこぼれるように咲き誇るだろう。
 だけど、晩秋の隅田公園もとてもとても美しかった――見渡す限り一面に、紅葉(もみじ)が深く色づいている。
 メディアの人たちが、カメラに向かって興奮ぎみに喋っている。

「本日は、鬼神の一族と天狗の一族が本格的に衝突します。両者はこれまで衝突を繰り返してきましたが、申請を経て全面戦争となるのは、なんと十年以上ぶり。雨宮星夜が当主となってからは初のことです」
「雨宮星夜は全面戦争には否定的だとずっと言われてきましたが、遂に決意したのですね」
「粛清はよくしていたのですよ。鬼神族の者に怪我をさせた天狗族には同じように怪我をさせる、とかね。ですがなかなか全面戦争には踏み切りませんでしたね」

 別のメディアの人たちもしゃべっている。

「これでやっと彼らの争いが終わるんですかね。まったく、電車を遅延させたり街を破壊したり、いいことないですよ」
「どうでしょうかね。鬼神も天狗も強いですから」
「一日も早く平穏な毎日が戻ってくることを望みます。我々人間にとっては、そのための全面戦争ですね」

 ぴょんぴょん跳ねて、こんなことを言うメディアの人も……。

「昔から、火事と喧嘩は江戸の花、と言います! あやかしの争いも、見ているぶんにはとっても興奮しますよね。本日『ゆーつぶ』の私の公式チャンネルでは、現代の江戸の花、鬼神と天狗の争いを余すところなく実況していきます! みんな大好き、イケメン鬼神の雨宮星夜と、美人天狗の飛空永久花も、たーっぷり映しちゃいます!」

 よくテレビやゆーつぶで流れているあやかし同士の争いの動画って、こうやって出来ていくのだろうけれど。
 ……鬼神のこと、天狗のこと、なにより星夜の気持ちを知ったいまでは、平穏な気持ちではいられなかった。

 星夜は、鬼神族のみなさんは、いつもこんな好奇の視線に晒され続けているんだな――。
 当事者になって、はじめてわかる……。
 鉄の掟ができるわけも、少しだけ理解できたような気がした。

 吾妻橋の西側。鬼神族の待機のための駐車場。
 暗がりに、黄見さんは車を停めた。

「あたくしはここで、待機することになっておりますので。本日、歌子様とともに行動するのはこれまで。……午後五時ちょうどに、開始の合図の鐘が鳴ります。そうなれば争いの開始。あやかし同士の争いは、治外法権です。命を落とすも深手を負うも、自己責任。人間たちは救急搬送こそ手伝ってくれますが、人間たちの法は、あやかしを救ってはくれません」

 黄見さんは、運転席に座ったまま、こちらを見る。
 晩秋の深い影が、その美しい顔に落ちていた。

「歌子様。貴女様は人間としての身分もお持ちになる御方ですが、争いには鬼神族の者として参加されること、お忘れなきよう。……犬に変身できる貴女様です。後に、人間でしたと言い訳も効きませんでしょう」

 心配してくれている、とわかった。

「ご武運を」

 争いの開始を告げるチャイムが鳴る。
 鬼神たちと天狗たちの勇ましい叫び声が竜巻のように満ちる。
 私は、自らの手で車のドアを開け――出て行く勢いに乗せて犬に変身し、宝剣を口にくわえて、まっしぐらに、吾妻橋を駆けていった。

「あっ! 犬、犬が紛れ込んでます! 白い犬です!」

 どこかのメディアのひとが指をさしても、私はとにかく走っていく。

「首輪をしてるぞ、一般人の飼い犬か?」
「確保しろ!」

 警察のひとたちが追いかけてくる速度より、私が駆けるほうが速かった。

「いや……剣のようなものを口にくわえている。もしや、あやかしでは?」

 ……勘のいいひともいるけれど。
 私はかまわず――突き進む。
 吾妻橋の中間地点は、まさに、阿鼻叫喚の様相だった。
 天狗たちは空に浮かんで団扇を扇ぎ、火や暴風雨を送ってくる。
 先導しているのは、永久花だ。

「星夜を殺してしまいなさい。わらわに恥をかかせて。星夜を殺せ!」

 物騒なことを言いながら、永久花は天から矢のような光を注ぐ。禍々しい紫色をしたその光ひとつひとつが、本物の矢のように、橋を貫き、鬼神たちの身体をも貫こうとした。
 でも、鬼神のほうも負けていない……。

 鬼神のみなさんは、普段の温厚な様子からは想像もつかないほど殺気立って、牙を剥いて相手に掴みかかっている。球体を作り出しては投げるひと、剣を用いるひと、素手で相手をちぎっては投げていくひとなど、戦い方のスタイルは千差万別。

 夕樹も戦っている……。
 宙に浮いている水と流と零も、見つけてしまった。

 私は、鬼神のみなさんに紛れ込むかたちで、橋の真ん中を目指した。
 素早く……素早く……。
 いずれは見つかってしまうだろうけれど。
 一刻でも早く、その時を遅らせて――星夜のそばへ、まっしぐらに!

