鬼神の愛犬になりました

 私のことについても、少しずつ星夜に話した。
 アルバイトのこと。これまで学校に行けなかったこと。勉強のこと。

 誤解を受けてつらかった、これまでのこと。
 自立しなきゃ、と焦ってきたこと。
 それで結局事故に遭ってしまったことも……。

 星夜は、私の話を聴いてくれた。時間も惜しまないで、じっくりと。

「忙しいのに……。どうしてこんなに話を聴いてくれるんですか?」
「面白い人間だと思っているからだ」

 わかるようで、わからない。
 けど……。
 一緒に過ごして、いろんな話をするうちに、星夜の目は少しずつ和らいできた。
 私が犬のすがたのとき、とまでは言わないけれど……。
 それに近いような優しさを、帯びてきた。

 星夜もぽつりぽつりと、いろんな話をしてくれた。
 鬼神族は、修羅の一族とも呼ばれていること。
 戦いに明け暮れる宿命であること。

「なぜだろうな。おまえには、話ができる。犬だからだろうか?」
「まあ……もう、だいぶ秘密を知っちゃってますしね」

 犬に変身した期間で……。

「そうかもしれない」

 星夜はふっと、気を抜いたように笑うのだった。

「おまえは本当に犬のようだな。人を癒す犬のようだ。ただそこにいて、話を聴いてくれる」
「もう……私は完全な犬じゃないって、いつも言ってるじゃないですか!」

 そう言いつつも、自然と心が温まっていることも事実だった。
 私も星夜に話を聴いてもらって、心が軽くなっていて……。
 おんなじように彼が感じてくれているのだとしたら、うれしい。

 そして、星夜は幼いころから戦闘能力が高くて、先代の長から直々に選ばれて当代の長となったことも知った。
 先代の長は六年前、みんなに見守られながら長寿を全うしたのだという。

「先代の長は、お父さんかお母さんってわけではないんですか?」
「一応、祖父にあたるらしい。だが祖父らしいことは何ひとつしてもらったことがない。俺と先代の関係は、あくまで先代の長、当代の長というだけだ」
「そうなんですね……」

 私は、おじいちゃんやおばあちゃんにはとっても可愛がってもらった。
 けど……そうではない関係も、あるんだな。

「先代は偉大だった。偉大すぎて……いまでも夜澄島に生きているかのようだ。昔から先代とともに生きてきた黄見たちが俺のことを認めていないのも、俺があまり戦いに積極的だからではないからだろう」
「先代の長という方は、積極的だったんですか?」
「ともに戦場に出ることも多かったが、すさまじい迫力で戦っていた。すべてを殺してやろうという確固たる意志が先代にはあった。隣にいるだけで、全身が竦んだ……。修羅という名は、本来、彼にこそ相応しい」

 星夜だって、相当な力をもっているはずだ。
 日本中からおそれられている……。
 力が強く奔放なあやかしたちが頭を下げざるを得ない、それほどの存在のはずなのに。

 そんな星夜がここまで言うほど、先代の長っていうのは強烈なひとだったんだろうな……。

「でも……星夜は、すごく強いでしょう?」

 沈黙で、彼は肯定する。

「強いけど、戦いは好きじゃないってことですか……」
「そういうことだ。俺は幼少のころから、戦いの才はあったが、戦うより犬たちと戯れている方が好きだった。……少年の頃には何匹か犬も飼っていたのだ。しかし、次代の長となることが決まった十二歳のとき、全て里親に出された。俺には知らされず、突然の別れだった」

 星夜は、息をつくように微笑して――その横顔は、鋭いさみしさに満ちていて。
 私は、心がわし掴みにされたような感覚を覚えた。

「戦場に在るのは敵意と暴力のみだ。慈悲の心を持ったところで、なにも返ってくるものはない。しかし犬は……愛情を注げば、それだけ愛し返してくれる……。犬はいい……他者を傷つけず……愛らしく……愛情を注げば注ぐほど、返してくれる」

 このひとのことを……このひとの、ほんとうのことを。
 私はきっと、すこしだけ、……すこしは、知っている。

 そして。
 このひとのことを、私はもっと知りたいと思うようになっていた。

 星夜と一緒にいると、だいたいの場合、暮葉さんが「星夜様、そろそろ」と呼びに来て、星夜は戻っていくのだった。
 そしてだいたい、星夜はまたすぐに来る。
 懲りずに……来てくれるのだ。

