家族に文句を言われないように凛が念入りに洗い上げたはずの洗濯物は、無残に庭先に散乱していた。
その中の一枚をこれ見よがしに踏みつけながら、凛の二歳下の妹である蘭がほくそ笑む。
「あーあ、汚れちゃったわね。もう一回洗い直して、さっさと干してよね」
「…………」
時間をかけて綺麗に洗い上げた洗濯物の変わり果てた姿に、凛は思わず言葉を失ってしまう。しかし……。
「なによ、返事は」
「……はい」
凛はやっとのことで声を絞り出した。
十歳の凛にとって、家族四人分の洗濯はなかなかの重労働だった。
洗濯機を回すだけの作業ではないのだ。母や妹のお洒落着は丁寧に手洗いをして陰干しし、靴下などの汚れやすい衣類は、余洗いで汚れを浮かせてから洗濯機に入れないといけない。
手順をひとつでも忘れたり誤ったりしたら、家族に恫喝され、食事も抜かれてしまうのだ。
だからいつも通り、丁寧に確認しながら凛は洗濯を進めた。
あとは籠の中に山盛りになった洗濯物たちを、庭の物干しざおに干すだけだった。
しかし、蘭の気まぐれによって洗濯籠はひっくり返されてしまった。数々の洗濯物は洗う前よりも汚されてしまい、一からやり直さなければならない。
――早くしないと。
蘭のこんな行動はよくあることだった。理不尽とは思わない。家族からどんな仕打ちをされようとも、そう思ったことなどいまだかつてない。
生まれながらにして家族に迷惑をかけている自分は、そうされて当たり前なのだ。
洗濯物を拾い集めていたら、庭の隅で赤黒いなにかが動いたように見えた。
気になって、それが見えた場所へと凛は近づいたが、そこには誰の姿もなかった。見間違いかと、すぐに作業に戻ろうとする。
しかし立ち去る間際に、それを発見した。
「花……?」
紫やピンク、白の花が束になって置かれている。花の直径は、どれもだいたい五センチくらいだろうか。茎は十センチほどの長さに切り揃えられていた。
明らかに人の手によるものだった。誰かが花を摘み取り、束にしてこの場所に置いたのだ。
――いったい誰が? なんのためにここに花を置いたのだろう。
「確か、桔梗……だったかな」
この辺で自生していて、よく見る花だったので知っていた。
星のような形の愛らしい花弁。浴衣や着物の柄でも定番であるため、控えめな和の印象があるが、とても美しくかわいらしい花だと思う。
凛は花束を手に取った。どこか優しくさわやかな香りが鼻腔をくすぐる。その匂いと花の美しさは、凛に清々しさをもたらした。
まるで凛の陰鬱な気持ちを浄化させてくれるような、安らぎを与えてくれるような。
しばらくの間、洗濯のことも忘れてただじっと桔梗に見入っていると。
「ちょっと! なにサボってんのよ!」
家の中から金切り声が響いてきて、びくりと身を震わせる。
吐き出し窓から蘭が身を乗り出して、忌々しげに凛を睨みつけていた。
「す、すみません……!」
凛は慌ててそう言うと、洗濯物が散乱している場所へと駆け戻る。
桔梗の花束たちは、エプロンの大きな前ポケットに慌てて入れてしまった。
結局その後、洗濯を終えるのが遅かったという理由で食事は抜かれてしまった。
しかし凛はさほど落ち込まなかった。
日常茶飯事だからという理由ももちろんあったが、桔梗の花束を眺めると、空腹も虚しさも、その時だけ忘れることができたのだ。
しかし家族に見つかったら捨てられてしまうので、花瓶に飾ることなどは叶わない。ポケットに忍ばせておいた桔梗はすぐに枯れてしまった。
なぜかその時、凛は生まれて初めて深い喪失感を味わったのだった。
婚礼衣装の色打掛は、想像以上に重かった。
しかも、足場がデコボコしている洞窟の中。先ほど着付け師から歩き方をレクチャーされたけれど、話半分に聞いていた凛はうまく歩けない。
――確か、かかとは開いてつま先は閉じて、すり足気味に歩くんだったかな。
そんなことを言われたのを思い出して歩いたら、幾分かスムーズに進めるようになった。
他にも美しく見えるようにするにはとか、花嫁らしい楚々とした姿勢とは、なんて話もされたような気がする。
だけど、凛にとってはどうでもよかった。今日で使命を終える自分がどう見られたって、今さら大した問題ではない。
