三月も後半に入った。ようやく春らしく、冬の寒さも和らぎ、最高気温が一ケタ台にとどまることもなくなった。ぼくの厚手のコートはめでたくその役目をまっとうして、クリーニング屋の透明なビニール袋に包まれてクローゼットの奥深くで眠りにつき、手袋やマフラーといった影の実力者たちも、その下でしばらくは安らかに眠ることになる。今年の冬もありがとう。どうもお疲れさま。ぼくはクローゼットを閉める時、思わず合掌した。
ぼくは数週間前に高校を卒業した。卒業式の日はまだ桜は全然咲いていなかったし、風も震えるほど冷たい。だけどぼくらは精一杯笑って泣いて、胴上げをして抱き合って、肩を組んで写真を撮った。思い残すことは何もなく学校を去り、その後のお別れ会でもカラオケやらボーリングやらで大いに盛り上がった。ぼくの高校生活は普通ではなく、かといって人生を決定づけるほどに特別でもなかった気がする。そんな短くて長い三年間だったから、何も後悔はしていない。振り返って、たとえそれが美化された思い出だったとしても、満足しているのだ。
ぼくは来週、この街を出る。大学に進学が決まっている。ここよりもっと大きな街へ、少し遠くの、新幹線で行き来するような大きな街へ行く。そんなぼくが今やることはバイトぐらいしかない。二年前から週三日程度で始めたファーストフードでのバイトを、高校を卒業してからほぼ毎日やるようになった。やることがなくて暇だったし、来月からの一人暮らしをひかえて、親からお金を貯めておくよう忠告され、自分で納得したからだった。やはり先立つものがなければ。
今日の仕事も無事に終えた。ぼくの仕事は夕方ごろに終わる。それから無駄遣いをしないよう、寄り道をせずにまっすぐ帰る。家までは自転車で十五分程度。途中、高校の時の通学路を通るから、ちょうど部活を終えて帰宅している後輩たちとよく会う。後輩たちとの会話も、ぼくは好きだった。
家に着くのはいつも五時ぐらい。今日もそのぐらいだった。日がすでに沈みかけていて、自分の部屋の中に入ると薄暗い。もうそろそろ電気をつける時間だ。ぼくは習慣のように、部屋に入るとすぐに窓のカーテンを閉める。
窓に歩み寄り、カーテンに手をかけた。だがその時、窓の外のあるものを見つけ、視線が向く。
この窓と二メートルほどの距離で向き合っている隣家の部屋の窓の、その内側に、三十センチ四方程度の大きさの白い紙が張ってあった。その紙には赤いマジックペンで何か書かれているが、それを読める位置はぼくの部屋以外にない。つまりそれはぼくに向けられたその手紙なのだ。そこにはこう書かれていた。
『仕事が終わったら、いつもの場所』
ぼくにはその意味が、すぐにわかった。
その手紙の貼られた部屋の主は、いわゆるぼくの幼なじみだ。小学校に入学する直前、この家に引っ越してきた時にはすでに隣に住んでいたのだけれど、妙に気が合ったのか、その頃からよく遊んだ記憶がある。
部屋の距離がこんなに近いせいか、窓を開けて、お互いの部屋の中にいながら会話をすることがよくあった。そして相手がいない時、遊び場所などを伝えたりする書き置きには、こんな風に手紙を窓に貼りつけるという手段をとっていた。
ぼくたちは今携帯電話という便利なものを持っていて、どこにいたって簡単に相手に連絡を取れるにも関わらず、ぼくたち二人の間だけの連絡は、相変わらずこの方法だ。
カーテンをしっかりと閉じて、すぐに家を出た。向かうのは、家から歩いて五分ぐらいのところにある公園。小さいころからよく遊んでいた場所。ぼくらにとっての、『いつもの場所』だ。
公園といっても、子供の遊び場というには少し狭い。公園の周囲を囲む道は車がせいぜい一台しか通れないし、遊具はブランコが二人分と、ベンチがひとつ。そしてぼくらが『いつもの』と指す時、必ず思い浮かべるのは今じゃもう珍しくなってしまった古ぼけた青いジャングルジム。それだけだ。
