ピピー、と試合終了のホイッスルが鳴る。稲江高校のメンバーは膝に手を付き、項垂れた。その目に涙が光る。27対22。1トライ差の接戦だっただけに三年の先輩たちは悔しいだろう。それでも浪越高校のメンバーを称え、握手をしている。小春は早紀と一緒に、控えメンバーが肩を落としながら帰り支度をする後を追った。
笠寺先輩たちは、この試合をもってチームから卒業する。あとは受験勉強に励むようになり、小春たちとの接点はなくなる。寂しい、と小春は思った。
二月に入っていた。冬の午後は空気ごと金色に染まったような雰囲気になる。たまの日差しだからそう思うのだろうか。ぬるい日差しを受けながら、小春たちは本日の授業を終えて校門をくぐっていた。
「竹内。ちょっと悪いんだけど、そのキーホルダー、どこで買った?」
校門を出たところで、背後から声を掛けられて、ちょっとびっくりした。今日は土曜日で、これから早紀とお茶でもしようかと言っていたところだった。隣を歩いていた早紀と、思わず顔を見合わせて、それから一緒に背後の声の主を見た。其処には笠寺先輩が立っていた。
「せ、先輩! お久しぶりです!」
学校指定のブレザーが憎いほどよく似合う。部活をしていた時より少し伸びた前髪を鬱陶し気に掻き上げると、笠寺は浪越戦以来だな、と微笑んだ。その笑顔にどきりとときめいてしまう。隣の早紀も同じようなものだ。
ラグビー部で、快速ウイングでチームの得点源だった笠寺先輩。先輩は爽やか青年というルックスと気さくな人柄で、彼の人気で女子にあまり好まれないラグビー部の試合に稲江高校の女子を応援に動員できたほどだ。小春たちが憧れるなという方が無理だ。
「うん、元気そうで何より。ところでさ」
「あ、キーホルダー、でしたっけ?」
小春が言うと、笠寺は、そう、と頷いた。
小春が鞄に着けているクマのマスコット付きのキーホルダー。それがどうかしたんだろうか?
「それ、何処で買った? 出来れば同じやつが欲しいんだけど」
「同じやつ、ですか?」
憧れの笠寺にキーホルダーのお揃いを願われるとは思わなかった。一瞬でときめきが増したが、しかし笠寺は小春の心中(しんちゅう)も知らず、無情なことを言う。
「そう。俺の親友がさ、そういうキーホルダーが欲しいって、言ってたんだよ」
笠寺の親友ともなれば、当然男子だ。その人を、小春は笠寺を追いかける視線の先で時々見ていて顔だけは知っているが、そんな男の人がどうしてこんなかわいいクマのキーホルダーを欲しいと言うのだろうか?
「……おかしくないですか? 男子の先輩が、こんなクマのキーホルダー……」
「いやでも、あいつが言う特徴を総合すると、それだとしか思えないんだよ。特に、首にリボンが付いてるだろ? リボンが付いてて更にチェックのなんて、何処にもなかったんだよ」
笠寺の言葉を聞くと、既にキーホルダーを探し回ったことが分かる。このキーホルダーはショッピングセンターのUFOキャッチャーで取ったものに小春が自分でリボンを巻いたものだった。そう説明すると、そのUFOキャッチャーでキーホルダーを取ってくれないか、と頼まれた。
「俺、ゲーセンとか全然駄目でさ。細かいこと向いてないんだよ、ラグビーボールが限界。だから頼む」
ぱん! と手を合わせて拝まれてしまっては断れない。そもそも小春に笠寺の頼みを断るなんて選択肢はなかった。
「……じゃあ、まず、ショッピングセンターに行きますか?」
「助かる! 持つべきはやさしい後輩だな!」
嬉しそうに笑みを浮かべる笠寺に、ちょっとだけ胸が痛む。そうだよな。後輩としか、思ってもらえてないよな。そんな気持ち。それを振り切って、じゃあ、行きましょうか、と笠寺を促した。
笠寺には卒業までにどうしてもしておきたいことがあったのだと言う。
「親友にさ、なんか覚えていてもらえるようなプレゼントがしたかったんだ」
高校に入って友達になったというその親友さんの二月の誕生日プレゼントに、高校を卒業しても自分のことを覚えていてもらえるような、そんなものを贈りたかったのだそうだ。
尾上という名前のその笠寺の親友は、笠寺が太陽のような笑顔を浮かべるのに対して、どちらかというと夜空の月のようにすました表情で校内を歩いているところを見かけていた。
「……それが、こんなキーホルダーなんですか?」
「うーん……、もうそれしか思い当たらなくてさあ……」
最近、家の鍵につけているキーホルダーが壊れたといった尾上に、笠寺は丁度良いから自分がいいものを見繕ってあげると約束したそうなのだ。
「……もっと、記念に残りそうなものって、ありますよね……?」
「うん。だけど、あいつ物欲ないし、余分なものも嫌うから、だったら必需品がいいかなと思って」
尾上のリクエストを聞くと、どうもその色形、更にはリボンの柄までが、小春が鞄につけているキーホルダーに似ているような気がするんだそうだ。
「えーと……、でもおんなじのを取ったら、私とおそろいになりますよ…? リボンも、其処の手芸屋さんで買えますけど」
「あ、それは、竹内がイヤだったら、リボンの柄とか違ってもいいから」
兎に角、尾上のリクエストに応えたい笠寺は、頼む! と頭を下げてくる。想いを寄せる先輩にそんなに何度も頭を下げられてイヤだなんて言えない小春は、早紀も一緒にゲームコーナーへ向かうことにした。
