大っきらいだ。
嫌い、嫌い、嫌い、嫌い。
大っっっきらい!!!

『春が好きだな』

そう、心底幸せそうに話すのは去年の夏から付き合い始めた彼氏だった。


高校時代に友達と同じ人を好きになり。
言えない想いを内に秘め続けた。
好きな人は、私の友達が好きだった。
それはもう見ていればすぐにわかる3年越しの片想い。
色んな波を乗り越えた友達が、高校時代にまた好きな人を見つけられたこと。
嬉しかった、けど。
それはとても。

とても、苦しかった。

それぞれに想いを持ち、何も言えないままの時間。
最後に背中を押したのは自分だった。
だってもう、答えは見えていたから。
こんな私は、きっと幸せになんてなれっこないんだ。
なんて自暴自棄にも考えたけれど。

大学という新しいステージで出逢う人々は、活気にあふれていて。
否応なしに自暴自棄な考えは飛んで行ってしまっていた。

何せ大きなことから小さなことまで、高校とは違う世界。
こんな世界があるんだって、ほとほと感心した。

サークルや授業で仲良くなった友達たちを見てると、今っていう時間をめいっぱいに楽しんで輝いて見える。
幸せになんて、なれっこない。
その気持ちを否定したい想いと、あんなふうになりたいという羨望と。
それでもやっぱり、無理なんじゃないかっていう想いと。

ぐるぐるぐるぐると悩んでる時間が、実に不毛に感じる。

『でもさ、みんなそんなもんじゃない?だし、悩んでる時間が不毛なんてことはないよ』



きっかけは、何気ない一言だったのかもしれない。


『え、でもさ、ほら。やっぱり悩んでる時間があるなら、女磨きとかそういうのに時間回した方が絶対綺麗になれそうじゃない?』
『んー、そりゃ、スパッと切り変えてそうできるならその方がいいのかもしれないけど。でも、実際できないわけじゃない?つまり、悩んじゃうのが自分自身ってことだ。幸せってさ、気付いた瞬間から幸せになれるんだよ。悩みがなかったらそういうことにすら気付かずに通り過ぎちゃうかもしれないでしょ。僕は良いと思うけど?そういうの』

あぁ、確かに。
悩んでもしょうがないことで悩んじゃうのが自分で。
悩みが深ければそこから抜け出したときに、いろんな角度から幸せを見つけられるのかもしれない。


春の雪解けのように。
スーッと心が落ち着くようだった。


あれから、数ヵ月後。
彼―――海斗は、私の彼氏になった。

きっと、ずっと。
尊敬していける。
そして……ずっとずっと、好きなんだろうな、って。
大好きになり続けていくんだろうなって、思ってた。
色んなことがあったけど、二人で乗りこえてきたって思ってた。


この、瞬間まで。

校舎内の、誰もいない階段の踊り場。
大きな窓の奥に、裸の木が一本。
それは春になれば見事な花を咲かせる桜の木。
今は雪が枝にのしかかり外界の銀世界の象徴のよう。


どうして。
どうして見つけてしまったんだろう。
海斗が“あの人”と抱き合う姿を。
あの人のことを、海斗が好きだった、ということは知っている。
気になり出したきっかけも、あの頃と同じような苦しみも、あの人がいたからだった。
それでも海斗は、私を選んでくれたんじゃないの?
言いようの無い不安が私を急激に襲うのがわかる。
そしてその分だけ、冷静になっていくのがわかる。

窓の枠がまるで額縁のように、二人を切り取る。
外界の銀世界の象徴と相まって、一枚の絵画のようだ。
ひどく。

ひどく、綺麗。
かぁ、と、頬が熱くなった。

体を離した二人が会話を始めた。

どうしてだろう。
人というのは、傷つくのがわかっていても、好奇心には勝てないものなのかな。
そのまま息をひそめて、静かに見つめる。

『海ちゃん、何の季節が好き?』
『春が好きだな』

心底、幸せそうに海斗は言う。

『入学式の季節、出逢いの季節だね』

楽しそうな声が、かわいらしい声が。
香澄先輩―――…彼女そのもののようだ。

『そう言えばさ、覚えてる?歓迎会のときに―――…』

そこまで、だった。
そこまで聞いた後は、もう、聞いていられなくて。
走ってその場から逃げだした。


校舎を出ると、はらはらと雪が降り幻想的な世界を作っている。
けれどそこに感傷的になることなど今は到底出来ず、ただただ走る。
息の切れるまで、足の動かなくなるまで、逃げる。