ぼくは公園が見えるところまで来ると、すぐにジャングルジムの上を見上げた。思ったとおり、ぼくの幼なじみは、そのジャングルジムの二段目に腰を下ろしていた。
「さくら!」
ぼくは幼なじみの名前を呼んで、手を振った。その声に彼女もすぐに気づいて、笑いながら手を振り返した。
「ハル、待ってたよ。バイトお疲れ様」
彼女が手招きをしながら、ぼくの愛称を呼ぶ。
ぼくらは生まれた季節が簡単に推測できそうな名前だ。ところが実際はそうではなくて、二人とも秋の生まれ。どうしてと聞かれることがあまりにも多かったので以前両親に尋ねてみたら、両親は冬と夏の生まれで、ぼくが秋に生まれたから、あと一つ空いた春という季節を子供の名前で埋めたのだとか。ちなみにさくらの場合も偶然にもまったく同じ理由。そんな変わった名付け方をする両親たちだから、彼らは出会った時から意気投合して、今でも大の仲良しだ。
ぼくとさくらはひとりっ子同士。だから小さいころからよく一緒に遊んでいたんだと思う。
「ごめんね、疲れてるのに」
ぼくがジャングルジムの側まで来ると、さくらがそう言った。ぼくはううん、と首を振ってジャングルジムのバーに手をかける。
ジャングルジムは規則正しく、立方体が縦横三つずつ並んで、さらにそれが四段積み重なった形をしている。高さはちょうどぼくの頭の高さぐらいだ。
ただ、てっぺんにはおまけのように、中心にひとつだけ立方体が飛び出していて、その分だけぼくより背が高い。
さくらはジャングルジムの上段に、飛び出たひとつの立方体部分に背中を預けるようにして腰かけている。
ぼくはさくらが座っている面とは逆の方から登って、さくらと背中合わせになるように、同じくてっぺんの立方体に背中を預けた。いつからこうしているのか覚えていないけれど、この座り方も昔からの、二人だけの慣習だった。
「どうしたの、暇だった?」
腰を下ろすなり、ぼくはそう尋ねた。
「うん、まあそれもあるけど……ちょっと、話したかったから」
控えめなさくらの声が、背中の方から聞こえる。
「だったら、部屋で待ってたらよかったのに」
ぼくはそう言った。ぼくらは小さいころの遊び場だったり、学校の帰りに暇をつぶしたりと、よくこのジャングルジムを使った。だけど話をするだけなら、ぼくが帰ってくるのを待って、いつものように窓越しに話せば済むのに。わざわざ薄暗くて肌寒い空気の中、ひとりで待っていなくても。
「それだとお母さんとか入ってきちゃうかもしれないし」
「いつものことでしょ」
普段ぼくらが窓越しに話をしているときに、親が部屋に入ってくることも当然ある。ぼくらは家族ぐるみで長い付き合いだから、何の気まずさもないし、こんにちはと挨拶されて、こんにちはと返す。そんなのはいつものこと。
「……今日は、邪魔されずに話したかったから」
「何の話?」
ぼくはそう尋ねながら、さくらの様子がいつもとは違うことに気づいた。今日は控えめな様子の彼女の声が、いつまでたっても普段の明るい感じを帯びてこないし、何だかすごく言いづらそうなことを抱えている、そんな気がした。
ぼくへの返事は、すぐには返ってこなかった。数えていたらたぶん十数秒ぐらいか、しばらく経って、じっとさくらの言葉を待っていたぼくは背中の向こうに、ジャングルジムのバー越しに、彼女が何かわずかな動きをしているのを気配で感じた。それと同時に、その動きが、彼女の言いよどんでいる胸中を表しているのだとぼくにはわかった。
やがてその動きが消えたとき、さくらの声が聞こえる。
「私ね、明日引っ越すの」
さっきよりもわずかに強い調子で、意を決したように彼女は言った。
「え……?」
ぼくはその言葉の意味を理解するのに少し時間を要した。けれど発する言葉を失っていた一瞬の間に、彼女の言葉そのままの意味で、ぼくは理解せざるをえなかった。
