それは土曜日の、朝早くのことです。

少女は校舎と校舎の間にある飼育小屋の前で、
全身赤色の毛むくじゃらを見ました。

へその高さほどある大きな毛玉が、
こちらを向いて、ツンと尖らせた
黒色の目を光らせます。

毛玉を見つけた少女は
驚き硬直して、生つばをごくり。

毛玉はぐんぐんと天にその身を伸ばすと、
目の前の少女を見下ろしました。

それはまるで洗車機にあるような
巨大なモップでした。

赤いモップはクマほどの大きさになったので、
背の低い少女は目を見開き見上げて、
ぽかんと口を開けたまま立ちすくみます。

「…わがはいは『赫き暗黒からの使者』。
 貴殿の所属と階級は?」

自らを使者と名乗る赤いモップが、
栗色の髪をした少女に名前をたずねました。

「きでん…?」

少女は目をしばたたいて、声の主を見ます。
モップは首をかしげました。

黒にやや茶色がかった大きな吊り目と、
ひと口で食べられそうなくらいに大きな口。
高く綺麗な声で少女にポツリとたずねます。

「…名前。」

「あ、あたし…ビビ。暗黒からの使者…。」

――暗黒からの使者ってなに?
――ウサギかモルモットの突然変異?
――それとも宇宙人にさらわれて改造された?

ビビは妄想をたくましくします。

「ビビ。わが名はアンジュ。
 地球の調査でこの地に降りた。
 貴殿はわがはいと契約を所望するか。」

「わが名? わが名って…。」

アンジュと名乗ったモップの口調に、
ビビは戸惑いをあらわにします。

本人が地球の調査でやってきたというのですから、
地球外からの生命体に違いません。

――つまり宇宙人だっ!

黙ったままのビビは妄想が止まりませんでした。

モップはビビの顔をまじまじと見て、
ひとりでうなずき大きな口で笑いました。

「ビビ。知ってる。生前より運命づけられた
 『血の盟約者』であったか。
 わがはいはアンと呼べ。ビビ・サクラ。」

モップに名乗っていない本名を当てられると、
ビビはヘビに睨まれたカエルのようになって、
見上げたまま身体は硬直します。

得体の知れない生命体を目の前にして、
背中にじわじわと汗がにじむので
彼女は叫んですぐにでも逃げ出したい気持ちを
ぐっとこらえます。

そのとき、近くのこずえで橙色のくちばしをした
ムクドリがビィービィーと長々鳴いて、
赤い毛に覆われたアンの顔がそっぽを向きました。

ビビはそのすきに、きびすを返して静かに、
そして足早に校舎の中の職員室に逃げました。

「先生、中庭に…。」

――宇宙人? 暗黒からの使者?

中庭に現れたモップ、『赫き暗黒からの使者』を
どう説明すればいいのか考えあぐねていたら、
ビビの後ろにアンが立っています。

びっくりして口から心臓が飛び出すところでした。

「ああ、アンジュさんね。
 サクラさん、これから面倒見てあげて下さい。」

女性の若い担任教師はモップを見ても驚かず、
落ち着いた様子でビビにほほえみます。

ビビは目を見開いて、
先生と、使者を名乗るアンを交互に見ました。

アンの存在を先生たちは誰も疑わないので、
ビビはさらに困惑しました。

――大人たちはこの宇宙人に洗脳されてる…?

6年生の教室にまでアンはついてきて
座席も隣になり、ビビは保護者のように
役目を押し付けられて散々な目にあいました。

土曜日の授業は午前の半日だけで終わり、
ビビはへとへとになって家に帰ります。

学校からビビの家までは一本道で、
徒歩で5分とかかりません。

そんな彼女の後ろを、あのアンがついてきます。

ビビは血相を変え、慌てて家に入ったのですが、
どうしたことか今日は珍しくビビの母が
玄関まで出迎えました。

「おかえりなさい。ちょうどよかった。」

すらりと細い体型の母、ティナの後ろには、
大きなダンボールが廊下に置かれています。

「はぁ…ただいま。
 …それ、なにか買ったの?」

ビビは平静を装ってたずねます。
学校であったことを胸に秘めて。

「注文してた新しいベッド。さっき届いたの。
 あとでふたりで組み立ててみて。」

「ふぅん…わかった…? エーちゃんと?」

ビビには6歳離れた姉のエリカがいます。

けれどふたりとも別々のベッドを使っていて、
ビビにはいまさら必要だとは思いません。

なので首をかしげて返事をしたところ、
背後の扉がガチャリと開きました。

入ってきたのは赤い毛むくじゃら。

それはまぎれもなくアンでした。

「おかえりなさい、アンちゃん。
 どうだった、学校。」

「愉快。特にビビが愉快。」

「そう、仲良くやれてそうでよかったわ。」

「お母さん?」

このやりとりにビビは戸惑いました。
母親がアンと普通に話していたことに。

アンは学校の大人たちのみならず、
家族まで洗脳しているんだと、
ビビは自分の想像を確信します。

それからティナが言ったことを察しました。

「このベッド…。」

「そうよ。
 これ、あとで屋根裏部屋に運ぶから、
 ビビとアンちゃん、ふたりで組み立てて。
 そしたらお母さん、お仕事で出かけるから。
 それからおつかいお願いね。」

「ふたりって?」

ビビが隣に立ったアンを指差します。
ティナはうなずきました。

「仲良くしてあげてね、アンちゃん。」

「了解。わが使命。最大限、努力する。」

「え? ひょっとしてウチで暮らすの?」

「また変なこと言って。」

「ママさん、ごはん。」

「そうね。ビビも、はやく手を洗ってきて。」

「ビビも、ごはん。」

ビビは宇宙からやってきた、
毛むくじゃらの生命体に困惑します。

彼女以外の全員がこの摩訶不思議な存在を
普通に受け入れたからです。

『赫き暗黒からの使者』

アンの存在によって、
昨日までのビビの日常が一変します。

「アン。洗面所、そっちじゃない。」

階段をのぼろうとするアンの大きな手を引き、
ビビは洗面所に向かいました。

土曜日の今日から、宇宙人のアンが
ビビの家で一緒に暮らすことになりました。