 そうして、ゆるりと日々が過ぎていった。
 幽玄学院の初日。

 制服は、古風なセーラー服、もしくは学ラン。
 性別関係なく学ランも選べたけれど、私はセーラー服にした。

 星夜が部屋まで迎えに来てくれて、護衛のひとたちと一緒に歩いていく。
 てっきり車に乗るのだとばかり思っていたけれど、案内されたのは、なんと船着き場だった。
 小型の屋形船のような、デザインは古風だけれどぴかぴか輝く真新しい船が待機している。

「えっ……船?」
「乗るといい」

 星夜が自信たっぷりに言うので、私はおずおずと船に乗り込む。
 内装は和風で、赤い座布団に座って外の景色を眺めることができる。

 優雅で豪勢な船。広さも相まって、本当に屋形船のようだ。
 そんな船に、船の運転手さんや甲板に立った護衛のひと以外は、私と星夜だけで乗る。

 てっきり夕樹もいるのかと思っていたのだけど、彼女は自分で通学するらしい。
 メッセージアプリの「れいん」で「夕樹も来たらどう?」と送ってみたら、「星夜様と一緒に行くなんて恐れ多くてできないよ」と汗マークつきで送られてきて、その後すぐに「学校で会お! すぐに合流できるからね!」と笑顔の顔文字つきの元気なメッセージをくれた。

 船が、ゆっくりと動き出す。
 朝の光にきらめく、青い、東京湾へ出て行く。
 夜澄島の人たちが、一斉に頭を下げる。私はお辞儀を返した。

 夜澄島が少しずつ遠ざかっていく。
 今日は晴れているからか、窓が開け放たれていた。
 潮の香りと潮風を、そのまま感じることができる。

 星夜は相変わらずぶっきらぼうに、しかし丁寧に説明してくれた。
 東京湾から神田川(かんだがわ)を上っていけば、幽玄学院のある浅草に着く。
 デザインは古風でも最新の機能を備えた船だから、パワフルに進む。かかる時間は三十分ほど。

「意外と近いんですね。車で行くよりちょっと早いくらい」
「朝の道路は混む。わざわざ毎日、不便をかけることもない」

 川は、道路と違って誰もが通れるわけではない。
 鬼神族は神田川も東京湾も自由に通行する権利を確保しているから、こうして船が出せるのだという。

「それに」

 星夜は得意げでもなく、遠くを見つめるかのような、静かな横顔のまま言った。

「船のほうが、きっと気持ちいい」

 確かに……。
 海風が気持ちいい。水が青い。
 東京にも海があるのに……見に来たことなんて、ほとんどなかった……。
「そうかも」

 私は潮風に舞う髪を片手で押さえ、自然と笑顔になった。

「……尻尾があればわかりやすいのにな」
「え?」
「嬉しそうな顔をしている。叶屋歌子は人間のときも犬っぽい」
「そうですか? 星夜が何でも犬っぽいって思っちゃうだけじゃないですか?」

 ちょっと呆れたような、それでいてちょっと恥ずかしいような気持ちになる。

「犬っぽいと思うと、そういう物言いも、犬っぽく思えてくるな」
「ええ? それじゃ私、なんでもかんでも犬になっちゃいますよ」

 星夜は沈黙して外の景色を眺めていたけれど、その横顔の感情は、なんだろう。
 悪いものじゃない、ってことはわかるんだけど……。

「……俺に対してそこまで率直に話をしてくる者は、いないからな」
「それは、だって、みんな星夜が怖いから」
「そういうところだ。まったくおまえは、怖いもの知らずの、臆さないやつだ」

 星夜は、ちょっと口もとを持ち上げた――笑った?

「……だって、私は」

 知ってるから。
 雨宮星夜が、そんなに怖いひとじゃない、ってこと。

 でも、それ以上のことを私が言う権利はないような気がして、それ以上は言わなかった。

 東京湾から、神田川へ。
 たくさんの橋をくぐる。小さく見えていたスカイツリーが、少しずつ大きくなってくる。
 東京の景色が、両隣に見える。朝の、慌ただしい、目覚めてきた東京。

「星夜は、いつもこの船で移動してるの?」
「いつもではない。たいていは車だ。鬼神族にとってもこの船は宝のひとつ。ゆえに、特別なときにのみ出す」
「特別なとき……犬カフェに行くときとか?」
「そういうときは……プライベートの車だが」

 星夜の言葉の歯切れが悪い。
 これは、もしかして……犬カフェの話を、恥ずかしがってる?

