結局、何も言えなかった。
思い出したら言う、とか。そんなようなことを言って席を立った。
空のグラスもそのままにして、おやすみも何も言わない俺の背中に、平井さんはまるで小さな子供に言い聞かせるように投げかける。
「風邪引くといけないから、タイマーは使ってね」
「お腹、出して寝ないでね」
間接照明のオレンジがゆらりと揺れた。
揺れるはずないのに。揺れて見えた。
「……わかってる」
漏れた息が、声となって届いたのかは定かではない。ただ、おやすみなさい、と言った平井さんの声が優しく響いたから、届いたと思うことにした。
潤ったはずののどはもう渇いていたけれど、戻ることはしなかった。
窮屈。面倒。部屋に戻るまでの間、一歩足を出すごとに浮かぶ言葉。それ以外にも、モヤモヤとした感覚は腹の中に残ったまま。いわゆる消化不良ってやつだ。
腹をさすりながら視線を右に移す。扉の向こう側には、仕事に備えて眠る父親がいる。
「汐音は悪くない。パパが悪いんだ。全部パパのせい」
頭を撫でられながら聞かされた言葉は、今でも俺の中にしまってある。
頼むから、同じ失敗はするなよ。
すんと鼻を鳴らすと、この家の匂いがした。
新しい家具の、木の匂い。前の家では嗅いだことのない甘い匂い。
平井さんの、覚悟を決めたあの表情を。父親は目にしたことがあるだろうか。
ふと、そんなことを思った。

