星夜は右手から物騒な紅い球を消してくれたけれど、その目から疑いの色は消えなかった。
「そうです。入谷の住宅街で車に轢かれていたのを、助けてくれましたよね。傷の手当てをしてくれて、美味しいお粥、作ってくれましたよね。いっぱい可愛がってくれましたよね――」
「もういい」
星夜は鋭く言い放った。
普通であれば、恐れおののく場面なのだろうけれど――星夜の本性を知っている身からすると、あんまり、怖くなかった。
このひとは、なにかを誤魔化すときに強気にならずにはいられないのだ……。
星夜は無表情だった。
いや、無表情を装っていると言ったほうが正しい――かなり、困惑しているのだ。
「貴様の言うことを完全に信じたわけではないが、たしかに、それは俺があの白い犬に贈った首輪だ」
「そうでしょう?」
私は右手で、ぐいと水色の首輪を持ち上げた。
この首輪。大型犬用で、しかも苦しくないよう余裕をもって作られているので、人間の身体になっても持ち上げられるくらいには余裕がある。
「……なるほどな」
星夜はあごに手を当て、なにか納得しているようだった。
「つまり、あの白い犬が俺の愛情に感動して、人のすがたになって恩返しに来たと――」
「違います」
それでは、もともと犬だったことになってしまう。
逆だ、逆。
恩返しをしたいのは本当だけれども。
こうなったら、隠してはいられない。
犬に変身する体質のことも。呪い持ちのことも。
もともとは人間なんだと、わかってもらうために。
……はあ。
それにしても、やっとしゃべれる。
犬のすがただと、しゃべることもできなくて……。
朝はゆっくりとやってくる。
夜澄島も起きはじめているけれど、ここ数日、白い犬との散歩のために時間を取っていたせいか、星夜には私の話を聞ける程度の余裕はあるようだった。
「話は理解した」
話を聞き終わると、星夜は妙に納得した様子だった。
相変わらず、犬のすがただった私に向けるような優しさは、微塵も感じないけれど……すくなくとも、こちらを警戒するのはやめたようだった。
「わかってくれましたか」
「ああ。貴様はこのまま、夜澄島で暮らすがいい」
「ええ、そうですね、ひとまず帰らせていただきます。助けていただいたお礼はもちろんいたしますので、のちほど――って、え?」
いま、このひと、なんて言った?
「いったん自宅に戻るのは許可してやろう。家族に事情を説明し、荷物を持って戻って来い。持ってきたい物だけでいい。人間ひとりが暮らす程度の物、夜澄島にはすべて揃っている」
「……ええっと。いや。いやいやいやいや」
なんで、そうなる?
「私のお話、聞いてました? 私は犬ではありません。ひと月に一度、犬になってしまうだけの人間なんです」
星夜は、説明する必要はないと言わんばかりにぎろりと私を睨みつけたが、私だって説明もなしにこのまま夜澄島で暮らすなんてできるわけない。
負けじと星夜を睨みつける。
「せめて説明してください。そうでなければ、私はこのまま帰らせていただきます。戻ってはきません」
「勝手に生きて帰れるかと思うか。そうするというのであれば、いまここで貴様を頭から喰らってもよいのだぞ」
「はあ……。もともと、鬼神様のおやつにされるかなと思ってましたので。どうしてもとおっしゃるのであれば、どうぞ」
星夜は黙り込む。
このひと……。だから、はったりが下手すぎるんだよね。
鬼神族は人間なんか食べないって、私はもうわかっているのに。
星夜のはったりは、鬼神族の長だという立場と、持って生まれた迫力だけでどうにかなってるようなもんだ。
私は星夜を睨み続ける。
尻尾が感情に合わせて、自然にぴんと硬くなる。
やがて。
星夜は、重たそうに口を開いた。
「理由は三つある。ひとつには、貴様は知りすぎたということ」
「そう、ですよね」
修羅の鬼神様の、おそらくだれも見てはいけなかった面を見てしまったし。
天狗族をはじめ、ほかのあやかしたちとの微妙な関係なんかも知ってしまった。メディアで報道される以上のことを、たくさん、たくさん。
