「それでは今日の実習は洋菓子の基本中の基本について勉強します。」

「各自、教科書のレシピを参照しながら作業を進めてください」
美月は洋菓子専門学校の実習に励んでいた。
レシピ通りの分量を計量してボールに入れてミキサーをかけた。

不意に美月のコックコートに生クリームがかかった。
「あっ、ごめん、、」
隣の生徒の男の子が勢いよくミキサーをかけすぎたせいで美月の服に生クリームがべったりと着いてしまった。
「ごめん、、洗って返すから。」

 その生徒は三木裕哉だった。
入学当初から学校で一人浮いていた。
覚えが悪く、落ちこぼれの生徒だった。
「本当にごめんな」
裕哉は申し訳なさそうに美月に詫びた。

「良いよ。気にしないで。大丈夫だから」
美月は笑顔を見せて服に着いた生クリームをティッシュで拭いた。
「はい。これで元通り」
「そこの二人!授業に集中しなさい」
講師に咎められ、二人は謝った。

 授業の帰り道、美月は裕哉と帰っていた。

「さっきはごめんね。僕、この勉強無理かも知れない、、ははは」
悪びれて笑う裕哉はいつの日かの涼介と重なった。
「まだ、決めつけるのは早いよ。これからだよ」
「それじゃ、また明日!」
「ありがとう。それじゃ!」

 次の日、裕哉は学校に来なかった。
美月は心の何処かで裕哉を心配していた。

 日曜日、美月は彩の店を手伝っていた。
「美月ちゃん、ごめんなさいね。忙しくて」
「全然へーきですよ。むしろなんか、楽しいです」
美月は満面の笑みを見せた。
夕方の特にお客さんが混む時間帯だった。
ひとしきりお客さんが途切れたところでお店の入り口のチャイムがなった。

「カランコロン」
「いらっしゃいま、、せ」
美月が振り返ると入り口には同じようにびっくりしていた裕哉がいた。

「あっ、矢野さん、、ここでバイトしてたんだ」

裕哉は気まずい様子だった。
しばらくの沈黙が流れた。

「昨日、雑誌を見てたらおススメのケーキ屋さん特集でここのお店が紹介されてて、、だから、少し遠かったけど来たんだ」
あまりの裕哉の慌てように美月はクスクスと笑いだした。

「別にお客さんなんだからそんなに慌てなくても大丈夫だよ。いらっしゃいませ。ご注文は何になさいますか?」
美月は戯けてみせた。

「あっ、そっか。ははは」
裕哉もようやく笑顔を見せた。
「それじゃ、苺のショートケーキとマスカットのムースケーキをお願いします」

「お待たせしましたー」
美月は手際良くケーキを包むと裕哉に差し出した。900円になります。
「ありがとう。」
裕哉は笑顔で受け取ると店を出ようとした。
「裕哉くん!一昨日学校休んだでしょ。ちゃんと来なきゃダメだよ」
美月は裕哉に笑顔を向けた。
「うん。ありがとう。また学校で、、」
裕哉はもう一度、美月に微笑むと店を出て行った。

 「学校の同級生?」
店の奥から彩が顔を覗かせた。
「はい。学校の同級生なんですけど最近、学校休んでて。心配なんです」
美月が不安そうな表情を覗かせると「一緒に頑張ってあげてね」そう言うと彩はニコリと笑った。

 しかし、翌週も裕哉は学校に来なかった。
学校の昼休みに同級生たちが噂していた。

「裕哉、学校辞めるかもだって、、」
「そうなの?頑張ってたのにね、、」
皆口々にそんなことを話していた。
授業を終えて美月は家路についた。
「裕哉くん、大丈夫かな、、」
そんなことを美月は考えていた。

学校を出て天神の街を歩いていると不意に後ろから美月を呼ぶ声が聞こえた。そこには裕哉が立っていた。

「裕哉くん、どうしたの?」
美月は驚いた。
それと同時に怒りとも悲しみとも言えない感情を抱いていた。
「これ、、新品のコックコート、、この前服汚しちゃったから、、」
裕哉は美月の目を見れず服の入った紙袋を渡した。

「それじゃ、、」
裕哉が走り去ろうとするのを美月は呼び止めた。
「裕哉くん!そんなの良いから学校どうするの?」
美月は悲しげに問い詰めた。裕哉は足を止めて振り返った。

