北海斗先輩と私は、その後時々放課後におしゃべりをする関係になっていた。
美術部の活動は、月・水・金の週に3回。そのため、火曜日と木曜日の放課後はフリーなのだと教えてくれた。帰宅部の私はもちろん放課後いつでも暇である。たまに先輩から連絡が来て、「今日はどこどこの喫茶店に行こう」などとお誘いが来た。この先輩は、突然始まった私たちの不思議な関係に何も疑問を抱くことなく、普通に二人で放課後デートに誘うというチャラさを発揮していた。たとえ勘違い野郎でなくても、「先輩は自分に気があるのかもしれない」と思わずにはいられなかった。
しかし、どういう風の吹き回しなのか、彼が私に何か色恋の話をしてきたり、まして「南ちゃん、実は僕……」と帰り際に告白をしてくることは全くと言っていいほどなかった。
というか、気配すらない。
恋が始まる気配。
ああ、この人は自分のことが好きなんだきっと、って妄想できる楽しい瞬間が、だんだん「あれ?」と形のないものに変わる。
出会ってから4ヶ月。
季節も変わり、秋の気配が漂う9月になった。
先輩は受験生にもかかわらず、月に4回ほど放課後に私を呼び出した。かと思えば、全く会わない月もあった。あまりにも頻繁に、そして長い間関係を続けている私と先輩を見た結衣は、「もう手とか繋いだの?」と興味津々に聞いてくる。
「いやいや、だからそういう関係じゃないって」
「え? だって、めちゃくちゃ会ってるじゃん」
「そうだけど。先輩とはそういんじゃないって」
答えながら、自分でもなんだが虚しくなってきた。
先輩はなぜ、私のことを誘うのだろう。学校帰り、駅前の喫茶店。電車通学のうちの生徒が多く利用するその場所では、いろんな人に先輩と私が一緒にいるところを見られている。まあ、それほど仲良くない人とか学年が違う人とかに見られたところで気にしなければいいのだが、時折先輩の友達らしく男の子が「海斗じゃねえか」と先輩に手を振ってくる。恥ずかしくないのかな、と思うけれど、先輩は例によってにこにことした当たり障りのない顔で彼らに手を振り返している。
喫茶店で私たちが話すことは、最近先輩が描いている絵のことや、通学途中に餌をねだってくる猫のこと、国語で習った小説の話など、超絶他愛のない話ばかり。
特に、先輩が描いている絵の話でよく盛り上がった。
「この間は、きみの掌を描いたんだ」
「それ、また青色で、ですか?」
「もちろん」
「えー! めっちゃ、不気味になりません? 青い人の手なんて、エイリアンですよ」
「そうかな。僕は綺麗だと思うよ。内側に流れている血液が海みたいに荒れていて、そうかと思えば凪いでいるのを想像するんだ」
得意げに言いながらアイスコーヒーを静かに啜る先輩。彼は独特な感性を持っていて、私はいつも、あまりついていけないのだけれど。
それでも、絵の話をしている時の先輩は、とても楽しそうだ。
私たちの年齢ならば、カラオケに行ったり友達と羽目を外したりするのが楽しい年頃なのかもしれないけれど。先輩は絵を描き、私は先輩の描いた絵を鑑賞する。
そして、楽しそうに描いている先輩を、私はいつまでだって見ていていられる気がした。
「生まれつき赤が見えないんだ」
先輩からそのことを聞いたのは、出会って一ヶ月が経過した頃だった。水曜日の放課後、美術室に遊びに来ていた。その頃にはもう、部員たちから私の存在が認知されており、時々勧誘を受けるほどだった。
「先輩はなんで、青い絵ばっかり描くんですか?」
しとしとと、少しばかり早い梅雨の雨が降り続く日だった。窓の外から、その日は雨の音しか聞こえなかった。
青、青、青。
いつものように先輩のキャンバスには、青色が広がっている。空のようにも見えるし、海にも見える。先輩は一体何を描いてるんだろうと気になって尋ねたら、「涙」だと言った。
「赤が、分からないからさ」
たったひとこと、それだけ答える。
赤が分からない。
先輩は、先天的な色弱だった。色盲とか、色覚異常とか呼ばれるもので、私もなんとなく聞いたことはあった。一部の色の感じ方が一般の人とは異なり、その種類もいくつかあるらしい。海斗先輩はその中でも、赤と緑を見分けるのが難しいのだと言った。
「これが赤だっている自分の中での区別はあるよ。でも、僕の見ている赤は、少なくともきみや他の皆とは違うから」
窓の外に降り頻る雨を目で追いながら、先輩は「青は確かにそこにある」と呟いた。
私はなんとなく、先輩が掴みどころのない何かを追いかけている気がした。
先輩がそういう理由で青い絵を描き続けていると知ったその日から、私は先輩にずっと心を奪われていた。
9月になり、部活を引退した先輩はそれでも自分で描き続けていたから、いつでも絵の話を聞くことができた。受験生なのだから、勉強はしなくていいんですかと聞いても、「僕は受かるところに行くつもりだから」と余裕の構え。
それでも、本格的に秋めいて、クローゼットからブレザーをひっぱり出してきた頃には、先輩からの誘いも月に一度、あるかないか程度に減っていた。
冬の寒さも相まってか、無性に寂しくて先輩に「お久しぶりです」とLINEをしようかと何度も悩んだ。でも、受験勉強の邪魔をしちゃダメだと思い直し、結衣とひたすら空白の時間を埋めた。
「もう、我慢できない」
ファストフード店でポテトを口に放り込むと、じゅわっと広がる塩味が染みた。
「年明けたらあっという間に受験だし、卒業だもんね。あー、あたしたちも来年は受験生かあ。やだなー」
12月24日。
女二人、世のリア充たちへの愚痴を吐き、友達同士ではしゃげるクリスマスも捨てたもんじゃないと開き直る。だが、「あたしたち、そんなはしゃぐキャラじゃないじゃん。ウケる」と結衣の冷めた一言に「だよね」と曖昧に笑ってみせた。
「てか、早く告っちゃいなよ。何をしぶってんの。訳わかんない」
本当に心からそう思っているのかいないのか、他人の恋愛話ほど面白いものはないと思っているだけなのか、結衣はどこか楽しそうだ。
「私だって、訳わかんないの」
何度も、先輩に想いを伝えようと試みた。
その絵、綺麗ですね。
ずっとそばで見ていてもいいですか?