洞窟はちゃちなライトが数メートル置きに天井から吊るされているだけで、薄暗い。滅多に人の往来のない場所だから仕方がないだろう。
ここは、人間が住む国と、あやかしが住まう国をつなぐ通路のひとつだった。
二十歳を迎えたばかりの凛は今日、鬼の若殿の花嫁となる。
しかし花嫁とは名ばかりで、実際は生贄も同然だった。凛のような立場の者を、『生贄花嫁』と呼ぶのも人間界では通例となっている。
凛は百年に一度の頻度で人間の女性から生まれる、非常に稀な体質だった。鬼に好まれる血である、〝夜血〟の持ち主なのだ。
夜血の乙女は太古の昔から、鬼の若殿の元へ嫁ぐのが習わしだった。それは、人間とあやかしが友好的な関係を築きつつある現代の日本でも、変わらずに残されている風習だ。
鬼はあやかしの中でもっとも勢力のある種族だ。そんな鬼の次期頭領に、稀有な存在である夜血の乙女を捧げることは、現代でもあやかしが人間の支配者であることを暗に表している。
また、現在のあやかし界の頭領は鬼ではなく龍族だが、凛が嫁ぐ次期若殿は相当な実力者らしく、次期あやかし頭領として最有力候補と言われている。
そのため、夜血の乙女だと発覚してから、凛は傷ひとつつかぬよう周囲から丁重に扱われた。
鬼の若殿の機嫌を損ねたら、人間たちはどんな目に遭うかわからない。生贄花嫁として最高の状態で、鬼の若殿に献上しなければならなかった。
しかし、表向きは花嫁としてあやかしたちに盛大に迎えられるということになっているが、事実は異なっている。
鬼の好物である血の乙女。きっと献上されれば、鬼に血をすべて吸われてしまうだろう。
人間界では、生贄花嫁の末路はそういう認識で通っていた。
つまり、生贄花嫁の凛は鬼の若殿に血を吸われ、今日にも命を落とす。
しかし凛は、そんな自分の運命を素直に受け入れていた。なぜなら、やっと自分の生まれてきた意味がわかったのだから。
生贄花嫁の儀式に参加する花嫁の家族や、政府の高官、神職の一行は洞窟内部の開けた場所まで進むと、足を止めた。
そこには生贄花嫁が登る簡素な造りの祭壇が設営されていた。
「とても綺麗よ、凛」
「そうだなあ、ここまで育ててきたかいがあったよ」
「お姉ちゃん、よかったね」
祭壇の前で、凛の父母と妹が涙ぐんだ声で言う。長女の晴れ姿に、心から感動している様子だった。
よかったと、凛も心から思う。自分が夜血の持ち主だと判明する前は、家族たちからずっと冷たくされていた。
『お前なんか生まれたせいで』『なんでうちに来たの』『お姉ちゃんのせいで、親戚からハブられてるんだよ!』なんて暴言を毎日のように吐かれていた。
凛は生まれつき両の瞳が深紅の色をしていた。人間にはほぼあり得ない色を。しかし、あやかしではよくある瞳の色だ。
その上、両親とも日本人らしい黒髪で、肌は薄橙色なのに対し、凛の髪はほんのり茶色がかっており、肌も雪のように白かった。
それらの特徴は人間の中で稀有というほどではないはずだが、両親の遺伝子を無視した凛の外見は、周囲からますます異質に映った。
そのため、凛の母親はあやかしとの子を成したのではないか、凛には悪いあやかしが憑りついているのではないかとか、親族の間では噂された。
もともと家柄のよかった父方の親族からは、体裁が悪いと言われ絶縁状態となった。父の兄弟たちは実家から多額の援助を受けて豪邸に住んでいるにもかかわらず、凛の父親はその恩恵をいっさい受けられなくなったのだった。
その結果、凛の一家は貧乏……とまではいかなかったが、本来できるはずの贅沢な暮らしからは程遠い、サラリーマンである父親の平均的な年収だけが頼りの平々凡々な生活を送ることになってしまった。
両親は、凛の出生によって険悪な関係となり、一時は離婚寸前まで揉めたらしい。しかし妹の蘭が生まれ、彼女をかわいがることで仲を取り戻したのだと、凛は嫌味交じりで両親から聞いたことがある。
物心ついた頃から、凛はなぜ自分がこの世に生まれてきたのだろうと考えていた。家族に迷惑をかけることしかできない、自分が。
しかし数カ月前交通事故に遭った時、凛の運命が変わった。
幸い軽傷で済んだが結構な出血量だったので、輸血の可能性があり念のため血液検査をした。結局輸血は必要なかったが、その時に凛が夜血の持ち主だと発覚したのだ。
それからは、やっと自分が生まれた意味を見出すことができるようになった。