「ごめん、、僕、学校辞めようと思ってる、、学校辞めて佐賀に帰ろうと思ってる」そう言うのが精一杯だった。うなだれる裕哉に美月は少し呼吸を置いて優しい眼差しで語りかけた。

「裕哉くん、私たちパティシェになりたくてこの学校に来たんじゃない。最後まで頑張ろうよ」

 裕哉の肩は小さく震えていた。
「まだ、始まったばかりじゃない。そんなに簡単に夢を諦めちゃダメだよ、、せっかく頑張ってたのに、、」
いつの間にか美月も涙目になっていた。美月は同じ夢を持った仲間をなんとか勇気づけたかった。

「ね? あともう少しだけ頑張ってみよ」
そう言って裕哉を励ました。すると裕哉はしばらく考えていたが少し表情を崩して美月に言った。

「矢野さん、ありがとう。分かったよ。何処までやれるか分からないけどもう少しだけ頑張ってみるよ」
裕哉はそう言うと美月に精一杯の笑顔を見せた。

 それから二人は並んで天神の街を歩いた。
天神の雑踏の中をしばらく無言で歩いた。
すると沈黙に耐えきれず裕哉はおもむろに話し出した。

「僕の家、代々続く洋菓子店で小さい頃からケーキが大好きだったんだ、、母親が誕生日に焼いてくれるケーキがすごく美味しくて小さい頃から家を継ぐものだと思ってた。下は妹たちで継げるのは僕だけだったから、、期待されて佐賀の家から出てきたんだ。」

「だけど、学校に来てみると全然レベルが違ってて正直焦ったんだ。毎日実習で失敗するし、向いてないと思った、、」
裕哉は一言一言噛み締めるように美月に言った。

「矢野さんにクリームをかけてしまって申し訳なくてそれで辞めようと思ったんだ」
「それに、、」

「それに?」
美月が聞き返すと裕哉は焦ったが「いや、何でもないよ。矢野さん、ありがとう。頑張るね」
そう言うと美月に手を振り電車のある駅の方角に歩いて行った。

「全く、、」
美月は呆れたが半分安心していた。
紙袋の中を見ると新品のコックコートが綺麗に入れられていた。
 
 美月は家路を急ぐためにバス停に向かった。
バスの車内から流れてゆく景色を眺めていた。
「裕哉くん頑張ってくれると良いな。」
漠然とそんなことを考えていた。

◇◇◇◇

 その日、涼介は神保町の古書店に向かっていた。
小雨の降る中、古書『たにがわ』に入った。その店は先日涼介が美月との思い出の本を買った書店だった。
上司の杉崎に言われ絶版になった仕事の資料を探しに来ていた。

 店に入って店内を見渡すと先日、涼介に声をかけてくれた女性店員は居なかった。
少し寂しく思ったが杉崎に言われた本を探していた。
「やっぱり、ここにもないか、、」
涼介が店を出ようと諦めかけていると、後ろから誰かが本が差し出した。

「これですか?」
振り返ると先日の女性店員が微笑んでいた。
「え?」
涼介が驚いているとその手には涼介が探していた本が差し出されていた。
左手には畳まれた傘が持たれていた。

「あ、これ。小雨が降っていたので、、」
そう言いながら女性店員は白く曇り雨に濡れた眼鏡を取った。その顔は先日とは全く違う印象の白く綺麗な顔立ちの優しい顔だった。

「あ、いや。そうじゃなくて、どうしてこの本って分かったの?」

女性店員は涼介が持っていた、メモを指差した。
「そのメモですよ」涼介は頭をかいた。
「あっ、これか、、」
「それだけ大きく書いてあったらすぐ分かります」女性店員はふふふと笑った。
「あ、、そう言えば先日はありがとう。あんな風に言ってくれてすごく嬉しかった」

「あ、そう言えばお名前なんて言うのかな?何て言うか、、その同じ本が好きな人の名前が知りたくて、、」
「詩織です。詩を織ると書いて詩織です」
「両親も本が大好きでしたから、、」
詩織は嬉しそうに微笑んだ。