さくらも大学に進学が決まっている。ただ自分の成績と見合わせて選んだぼくと違って、彼女の夢のために一番いいと、彼女が選んだ場所。そこはこの街とあまり変わらない大きさの街、だけど飛行機で何時間も、ぼくが新しく住む街へ新幹線で行く時間よりも、もっと長い時間をかけないといけないような街へ、彼女は行く。
ぼくらは、ぼくとさくらは、離れ離れになるということ。それが、ぼくが最後に理解したこと。
いや、当然わかっていたんだ、そんなことは。ぼくらが自分の進路を決めたその瞬間から、その日がやってくることは。
ぼくが気づいたのは、その事実から生まれてくる感情に、ぼく自身が目を背けて逃げていたということだった。
ぼくは戸惑いながら、さくらの方を振り向いた。彼女はまったく振り向く素振りも見せずに、その横顔も見えなかったけれど、ぼくは構わず彼女の背中に向かって尋ねる。
「明日って……何でそんな急なの」
すると、さくらはその言葉を否定するように頭をわずかに左右に振った。
「急じゃないよ。ずっと前から決まってたの。私の部屋の荷物、もうほとんどまとめてあるもん」
さくらはぼくに背中を向けたまま、妙に冷静で、落ち着いた声で、説明するように答える。
「だったら、何で今まで何も教えてくれなかったのさ」
ぼくの声は、さくらとは反対に戸惑っている様子が自分でもよくわかった。さくらが引っ越しのことを今まで口に出さなかったこと、このタイミングで話したこと、驚くほど冷静でいること、すべてが不思議でならなかった。
「隠してたわけじゃない……ただ、私、わからなかった。今日になって、片付いた部屋を見て、明日には出て行くんだなって思うまで、ここを離れていく実感とか寂しさとか、全然わからなかったの」
さくらが、今度は少し苦しそうに、絞り出すように声をこぼす。
「だけど、急にいろんなことわかってきて、ハルに話さなきゃって……」
さくらは、そこで言いかけた言葉を飲み込んで、大きく首を左右に振った。
「ハルと話したいって、思った」
ぼくはふいに、彼女が泣いていると思った。言い直したその言葉はそれまでで一番はっきりと彼女の意思が形を成しているように感じたけれど、ぼくには、その声が震えているように聞こえたからだ。
さくらもぼくと同じだった。ぼくが彼女の言葉を聞いて理解したように、さくらも今日ふいに、ぼくらが離れ離れになることに気づいてしまった。そしてぼくと同じように、一瞬の寂しさや切なさに、苦しくなったんだろう。
それくらいぼくらは長く、当たり前のように一緒にいた。
「ねぇ、覚えてる? 小一の夏休みのキャンプのこと」
しばらくして、そう言ったさくらの声はとても澄んでいた。その昔話の意図はわからないけど、さくらが話したがっている、ぼくと話したがっているということはわかったから、ぼくは胸の辺りのもやもやを取り払って、よけいなことを考えずにただ真っ白な気持ちで、彼女と話をしようと思った。声に、言葉に、ひとつひとつに表れる彼女の心を、決して見逃さないように。
ぼくは再び、さくらに背を向けて座った。
「覚えてるよ。近所の家族が集まって、みんなで一緒に行ったキャンプでしょ?」
誰が言いだしたのかは知らないが、ぼくらのうちの近所にはひとりっ子の家庭が多かったため、交流を深めようと企画されたイベントだった。ぼくは喜んでそれに参加した。それまで家族でキャンプに行ったことはなかったし、それ以降も、学校の行事以外で行くことはほとんどなかった。だから、その時の思い出はよく覚えている。
「あの時は大騒ぎだったよ。夜になってさくらがいなくなってさ。みんなすごい怖い顔して、捜し回ってたの覚えてるよ。ぼくらもどうしたらいいのかわかんなくて、オロオロしてたし」
くすっととさくらが小さく笑うのが聞こえた。
キャンプの夜、さくらの姿が見えないと誰かが気づき、大人たち大混乱の中、捜索が始まった。そのころのさくらは好奇心が旺盛だったようで、みんなが寝ているテントを抜け出して、ひとり夜の探索に出掛けたのだ。今にして思えば、よくそんなことができたなと感心する。大人になっても夜の暗闇に包まれた山中は不気味で恐ろしく思うというのに。