思いつく台詞はどれも、到底「I love you.」には聞こえないものばかり。
というか、男ならそっちからさっさと告らんかい!
気がつけば結衣の方が、酔っ払いのおじさんのごときツッコミを放ちコーラをごくごくと飲み干した。
男なら、さっさと、ね。
いや、違う。そうじゃない。
どっちから言うとか、男から告白しなきゃいけないとか、その後の力関係がどうとか、そういう問題じゃない。
大事なのは、どれだけ本気でその人を想っているか、じゃないのか。
私はどれだけ、先輩のことを、本気で考えているの?
自分が、情けなくなる。結衣に愚痴を吐くだけで、何も行動をしない自分が。
「私……、伝えてくる」
「え」
「今から、伝えにいく」
「まじで」
「先、行くね。ごめん結衣。今度また埋め合わせするから!」
突然の行動に結衣はポカンと口を開けたまま、それでも「わ、分かった」と私の気持ちを察してくれた。
私はリュックをひっつかみ、急いで背負いながらファストフード店を出た。
外に出ると、冷たい何から頬に触れた。
雪……。
ホワイトクリスマスなんて、聞いてない。
そんなロマンチックな言葉、先輩と一緒じゃなきゃ、意味ないよ。
美術部の活動は、月・水・金の週に3回。そのため、火曜日と木曜日の放課後はフリーなのだと教えてくれた。帰宅部の私はもちろん放課後いつでも暇である。たまに先輩から連絡が来て、「今日はどこどこの喫茶店に行こう」などとお誘いが来た。この先輩は、突然始まった私たちの不思議な関係に何も疑問を抱くことなく、普通に二人で放課後デートに誘うというチャラさを発揮していた。たとえ勘違い野郎でなくても、「先輩は自分に気があるのかもしれない」と思わずにはいられなかった。
しかし、どういう風の吹き回しなのか、彼が私に何か色恋の話をしてきたり、まして「南ちゃん、実は僕……」と帰り際に告白をしてくることは全くと言っていいほどなかった。
というか、気配すらない。
恋が始まる気配。
ああ、この人は自分のことが好きなんだきっと、って妄想できる楽しい瞬間が、だんだん「あれ?」と形のないものに変わる。
出会ってから4ヶ月。
季節も変わり、秋の気配が漂う9月になった。
先輩は受験生にもかかわらず、月に4回ほど放課後に私を呼び出した。かと思えば、全く会わない月もあった。あまりにも頻繁に、そして長い間関係を続けている私と先輩を見た結衣は、「もう手とか繋いだの?」と興味津々に聞いてくる。
「いやいや、だからそういう関係じゃないって」
「え? だって、めちゃくちゃ会ってるじゃん」
「そうだけど。先輩とはそういんじゃないって」
答えながら、自分でもなんだが虚しくなってきた。
先輩はなぜ、私のことを誘うのだろう。学校帰り、駅前の喫茶店。電車通学のうちの生徒が多く利用するその場所では、いろんな人に先輩と私が一緒にいるところを見られている。まあ、それほど仲良くない人とか学年が違う人とかに見られたところで気にしなければいいのだが、時折先輩の友達らしく男の子が「海斗じゃねえか」と先輩に手を振ってくる。恥ずかしくないのかな、と思うけれど、先輩は例によってにこにことした当たり障りのない顔で彼らに手を振り返している。
喫茶店で私たちが話すことは、最近先輩が描いている絵のことや、通学途中に餌をねだってくる猫のこと、国語で習った小説の話など、超絶他愛のない話ばかり。
特に、先輩が描いている絵の話でよく盛り上がった。
「この間は、きみの掌を描いたんだ」
「それ、また青色で、ですか?」
「もちろん」
「えー! めっちゃ、不気味になりません? 青い人の手なんて、エイリアンですよ」
「そうかな。僕は綺麗だと思うよ。内側に流れている血液が海みたいに荒れていて、そうかと思えば凪いでいるのを想像するんだ」
得意げに言いながらアイスコーヒーを静かに啜る先輩。彼は独特な感性を持っていて、私はいつも、あまりついていけないのだけれど。
それでも、絵の話をしている時の先輩は、とても楽しそうだ。
私たちの年齢ならば、カラオケに行ったり友達と羽目を外したりするのが楽しい年頃なのかもしれないけれど。先輩は絵を描き、私は先輩の描いた絵を鑑賞する。
