初めての給料日から数週間経ったある日の朝、ヒカリは始業時間前に仕事の準備をしていた。そこへマリーがやってきた。

「ヒカリ! ちょっといいかしら?」

 マリーが声をかけてきた。

「あ、はい!」

 ヒカリは立ち上がりマリーの正面に立った。

「今日は、ばら園の方の手伝いをしてきてちょうだい。急に従業員が休んじゃって困ってるから」

 マリーはそう言った。

「そうなんですね。わかりました!」

 ヒカリは元気よく返事をした。

「ということでシホ! ヒカリは、ばら園に回すからね!」

 マリーはシホに声をかけた。

「はい! わかりました!」

 シホはマリーに返事をする。

 ヒカリはシホと受付の仕事の引継ぎを済ませた後、ばら園へ向かった。しばらく歩いて、ばら園に着いたものの、誰に話をしたらいいのかわからなくて困ってしまった。あたふたしながら周りを見渡していると、奥の方にばら園のスタッフがいたので、近づいて話しかけた。

「おはようございます! マリーさんに言われてお手伝いにきました!」

 ヒカリが話しかけたのは、かのやばら園と書かれた緑のメッシュキャップとポロシャツ、ベージュのズボンに白い軍手と黒の長靴を身につけた若い女性だった。こんがり日焼けしていて元気な笑顔が特徴的な人だ。

「あら、新人さんね! えっと、名前はたしか…………」

 その女性はヒカリの名前を思い出そうとしていたが、なかなか思い出せない様子だ。

「ヒカリです!」

 ヒカリは自分の名前を伝えた。

「そうそう、ヒカリちゃん! ごめんねー! 花の名前は覚えられるんだけど、人の名前はどうも覚えるのが苦手で! ははは!」

 その女性は元気に明るくはきはきと言った。きっとこの人は、とんでもなく花が大好きな人なのだろう。

「私の名前はカスミ! 今日は急に来れなくなった従業員さんがいて困ってたんだ! すごく助かるよ!」

 カスミはとにかく元気に話す。

「でも、私、薔薇の手入れとかしたことないんですけど、大丈夫ですか?」

 ヒカリは心配になってカスミに質問した。

「まぁ、ベテランのハナさんと一緒だから、指示に従って作業してもらえれば問題ないよ!」

 カスミはそう言った。

「ハナさん?」

 ヒカリはもちろん誰がハナさんなのかもわかっていないので、気になってつぶやく。

「あっ、ちょうど来た! ハナさーん!」

 カスミがヒカリの後ろの方を見て手を振る。

「なんよー」

 その声が聞こえて、ヒカリが後ろを振り向くと、一人のお婆さんがキャリーカートを押しながら、ゆっくりと近づいてきていた。頭に白い手拭いをかぶり、花柄の割烹着とズボンを身につけ、腕にはアームカバーをし、黒い長靴を履いている。おそらくこの方がハナさんなのだろう。