 ちょっといたずら心が起こってしまう。

「そういえば……犬カフェに、大好きな犬がいるんですよね? かふぇ、もか、くるみ……でしたっけ?」

 星夜は、不自然に視線を逸らす。

「やめろ。そのような表情で見るな。……いたずらっぽいところも犬のようだ」
「だから、犬じゃないですよ。今日は耳も尻尾もないでしょう?」
「そういうことではなくてだな」

 そんな感じで、わいわい言い合っていると。
 なんだかあっという間に、通学時間の三十分は過ぎたのだった。
 幽玄学院に到着すると、星夜は校内に造った事務所へ。
 私は教室へ向かった。

 幽玄学院の校舎は、レトロな魅力に満ちていた。
 大正時代に建てられた校舎は、赤レンガ造りの外壁と、重厚な木製の扉が印象的。窓は大きく、格子の入ったガラスが日光を柔らかく反射している。長い廊下には昔ながらのガス灯風のランプが今も使われていて、昼間でもどこか温かみのある淡い光に包まれていた。

 だが、それだけではない。教室に入ると、壁に備えられたスマートボードや最新型のパソコンが整然と並んでいる。どこかアンティークなデザインの机と椅子が置かれた教室に、最新技術が溶け込んでいるのだ。

 レトロな魅力と、最新設備。
 この融合が、豪華さを一層引き立てていた。
 
 朝のホームルーム前に、黒板の前で自己紹介。

「えっと……はじめまして。叶屋歌子と申します」

 すごい緊張する……。

 だって、新しいクラスメイトたちは、あやかしばかり。
 人間っぽい人が半分くらいで、他にも狐や狸、唐傘やおばけの姿をしたひとなど、バラエティに富んでいる。

 頬杖をついたり、ふわふわ浮いたり、みなそれぞれで。
 でもみんな、冷たい目線でこっちを見ている気がする……。

 特に、廊下側の席に固まっている二人の女の子と一人の男の子は、ひそひそ話をしながらこっちを睨みつけていた。

「みなさんみたいに、すごいあやかしじゃなくて……ただの一般人で……えっと、こんな私が幽玄学院に入っていいのか、わからなかったんですけど……」
「叶屋さんは呪い持ちなのよね」

 担任の先生の一言で、クラスメイトたちは一斉に、へえ、という反応をした。
 ぎこちない自己紹介を追えると、先生の指示で、最前列の夕樹の隣の席に座る。

 私を睨みつけていた二人の女の子と一人の男の子は、天狗だから、気にしなくていいと夕樹が後でこっそり教えてくれた。

「女子の天狗が(りゅう)(すい)、男子の天狗が(れい)。あいつら、いつも鬼神の僕を目の敵にしているんだ。そのせいで歌子は巻き添えを食ってるだけだと思う。ごめんね、気にしなくて大丈夫だから」

 気にはなったけど……夕樹が、そう言ってくれるなら。
 あやかし同士も色々あることは、私も充分わかっているから……。

 そうして、幽玄学院での新生活が始まった。

 久しぶりの学生生活は、懐かしいのにすごく新鮮だった。
 席について授業を受けて……教室移動をして……。
 意外と、人間の学校と変わらない日常風景だった。
 まあ、時間割に「族別演習」とか「特殊能力」とかいった科目がある点は違ったけど……。何をやるんだろう?

 予習をした範囲をいま授業ではやっていて、少しでも予習しておいてよかった、とつくづく思ったのだった。

 星夜もちょくちょく様子を見に来てくれるし、夕樹がずっとそばにいてくれるから、心強い。
 気になるのは、夕樹以外のクラスメイトと全然話せていないことだけど……。
 すこしずつ、話していければいいかな。