「でも、見つけてくれたのはハルだったよね」
「うん」
そう、その行方不明のさくらを見つけたのはぼくだ。夜の山中だったから見つけづらくはあったけど、そんなに遠い場所にいたわけではなかったし、ぼくは生まれつき方向感覚に優れていたから、見つけた後はすぐにみんなのところまで戻ることができた。
「そういえば、よく私のいる場所わかったよね。第六感ってやつ?」
「……まぁ、そんなとこ」
ぼくは軽く受け流すように言った。しかし本当は違う。ぼくはあの時トイレに起きていて、偶然さくらがテントを出ていくのを見ていた。そのままどの方向に行ったのかも。その時は特に興味がなくて放っておいたのだけど、騒ぎになって、大人がほとんど出払っていたから、ようやくその重大さに気づき、ひとりで後を追ったのだ。
「怖くなかった? 私なんて道に迷ってから怖くなって、泣きまくってたけど」
「……だから見つけられたんだけどね」
ぼくは彼女の行った方向にずっとまっすぐ進んだ。それで見つけられたのは、正直彼女の泣き声のおかげだった。遠くからは聞こえなかったが、近くまで来るとすすり泣くような声が、はっきりと聞こえた。
ぼくもその時、全然怖いという感情はなかったと思う。その方向に行けばきっとさくらがいると信じていたし、戻る場所も常に感じ取っていたから、ぼくには何か、例えばそう、見えない道が、さくらまで続いているような気がしていた。
「でも、ほんとに嬉しかったな。知ってた? ハルが隣に引っ越してきて最初のあいさつ以来、ちゃんと話したのはあのキャンプが初だったんだよ。それなのに、よく探しに来てくれたよね」
「そうだったっけ」
そのキャンプ以降、ぼくとさくらはよく遊ぶようになった。
あれからもう十年以上たつ。その間、二人でいろんなことを話して、二人でいろんなことを経験した。嬉しかったことも、悲しかったことも、楽しかったことも、辛かったことも、いつもお互いに話し合って、相談して。ぼくらはたぶん、お互いのことを何でも知っている。
ぼくらはこれ以上ないほど、親友だった。
それからしばらく、さくらとずっと昔の話をした。
給食の嫌いなものを、どうやって残すかを真剣に考えたこと。隠れるのにいい場所を見つけるたび、秘密基地を作っていろんなものを持ち込んだこと。晴れた日の外の鬼ごっこは楽しかったけど、雨の日の校舎内鬼ごっこの方がもっと白熱したこと。運動会や体育祭のたびに、その時に食べる弁当は何が相応しいかを延々議論したこと。文化祭の準備で毎日暗くなるまで居残りして、気味の悪い校舎を探検して回ったこと。修学旅行で友達同士をくっつけようと、いろんな作戦を考えて実行したこと。
「でもね、やっぱり一番嬉しかったのは、あれかな」
一通り楽しかった思い出を語り合った後、待ち構えていたように、さくらが言った。
「あれって?」
「……柴田君とのこと」
「ああ、そのこと」
その名前に触れた途端、さくらの声が暗く沈んだ。昔話とはいえ、無理もない。あのころは、さくらにとっては辛い時期だった。
柴田はぼくやさくらの高校の同級生だ。人当たりがよくて、社交的。おもしろいことを言って場を盛り上げたりもするから、クラスの中心的な存在というか、みんなに好かれていた。
事が起こったのは一年生の秋ごろ。さくらはその柴田に告白された。だけどさくらはきっぱりと断った。いい人だとは思っていたけれど、付き合うというのはイメージが沸かなかったらしい。
しかし柴田はしつこく、二度三度と告白を続けた。だけどさくらはどうしても付き合う気にはなれず、全て断った。すると三学期になるころには、ついに柴田も諦めたのだった。