「この子がお手伝いのヒカリちゃん!」

 カスミがハナにヒカリのことを紹介する。やはり、ハナさんはこのお婆さんだった。

「よろしくお願いします!」

 ヒカリはハナに頭を下げて挨拶をした。

「えぇ」

 ハナは少し微笑んでそう言った。

「それじゃ、今日も一日頑張っていきましょう!」

 カスミは拳を突き上げながら元気よく言った。

「あっ。……おー!」

 ヒカリもカスミに合わせて慌てて同じポーズをとった。

「おう!」

 ハナも同じように拳を突き上げようとしているのだろうが、あまり腕が上がらない感じだった。それでも少し笑っていたようだ。



 それから、ヒカリもカスミと同じ服装に着替えた後、ばら園の手入れ作業を始めた。

「まずは、水やりをすっど」

 ハナがホースの付いている水道を指差しながら、ヒカリに声をかける。やはり、ハナは鹿児島の生活が長いのだろう、基本的に鹿児島弁を話すようだ。

「はい!」

 ヒカリは元気よく返事をしてホースを手に取る。

「婆ちゃんが言ったところだけ、かけていって」

 ハナはそう言って水をかける場所を細かく指示した。それに合わせてヒカリは水をかけていく。

「どこでも水をあげていいわけではないんですね!」

 ヒカリはハナに話しかける。

「そりゃそうよ! 水を欲しがってるところにはたくさん。そうじゃないところにはそれなりよ」

 ハナはそう言った。

「へぇー。でも、それをどうやって見分けるんですか?」

 ヒカリは気になって質問した。

「ふふふ」

 ハナは含み笑いをした。

「あー! ハナさん! 意地悪しないでくださいよー!」

ヒカリは急にハナがお茶目な行動をとったので、それが面白く感じた。

「ほっほっほっ」

 ハナもなんとなく楽しそうに見えた。

「ふふ……。もう!」

 ヒカリは笑いながら言った。それから、しばらく作業をした後、ハナがヒカリに話しかける。

「お嬢ちゃん。疲れんかよ? いったん休憩すっど」

 ハナはヒカリにいったん休憩だと伝え、木陰のベンチに向かって歩いていく。

「……はい!」

 ヒカリは頬をつたう汗を、首にかけてあるタオルで拭きながら返事をした。ハナの後をついていき、木陰のベンチに座る。ハナがキャリーカートから水筒とコップ、さらにはお菓子をいくつか取り出した。

「はぁ。すっごく汗かきました」

 ヒカリは全身汗だくになっていた。タオルで顔の汗を拭きながら、メッシュキャップを外す。

「麦茶でよかけ? まぁ、麦茶しか持ってきとらんけどね。ふふ」

 ハナは麦茶をコップに入れてヒカリに渡した。

「ありがとうございます! ……いただきます!」 

 ヒカリはそう言って麦茶を飲んだ。氷で冷たくなっている麦茶がとても気持ちよく、乾いた喉を潤してくれた。

「お菓子もあるから、適当につままんか」

 ハナはお菓子も好きに食べてよいと言った。

「えー! 嬉しい! ありがとうございます!」

 ヒカリはお菓子まで貰えたので嬉しかった。

「こげん天気のよか日は、麦茶とお菓子でピクニックよ! ふふふ」

 ハナは楽しそうにそう言った。

「なんかいいですね。薔薇に囲まれてお茶ができるなんて」

 ヒカリは目の前に広がる薔薇の景色を見ながらそう言った。よく考えてみれば、こんなにも素敵な環境でお茶ができるというのは、すごく幸せなことだと思う。

「あんたの髪留めを見ると、昔のことを思い出すがよ」

 ハナはヒカリの薔薇を模した髪留めを見ながら言う。

「このマリーさんから貰った髪留めですか?」

 ヒカリは髪をほどいて髪留めを手に取り、ハナに見せる。

「……せっかくだから、ちょっとだけ婆ちゃんが昔話をしてあげるが」

 ハナはヒカリの手の上にある髪留めを見て、少しだけ何かを考えているような表情を見せた後、そう言った。

「昔話?」

 ヒカリは少し首を傾げた。その後、少しだけ沈黙が流れた。その間、ハナは遠くの薔薇を見ているようだった。

「……あるところに、一人の魔女がおったとよ。その魔女は、魔法使いの世界で、最強の魔女と呼ばれるほどの魔力の持主だったそうだ」

 ハナは昔話を始めたようだ。

「最強の魔女? マリーさんのことですか?」

 ヒカリはすごく気になり質問した。

「そうよ。……当時十七歳のマリーちゃんは、すでに最強の魔女と呼ばれるほどの魔女になっていてね。でも、マリーちゃんは自分のやりたいこともわからなくて、人生がすごくつまらないものだと感じていたのよ。だから、それをどうにか変えたいと思って、本当に自分がやりたいことを探すための旅に出たわけよ。それから――」

 ハナはどこか遠くを見つめながら話し続ける。