 後で振り返れば、このときの私の思いは、あまりにも楽観的すぎたのだけれど――。
 あっというまに、昼休みになった。

「歌子、一緒にご飯食べよ! あー、おなか空いた。歌子、おせんべい食べる? いっぱい持ってきたから!」

 夕樹は、朝からずっと私のそばにいてくれている。
 隣の席にいるだけではない。移動教室や、授業中の活動のときも、つねに。

 ありがとう、もらおうかな、と言いながら、星夜お手製のお弁当を出しているときだった。

 雪女の子と狸の子が、夕樹のところにやってくる。
 狸の子は人間に化けていて、ころっとした可愛らしい女の子の姿。

 雪女の子が言う。

「夕樹。今日はどうします? 食堂行きます?」
「あ、ごめん、今日はパスで。教室で食べるから」
「そっかあ……忙しいもんね。鬼神って大変」

 狸の子がそう言って、ちらりとこちらを見てきた。
 私を、睨んでいる――明らかに、よく思われていないのがわかった。

「仕方ないですよ。鬼神族は、あの雨宮星夜様がトップなのですよ?」
「そうだよねえ。雨宮星夜に命じられたらねえ……」

 狸の子は腕組みをしながら、うんうんと頷いていた。

「歌子は僕の友達だよ。二人とも、一緒に食べる?」
「いえ……遠慮しておきます。叶屋歌子様はやんごとなき御方。万一にでも凍らせてしまったら、一大事ですから」
「あたしも。今日は氷子(ひょうこ)と二人で食堂行くわ。また後で『れいん』するよー」
「はいはいー」

 私は、お弁当の風呂敷をほどいて、自分の指ばかり見つめていた。
 教室の喧騒が、急に遠いもののように感じる。

 そうだ……忘れていたけれど。
 学校って、教室って、こういう場所だった。

 もう半年も離れていて、憧れだけが募っていたけれど、何もきらきらしたものばかりが詰め込まれた場所ではなかった――。

「食べよ、食べよー。うわ、歌子、それ星夜様のお手製でしょ? すごいなあ。星夜様ってお料理上手って噂、本当なんだね」

 夕樹は、何事もなかったかのように接してくれるけれど……。

「あ、あの……夕樹」

 なかなか次の言葉を言い出せない私にも苛々することなく、なに? と夕樹は問いかけるかのように首をかしげてくれる。

「さっきの、雪女の子と狸の子と昼ごはん食べたいなら……食堂に、行ってくれて大丈夫だよ……」

 私は夕樹から視線を逸らしながら言う。
 こんな……ずるい言い方しか、できないなんて。

「ええっ、そんなの、気にしないでよ。歌子と一緒に食べることができて、僕は嬉しいんだから!」

 それは、私が鬼神族の長に保護されている存在だから?
 なんて、一瞬でも思ってしまって……すぐに自分を恥じた。
 夕樹はそんなことを思うような子じゃないはずなのに……。
 私は視線を上げて、夕樹に伝える。

「……ありがとう。夕樹は優しいね」
「そんな、普通だよ、普通」

 夕樹はあわてたように両手を振って……。
 腕を組んで、うーん、とうなった後、ちょっと真面目な顔になった。

「……あのさ、歌子。さっきの二人のことなら、気にしなくていいから。氷子も山華(さんが)も悪い子じゃないんだよ。でも、あんな言い方されちゃったら、気になるよね。なんて言えばいいのかなあ……」

 夕樹は、右手で頭を掻いた。

「やっぱり、あやかしってなんだかんだで力を気にする生き物なんだよね。相手より強いか弱いか、もし戦ったときに勝てるかって、すごい大事。人間の学校では学力やスポーツの力が重視されて、人間関係にも影響を及ぼすんでしょう? それと同じ」

 それは……。
 確かに、そうだ……。

「呪い持ちって、あやかしならみんな知ってるし、めったにいないし。歌子が来て、みんな自分の力がみなぎっているのを感じてるだろうし。僕も感じてるよ。普段の倍は力が出そう。でもみんな平等に力が高まるわけだから、新しい争いには結びつかないだろうけど」
「……そうなの?」

 自分では、やっぱり、まったく気づかない。

「そばにいると力が高まるから、歌子のことをみんな簡単に敵に回すことはできない。だから、襲ってもこない。でも……ごめん歌子、気を悪くしないでね、歌子自身が妖力や霊力を持っているわけじゃないでしょう?」
「うん……」
「戦いがすごい強かったりもする?」
「ううん……全然」
「だからだと思うんだ、みんな、まだ歌子と打ち解けようとしないのは。あやかしはどうしても、力が弱い相手は、軽く見るから……」

 夕樹は気まずそうだった……そこに、彼女の優しさが感じられたけれど。

「夕樹はそういう……強さみたいなものは、気にしないの?」
「んー……気にしないわけでもないんだけど。僕はまあ、学院では誰にも負けないくらいには強いからなあ……」

 そうだった……。
 夕樹は、かなり強いらしくて、だから私のそばにいる役目を任されていたんだった。

 たとえば成績が学年トップの子や、部活で全国大会に出るような子でも、意外とみんなに優しかったりする子がいるように。
 自分が突き抜けて出来すぎると、他人のことはあまり気にならないってことなのかな。