 途中で、夕樹と目が合った。
 彼女はこんなときでも、がんばって、と口の動きと表情で伝えてくれて――。
 うん、と私はうなずき返したのだった。

 そして、橋の真ん中――戦場の真ん中では。
 星夜が。
 ゆらめく陽炎のように――立っていた。
 黒い羽織の背中を見せて。

 他の鬼神のように、興奮した様子には見えない。

 でも、この場で明らかに、星夜の殺気が一番強かった。
 全身と心に響く殺気……。
 ……近づくだけで、殺されてしまいそうな。

 星夜は静かに、ただ静かに、そこに立ったまま――彼の何倍、いや何十倍も大きな紅い炎を陽炎のようにゆらめかせ、近づく天狗たちを生きたまま焼いては川に放り投げていた。

 燃える夕焼け空を、夜の闇が侵食している。
 そんな空を背景にして。真っ赤な吾妻橋の真ん中で。
 風が吹いて。黒い羽織を、はためかせて。

 ただそこに在るだけで周りを焼き、突き落とす。

 ぞくっとするほど……いまの星夜は、ひとならざる、あやかしだった。

 戦いにとりつかれた、黒き修羅――そのもののようで。

 星夜に出会う前の私だったら。
 おそろしいとしか思わずに、このまま引き返していただろう。
 あやかしはやっぱり怖いと、そんなことさえ思ったかもしれない。

 けれど。
 私には……わかる。

 このひとの背中は、おそろしい修羅のすがたかたちをしているけれど。
 ……とっても、さみしそうだ。
 かなしそうだ――いまにも、吹き飛んでしまうのではないかと思うほど、儚い。
 星夜に天狗たちが襲いかかる。
 天狗たちは星夜にふれることもできず、なすすべなく吹き飛んでいく。

「ちょっと、どういうこと? 星夜、強くなりすぎてない? リミッターが外れると……こんなに強くなるわけ?」

 永久花の言葉さえ、もう、星夜には聞こえていないようだった。
 ただ……近づいてくる敵を……排除していくだけ。

 そして、聴覚に優れた私の逆三角形の耳は、風に乗った声をつかんでしまった――。

「歌子……すまなかった……せめてもの罪滅ぼしだ……天狗を……皆殺しに……」

 どこか……呆けたような。
 ほんとうに、ほんとうに、つらそうな――絞り出すような、その声。

 私は、その背中を、まっしぐらに目指す。
 もう目立ってしまってもいい。
 だって――星夜は、すぐそこにいるから!

 ああっ、と永久花が耳をつんざく声で叫んだ。

「あいつ――! どうして。満月でもないのに! 殺しなさい。殺して。すぐに殺して!」

 わん、と私は永久花に負けないくらい大きな声で、星夜を呼んだ。
 口を開けて、すぐ閉じて、宝剣をしっかりとくわえなおして。そうすれば宝剣をくわえたままでも、声を出せる。