だがその代わりに、さくらの悪い噂が流れるようになった。柴田がさくらのことを逆恨みして、根拠のない噂を言いふらしたのだ。ぼくはそれを聞いて、最初は放っておけばいいと思っていた。しょせんは根拠のない作った話。そんなものが簡単に人に信じられるわけがない。
ところが予想に反して、噂はどんどん広まっていった。噂が広まるということは、信じている人が多いということ。柴田は話が上手かった。それにもともとあった人望のおかげで、話の信用性もあがったのだろう。また、さくらがあまり広い交友関係を持つタイプではなかったことも要因の一つで、彼女をよく知らない人が多く、そんな人たちが疑いもなく信じてしまったのである。
さくらはそういった悪口や噂などに対して、関係ないという態度で凛としていられるような性格ではなくて、むしろ打たれ弱い。そんな日が続くに連れて、さくらは目に見えて元気がなくなり、学校に向かう足も重くなっていった。
ぼくはその噂の発信源が柴田だと確信していたが、どうすればいいのかわからなかった。柴田が憎くてたまらなくて、顔を見る度何度も殴ってやりたくなった。でも、たとえ本当に殴ったとしても、これだけ広まった噂はどうにもならないと思った。
しかしある日、ぼくは偶然にも、校内で柴田がさくらの噂を、その上手い話術で広めている場面に出くわしてしまった。この耳で直接、聞いてしまった。内容はまったく根も葉もないでたらめ。それをさも本当のように話す柴田は、本当に立派な詐欺師だ。どうしてこんな風に平気で人を傷つけられるのか、怒りで震えた。
次の瞬間にはぼくは柴田を思い切り殴っていた。正直その時のことはよく覚えていない。それぐらい頭の中が真っ白で。とにかく殴って、叫んで、殴って、叫んでいたと思う。
さくらは、そんな子じゃない。みんなに聞いてほしかった。
その後、ぼくは先生たちからの尋問と、反省文という仕打ちにさらされたが、この事件がきっかけでさくらの噂がでたらめだったことが発覚し、一週間と経たない内に噂自体が消えた。
ぼくの人生の中で、あれだけ人を殴ったのは初めてだ。殴りたいと思うほどムカつくことは何度もあったけれど、逆に殴られるのは嫌だったし、それで気が済んでも周囲から非難されるのは目に見えている。
そうしてぼくには強靭な理性ができあがっていたはずだった。たぶん、あの時までは。だけどさくらのことを傷つけられた瞬間、ぼくはそんな理性をゴミのように捨ててしまって構わないと思った。
「あのままだったら、私、学校やめてたかもしれない」
さくらの言葉に、ぼくは何も答えなかった。あの時のさくらの様子を思い出せば、そんなことないだろうとはとても言えなかったし、かといって、そうだねと答えるのも何だか気が引ける。
「ほんとに、ハルのおかげだね」
ぼくはそこでも黙ったままだった。顔が見えないぶん、返事を考えないぶん、よけいにさくらの声がぼくの中に響く。それはそのままさくらの心を奏でるメロディーのように。
ぼくはもう気づいていた。昔話を始めてから、話をすればするほど、胸が苦しくなっていくこと。そしてそれは、さくらもきっと同じだった。二人の昔話は、今日ここまでしか、もう語れないことを、知ってしまっているから。
「ねぇ、ハル。私ね、どうしても、聞いてみたいことがあるんだけど」
「何?」
ぼくがそう聞き返すと、さくらは口をつぐんだようだった。また少し、空白の会話が生まれる。
「言ってよ」
さくらがまた迷っていると思ったぼくは、そう促した。どうしても聞きたいこと。言葉には出さなかったが、それが何なのか気になった。ここで聞いておかないと、たぶん、もう次はないんだろうなと思ったから。
すると、しばらくして、さくらは口を開いた。
「ハルは……ほんとは、私のこと、好きだった?」
「え?」
ぼくは思わず、聞き返していた。
驚きはしたが、ぼくはちゃんとその言葉の意味を考えていた。『ほんとは』、つまり、親友としてでも、幼なじみとしてでもなく?