 夕樹……すごいなあ……。

「氷子と山華のさっきの態度はよくなかった。僕、あとであの二人のこと、しっかり叱っておくから。気にしないでね。歌子は一応人間なんだから、あやかしの力なんてなくて当然だし! 理解しようとしない方も悪いよ」

 夕樹は、善意で言ってくれているのだろう。

 でも……だからこそ、胸が苦しくなった。
 私がいるせいで……夕樹は、友達と過ごせなくなったんだ。

 甘えっぱなしではいけない。
 私も、私のできることをやらないと。
 夕樹とつねに一緒でなくてもいいように。
 一刻でも早く学校に馴染んで、夕樹には夕樹の学校生活を送ってもらえるように、するんだ……!

 私は、意気込んでいた。
 ……またしても、意気込んでしまっていたのだ。
 そして、午後。
 五時間目を終え、六時間目は化学の授業。化学室へ移動だった。

 夕樹と並んで廊下を歩いていると、前方に氷子さんと山華さんがいた。

 私は思わず駆け出し、二人の肩を叩いていた。
 二人は訝しげに振り向く。

「あ、あの……夕樹と四人で、移動しない?」

 目いっぱい明るく言ったつもりだったのだけれど、私の声は緊張で上ずっていた。
 二人は、ますます訝しそうな顔をする。

 夕樹があわてて私の隣に駆けてきた。

「ちょっと歌子、急に走るんだもん! びっくりした」

 二人は――何事もなかったかのように、前を向いて、二人で親しく話し始めてしまった。

「え、えっと……夕樹もいるし、一緒に移動……とかは……」
「あたしは夕樹のことはダチだと思ってるけどさ」

 山華さんが急に立ち止まり、こっちを振り向く。
 氷子さんと、私と夕樹も足を止める。
 山華さんのぎろりとした目は、彼女があやかしであることを感じさせ、ぞっとした。

 なんだなんだと、周りにあやかしたちが集まってくる。

「あんたとあたしは、そうじゃないでしょ? 気安く話しかけないでくれない?」
「まあまあ、山華、落ち着いて」
「だってさ。ただでさえ夕樹は弱いあやかしもどきのおもりをしなくちゃいけなくて可哀想なのに。あたしたちとだってこれから今まで通り過ごせなくなるんだよ? 氷子はそれでいいの?」
「鬼神族は役割を重んじる方々ですから。夕樹の使命をよく理解してあげないと。でもそうですね。……叶屋様」

 氷子さんの笑顔は――きれいなのに、ぞっとする。

「たまには、夕樹をわたくしたちに返していただければ嬉しいです。これまで夕樹と山華とわたくしは、ずっと一緒だったのですよ。……そしてわたくしたちは、叶屋様のように特別な身分も持たない、ただの狸と雪女です。お付き合いするには相応しくないかと」

 氷子さんは笑顔のままだったけれど――まわりの空気の温度が低くなっていた。
 比喩ではなく、実際に。

「――ちょ、ちょっと、二人とも。そんなこと言わないでよ! 歌子はいい子だよ。四人で仲良くすればいいじゃん!」 
「夕樹は優しすぎるんだよ! 仕事で付き合わなきゃいけないだけの相手に対してさ」
「それだけじゃないってば、もう――」
「山華。夕樹をあまり怒らせてはいけません。致命傷になりますよ?」

 ふん、と山華さんは鼻を鳴らす。

「あんたが弱いのがいけないんだ。弱いから、夕樹がつきっきりで守らなくちゃいけなくなる。悔しかったら、強くなってみせなよ」

 氷子さんは笑顔のまま、深く腰を折って……。

「夕樹。今度の休日は三人で遊びましょうね」

 夕樹にだけ、親しげな笑顔を見せて。
 そのまま、二人で、すたすたと化学室へ向かってしまった。
 私たちを見物していたあやかしたちも、去っていった。冷笑、あるいは軽蔑を滲ませて――。