だから、口止めのために私を見張っていなければならないのは、まあ、まだわかる。
けれどそれだけでは、夜澄島に留めておく決定的な理由にはならないはずだ。
私に監視でもなんでもつけておけばいい。
「ふたつには、貴様には霊力を高める力があるということ」
「それは……呪い持ち、だから?」
お姉ちゃんから口を酸っぱくして言われていたことを、思い出す。
呪い持ちであることは、隠さなければいけない。なぜなら、あやかしたちに狙われるから。
では、なぜ狙われるのか。それは、あやかしの力を強くするから。
「そういうことだろう。そばにいて、貴様から何か霊力を感じるわけではない。だが、呪い持ちだと聞いて合点がいった――近頃、夜澄島の霊力が急に高まったのは、おそらく貴様が原因だ」
「……なるほど」
ぜんぜん、現実味がない。
霊力を高める、ねえ……。
自分には霊力も妖力もなにもないのに、高めることだけはできるのか。
つくづく、呪い持ちってよくわからない……。
「三つには……」
星夜は、言いよどんだ。
「いや、これはいい」
「なんでですか。ここまで聞いておいて、気になります」
私は星夜を見上げる。
三角の耳が、好奇心とともにぴこぴこ動いている。
……星夜はそんな私の耳と尻尾を交互に眺めて、大きなため息をついた。
「だれにも言わないと約束しろ」
「はい。言わないって、約束します」
「俺はな……俺は……」
星夜は気まずそうに、やけに口ごもる。
「犬が、大好きなのだ……」
「知ってますけど!」
思わず、大声が出てしまった。
このひと。そんな。そんなの。……今更すぎる。
星夜は立ったまま、肩を落とす。
「ほかのあやかしが好きなわけではないが、正直、人間は苦手だ……霊力も妖力もほとんど持たないくせに、小手先の道具を開発し、権利だけ主張する小狡い生き物だ。あやかしのように筋も通さない……嘘をつき、弱く、逃げる。あの可愛い白い犬が、まさか人間だったとは……信じたくない」
「それは、まあ、なんか……すみません」
私が人間であるのは私のせいじゃないのだけれど、いちおう謝っておいた。
あんまりにも星夜ががっくりとしているから……。
と思ったら、星夜は急にこちらをぎろりと見てきた。
「だが、貴様、二言はないな?」
「え?」
「そのふさふさで大変可愛らしい……いや……いまのは聞かなかったことにしろ、……ともかく、いま貴様に生えている犬の耳と尻尾は幻術のたぐいではなく本物で、次の満月がめぐりくればまた貴様はあの白い可愛い犬に成る――それは真実だと、誓って言えるな?」
「はい、それは、もちろん」
背筋を伸ばすと、尻尾も耳も、ぴんとなる。
とくに嘘をつく理由がない。
「……では、いい……」
「……なにが?」
「月に一度、犬に成るというのであれば、俺は貴様をこのまま飼い犬として飼うことにしよう。ついに、ついに自分の犬が飼えるのだ……人間だということ、月に一度だけということに目を瞑ってやる価値があるというものよ――ははは、ははははは!」
私はあっけにとられて、ええっ、とつぶやいたまま動けないでいた――ほんとは人間なのに、飼い犬として飼う、とか。
……そんな発想、ありなの?
……そしてそのあんまりにも大きな笑いに、ばたばたとだれか近づいてくる気配がしますけど……暮葉さんのような気がする……。
星夜はふと笑うのをやめて、なにか思い出したかのように視線を逸らした。
「もうひとつ言っておきたいことがある」
「はい、なんでしょう」
「……こんなことを俺に言わせる貴様は愚かだが」
はい? という思いを込めて、私は首をかしげる。
「服を着ろ。……やむを得まい。俺の和服を貸してやる」
あっ、と思わず声をあげてしまった。
そうだ。そうだった。
あんまりにも緊張感ある状況で、毛布だけ胸もとに上げてから忘れてしまっていたけれど――私はいま、犬の耳と尻尾を除けば裸の状態。
星夜が押し入れから出してくれた紺色の和服を、なんとなくお互い視線を合わせないようにしながら着る。
