土曜日の朝、アンが学校にやって来ました。

「重役出勤ねぇ」
のんびりな先生はあくびをこらえて言います。

この大きな赤いモップが
教室に現れたのは2限目のときです。

以前からアンは教室に何度も顔を見せていたので、
金髪のアクタもうろたえなくなりました。

「どうしたの? アン。」

「ママさんの手伝い終わったからビビ見に来た。」

「えー、見られても困る。これ書く?」

「書く。」

アンが学校に現れた日にも、
ビビは書道セットを貸して
習字をやって見せました。

土曜日の時間割は午前中しかなく、
授業内容も書写や図工となっていて、
普段の座学から少し趣旨がことなります。

そのため、塾や習い事を優先して
登校しない生徒もいれば、
逆に平日は登校を控えていた生徒が
この日に限っては授業に出席するなど、
教室にも普段とは違った空気があります。

「お、おはよ、ございます。」

かき消えそうな声であいさつしたのは、
ビビの後ろの席に座っているやや背の高い女の子。
彼女もまた不登校ぎみのクラスメイトでした。

「おはよう? 誰?」

「サクライさん。だよね?」

「サクラ? ビビと同じ名前?」

「違う。サクラ・イー。」

ビビのマネでアンも大きな口を横に広げて
末尾をハッキリと発音します。

「…スージィ・サクライです。」

「それならスーね。我が名はアンジュ。
 アンでいい。」

「アン…さん。」

「アンだ。」

「…アン。」

スーはアンの名前を恐る恐る呼びました。

「スーは字が上手いな。」

半紙に書かれた『明鏡止水』の4文字は、
字のバランスが取れて先生のお手本のようです。

「アン、一応授業中だから静かにしなよ。
 周りに迷惑かけないで。
 ねぇ、あたしのは?」

ビビは自分の書いた『平々凡々』を見せましたが、
アンはためらいながら2度うなずいただけでした。

「なにそれ。」

「ビビらしい。」

「ほめてるの?
 アンも書いてよ。」

「わかった。」

アンは筆で字を書くのが得意ではありませんが、
堂々と勢いよく半紙に筆を走らせます。

書き上がったのアンバランスなひらがな3文字。

「さ、わ、ら?」

「今日のごはん。」

「なんだろ?」

「魚偏に春の?」

巻き添えのようにアンの字を見せられたスーが、
さっとひと文字の漢字を書きました。『鰆』。

「サカナか。」

アンはよく分からずうなずきました。

「テキトーだなぁ。」

「これがかんじ?」

「そう。」

アンはタブレットを取り出して、
さっそく『鰆』の画像を検索しました。

青色にやや緑がかった背に
鋭い歯を持つ魚の画像が並びます。

「かっこいい。サカナだった。」

「知らないで書いたんだ…。」

「これ手本にしていい?」

「え…うん。」

「嫌なら断っていいよ。」

ビビからそう勧めを受けましたが、
スーは首を横に振りました。

「いいよ。使って。」

「やった。サワラー! おいしそう。」

「ありがとう、スーちゃん。」

「…ど、うも…。」

ビビにお礼を言われて、
スーの声は今にも消え入りそうでした。

似た苗字のふたりでしたが、
お互いに人見知りの引っ込み思案なので
干渉しないという暗黙のルールが、
アンの襲来によってすぐに破綻しました。

「アンが迷惑掛けるけど、これからよろしくね。」

「こちらこそ…。」

「迷惑掛けてるの、
 わがはいではなくてビビでは?」

「そんなことない。よね?」

「うん。」

「ほら! あっ、ねえ、聞いてた?」

スーから言質を取ったビビですが、
アンは習字に夢中で聞いていませんでした。

「ビビ、ちょっと静かにして。迷惑だぞ。」

習字道具を奪われ、手持ち無沙汰のビビは、
クラスの全員から白い目で見られてしまいました。

ビビは耳を赤く染めて、机に突伏し
恥ずかしさに耐えしのぐのでした。