「あ、お仕事とは関係ないかもしれないですがこちらの本もおススメですよ」
詩織は一冊の文庫本を涼介に持たせた。

「私が一番好きな本なんです」
そこには涼介も知っている本のタイトルが記されていた。
「良かったら、読んでみてください。」
「ありがとう、、それじゃ、この2冊ください」
「はい」
詩織は丁寧に包装紙に包んで濡れないように紙袋に本を入れて涼介に手渡した。

「あの、、感想聞かせてくださいね、、それと良かったらお名前、、聞いてもいいですか?」

「涼介だよ。相沢涼介」
「詩織さんは?」
「上条、、上条詩織です」

「ありがとう。必ず勧めてくれた本の感想伝えにくるから、、」
涼介はニコッと笑うと傘をさして店を後にした。紙袋から詩織の温もりが伝わって来るような気がしていた。
「優しい人だな、、」
涼介はそんなことを思っていた。

 駅に急ぐ涼介の携帯が鳴った。
急ぐ足で携帯の画面を見ると美月からのメッセージだった。
「涼ちゃん! もうすぐクリスマスだね。クリスマスには涼介に会いに東京まで行くよ。楽しみにしててよね。美月」

涼介は温かい気持ちになり、携帯を閉じて電車に飛び乗った。
「5番線電車が出発します!」ホームのアナウンスが流れると神保町の街並みがゆっくりと遠ざかっていった。
車内は比較的空いていたが涼介は窓側に立って過ぎて行く街並みを見つめていた。

◇◇◇◇

やがて東京に来て最初の冬がやってきていた。

「涼ちゃん。涼ちゃん。私のこと忘れないでね、、」

「忘れないでね、、」

涼介はうなされて目が覚めた。
時計を見ると夜中の2時を回った所だった。
「夢か、、」
涼介は最近美月の夢ばかりみていた。
キッチンに行きコップ一杯の水を飲んだ。

 本棚を見ると変わらない美月の笑顔があった。涼介は何故か美月のことを遠い記憶のように感じていた。自分でも分からなかったがその時の涼介にはそう感じられた。

「変な夢だな、、」
涼介は美月の写真を見つめていた。

「美月、、」

 ふと、涼介がその横を見ると詩織に勧められて買った文庫本が置かれていた。
涼介はその本を手に取って1ページ目を開いた。

 結局、涼介はそのままその本を読み終えていた。本の最後のページを読み終えて静かに本を閉じた。涼介の胸は感動で胸がいっぱいになっていた。朝日が眩しく、鳥の鳴き声が聴こえていた。涼介はその本を大切に本棚に仕舞った。

 窓を開けて外の空気を吸った。
ひんやりとした冷たさと心地よさが涼介を満たした。朝の光は白く優しくキラキラと輝いていた。

 涼介は机の上のカレンダーを捲った。

「12月か、、」

涼介は東京に来てからの日々を思い返していた。無我夢中でやってきたがそれは美月のいる福岡を離れて半年以上も経ったことを意味していた。涼介は12月24日にペンで丸をつけた。

 久しぶりに美月に会える喜びとほんの少しの不安を感じていた。
「美月ちゃんと来てくれるかな、、」
そんなことを思っていた。

 それからひと月ほどがたち12月24日のクリスマス・イヴになった。

涼介は東京駅まで美月を迎えに行った。
新幹線のホームで待っていると15時着の新幹線がゆっくりとホームに入って来た。

涼介は降りて来る人の中に美月を探した。
「あれ、美月がいない、、」
涼介が困惑していると後ろから涼介を呼ぶ声が聞こえた。

「涼ちゃん!」

そこには荷物を沢山抱えた美月が笑顔で立っていた。
「美月!」
涼介は駆け寄って美月を抱きしめた。
「涼ちゃん、、会いたかった、、」
美月の目には涙が浮かんでいた。

8ヶ月振りに見る美月は更に美しくなっていた。
美月の横顔が埋もれるほど涼介は強く美月を抱きしめた。

「涼ちゃん、涼ちゃん。ちょっと苦しいよ」
「あっ、ごめん」
美月の荷物を持ち涼介と美月はホームを歩いた。

 しばらく無言で歩いたがそれは二人の空白の時間を埋めるようだった。
「元気そうだな」
涼介は笑った。
「涼ちゃんも、、」
美月は満面の笑顔を見せた。

 改札を出て電車を乗り継いで涼介の住んでいる街、桜新町に着いた。

「ごめんな。車持ってなくて、、」
涼介は美月に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

「ぜーんぜんへいき。それより、やっと来れて嬉しいな」
美月は本当に嬉しそうだった。
街はクリスマス一色で街全体が大きなイルミネーションのようだった。
涼介と美月はマンションへの途中、スーパーにより、チキンと安いシャンパンを買った。