私にはぶかぶかのサイズで、すっぽり埋まってしまうような着方になった。
……彼の匂いがして、あたたかい質感だった。
暮葉さんはやってくるなり、悲鳴じみた声をあげた。
「せ、せ、星夜様、そ、そ、その女性は……ま、まさかとは思いますが、一夜をともにしたわけではございませんよね? き、き、鬼神族の長が女性と夜を越したなど、せ、せ、世間に知れたら」
「掟破りはしていない」
星夜はうんざりしたように言った。
掟――けっして、愛する者をつくってはならないという、鬼神族の鉄の掟のことだろう。
「この者を、夜澄島に迎え入れる」
堂々と宣言する星夜。
ぽかんとする暮葉さん。
ふたりの脇で、星夜の和服を借りて着た私は縮こまっていた。
和服には、尻尾が収まりきらなくて……不格好に、はみ出てしまっている。
「……ええと。星夜様。迎え入れるとは、どういうことでしょうか」
暮葉さんは理解に苦しんでいるようだった。
「失礼ながら、そもそも、そちらの方は?」
「なにを申している。俺が五日前に拾い、世話している大きな白い犬だ。耳も尻尾もあるだろう」
「あの白い犬? これが……?」
暮葉さんはじろじろと私を見る。
これ、とはずいぶんな言いようだ。
ふたりは、鬼神らしい――あやかしらしい会話を始める。
「あやかしではないのですか。化けるのが下手な、下級の狐かなにかでは」
「水色の首輪を見ろ。俺が与えたものだろう。この者は、呪い持ちだ。普段は人間だが、満月のころには犬となる」
「――呪い持ち」
暮葉さんの顔色が、急に変わった。
「……なるほど。つまり……近頃の霊力の高まりも……」
「そうだ。説明がつく。この者を迎え入れるのは、鬼神族にとっても益となる」
「それは……そうですが……しかし。星夜様が女性を侍らせているなどと世間に知れたら。霊力の高まりのメリットを考えても、リスクが大きすぎます。一族の反発も大きいでしょう。わざわざ夜澄島に迎え入れずとも、たとえば通いで来ていただくだけでもいいのでは」
「通いでは、霊力の高まりは充分ではない。リスクと言うのであれば、この者が他の者に利用されるリスクのほうが大きい。更に、この者が我々の内部情報を知りすぎたことによるリスクもある」
「……それも、そうですが」
暮葉さんは眼鏡をくいっと上げて、思案する表情になった。
「一族は黙らせろ。天狗族との聖戦に向け、お上が霊力の恵みたる白犬を与えたもうたと、宣言するのだ」
「……ですが」
「貴様と問答をする気はない。これは一族の勝利を考えてのことだ」
「……承知しました。緊急会議を開き、この者を迎え入れてよいか、一族に問いましょう。……我らが勝利のために」
「ちょ、ちょっと待ってください」
私は声を上げずにいられなかった。
ふたりはこちらを見る。
「あのー、さっきから私抜きで話が進んでますけど、それって私の今後に関わる重大なお話ですよね?」
「星夜様に対してそのような口をきくとは、失礼ではないか」
星夜は、右手で暮葉さんを制する。
「よい。聞いてやろう」
「ありがとうございます、それでは遠慮なく。私の意志はお構いなしなんですか? 私の生活は、どうなるんですか? 私が夜澄島に来るのを一族に問う前に、私に問うてくれません?」
「……べらべらと。やはり、犬はしゃべらないからこそ尊く愛しい」
「はあ?」
私は思わず、星夜を見て声を上げてしまった。
尻尾がぴん、と毛羽だって立つ。
「あなたに感謝はしています。でも、いきなりここで暮らせなんて……あまりに一方的じゃありません? もっとこちらのことも考えてくださいませんかね――」
「人間ごときに、鬼神が配慮する必要などない」
星夜は紅い瞳でこちらを睨みつけてくる。
……迫力がすごい。
けれど、ここで負けるわけにもいかない。
これは私の今後に関わる重大な話なのだ。
「まともな説明もなくただ引っ越してこいとか、無理です。家族も説得できないです」
「貴様の同意など不要。力ずくで留めてもよいのだぞ」
