「菊川くん、上見て」
唐突に、彼女が言った。
「上?」
「うん。空、見てみて」
彼女が見上げている空を、ぼくも一緒に見上げてみるけれど、あるのはいつもどおりの空だ。
満月から少し欠けた月、雲はほとんどなく、濃紺のドームに閉じ込められている。
「とくになにもないように見えるけど」
ぼくが空を見上げたまま答えると、彼女はふふん、と得意げに笑って言った。
「菊川くんはまだまだだね」
「まだまだって、なにが」
「月が綺麗ですね、とか言えないの?」
「そりゃあ、月は綺麗だけどいつものことだし」
ぼくが答えると、彼女は呆れたという顔でぼくを見る。
「夏目漱石」
彼女はぼくをじっと見つめて言った。美人は得だ。月明かりの下で誰かを見つめるだけで、こんなにも人をどきどきさせられるのだから。
「夏目漱石?」
「わかんないの? 家に帰ってから調べなさい」
最音さんがぴしゃりとぼくに言う。夏目漱石? 『坊ちゃん』しか知らない。
「わかった。調べるよ」
ぼくは仕方なくそう答える。夜風が気持ちよく吹いた。最音さんの髪が流れる。
「同じクラスの男女ふたりが、一緒に月を見ながら歩くなんてことはそうそうない。今、わたしたちすごく特別な体験をしてるんだよ。これは記念すべき日だから、今日のこの空を、写真に撮っておくべきだと思う」
最音さんが珍しくおかしなことを言っている。