 彼は……ゆっくりと……振り向く。

 星夜を知らないひとが見たら、冷徹な無表情に見える顔で。
 でも私には、涙こそ流していないけれど、泣いているってわかる顔で――。

「歌子……! 歌子なのか?」

 わんわん、と私は鳴いて、星夜の足元をぐるぐる回る。

「なぜ。満月ではないのに。いや、それより、どうして来たんだ。早く戻れ。また天狗たちにいじめられてしまう――」
「――犬のほうだけでも殺してやる!」

 永久花が、光の矢を降らせる。
 でも私は……全部避けた。

「歌子……? 避けられるのか。なぜ……」

 星夜の、知らないひとが見れば無表情な顔に――表情が、戻ってくる。
 そこにあるのは、戸惑いと……それ以上の、輝く驚き。

「おまえは……すごいな……」

 黄見さんの修行がすごいのかも、という照れ隠しを込めて、私はわんわんと鳴いた。
 まあ……私もがんばったのはほんとだから、褒めてはほしいかな……。

 私は星夜の足元におすわりして、口にくわえた宝剣をアピールした。

「それは……宝剣じゃないか。そうか……と、いうことは、黄見が……」

 星夜は――納得してくれたようだった。

 気がつけば、鬼神がかなりの優勢になっていた。
 私が宝剣をくわえて来たからだろう……。

 星夜の霊力も、ますます高まったようだった。
 さっきだって、これ以上ないほどに高まっていたのに――。

「……力が満ちてくる」

 星夜は、自分の両手を広げて見つめていた。

「できる。できるぞ。これなら一瞬で、天狗たちを……歌子をいじめたやつらを……皆殺しに――」

 目で見えるほどの、あまりの霊力の高まりに。
 天狗たちは、後ずさるけれど――。

「……くうん!」

 私は、ありったけの感情を込めて、鳴いた。
 星夜はこちらを見る。
 ふるふると、私は首を横に振る――私は犬の姿だけれど、心は人間なのだから、人間のジェスチャーを使ったっていい。

「どうした、歌子。これでおまえを苦しめたやつらを処分できる――」

 私は星夜の腰のあたりを鼻でつついて、橋の欄干に寄った。

「わん!」

 一声鳴いて、下を見るようにうながす。
 さすが、犬の気持ちのわかる星夜は、私の言いたいこともわかってくれて――。

 ……冷たい川では、落ちてしまった鬼神や天狗たちが、物のように浮いていた。
 人間の救助隊がひとりひとり助けてはいるけれど……。
 あまりに数が多くて、救助が追いついていない。

 星夜の顔色が変わったのを、私は見逃さなかった。

 ……いいの?
 私は、目で問いかける。

 このまま、争いのための存在になってしまって――いいの?
 星夜は争いが嫌いなのに。
 ひとを傷つけるのも、嫌いなのに。

 ただ、犬をもふもふして生きられれば、それでいいはずなのに。

 私はべつに、天狗たちの命を想ってとか、そういう理由で星夜を止めているわけではない。
 確かに鬼神のみなさんにはあまり犠牲になってほしくないけれど、そういう理由でもない。

 ただ、大好きなひとに、望まないことをしてほしくないだけ。

 離れていて、気がついた。
 私は、星夜のことを……こんなに好きだった、ってことに。

 星夜がもし、戦いが大好きで。皆殺しをしたくてしたくて堪らない、というなら。
 その道はなかなかに大変だろうけれど、私だって一緒に、その修羅の道を歩んでいこうと思う。そう、覚悟しようと思う。

 でも……そうではない。
 修羅の道からは、離れたがっている。
 そんな星夜の気持ちを私は知っているから――。

「……しかし……あいつらは……歌子を苦しめたんだ……」

 だからって。
 星夜が苦しんでいい理由には、ならないよ……。

 私は、星夜の足元に座って――おでこを、その脚に擦り付けた。

「歌子……」
「――ああ、もう! 今度こそ仕留めてみせるわ。まったく憎らしい犬! 星夜もあんたも死んでしまいなさい――」

 私は宝剣をくわえたまま、永久花を振り返って――。

「わん、わん!」

 星夜を振り返って、合図した。
 星夜は――両手で、紅い球をつくる。

「……殺しはしない。それでいいんだな……歌子?」

 そうだよ。
 そうしてほしいの。

 わがままかもしれないけれど。
 星夜が、苦しまないために――。

 星夜は、ゆるやかなカーブで、紅い球を永久花にぶつけ――隅田公園の岸の川に、ふわりと、着地させた。
 永久花は、そのまま救助される。
 なにかこちらに向かって叫んでいたけれど、……すぐに救急車に乗せられていったから、聞こえなかった。

 永久花がいなくなると、急に……戦場は、静かになる……。
 もうほとんど――勝敗は、ついたみたいだ。

 ……わがままだったかもしれないけれど。
 私は……あなたの飼い犬だから……。

「……くううん」

 ちょっとくらい許してもらえないかな――って気持ちを込めて、私は星夜を見上げる。
 星夜は、苦笑するような、それでいて泣き出しそうな笑顔で――私を持ち上げ、頭を撫で、抱きしめ、全身をこれでもかというほど、わしゃわしゃ、わしゃわしゃとした。