「お断りする、と申し上げてるわけじゃありません。ただ、もっとちゃんと話し合ってから決めたいだけです。……いいの? 星夜」
「――貴様。俺の名を、なんと呼んだ」
「星夜って呼び捨てにした。俺のことを星夜と親しく呼び捨てればよいって言ったのは、そっちじゃない」
星夜が言葉に詰まるのがわかった。
「私がいれば霊力が高まるのも、私が知りすぎたのも、ほんとなんでしょうけど。私がいなくなったら、犬が飼えなくなるんでしょ。月に一度でいいから、自分だけの飼い犬が欲しいんでしょ。月に一度でいいから、もふもふしたいんでしょ! なのに、いいの? このままじゃ永遠にあなたのもとから逃げちゃうから!」
気がつけば、暮葉さんはじっとりとした視線を星夜に向けている。
結局、犬が飼いたいだけなんですか……みたいな。
「……それは、困る」
星夜は絞り出すように言った。
「とりあえず、一族の会議とか大事にする前に、家族のところに帰らせてほしいの。とても心配してると思うから。それに、明後日からバイトのシフトも入ってる。いったん私の家に戻って、きちんと今後どうするかを話し合いたい。ここで暮らすとかいう話は、それから」
「……やむを得まい。暮葉、車を出せ」
「……承知しました」
暮葉さんは、部屋を出るときにぼそりとつぶやいていた。
「犬には、かようにこの方は弱い……」
星夜は平然と無表情を貫いていた。
そういうわけで。
犬の耳と尻尾だけを残して人間に戻った私は、星夜と暮葉さんとともに車に乗って、家に戻り、事情を説明することになった。
夜澄島は東京湾にぽっかりと浮かぶ島。
普段は橋を上げているけれど、行き来するときには橋をかけるらしい。
星夜の部屋の裏で待機していた高級そうな黒塗り車に乗って、ゆっくりと島の出口まで移動すると、まるで鬼ヶ島のような古風で和風な大きい門が現れた。
島の入り口で、門番らしき人が恭しく頭を下げて門の脇の木でできたレバーのようなものを操作すると、轟音とともに巨大な橋がお台場の陸地まで倒れるように現れる。
現世橋――と、いうらしい。
私は星夜と一緒に、広々した後部座席に座った。
車が発進する。
後ろから、何台か車がついてきた。警護のひとたちの車だという。
まっすぐすいすい運転しながら、暮葉さんが得意そうに言う。
「レインボーブリッジか、われらが夜澄島の現世橋か、というところですよ」
星夜は暮葉さんに言う。
「余計なことを言うな」
「……失礼いたしました」
現世橋を渡りきる直前、星夜がぶっきらぼうに帽子を差し出してきた。
いま借りている星夜の紺色の着物にもよく合う、和風の帽子だった。
私はとりあえずそれを受け取りながら、星夜に尋ねる。
「これは……?」
「耳を隠せ。その可愛らしくもふもふな犬耳が隠れてしまうのは残念極まりないが……いや、いまのは聞かなかったことにしろ。この車は外から中が覗き込めないようになっているが、それでも用心するに越したことはない」
「私が呪い持ちだとわかれば、いろんなあやかしが狙ってくるから――?」
星夜は前を向いたきり返事をしなかったが、横顔の雰囲気から、肯定しているんだとわかった。
「マスコミに妙な詮索をさせないためでもあります。星夜様が女性と同乗しているなどバレたら……ああ、おそろしい、おそろしい」
暮葉さんは大きなため息を吐つく。
星夜の言っていることも暮葉さんの言っていることも、どちらもごもっともなので、私はおとなしく帽子をかぶった。
……ちなみに。
帽子と和服は貸してくれたけれど、首輪は外してくれなかった。
というよりか、外したい、と言い出せない雰囲気だった。
本当は、窮屈だし外したいのだけれど……。
あとはなにを話すでもなく、私の自宅へ向かった。
夜澄島から私の自宅周辺まで、車で四十分程度で到着する。
およそ一週間ぶりの自宅。
私の家は、なんてことない住宅街にある。
二階建てのごくごく平凡な家の前に黒塗りの大きな高級車が停まっているのは、なんとも異様な光景だった。