夜血の乙女が出た家には、政府から多額の報奨金が支払われる。大切な家族を鬼の元へと嫁がせるのだから当然なのだろう。凛がそれまでどんな環境で育ったかはさておき。
絶縁していた親戚も『鬼の若殿の花嫁なんて鼻が高い』と、以前とは打って変わって笑顔で接してくれるようになった。
自分が夜血の持ち主だったおかげで、家族がよい暮らしをできるようになった。今までかけていた迷惑を、やっと帳消しにすることができたのだ。
凛は心からホッとしていた。血を吸われて死ぬらしいが、恐怖はいっさいない。やっと自分の使命を果たせるという解放感しかなかった。
――もう、余計なことは考えなくていいんだもんね。
つらい生活を強いられている家族への申し訳なさも、存在意義のない自分への劣等感も。そのすべてから今日は解き放たれるのだ。
神職からお清めのためのお祓いを施され、やたらと苦い神酒を飲まされた後、とうとう花嫁として祭壇に上がる時間がやってきた。
凛の家族や政府の高官たちは、祭壇から少し離れた場所に整列している。鬼の若殿が祭壇上の花嫁を迎えに来るまでそこで見守るのだ。
「行ってまいります」
凛は潔い微笑みを浮かべて、整列している面々に向かって挨拶をした。
感極まって涙を流す家族たち、無表情の高官たちを一瞥した後、凛はゆっくりと祭壇に登った。
そして色打掛の裾を気にしながら正座をし、少し高い場所から辺りを見回す。
――鬼の若殿はすぐに来てくれるのかな。
洞窟内は隙間風が吹いていて、かなり寒かった。中に何枚も着込めるはずの色打掛だが、面倒だった凛は肌着を重ね着していなかった。
使命を全うしてすぐに尽きる命なのだから、防寒なんてどうでもいいと着付けの時に思ったのだ。
凛を見守っている人たちは皆、真冬の防寒着を着用しながらも白い息を吐いている。
その時、一段と強い風が洞窟内にぴゅうと吹いた。
砂埃を感じた凛は反射的に目を閉じる。花嫁を見守る一団からも「わっ」と風に驚いたような声が聞こえてきた。
風がある程度収まって瞼を開く凛。すると……。
凛が正座している祭壇の目の前に、彼はいた。
長身痩躯で、黒い紋付き袴を着ていた。ところどころ赤みがかった黒髪の毛先と袴の裾が、風でゆらゆらと揺れている。
彼は般若の面を装着していたため、そのご尊顔を拝むことは叶わない。
だが、全身から発せられている高貴な威圧感と伸びた背筋の美しい佇まいから、崇高なる存在であると肌で感じられた。
――この人が、鬼の若殿。
御年二十七歳だと政府の高官からは聞いていた。
現在の若殿は人目に触れることを嫌っているらしく、顔はメディアでは明らかにされていない。もちろん凛も、彼の顔は知らなかった。
――別に、顔なんてどうでもいいけれど。血を吸われるまでの付き合いなのだから。
自身の天命をごく自然に受け入れている凛は、いっさい動じることなく若殿を見据えた。視界の隅には、若殿の登場に動揺している様子の家族たちがちらりと映る。
「なぜ俺の花嫁が寒がっておる」
面をつけたまま、若殿は低い声でそう言った。透き通るような美声ながら、機嫌の悪そうな声色をまとっている。
「えっ……! あ、あの……」
思ってもみないことを尋ねられたのか、政府高官は慌てた様子だった。
鬼は凛に面を向けたまま、続ける。
「大事な夜血の乙女……花嫁だ。手がかじかんでいるではないか。こんなに寒い格好をさせて。大切に扱っていないのか?」
――え。寒いのは私が肌着を重ねるのを断ったせいなのだけど。
若殿に嫌味をぶつけられた高官を哀れに思う凛。
『いえ、私自身のせいです』と口を開こうとしたが、その前に高官がうろたえた様子で弁明した。
「いえ、決してそういうわけでは! も、もう尽きる命ですし……」
だよね、と凛も共感する。だが……。
「……なに?」
若殿が、怒気のはらんだ声を上げる。
目の前の事態を他人事のように思っていた凛ですら、その声の威圧感には一瞬身を震わせた。
若殿は首をゆっくりと高官の方へ向けると、面の奥から静かな怒りを発する。
「俺が花嫁として娶るのだぞ。尽きる命とは? 鬼は人を食わないことを知らぬのか。まさか人間は、いまだにあやかしすべてが人を食らうという古臭い考えなのか?」
若殿の言葉通り、鬼は人を食わない。