ぼくは答えに詰まった。ぼくは親友としてさくらのことを何でも知っているけど、この問いだけは、どんな答えなら自分に正直でありながら、さくらの期待にそえられるのかわからなかった。
ぼくは何かを求めるように、さくらの方を振り向いた。そうしたら―
さくらと、目が合った。
「え……?」
いつからかわからないが、さくらはぼくよりも先に、後ろを、つまりぼくの方を振り向いていたらしい。思わぬカウンターを受けたような気分で戸惑うぼくを見て、さくらはくすっと笑った。そして一瞬だけ、真剣な表情を見せると、すぐに柔らかい笑みを浮かべて、彼女が口を開く。
「私は、好きだったよ、ハルのこと」
その言葉で、ぼくは教えられた。ぼくはさくらのことを全て知っているわけではなかった。さくらのその気持ちだけはちっとも知らなかったから、ぼくはさっき答えることができなかったんだと、思う。けど、今は、何だかすっきりした。
「ぼくも、好きだと思う、さくらのこと」
もう迷うことのない、ぼくの正真正銘の答え。
さくらは嬉しそうに、泣きそうな顔をした。
ぼくらはそれからもう少し、昔の話をした。ぼくらの話は尽きることはなかった。だってぼくらには、十年分の昔話がある。
日がほとんど沈んでしまって、そろそろ終わりの時間が近づいていることを知る。ぼくらがずっと作り続けていた物語が、今日を最後のページにして、完成する。それがどんな終わり方でも。
「そろそろ時間だね。帰らなきゃ」
名残惜しそうにさくらが言った。
「どんな終わり方にする?」
ぼくがそう尋ねると、さくらは少しだけ考えて、
「キスでもする? さよならの」
冗談か本気かわからない様子で、そう言った。
ぼくはさくらの目を見た。さくらも、ぼくの目を見ていた。
そして、二人同時に吹き出すように笑った。
「まだ早いかな」
「うん」
ぼくはうなずいた。
「じゃあ、ぎゅうって抱き合う?」
「それも早いよ」
そう言って、また二人で笑った。
「じゃあ、しっかりと握手で」
「うん」
ぼくたちは同時に立ちあがり、ジャングルジムのてっぺんで、しっかりと、お互いの手を握った。
「元気でね、ハル」
「頑張って、さくら」
「電話するね」
「ぼくもするよ」
「メッセもする。既読スルーとか、やめてよ?」
「気をつけるよ」
「返信は、できれば文章がいいな。スタンプとかばかりじゃなくて」
「……努力するよ」
「また……いろんなこと、話そうね」
「うん」
ゆっくりと、手を離した。
ぼくはジャングルジムの一つ下の段に足をかけ、そこから一気に地面まで飛び下りた。たん、という地面の固い感触。少しだけ、足がしびれた。
「ねぇ、ハル」
さくらがジャングルジムを下りながら、言った。彼女は一段ずつ足をかけ、ゆっくりと下りてくる。
「何?」
「私、次に会う時までに、もっといい女になっちゃうよ?」
無邪気な笑顔を浮かべて、さくらはそう言った。
「そう」
ぼくは素っ気なく、答えた。
「ハルは? もっといい男になる?」
さくらの足が、地面につく。
「ぼくは……」
ぼくは、少し考えた。だけど、さくらの顔を見て、答えを決めた。
「やっぱいいや。このまんまで」
それを聞いて、さくらはくすっと笑った。
「そうだね。私、もっといい男のハルよりも、今のままのハルの方が好きだよ」
「そう」
ぼくは満足げに、うなずいた。
ここから家まで歩いて五分。
ゆっくり歩けば、十分かけて帰れる。
