有理沙と隼は、折り紙ウサギの背中から同時に放り出された。


「うわあっ」


 有理沙は丸い体で転がり、隼は背中から地面に着地をした。

 転がった末に仰向けになった有理沙は、地面でじたばたして体の向きを変え、顔を上げた。日は完全に落ちており、一帯は夜の色の中にあった。けれど筋になって見える竹の幹の並びと、枝のざわめく音で、ここが月乃浦(つきのうら)神社の竹林であることがすぐに分かった。

 二人を振り落とした有毅は小さくなった折り紙ウサギを肩に乗せ、地面で大の字に伸びている隼の頭側に屈んで顔を覗き込んでいた。


「隼、生きてる?」

「もう無理、死ぬぅー」


 本人の言う通り隼は疲労困憊な様相で、しばらく動く気はなさそうだ。有理沙は彼のそばまで歩み寄って、脇のあたりにぺたりと座った。


「帰ってきちゃった……衣兎様、大丈夫かな」


 心残りを、ぽつりとこぼす。すると有理沙の頭に、隼の手が置かれた。隼は地面に仰向けたまま、呼吸を整えるように長く息を吐いた。


「大丈夫だろ。大丈夫じゃなかったとしても、おれたちじゃあ、これ以上なにもしてやれない。あとは当人同士の問題だ」

「うん……」


 月の国はツクヨミが作り上げた、衣兎のための檻だった。ツクヨミは衣兎を愛するあまり、逃げ出さぬように翼を手折り、見えぬ鎖で繋いだのだ。そして衣兎は、檻から出たいと強く願いながら、しかしそれを叶えるにはあまりにツクヨミを愛し過ぎていた。

 人であったことを忘れたウサギたちにとって、月の国はこれ以上ない幸福の地ではあることは間違いないだろう。有理沙も、居心地のよさがなかったとは言えない。しかしそんな場所であっても、ウサギのユウキは最後まで居場所を見つけられないままだった。

 考えれば考えるほど、もっと自分にできることがあったのではないかと、思わないではいられない。衣兎もユウキも救える方法が、あったのではないか。本当に、帰ってきてしまってよかったのか。

 別れ際、衣兎は笑っていた。あの笑顔がまた曇ることがなければいいと、有理沙はただただ願った。


「それで――」


 隼が気持ちを切り替えるように言いながら、顔だけ起こして有理沙を見た。


「有理沙は、いつまでウサギでいるんだ?」


 はっとして、有理沙は自分の前脚を見下ろした。そこにあるのは、煤で薄汚れた白い毛並みに包まれている丸い足先だった。何度か指を曲げ伸ばししてみるが、なにかが変わる様子はまるで見られない。


「……分かんない」

「はあ?」


 頓狂な声をあげて隼が露骨に顔をしかめ、有理沙はにらみ返すように眉間を寄せた。


「だって、どうやってウサギになったかも分かんないんだもん。戻り方なんて分かんないよ」

「分かんないって、それじゃあ――」

「戻れるよ」


 言い合いを始めようとする有理沙と隼を、有毅が止めた。同時に振り向く二人の前で、有毅が体を伸ばす。


「隼、ちょっとどいて」


 あっさりした口調で言われて隼は口をへの字にしたが、渋々と上体を起こした。ややさがった位置で隼は胡座をかき、有毅も有理沙の正面まで移動して再び身を屈めた。


「有理沙、手を出して」


 言われるまま、有理沙は立ち上がってから両前脚を揃えて有毅の前に差し出した。有毅がそれを両手で下から支えるようにつかむと、彼の肩に乗っていた折り紙ウサギが有理沙の前脚の上に軽やかに飛び移った。


「それに、三度息を吹きかけて」

「おい、それ……」


 有毅の指示に、隼が反応した。しかし続く言葉を有毅に目で制され、隼は忌々しそうにため息をついて顔を背けた。有理沙は彼らのやりとりの意味が分からず、やや不安になって有毅を見上げた。


「なにかあるの?」

「なんでもない。ほら、早く」


 有理沙を見下ろす有毅の眼差しは、過去にないほど真摯な色をしていた。引っかかりを覚えながらも、有理沙は折り紙ウサギを口元へと寄せた。口をすぼませて、ゆっくり三度、息を吹きかける。

 変化は、すぐに現れた。折り紙ウサギが乗っていた前脚が膨らむように大きくなり、目線までもが一気に高くなったのだ。まばたきする間に前脚の指がひょろりと長くなり、体表を覆っていた白い毛もなくなる。代わりに、紺のブレザーの生地が、手首から上の肌を隠していた。


「戻った!」


 自分の体を見下ろして、人の姿とはこんなに視点が高かったのかと有理沙は驚いた。自身で思っていた以上にウサギの体に馴染んでいたらしく、地面がもの凄く遠く感じられる。制服のスカートもローファーも、月の国にいった時そのままで、どういう仕組みか着衣ごとウサギになっていたことが判明した。頭に手をやってみたが、やや乱れた髪が触れるだけで、長い耳もなくなっていた。


「本当に元に戻った! ありがとう、有毅――」


 勢いよく視線を正面に戻して、有理沙は硬直した。有毅がいるべき場所に、白ウサギが二本脚で立っていた。白ウサギは、頬の毛をふっさりと膨らませて赤い目を細めた。


「よかった、うまくいって」


 白ウサギは、有毅と同じ声で言った。急に心音が早くなるのを、有理沙は意識した。


「なんで、有毅がウサギに?」


 有理沙が慎重に問うと、有毅は三角形の鼻をひくつかせた。


「ぼくらが双子だから」

「それが、ウサギになんの関係があるの?」


 ウサギの体に違和感があるのか、有毅は自身の長い耳を撫でつけながら答えた。


「ぼくらは同じ血を分けて同じ日に同じ顔で生まれてきた。だからぼくらは、それぞれの身代わり――形代(かたしろ)になることもできるんだ。有理沙の体にあったツクヨミの力や穢れは、今のでぼくに移った」


 有理沙の手の上にいた折り紙ウサギが跳ねた。毛づくろいに満足したらしい有毅の額へと、折り紙ウサギは着地する。


「隼」


 呼びかけながら有毅は、胡座に頬杖をついてそっぽを向いている隼に向き直った。


「疲れてるところ悪いんだけど、最後にもうひと仕事だけいいかな」


 隼は返事をしなかった。不機嫌そうにむっつりと黙り込み、有毅と目を合わせようともしない。それでも有毅がじっと視線を送り続けていると、やがて根負けしたように、隼は長々と息を吐き出した。振り向いたその表情は、それでもやはり納得しているようには見えない。


「有毅、始めからこうなること分かってただろ」


 隼に凄むように言われても、有毅はまるで動じずに肩をすくめた。


「始めからは分ってないよ。隼が新しい体をくれたあたりから考えてはいたけど」


 隼は恨めしそうに、目を据わらせた。


「ほんと、なんにも言わないよな」

「隼にだけは言われたくないかな」


 この野郎、と隼が口の中でごく小さく言うのが有理沙にも聞こえたが、有毅は相変わらず涼しい顔をしている。隼は何度目かのため息をついて、緩慢に立ち上がった。


「拝殿の前で待ってろ。準備してくる」


 重そうな足どりで、隼は暗い竹林を社殿の方角へと歩み去っていく。すっかり二人の会話に乗り損なってしまった有理沙がその背を見ていると、有毅が気を引くようにスカートの裾を引っ張った。


「有理沙、ぼくらもいこう」