逃げて、逃げて、走って、走って、逃げて。



そして漫画よろしく、見事にこけた。
くすくす、とこちらをちらりと見ながら交通人が通り行く。

恥ずかしさとか、悔しさとか。
悲しさとか辛さとか。
そんなものが瞳からにじみ出て、視界をぼやかす。
それでも涙なんかこぼしたくはなくて。
ぐっと奥歯をかみしめて、空を見上げた。

相変わらず、通行人がくすくすと笑いながら通り過ぎていく。
ぺたりと地べたに張り付いて、足とお尻が冷たいのも構わず。
道路事情も、考えず。

ただ空を見た。


あぁ……どうしよう。
本当に動けなくなってしまったみたい。
動きたくない、動きたくない、動きたくない。
こんなにも胸をえぐる気持ち、もう嫌だ。

考えたってどうにもなるわけでもないけれど、動かなくちゃいけない事も、分かってはいるんだけれど。



はらりはらりと舞う雪が、地面を浸食して行く。
このまま雪に埋もれてしまえば。

そんなことさえ思う私は、どうしようもない。

はらりはらり、雪が舞う。

凍りつきそうなこの寒さにもめげず、この道路の下の川は流れている。
桜並木がその身を震うように、風を受けている。


はらり、ひらり。

一枚の花弁が、私のもとへと降り立った。
そ、と手をやり花弁をつまみあげると、ふわり、温かな風が一筋そよぐ。

『こんにちは、お嬢さん』

どこからともなく聴こえた声。

『ほら、ここですよ。ここ』

声の主を探そうと、せわしなく顔を左右に振る。

『違いますよ、ほら』


これだけの通行人がいる中で、どこからともなく確定的な固有名詞を発したわけでもないのに、“お嬢さん”が間違いなく私を指しているのだと、心のどこかで確信して、地べたから張り付いていたお尻を上げ、キョロキョロとあたりを見回す。

『ここですってば』

にょ、と目の前に逆さまを向いた顔が出てきたときの衝撃たるやない。
せっかく持ち上げたお尻を、また地べたに戻したのは言うまでもないだろう。
驚きのあまり、声すら発せずにただ口を開け、がくがくと指をさす。
その驚きを汲んでのことなのだろうか、これは失礼、と一言あって、くるりと彼は宙返りをした。

それでもなお私の驚きは消えるものではなかった。


なぜなら、彼は。
その体を宙に浮かせていたのだ。

燕尾服にシルクハット、彼の持つ色は白と黒しかない。
片手に胸に手を置き、恭しく丁寧に、まるで執事が主人にするそれのように腰を折る。
上体を戻した彼は、未だ立ち上がれずに先ほどと同じポーズをとっている私を見て怪訝な表情を浮かべた。

『…どうされました、お嬢さん?』

どうされた?
どうされた、って?

「どうもこうも、ないっ……!!」

その言葉が、きっかけだったようにも思う。

「あなた、誰?何者?なんで宙に浮いてるのっ…?!」

周りのことなんて構いもせずに、叫んだ。


疑問を吐き出した私は、落ち着けるために、はっはっ、と息を整える。
そしてそこで、はた、と気づく。
周りの世界が、どこかおかしい。
くすくすと言う好奇の笑いが、私の耳に届かない。

何より、目の前の宙に浮くこの燕尾の男に何も言わないなんて、あり得ない。

一瞬、だったのだと思う。
恐らくは1秒2秒。
瞬時に自分の頭の中で考えを巡らせるけれど、答えなんて出ようはずもなく。

勢いよく右を、左を見る。
自分の目にしたものが飲み込めず、信じられず、また同じ動作を繰り返す。

「…っ、どうして、誰も…何も、“動いて”ないのっ……?!」

吐き出した言葉に、瞳にたまる涙。
いったい何がどうなっているの?
処理しきれない。

笑いあったままの、友達同士。
こちらに指を指したまま好奇のまなざしだけは残したままの、カップル。
川の水しぶきさえも止まったままだ。

『時間をね、ちょっとだけ止めさせてもらったんですよ』

燕尾の男が事もなげにさらりと言う。

「なんで…?」

対する私の声の、なんて弱弱しいこと。

『だって、あなたが望んだんじゃないですか。動きたくない、と。動かない世界というのを見せてあげるというのも、一興かと思いまして』

この男、言っていることがめちゃくちゃだ。
ただただ、絶句した。

「わ、私は、自分が動きたくないだけでっ…!幸せが壊れるのが嫌で、だから」

で、だから?
だからなんだというの?