 「へ〜ここが東京なんだね、、」
美月は終始、興味深そうだった。
「でも、良いとこだね。何だか安心したな。」
駅から数分歩いて路地を曲がり小さなマンションに着いた。
涼介は急いで部屋に上がり、電気と暖房をつけた。

 「とりあえず座ってよ。」
「お邪魔しまーす。」
美月は嬉しそうに部屋を見渡していた。
涼介はホットコーヒーを入れて美月に差し出した。
美月はフーフーとしながらコーヒーを飲んだ。

「とりあえず乾杯な。」
買ってきたチキンをテーブルに置いて涼介はシャンパンの封を開けて二人分注いだ。
「カンパーイ!」グラスを傾けると美月はひとくち口に含んだ。

「美味しいね」
「美味しいな」

 すると美月は袋に入った大きな箱を取り出した。
「ちょっと待ってて!」
そう言うと美月は箱から取り出したケーキをカットしていた。
ケーキを皿に盛って美月はテーブルの上に置いた。

 それは小さな苺のホールケーキだった。
「じゃーん!涼ちゃん苺のショートケーキ好きでしょ。だから朝早く起きて作ってきたんだ」美月はニコニコとしていた。
少し小さかったが豪華なクリスマスケーキだった。

「凄いね。こんなの作れるようになったの?」
涼介は驚いていた。
美月は本当に嬉しそうだった。

「食べよ。食べよ」
美月が涼介を促すと二人は「頂きます!」と同時に言ってケーキを頬張った。

「涼ちゃん、口にクリームついてるよ」
美月は涼介の口についたクリームを手でとって食べた。

「涼ちゃん、変わらないね」
「そうかなぁ、、」
「そうだよ。全然変わらない」
二人は目を合わせて笑った。
二人は視線が重なると見つめ合いキスをした。

それから涼介と美月はお互いを求めあった。
ただ空白の時間を埋めるようにー

 翌日、涼介が目を覚ますと美月は先に起きて帰る準備をはじめていた。

「もう帰るの?」
涼介は寂しげに聞いた。
「うん。ほんとはもっと居たいけど帰って彩さんのお店を手伝わないといけないんだ。昨日も無理言ってお休みもらって来たんだ」
美月も寂しそうだった。

「ごめんね。涼ちゃん、、やっと会えたのに、、」
「いや、良いんだ。帰って彩さんのお店手伝ってあげてな。クリスマスだから忙しいだろうから、、」

 涼介は温かい笑顔を美月に向けていた。
「美月ありがとな」
涼介は心からの感謝を美月に伝えた。
「東京駅まで送って行くよ」
涼介は微笑んだ。

「うん。ありがとう」
「今、福岡への転勤願い出してるから春には帰れると思うから、、」
「涼ちゃん、、」
二人は再びキスを交わした。

「私も来年の春に学校卒業したら彩さんのお店でそのままパティシェとして働かせてもらうんだ、、」

「そっか、、また春に会おうな」
「涼ちゃん、、約束だよ」

 駅に向かう二人は終始無言だった。
街は昨日と変わらずクリスマス一色に染められていた。電車を乗り継ぎ東京駅の新幹線のホームに着いた。やがて、福岡行きの新幹線が静かにホームに着いた。

「涼ちゃんまた、、」

美月が新幹線に乗り込もうとした直前に涼介は美月を抱きしめた。

「美月、また春に会おうな、、」

やがて出発のベルが鳴った。
美月は新幹線に乗り込むと扉の中から涼介を見つめていた。

「涼ちゃん!」

美月の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちていた。

「愛してる、、」

手を振る美月に涼介も手を振り続けた。
徐々に美月の姿が小さくなっていった。

やがて美月を乗せた新幹線はゆっくりと見えなくなって行ったー

「美月、またな、、」

涼介はこぼれ落ちそうになる涙を必死に堪えた。
涼介には美月がどこか遠い遠い所に行ってしまうような気がしていた。