どこに車を置いてきたのか、見張りのひとたちが何人か家の周囲に立つ。
みなさん、ぱっと見は普通の人間と変わりないんだけれど、全員が鬼神だというのだから現実味がない。
星夜と暮葉さんだけが、車を降りて私の後ろに立つ。
犬に変身するときに服も荷物も全部なくしてしまったので、家の鍵もなくインターホンを押す。
「はい……」
今日は平日のはずだけれど、お姉ちゃんの声がした。
いつもの明るく穏やかな声とは似ても似つかない、疲れ切った声だ……。
「お姉ちゃん、私だよ、歌子! 帰ってきたよ――」
すべて言い切る前に、ばたんばたんと慌てた音がして、がちゃりとドアが開く。
出てきたのは、憔悴しきった顔のお姉ちゃんだった――けれど私の顔を見ると、やつれた顔が急に生気を取り戻す。
「歌子……? 歌子なのね」
お姉ちゃんは、私のもとに歩み寄ってくると――私を、ぎゅっと抱き締めた。
「ごめんね、お姉ちゃん……私……」
「ほんとに……ほんとに、心配したんだから!」
お姉ちゃんの目から涙がだくだくと溢れる。
私は胸がいっぱいで、どう返したらいいかわからずに、腕を回してお姉ちゃんを抱き締め返した。
私も、じんときてしまう。
気がつけば、ふたりでわんわん泣いていた。
お姉ちゃん……もう、外で犬に変身したりして、心配させないからね……。
「――星夜様。本日もスケジュールが詰まっております。早々に話を進められたほうが」
暮葉さんが言うのが聞こえた。
けれど、星夜はなにも返事をしなかった。
お互い、涙が出尽くしたころ。
お姉ちゃんはそっと私から身体を離した。
「……ところで、そちらの方々は……?」
「雨宮星夜だ」
「ええっ――ま、まさかとは思いますが、夜澄島の?」
「そうだ」
「えっ、ええっ、な、なんでなのっ、歌子っ」
再会の涙も一転、お姉ちゃんは私の肩を両手で掴んでぐらぐらと揺らす。
「お姉ちゃん、ちょ、ちょっと、揺らしすぎ」
「叶屋歌子の家族だな。この俺から、直々に話がある」
「と、とりあえず外ではなんですから、上がっていただいて……」
お姉ちゃんは、星夜と暮葉さんを家のなかに案内する。
……そういえば、星夜は。
暮葉さんに、スケジュールが詰まっていると言われたのに、私とお姉ちゃんが泣いているときに声をかけてきたり、しなかったな……。
待っててくれたのかな。
いやいや、ただ面倒で私とお姉ちゃんが落ち着くのを待っていただけかも――そう思いつつも。
やっぱり、待っててくれたのかな、という思いも拭いきれないのだった。
星夜と暮葉さんには、リビングの四人がけのダイニングテーブルに並んで座ってもらった。
客間も、あるにはあるのだけれど……使ってなさすぎて、物置みたいになっている。
リビングに案内するのが賢明だった。
帽子が少々窮屈だったので脱ぎ、リビングの帽子用のハンガーにかけておいた。
犬耳が、思い切り出てしまうけど――家のなかでこの面々だったら、問題ない。
お姉ちゃんがお茶を準備するのを、私も手伝う。
星夜はじっと座っていた。暮葉さんは腕時計を何度も見ていた。
星夜はコーヒーや紅茶よりも日本茶のほうがいいと言うので、緑茶を出す。暮葉さんは何でもいいと言っていたので、星夜と同じものを。
寿太郎はいない。部活の朝練に行って、そのまま学校のようだった。
お姉ちゃんは、帰ってこない私のために仕事を休んでくれていたらしい。
私が犬のすがたになっていると、お姉ちゃんは知っている。そうなると、叶屋歌子として捜索願を出すわけにもいかず、私の友達や近所のひとたちに捜すのをお願いすることもできない。
私を捜し回るためだけに、仕事を休んでくれていたんだ……。
今日は私が人間に戻る日だから、もしかしたら家に帰ってくるかもしれないと――早朝からずっと、待ち続けてくれていたのだという。
私が犬に変身してしまったときに路地裏に置いてきてしまった服と荷物も、家にあった。
お姉ちゃんが見つけてくれたのかと思いきや、寿太郎がわざわざ近所を歩き回って見つけ出してくれたらしい。