『“本当に動かない”ことを望んでいるわけじゃない、と?』

私の心の声を代弁するかのような声が、響く。


海斗が香澄先輩と抱き合うシーンを見て、逃げ出して。
その場から逃げだして、動けなくて。

『いっそのこと、何もなかったことにできたらいいのに』

男の声は、甘い蜜のようだ。
“出逢うことのないままだったら、諦めたままでいられたのに”

『その世界に、連れて行ってあげましょうか』

男は私に歩み寄り、そっと私の手を取った。
瞬間、ふわりと桜が舞う。


目の前には、大きな桜。
風に舞う花弁が雪のよう。
そして行き交う人々の楽しそうな笑い声。
暖かな日差しと、せせらぐ川。
風に舞った花弁は、川縁に集まっている。

どことなく様子がおかしいのは、全てがモノクロの世界で作られていること。
そして、私自身が半透明であるということ。
きゃぁきゃぁと笑い声をあげてはしゃぐ子供。
それを見守る大人たち。
その中に、誰かを見つけた。

『良い天気。ピクニック日和だよね、来てよかった』
『うん。梓が誘ってくれてよかった!にしても、小泉くん。相変わらずよく寝るよねぇ』
『本当。まぁ、いつもなんだかんだで忙しい人だから、仕方ないんだけどね』
『確かに』

まぁるい笑顔の彼女は、高校時代からの友人で。
卒業式の日に私が背中を押した友人でもある。
苦笑して、視線を落とした先に寝転んでいる男性はきっと、かつての私の想い人。

そして……梓の、彼氏。

それじゃあ、梓の正面に座っているセミロングの髪の女性は―――…

『桜』

呼ばれた名前に、セミロングの女性が視線を動かす。



その表情は笑みを浮かべているけれど、ぎこちなく。
周りから見たら違和感はないのかもしれないけれど、やはりどこか無理をしているように見えた。
自らの心の弱さが見えるような。


そう。
自分のことだから、よくわかる。
自然体、という言葉は到底似合うものではなかった。

しばらくその様子を、じっと見つめていた。

時間は静かに流れていく。
―――…ねぇ、“私”
本当に、それでいいの?
逃げたままで、良いの?
今の“あなた”は本当に……本当に、幸せ?
私自身に問いかける。
その問いかけには誰も答えない。

一呼吸を置いた後、ざあぁぁっと大きく風が吹いた。


高く高く。
花弁が舞いあがる。
高く高く、昇って行く―――…



そして気付けば辺りは時間を取り戻し、通行人たちもくすくすと笑いながら私を通り過ぎていく。
私はすくっと立ち上がり、体を反転させると再び走り出した。


逃げることも立ち止まることも、してはだめだとは言えない。
そういうときだって実は必要で、大切なこと。
だけどね。

だけど。
“違うんだ”って、気付いたら。
人はそこから、立ち上がる力を持ってる。


誰かに支えられて、引っ張ってもらって、ようやくなのかもしれない。
だけど確かに、立ち上がることはできるんだ。
自分の足でまた、歩き出すことができるはずなんだ。


――海斗、海斗。
私、ようやく気づいた。
こんなに時間をかけてしまったけれど、ようやく。
逃げることだけ上手くなって、一度も自分の気持ちをぶつけたことがなかった。
優しいあなたに甘えてた。

はっはっ、息を上げて走る私の熱が雪をふりほどいていく。


階段の踊り場、窓枠に並ぶ二つの影はやっぱりそれだけで絵画のように綺麗だけれど。

「海斗っ!!!」

叫んだ私をくるりと振り返る。
まぶしい笑顔が二つ。

「桜ちゃん!」

かわいらしい笑顔で香澄先輩が迎えてくれる。


海斗がどこか照れているような顔をしているのは、私の気のせいだろうか?

「ほぉら、早く行っといでよ!海ちゃんの“春が好きな理由”でしょ?」

くすくす、と笑いをもらして海斗の肩をトン、と押す。
それにつられて海斗がこちらに向かってくる。


絵画の中からこちらへと抜け出た海斗に、そっと手を伸ばす。
あなたを失うこと、諦めること、自分の気持ちに決着をつけずにいること。
そうしないために、私はここにいる。
指先が震えていることには、気づかないふり。

「春が好きな理由、て?」

近づいた海斗に、問いかける。
ぽりぽりと額を掻いて視線をそらす海斗が、ぼそりと呟いた。

「……桜、でしょ」

照れている横顔に、飛びついた。
その頬に、そっと口付ける。
ビックリしてこちらを向いた海斗に、私は言う。
あなたことが大好きです、と。




*春の夢。『春を愛する人』/完