 ……あ。珍しい。
 っていうか……初めてじゃない?
 このひとがこんなふうに笑うのを見るの――。

「歌子。俺のためなのか」
「わん!」

 私は肯定した。

「危ないことを……苦しかっただろうに」

 星夜は、私をぎゅっと抱きしめた。
 苦しんでほしくなかったのは……私もおなじだよ。

「もう絶対に、離さない。……これからもずっと一緒に、俺といてくれないか」

 私は小さな身体で、星夜を抱きしめ返す。
 もちろん。
 これからも、ずっと一緒に――。

 隅田川の向こうには、気がつけばまぶしいほどに夕陽が輝いている。
 夕陽は一瞬、吾妻橋のすべてを紅色に染めると、そのまま静かに沈んでいった。
 吾妻橋での戦いは、結局、ふわりふわりと上空で生き残っていた飛空仙のひとことで、終結。

「……雨宮星夜。永久花は、もうやられた。やめようではないか。こちらの負けだ」

 鬼神族の勝どきで、橋が沸いた。

 星夜は、鬼神のみなさんに言う。
 私を抱きかかえたまま――。

「みな、力が高まったことを感じただろう。それは歌子がいてこそ――そして歌子は、戦場での激しい戦いを耐えうるほど、強くなった! 宝剣を持ち、鬼神の力を高める、まさしく恵みの白犬だ!」

 鬼神のみなさんは、口々に私のことをたたえる……。
 なんだか、照れるな。
 ここまで褒め称えられると……。

 すこしだけ、未来の話をするならば――。

 私はその後、夜澄島の一員として正式に迎え入れられることになる。
 幽玄学院でも舐められることは一切なくなり。
 メディアなんかでも有名人――ではなく、有名犬になって。

 まあ、家族はものすごくびっくりさせちゃったけど……。
 お姉ちゃんは散々心配してくれたけれど、きちんと説明したら、本当のことがわかってよかった、と言ってくれた。

「それに、歌子……犬であることを受け入れるなんて、そんな発想、私にはなかったから。……星夜様に出会えてよかったね」

 夜澄島に引っ越す件については、お父さんとお母さんが帰ってきてから話すらしいけれど、いまのところはこのまま入谷で暮らすつもりらしい。
 寿太郎が転校するのを嫌がっているらしく……。

 でも、星夜様にはみんな本当に感謝してるの、と伝えてくれた。

 アルバイトでは、星夜に相談の上、有名犬であることを生かして看板犬になった。
 私の正体を知らない店長は最初めちゃくちゃびっくりしていたけれど、結果、店は大繁盛……。
 たこれこ浅草橋駅前店は、たこれこでも一番の売り上げを誇る有名店になった。

「忙しすぎて……もう……目が回るよ……」

 でも、たまに人間のすがたでシフトに出ると、店長も他のアルバイトのひとたちも相変わらずで、やっぱり店が私の居場所のひとつであることは変わりなかった。

 そうやって、犬であること、人間であること、どちらも使いこなす日常にはなったけど……。
 
 私はもう、自分自身があやかしでも人間でも――こだわらなくなった。

 自由に犬に変身して、鬼神の霊力を高めることのできる私は、やがて「鬼神」という名前に倣うかのように「犬神(けんしん)」と呼ばれ始めるのだけれど――だから、そのことも、私にはあんまり関係のないことだった。

 そして。
 強すぎれば――争いは、生まれない。
 そのことを、私と星夜は後につくづくと体感する。
 小競り合いのような争いが、皆無になったのだ……。
 本格的な戦争の兆しも、なくなった。

 それが良いことか悪いことかは、わからないけれど……。
 私と星夜がふたりでいることで、あやかしたちの争いをとりあえず止められるのは、事実のようだった。

 だから……私は、星夜に愛されてもよい存在として、鬼神族から認められることになる。

 ……私にとって大事なのは、ただひとつ。
 星夜と、一緒にいること。

 そして、その未来は、かなう。

 ……でもまだ、それらは未来でしかない夕暮れ。
 穏やかに暮れていく、とろりとした夜の帳のなかで。

 吾妻橋で。
 星夜に抱きかかえられて。
 私は……星夜と一緒に、これから夜澄島へ帰る。

「歌子。おまえは本当にいい子だ」

 星夜は、やっぱり、はにかむような笑顔を見せてくれた。

 私も、星夜が好き、大好き、愛してるって――。
 言葉では。人間になったときに、伝えよう。

「――愛している。犬のおまえも、人間のおまえも、すべて。もう離さない。これからずっと、一緒にいてくれ」

 私は星夜の頬を、そっと舐めた。
 これからずっと一緒にいようね、って気持ちを込めて。

 星夜はそんな私の頭を、いつも、撫でてくれるのだ。

(完)

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