1   立てば芍薬


 ぼくにとって彼女が気になる存在になったのは、彼女が誰もが振り向くような美人でスタイル抜群だからでも、彼女の成績が学年トップだからでもなかった。
 
 ぼくが初めて彼女と渡り廊下ですれ違ったとき、思わず振り向いてしまったのは、彼女の香りのせいだった。

 彼女からは本物の、生花の香りがしたのだ。

 それは例えば体につけた香水や、よくあるオーデコロンやボディースプレーの香りとは、似ているようでいてまったく違う。

 その香りは入荷して間もないバラのフレッシュな香りそのものであり、また、開き始めたユリの豊潤な香りそのものであり、それでいて瑞々しいスイートピーの香りにも、甘くむせかえるようなクチナシの花の香りにも似ていた。

 それはぼく以外の人間にはわからない、ほんとうに微かな香りではあったのだが、例えば自宅に到着する百メートル以上手前で本日の夕飯を的中させるほどの嗅覚を持つぼくにとっては、振り返らずにいられないほどに強い香りだったのだ。

 振り返ったぼくと、なぜか同時に振り返った彼女は一瞬、目が合いお互いに歩みを止めた。

 菜の花が生い茂る、中庭に面した渡り廊下。昼休みの穏やかな空気の中で、そのとき彼女がほんの少し、口角を上げて微笑んだように見えた。

 温かい風は長い髪をさらさらとなびかせ、彼女の香りを運んでくる。

 人生初。鳥肌どころではなかった。しいていうならハリネズミ肌。
 一目惚れ、というロマンチックな単語はそれこそ何度も聞いたことがあるけれど、一嗅ぎ惚れ、というのは聞いたことがない。でもこのときの現象を、他にどう表現すればいいのかぼくにはわからない。とにかくぼくは、そうなった。

「え、なに」

 一瞬、ほんの一瞬だけ微笑んだように見えた彼女が言葉を発したその瞬間、ぼくは我に返った。
 彼女は微笑んでなんていなかった。怪訝な表情をこちらに向けて、ぼくに向かって、なに見てるの? と言っているのだった。

 ぼくの隣で、マスタードくさいハムマヨサンドをかじりながら歩いていた、幼なじみで同級生の剛が、肘でぼくのことを小突いている。

 小声で

「おい、あれ、最音莉愛(さいね りあ)じゃん」と言いながら。

「あ、ごめん、なにも」

 なにも、というのはもちろんとっさについてしまった嘘で、ぼくはつまり、正直にいえば彼女に、すっかり見惚れていたのだった。

香りのほうに先に反応してしまったものだから、彼女の美貌に気付くのがワンテンポ遅れてしまったみたいだ。

「ふうん、あ、そう」

 つまらなそうにぼくに言った彼女は、そのまますぐに、ぼくと剛に背を向け歩きだした。

背筋はすっと伸びており、後ろ姿は凛として、地面から浮かんでいるみたいに軽やかに歩く彼女の両脚は白く、とても細かった。

 彼女の歩くスピードにあわせて揺れる黒髪は中庭の日光を浴びて艶めいていた。あの後ろ姿には、大和撫子という言葉がぴったりだ。