そして、楽しそうに描いている先輩を、私はいつまでだって見ていていられる気がした。
「生まれつき赤が見えないんだ」
先輩からそのことを聞いたのは、出会って一ヶ月が経過した頃だった。水曜日の放課後、美術室に遊びに来ていた。その頃にはもう、部員たちから私の存在が認知されており、時々勧誘を受けるほどだった。
「先輩はなんで、青い絵ばっかり描くんですか?」
しとしとと、少しばかり早い梅雨の雨が降り続く日だった。窓の外から、その日は雨の音しか聞こえなかった。
青、青、青。
いつものように先輩のキャンバスには、青色が広がっている。空のようにも見えるし、海にも見える。先輩は一体何を描いてるんだろうと気になって尋ねたら、「涙」だと言った。
「赤が、分からないからさ」
たったひとこと、それだけ答える。
赤が分からない。
先輩は、先天的な色弱だった。色盲とか、色覚異常とか呼ばれるもので、私もなんとなく聞いたことはあった。一部の色の感じ方が一般の人とは異なり、その種類もいくつかあるらしい。海斗先輩はその中でも、赤と緑を見分けるのが難しいのだと言った。
「これが赤だっている自分の中での区別はあるよ。でも、僕の見ている赤は、少なくともきみや他の皆とは違うから」
窓の外に降り頻る雨を目で追いながら、先輩は「青は確かにそこにある」と呟いた。
私はなんとなく、先輩が掴みどころのない何かを追いかけている気がした。
先輩がそういう理由で青い絵を描き続けていると知ったその日から、私は先輩にずっと心を奪われていた。
9月になり、部活を引退した先輩はそれでも自分で描き続けていたから、いつでも絵の話を聞くことができた。受験生なのだから、勉強はしなくていいんですかと聞いても、「僕は受かるところに行くつもりだから」と余裕の構え。
それでも、本格的に秋めいて、クローゼットからブレザーをひっぱり出してきた頃には、先輩からの誘いも月に一度、あるかないか程度に減っていた。
冬の寒さも相まってか、無性に寂しくて先輩に「お久しぶりです」とLINEをしようかと何度も悩んだ。でも、受験勉強の邪魔をしちゃダメだと思い直し、結衣とひたすら空白の時間を埋めた。
「もう、我慢できない」
ファストフード店でポテトを口に放り込むと、じゅわっと広がる塩味が染みた。
「年明けたらあっという間に受験だし、卒業だもんね。あー、あたしたちも来年は受験生かあ。やだなー」
12月24日。
女二人、世のリア充たちへの愚痴を吐き、友達同士ではしゃげるクリスマスも捨てたもんじゃないと開き直る。だが、「あたしたち、そんなはしゃぐキャラじゃないじゃん。ウケる」と結衣の冷めた一言に「だよね」と曖昧に笑ってみせた。
「てか、早く告っちゃいなよ。何をしぶってんの。訳わかんない」
本当に心からそう思っているのかいないのか、他人の恋愛話ほど面白いものはないと思っているだけなのか、結衣はどこか楽しそうだ。
「私だって、訳わかんないの」
何度も、先輩に想いを伝えようと試みた。
その絵、綺麗ですね。
ずっとそばで見ていてもいいですか?
思いつく台詞はどれも、到底「I love you.」には聞こえないものばかり。
というか、男ならそっちからさっさと告らんかい!
気がつけば結衣の方が、酔っ払いのおじさんのごときツッコミを放ちコーラをごくごくと飲み干した。
男なら、さっさと、ね。
いや、違う。そうじゃない。
どっちから言うとか、男から告白しなきゃいけないとか、その後の力関係がどうとか、そういう問題じゃない。
大事なのは、どれだけ本気でその人を想っているか、じゃないのか。
私はどれだけ、先輩のことを、本気で考えているの?
自分が、情けなくなる。結衣に愚痴を吐くだけで、何も行動をしない自分が。
「私……、伝えてくる」
「え」
「今から、伝えにいく」
「まじで」
「先、行くね。ごめん結衣。今度また埋め合わせするから!」
突然の行動に結衣はポカンと口を開けたまま、それでも「わ、分かった」と私の気持ちを察してくれた。
私はリュックをひっつかみ、急いで背負いながらファストフード店を出た。
外に出ると、冷たい何から頬に触れた。
雪……。
ホワイトクリスマスなんて、聞いてない。
そんなロマンチックな言葉、先輩と一緒じゃなきゃ、意味ないよ。