「寿太郎は学校があるし、あの子、部活の大会も近いでしょ。おれも歌子姉ちゃん捜すよって言って聞かなかったんだけど、こういうのは大人の舞子お姉ちゃんに任せなさいって、結構説得するの大変だったんだから。……ふふ、内緒よ?」
ちょっと意外だった。
普段は憎らしいだけの弟だけど……いざというときには、私を捜そうという気になるのか。
「お父さんとお母さんもね、仕事を中断して帰ってくるって言ってくれたのよ」
「え、お父さんとお母さんも? っていうか……よく、連絡ついたね」
「それが、すぐに連絡してって書いた手紙がやっと四日前に届いたみたいでね。近くの村まで慌てて引き返してきたらしいんだけど、村に引き返すのに三日かかっちゃったみたいで、昨日やっと電話が来たのよ」
お父さんとお母さんは、探検家というちょっと珍しい職業をやっている。
それも、ひとがほとんど立ち入ったことのない秘境を専門としているので、スマホやインターネットが当たり前の時代なのに連絡がつかないこともざらにあるという、なかなかレトロな事情もある。
スマホの電波が入る場所にいるならばいいのだけれど、そうでないときの連絡手段は基本的に手紙。手紙を届けるひとも秘境でお父さんとお母さんを捜し回るから、なかなかすぐには届かなかったりする。
「お父さんとお母さん、いまはどこにいるの?」
「アマゾンの奥地から、こっちに戻ってきてるはず。だれも足を踏み入れたことのない湖を発見したってはしゃいでたんだけど、歌子が犬に変身したままいなくなっちゃったって聞いたら、お父さんもお母さんもすぐに帰るって――」
「……そっか、心配かけちゃったな」
私はスマホを出し、お父さんのスマホに電話をかけた。
ちょうどいま、向こうの国の空港で飛行機を待っていたところだったらしく、知らない言語のざわめきが聞こえる。
まずは無事だったこと、心配をかけてごめんねということ、そしてアマゾンの奥地の湖の探検を続けてほしいと伝えた。
いや、歌子が心配だ、とにかくまずは帰ると最初は言い張っていたお父さんとお母さんだったけれど……私は自分の言葉ではっきりと強く、私はもう大丈夫だから、お父さんとお母さんにはアマゾンの奥地の湖を発見してほしいの、と伝えた。
私もお姉ちゃんも寿太郎も、お父さんとお母さんの仕事を応援している。
普段はいっしょに過ごせなくても、私たちへの深い愛情を感じるお父さんとお母さんだからこそ、私たちも応援したいと思っているのだ。
途中で、お姉ちゃんが通話を替わった。
「お父さん、お母さん。歌子も、探検を続けてほしいって言ってることだし。私もついているし、大丈夫。歌子にはよく言い聞かせておくから――」
声を少し潜めて、お姉ちゃんは廊下へ出て行った。
説得してくれるのだろう。
私は立ったまま、そんなお姉ちゃんの後ろ姿を見送る。
星夜は、なにか妙に感心していた。
「貴様の両親は、探検家なのか」
「はい。世界じゅうを飛び回っていて。アマゾンとか、北極とか、聞いたこともない国とか、ほかにもいろんなところを、あちこち」
「ほう。人間にしては骨がある」
「どういう意味ですか?」
「人間は挑戦をしない生き物であると思っていたが、挑戦をする者もいるのだなと思ってな」
「……あのー、朝も思いましたけど。人間のこと、なんだと思ってるんですか?」
「二度、言わせるな。小狡く、嘘をつき、弱く、逃げる生き物だと言ったはずだ」
「みんな、そうであるわけじゃないですよ」
普通にしゃべっていたつもりだったのだけれど、気がつくと暮葉さんが顔をしかめている。
「星夜様に、本当に失礼な女だ。あのな。雨宮星夜様は、普通であれば一般庶民が気安くお話をできるような方ではないのだぞ。それを、星夜様のお慈悲があるからといって、調子に乗るではない。星夜様も星夜様です。そのような一般庶民の人間と、軽々しくお話をしないでいただきたいものです」
しかし星夜は、自信たっぷりに薄く笑った。
「暮葉、貴様、なにを申している? この者は、一般庶民の人間などではない――」
え?
