まずい。早く帰らなければ。

 陽の暮れかけている、人通りの少ない住宅街。
 規則的に並ぶ電柱、烏の鳴き声、(くれない)色が消えかけて宵の到来を告げる濃い藍色の空。
 パーカーのフードを深くかぶり直し、ジーンズの後ろと背中のあたりを気にしながら、私は呼吸も荒く、走って家を目指す。

 家までは、このまま頑張って走ってあと数分というところだろう。
 ……頭とお尻に、もさっとした感覚がある。

 こんな秘密、バレたらどうなるか。
 だれにも見られてはならない。
 重々、わかっているのに――迂闊だった。

 今日は、浅草橋(あさくさばし)駅前のCDショップでやっているバイトの日だった。
 午後四時の退勤の時間が近づいてきたころ。
 バイト先の先輩に、どうしても今日だけ代わりに少し残れないか、今日はたまたま家に親がいないのに小学生の幼い妹が熱を出してすぐに帰らなきゃなんだ、と必死で頼まれて、ついオッケーしてしまった。

 わけあってシフトに融通が利かない私のぶん、いつもシフトに出てくれている先輩だから、こちらもたまには役に立たなければいけないと思って、引き受けてしまったのだ。

 ありがとうありがとうと繰り返し言いながら先輩が早退したあと、お店の制服の帽子を注意深くかぶり直して、遅番のひとが来るまで私は空いた一時間を埋めた。
 五時までならば大丈夫、という計算だった。

 しかし偶然は重なる。
 遅番のひとが、電車遅延で遅刻すると連絡があったのだ。

 近頃ニュースで話題の、夜澄島(やずみとう)の鬼神の一族と、神参山(しんざんやま)の天狗の一族の争いが激化した影響での、電車遅延。
 総武(そうぶ)線各駅停車に乗っていた鬼神族のひとりを、飯田橋(いいだばし)駅で数名の天狗たちが奇襲。
 天狗たちは「怪異(かいい)人間和平条約」に基づいて、人間たちに対しては結界を張ったので人的被害はなかったものの、電車の車体は破損して、交通網はもうめちゃくちゃ。
 首都圏の交通網はいつ動き出すかわからない。

 まったくもって、現代に至っても、怪異――いわゆる、あやかしたちは元気だ。
 ひとを超えた力を持つ、ひとならざるものたち。

 あやかしたちが表舞台に出てきて独自の社会を築きはじめたのは、明治維新後しばらくしてから。
 それからずっと、人間社会とあやかしたちの社会は共存してきた――人間側の努力の結果、今はあやかしたちとはどうにか上手いことやっているけれど、こうなるまでには大変だったと人間ならだれしも歴史の授業で教わる。

 あやかしにもあやかしの勢力図や権力争いがあるようで、たまにこうして、あやかしの一族同士が戦争のようになる。
 なかでもよく話題になるのは、鬼神族。

 あやかしのなかでも最上位に力の強い存在である彼らは、あやかし社会だけではなく、人間社会においても絶大な影響力と権力、地位や富を持っている。

 そのなかでも有名なのが、鬼神族の若き長、雨宮(あまみや)星夜(せいや)
 時事ネタには疎い私ですら、よく知っている。
 堂々とした態度と容赦のない戦略は、社会問題にもなれば、時に熱烈な憧れの的にもなる――「黒き修羅」と異名がつくほどに。

 雨宮星夜は、昨日も天狗の一族との争いについて、状況説明をするための記者会見を開いていた。

『争いは避けられない』

 静かなのに鬼気迫る、もちろん目には見えないけれどもたとえるならば黒くて紅い、そんなオーラを滲ませて――彼は、厳かに言っていた。

 彼は格好いいというか、それ以上に――人間離れした、美しい容姿をしている。
 紅い瞳はまるで宝石のように輝き、見る者を圧倒する。長く艶やかな黒髪は肩にかかり、その動きは風に揺れるかのよう。肌は雪のように白く、ふれたら冷たさを感じるかのように透き通っている。
 細身でありながらも、強さを秘めた体つき。全体的にシャープな顔立ちで、特に高い頬骨が彼の凛々しさを一層引き立てている。

 ひそかなファンも多いという。
 黒き修羅、鬼神族の若き長。堂々としていて容赦がなく、そのうえ、あの美貌。
 ……色恋沙汰とは一向に縁がないといえ、私もいちおう女子だ。憧れる気持ちも、わからないでもない。

 ……まあ。
 そもそも鬼神の長どころか、あやかしという存在自体が、私のような平凡な人間にとっては、雲の上の話。日常を過ごす上では、ほとんど関係ない……今日のような電車遅延とかを別にすれば。

 平凡な人間、というのは……私の持つ、とある不本意な呪いを除けば、ということだけれども。