「……歌子。気にしないでいいからね」

 夕樹は、やっぱり優しかったけれど。
 駄目だ。私は。――このままじゃ。

 ……私は、あやかしでもなんでもない。
 ただの、呪いを持っているだけの人間で……。
 だから。弱いのは、どうしようもないけれど。

 でも。――でも。
 ここで認めてもらえるように――がんばらないと。
 幽玄学院での日々が過ぎていく。

 私は、夕樹のほかにも友達をつくれるように努力した。
 クラスメイトたちが何のあやかしなのか覚えて、名前も覚えて、話しかけて。

 更なる距離をクラスメイトたちに取られてしまわないよう、星夜にはもう絶対に教室に来ないでと強く言っておいた。
 星夜は最初は納得していなかったけれど、もう一度来たら実家に帰らせていただきます、とまで言ったら、しぶしぶ了承してくれた。

 だけどみんな、私と親しく話そうとはしなかった。
 良くて、事務連絡だけ。
 相変わらず山華さんは敵意を剥き出しにしていたし……氷子さんもそうだった。

 夕樹も頑張ってくれたのだけれど、やっぱり、駄目だった。
 でももちろん……夕樹のせいではない。
 認めてもらえない私がいけないんだ……。

 確かに……学校には、行きたかった……。
 でも、これは。
 私の思い描いていた学校生活ではない……。

 朝と夕方の送迎の船でも、私は言葉数が減っていった。
 初日は気持ちよく感じた風も……なんだか、いまはうっとうしく感じる。

 二週間ほど経っても……私は、学校で避けられたままだった。

 星夜は、私の学校生活についても気にしてくれる。

「歌子。学校生活はどうだ」

 そう問われるたびに……。

「大丈夫! 夕樹もいてくれるし、みんな優しいし、本当に楽しい」

 笑顔で、そう返していた。

 ……これは、私の問題だ。
 学校に行ける環境を作っておいてもらいながら、うまくやれていないなんて。
 恥ずかしくて……申し訳なくて、星夜には言えなかった。

「そうか。おまえがそう言うなら信じるが……何かあったら俺を頼れよ」
「それでまた、いつもいつも教室に様子を見に来るとかだと困るんですよ?」

 大丈夫。大丈夫だ。
 だって……まだ、軽口を叩く余裕もあるのだから。
 そうして、二週間ほど経ったけど……。
 学校での毎日は、相変わらずだった。

 私の身体には、犬の耳と尻尾が生えている。
 変身の期間が近づいているのだった。
 ……私は明日、日没とともに、完全な犬の姿に変身する。

 犬の耳と尻尾が生えているから、なるべく人に見られないように気をつけて帰りの船に乗る。
 窓のシャッターを下ろす。変身する期間、人目につかないように──つまりは私のためだけにつけてくれたらしい。つくづく、申し訳ないというか……。

 普段よりも水の音が遠い船のなか。
 星夜とふたりで、ふかふかの座布団に座る。

 幽玄学院では、確かに……。
 私の身体に犬の耳と尻尾が生えていても、まったく問題にならなかった。

 というか……話題にもならなかった、と言ったほうがいいのかな。
 無視されているという事実を、普段よりもっと鋭く感じるのだった。

 星夜にまた、言われた。

「歌子。学校生活はどうだ」

 なんだか恒例みたいになった、このやりとり……。
 だからこそ。返し方だって、もうわかっている。

「大丈夫です! 今日は『特殊能力』の授業で、ドッジボールをして。夕樹、すごい強いんですよね。力持ちって本当だなって。私もボールを追いかけるのが楽しくて!」

 今日あったことを、笑顔で話せばいい。
 無邪気だって思われるほどに……。

 いやなことは、言わずに。

 幽玄学院特有の――あやかしの学校だからこそある「特殊能力」の授業は、いま私がもっとも苦手な授業だ。
 あやかしたちが各々、自分たちの力を競う。
 自由に。のびのびと。普段は禁じられている彼らの特殊能力を、存分に発揮させる――。
 特殊能力を訓練するための授業なのだ。

 でも、私には……なんの力もないから……。
 攻撃されるがままだ。

 同じコートにいた狸の山華さんにボールの幻覚を見せられて。
 氷子さんに、周りの温度を下げられても。

『ちょっと、二人とも、やめてよ!』

 夕樹がいつも怒って彼女たちにボールを投げつけてくれて、夕樹は本当に力が強いから、それで毎回どうにか場は収まるのだけれど……。

 悔しい。
 悲しい。
 ……情けない。

 私は――自分の身ひとつ、自分で守れないのだ。

 ……明日から、完全な犬の身体になる。
 正直なところ……怖い。

 犬の身体は、人間の身体よりもっと無力だ。
 そんな無力な身体で学校に行ったら――。

 そう考えると、息が詰まるのだった。