「俺の、飼い犬だ」
……ああ、そういうことね。
お姉ちゃんが、戻ってくる。
「お父さんとお母さん、アマゾンの奥地の探検、続けるって。これからまた電波の入らないところに戻っちゃうから、歌子の元気な声が聞きたいって。話してあげて」
私は通話を替わり、お父さんとお母さんと言葉を交わした。
本当に気をつけてね、とお互い言い合って、通話を切る。
「お父さんとお母さん、ほんとにすごく心配してたよ。凶暴な獣に追われているときよりも生きた心地がしなかった、って。それと、寿太郎にも連絡しておいたから。すぐに返信きたよ。ばか歌子、今度新しいバット買え、って。あとで寿太郎にもお礼を言って、安心させてあげてね」
「ごめんね、ほんとに心配かけた……」
「帰ってきたからよかったけど。もう、ほんとにこれからは気をつけてね……それで、お待たせしました」
お姉ちゃんはダイニングテーブルの椅子に座り、星夜と暮葉さんと向き合う。
私も、お姉ちゃんの隣に座った。
「ご挨拶も充分にできなくて、申し訳ありません。改めまして、叶屋歌子の姉、叶屋舞子と申します。聞いてらっしゃったかもしれませんが、うちは父と母が不在がちで、私が普段は親代わりのような存在です。ですので、お話は充分に伺えるかと」
「話も何もない。結論から言う。こいつを、夜澄島に迎え入れる」
「ええと、それはつまり……どういうことでしょうか?」
お姉ちゃんは、突然言われて何が何だかって感じだった。
私の首輪も気になっているようだ……。
私は、お姉ちゃんにこれまで起こったことを説明した。
バイト帰りに犬に変身してしまって、交通事故に遭ったものの、星夜が助けてくれて。夜澄島で、可愛がられて過ごして。
人間のすがたに戻りはしたけれど、星夜は私を夜澄島に迎え入れるつもりなのだと。
鬼神族にとって私が有益な存在だから、という理由を、星夜は、やたらに強調した。
犬が好き、という話に触れようとすると途端に星夜の殺気が増すので、そこはスルーしてあげておいた。暮葉さんもスルーしてほしかったようだしね……。
お姉ちゃんはほとんど口を挟まず真剣に話を聞いていたけれど、説明がひと通り終わると、少し眉をひそめて口を開いた。
「……そうだったんですね。歌子を助けていただいたことは、心から感謝いたします……ぜひ、できる限りのお礼もさせてください。ですが……歌子を夜澄島に迎え入れる、というお話のほうは……」
お姉ちゃんは、言葉を選んでいるようだった。
「鬼神族のみなさまにとって、歌子が有益というのは……歌子が、呪い持ち、だからですか? 歌子がいると、あやかしである鬼神族のみなさんのお力が高まって、戦いに便利だから……でしょうか?」
「……そうだな。その通りだ」
星夜の答えは歯切れが悪かったけれど、お姉ちゃんは気がつかなかったようだった。
「歌子のこと。私、ずっと、お家のなかで守ってきたんです」
お姉ちゃんは、視線を伏せた。
「……ごめんなさい。少し、長い話になってしまうかもしれませんが。歌子が呪いを発動させたのは、十歳のとき……私は十七歳でした。呪いを発動させてからの歌子は、とってもつらそうで……あんなに活発で、学校に行ってお友達と遊ぶのが好きな子だったのに、呪いのせいで、外で遊んだりお友達と遊んだり、望むようにできなくなって。歌子の呪いをどうにかしたくて……私はお父さんとお母さんとも相談して、進路を全部変えたんです。歌子の呪いが解明できるような勉強をしよう、と」
星夜はお姉ちゃんの話をじっと聴いていた。私も、黙って聴いている……お姉ちゃんが自分の話をするのは、珍しかった。
私のために進路を変更していたことも、はじめて聞いた。
「大学では、民俗学を学びました。あやかし専門のゼミに入って、卒論ではあやかしと呪いの関係について研究しました。けど、いくら勉強しても勉強しても、結局……妹の呪いをなくしてあげられる方法は、わかりませんでした。尻尾のようなものは……いくつか、掴んだんですけれど」
「もしかして、呪い持ちはあやかしの力を高めるって突き止めたのも――お姉ちゃんなの?」
「私が突き止めたわけではないけれど……そうね、そういう資料を探すのは、けっこう骨が折れたかな」
暮葉さんが顔をしかめる。
「当然だ。我々あやかしでさえ、呪い持ちについては把握しているところが少ない」
お姉ちゃん……あっさりと言ったけれど。呪い持ちについて調べてくれたのって、相当すごいことなんじゃないのかな。
「……そうだったんだ。ありがとう、お姉ちゃん。私のために、進路まで変えて……」
「ううん。歌子のためだもの。それに、民俗学もあやかしの勉強も実際にやってみたらけっこう面白かったの。だから、歌子が気にすることは、なにもないから。……それで」
お姉ちゃんは真剣な顔になって、星夜に向き直る。
「どうして、こんなお話をしたかというと……私が歌子をどれだけ大事に想っているか、お伝えしたかったんです。歌子は、戦いを好むあなたがたにとっては力を高める道具なのかもしれません。でも、私にとっては大事な大事な妹なんです。あやかしのみなさまにお渡しするわけには、いきません。そうならないように――これまでずっと家で、大事に大事に、守ってきたんですから」
どうしますか、とでも言いたげに暮葉さんは星夜さんに目配せをした。
星夜は、重々しく――口を開く。