ぼくらはまた昔の話をしながら、その十分の家路を歩きだした。
その翌日、ぼくはこれ以上ないほどに早起きをした。
まだまだ寒いな、とかじかみそうな手に暖かい息を吹きかけながら、ぼくはそう思った。三月も終わりだというのに、太陽が上る前のこの時間では、まだ冬と言っても差し支えないほどに冷たい空気が肌を包む。
真っ暗だった空にようやく青みが差してきたころ、隣家の玄関の扉がかちゃり、と小さな音を立ててゆっくりと開いた。
中から、肩から大きめの旅行カバンを提げているさくらが姿を現す。
「さくら」
ぼくはさくらに向かって、静かに名前を呼んだ。
「ハル?」
彼女にはその声だけで、ぼくが誰だかわかったようだ。玄関脇に設置されたオレンジのライトに照らされながら、驚いたように目を見開いて、ぼくの愛称を呼び返す。
「おはよう」
「おはよ。どうしたの? こんな朝早くに」
短いあいさつの後、さくらはそう尋ねてきた。わかってるくせに。だからそんなにすぐ、落ち着いた声で話せるんだろ。ぼくは心の中で呆れたようにそうつぶやく。
「駅まで送っていくよ、見送りもかねて。空港までは電車で行くんでしょ?」
ぼくはそう言って、そばにあった自転車のハンドルを握り、スタンドを蹴り上げた。
「ほんとに?」
さくらが素直に、顔を輝かせる。
「うん。歩いていくより早いし、疲れないよ。それに……」
「もう少し話、できるね」
ぼくが言い終えるより先に、彼女はぼくの考えていることを見透かしているかのように、その続きを奪って言葉にした。ひょっとしたらそれはただ単に彼女も望んでいたからなのかもしれない。
そう思ってしまうくらい、さくらは本当に、嬉しそうな顔をした。
さくらは今日、この街を出ていく。大学進学が決まり、遠い街でひとり暮らしを始める。ぼくは昨日、さくらと話をして、彼女が夜明け前に家を出るということを聞いていた。引っ越し初日はやることが多く、午前中には新居に到着したいらしい。朝一番の飛行機に乗るために、こんな時間から電車に乗って空港まで向かわなければならない。ぼくらの家から駅までは、徒歩では三十分ほどもかかるため、出発時刻がよけいに早い。さくらは両親を起こさないように家を出て、歩いて駅まで向かうつもりだと言った。
それを聞いてぼくはさくらを駅まで送り届けようと決めた。さくらは本当はぼくにそうしてほしくて、ぼくにそんなことを言ったのだと思う。そんな気がしたから。
ぼくは自転車の後ろにさくらを乗せて、駅までの道を走らせた。空はまだまだ薄暗い。街は静まり返って、人影も車のライトもほとんど見えない。
「ひとりで全部の荷物運ぶの、大変じゃない?」
さくらはどちらかというと華奢な体格だと思う。今まで運動部にいたこともないし、身体を鍛えようなんて考えたこともないだろう。引っ越しの荷物なんて、本当にひとりで全部運べるのか心配だった。
「うちの親は仕事休めなかったみたいだから、仕方ないよ。でも大丈夫、そんなに重い荷物は送らないよ。向こうでそろえられるものは少しずつ買うから。電化製品なんかは、電気屋さんが取り付けしてくれるみたいだし」
ぼくはそれを聞いて納得した。さくらは自分の部屋にあまり多くの荷物を置かない。元々無駄なものはほとんど買わないし、いらないものを分別して捨てるのもすっぱりやってしまうから、部屋の中はいつも整頓されていた。たぶん今回も、本当に最低限必要なものだけを持っていくんだろう。