三月も後半に入った。ようやく春らしく、冬の寒さも和らぎ、最高気温が一ケタ台にとどまることもなくなった。ぼくの厚手のコートはめでたくその役目をまっとうして、クリーニング屋の透明なビニール袋に包まれてクローゼットの奥深くで眠りにつき、手袋やマフラーといった影の実力者たちも、その下でしばらくは安らかに眠ることになる。今年の冬もありがとう。どうもお疲れさま。ぼくはクローゼットを閉める時、思わず合掌した。

 ぼくは数週間前に高校を卒業した。卒業式の日はまだ桜は全然咲いていなかったし、風も震えるほど冷たい。だけどぼくらは精一杯笑って泣いて、胴上げをして抱き合って、肩を組んで写真を撮った。思い残すことは何もなく学校を去り、その後のお別れ会でもカラオケやらボーリングやらで大いに盛り上がった。ぼくの高校生活は普通ではなく、かといって人生を決定づけるほどに特別でもなかった気がする。そんな短くて長い三年間だったから、何も後悔はしていない。振り返って、たとえそれが美化された思い出だったとしても、満足しているのだ。

 ぼくは来週、この街を出る。大学に進学が決まっている。ここよりもっと大きな街へ、少し遠くの、新幹線で行き来するような大きな街へ行く。そんなぼくが今やることはバイトぐらいしかない。二年前から週三日程度で始めたファーストフードでのバイトを、高校を卒業してからほぼ毎日やるようになった。やることがなくて暇だったし、来月からの一人暮らしをひかえて、親からお金を貯めておくよう忠告され、自分で納得したからだった。やはり先立つものがなければ。

 今日の仕事も無事に終えた。ぼくの仕事は夕方ごろに終わる。それから無駄遣いをしないよう、寄り道をせずにまっすぐ帰る。家までは自転車で十五分程度。途中、高校の時の通学路を通るから、ちょうど部活を終えて帰宅している後輩たちとよく会う。後輩たちとの会話も、ぼくは好きだった。

 家に着くのはいつも五時ぐらい。今日もそのぐらいだった。日がすでに沈みかけていて、自分の部屋の中に入ると薄暗い。もうそろそろ電気をつける時間だ。ぼくは習慣のように、部屋に入るとすぐに窓のカーテンを閉める。

 窓に歩み寄り、カーテンに手をかけた。だがその時、窓の外のあるものを見つけ、視線が向く。

 この窓と二メートルほどの距離で向き合っている隣家の部屋の窓の、その内側に、三十センチ四方程度の大きさの白い紙が張ってあった。その紙には赤いマジックペンで何か書かれているが、それを読める位置はぼくの部屋以外にない。つまりそれはぼくに向けられたその手紙なのだ。そこにはこう書かれていた。

『仕事が終わったら、いつもの場所』

 ぼくにはその意味が、すぐにわかった。

 その手紙の貼られた部屋の主は、いわゆるぼくの幼なじみだ。小学校に入学する直前、この家に引っ越してきた時にはすでに隣に住んでいたのだけれど、妙に気が合ったのか、その頃からよく遊んだ記憶がある。

 部屋の距離がこんなに近いせいか、窓を開けて、お互いの部屋の中にいながら会話をすることがよくあった。そして相手がいない時、遊び場所などを伝えたりする書き置きには、こんな風に手紙を窓に貼りつけるという手段をとっていた。

 ぼくたちは今携帯電話という便利なものを持っていて、どこにいたって簡単に相手に連絡を取れるにも関わらず、ぼくたち二人の間だけの連絡は、相変わらずこの方法だ。