『NINA』と。
母親の名前がついた箱の中に足を踏み入れることも。左胸に母親の名前が刺繍されたエプロンをつけることにも抵抗があった。
母親がいないことは「日常」として受け入れているけれど、母親に捨てられた事実は未だ受け入れられずにいた。
そんな俺に、言ったんだ。
「私のほうが緊張してるかも。だって。汐音くんが働いてるんだよ?緊張しないほうがおかしいでしょ?」
そう言って微笑んだ。
俺が、どんな気持ちでここに立っているのか。
理解しろとは言わない。言う気もない。ただ、もし知っていたとして。だとしたら、知らないフリはするべきじゃない。
「汐音くん、あとで運んでもらいたいものがあるんだけど」
「汐音くんって、仕事覚えるの早いんだね」
「やっぱり男の子って、頼りになるね」
笑顔なんか振りまく必要はなくて。こっち側に踏み込むことはせず、ただ一定の距離を保って、そこに居たらいい。
「母親として」とか。そんなこと、思わなくていいし。ならなくていい。
それにしても。前妻の子の前で。前妻の名前を左胸に縫いつけられていても笑顔でいられるのは、強さなのか。それとも、ただ無神経なだけなのか。
馬鹿馬鹿しい。
考えれば考えるほど、腹が立つ。
今の、現状ってやつに。ぜんぶに嫌気がさす。