学校から、駅を挟んで反対側にあるちょっと寂れた風のショッピングセンター。一階フロアの隅っこに、ゲームコーナーが設えてあった。数人の子供が遊具に乗って遊んでいて、他にも学生が一組居た。近所の人が買い物に来るようなショッピングセンターだから、子供用の遊具のほうが多くて、ゲーム機は十台もないほどだった。
「ここに、こんなのあったのか……」
そう言って、笠寺は珍しいものを見るように辺りを見回していた。小春と早紀は、いつものゲーム機の前に鞄を置いて、そうして振り返って笠寺を呼んだ。
「先輩。……これですよ? こんなのでホントにいいんですか?」
キャッチャーの中には丸いケースに入った色々な雑貨が積んである。一セット二百円で、つまり、上手くしたら二百円の代物を、笠寺は親友にプレゼントであげようというのだろうか。
「うん、いいよ、いいよ。でも、一応試しに俺がやってみてもいいか?」
「勿論ですよ」
「私たちが位置教えます」
そう言って、小春と早紀はキャッチャーのケースを二手に分かれると、まずお目当てのキーホルダーを探した。しかし、生憎拾いやすいところには見当たらない。
「先輩。二百円では上手くいくか分からないんで、一応四百円賭けのつもりでいてくださいね」
「オッケー、分かった」
笠寺がそう言って硬貨を入れてボタンを押す。アームが伸びて、小春と早紀は笠寺を誘導した。
「もーちょっと右だと思います」
「ちょっとずつ、こっちに伸ばして……。ああっ、来すぎたぁ」
悪戦苦闘したのに、結局目的のカプセルが取れなかった笠寺は、「よろしく頼むわ」と言って、小春にバトンタッチをしてきた。小春も一回の挑戦では取れなくて、結局四枚の硬貨をつぎ込むことになったけど、なんとか目的のカプセルは取り出し口に出てきた。コロンと丸いカプセルの中に、小春とお揃いのキーホルダー。
そして次は、その向かいにある手芸屋さんだ。小春のキーホルダーに付けてあるのと同じチェックのリボンを買って、裁縫セットのハサミで短く切ると、キーホルダーのクマにリボンを結ぶ。出来上がったクマのキーホルダーを、笠寺は嬉しそうに見た。
「これでホントにいいんですか?」
「うん。サンキュ」
そう言って、これはお礼、とポケットからチョコレートの箱を取り出して渡してくれた。でも、小春たちはゲームコーナーで遊ばせて貰っていたのであって、そんなの申し訳ない。
「いいですよ。それより先輩が食べてください。勉強疲れに甘いもの」
「いや。本当にこれが欲しかったから、助かってるんだ。リボンまで結んでもらって、言うことないんだよ。な、受け取って欲しい」
笠寺はそう言うとチョコレートの箱を小春と早紀にぐいぐいと押し付けてきた。そこまでされて受け取らないのも失礼だろうと、二人は箱を受け取った。
「ありがとうございます」
「こちらこそ、本当にありがと」
笠寺が本当に嬉しそうに言うものだから、小春たちまで嬉しくなる。彼の親友さんに対する気持ちが、ちゃんと伝わるといいなと思った。
チョコレートは早紀と半分こした。
ところがその翌週の水曜日、小春が帰宅しようと校門に向かっていると、なにやら校門のところで立たされんぼな笠寺を見つけてしまった。待ち合わせか何かかと思ったけど、それにしては、頭を項垂れてしゅんとした様子だ。何があったのだろうと、帰宅する学生が通るので賑わう校門の近くまで行くと、笠寺は一人で立っているわけではなかった。
項垂れる笠寺の隣に、むっつりと怒ったような顔の人。笠寺の親友の、尾上という人だ。
薄い金色の日差しの中で、髪の毛がその光を弾いている。ちょっと背は低いけれど、鼻筋の通った綺麗な顔立ち。笠寺とは別方向のイケメンで、画面越しにいるアイドルみたいなきれいさ。
しかし、どうしたんだろう?
主に、笠寺が、の意味でそう思って、そうして小春は校門のところの二人に近寄ってみた。すると、先に尾上が小春に気付いて、それから笠寺もこちらを見た。
「竹内……」
「先輩。どうしたんですか?」
笠寺が部活中には聞いたことのないような情けない声を出すものだから、心配になって駆け寄った。すると、尾上が笠寺と小春の間に割り込んできて、小春の視界に入ってきた。
「竹内小春さん」
名前を呼ばれて、ちょっと緊張が走る。どうして尾上はそんな怒った顔で小春のことを見るのだろうか。
「……はい」
ちょっと恐々返事をしたら、尾上はずいっと拳を差し出してきた。
手のひらを下に向けた、拳。それを小春の目の前に突き出している。
「これ、返す」
これ、と言われて、反射的に手を出してしまった。口をへの字に曲げた彼の拳から落とされたのは、間違いなく、この前笠寺と一緒にゲームコーナーでとったキーホルダーだった。ちゃんとチェックのリボンが巻かれている。
「え……、これ……」
手のひらのキーホルダーを見つめる小春の前で、二人は同時に声を発してきた。
「返しとく。君も気分悪いだろ」
「尾上、ひでぇぞ!」
怒った声で言う人の声に笠寺の声が被さる。それでも動じずに、その人は言った。
「君の付けてるキーホルダーを盗み見たのは、悪かった。これは返しておくから、これでこのことは忘れてくれ」
「尾上ぇ!」
「うるさい! 笠寺! お前も、頭働かせるんだったら、違う方に働かせろよ!」
思い切り嘆く笠寺の耳を引っ張って、その人は、じゃあ、と言って小春の前から立ち去っていった。笠寺の喚く声が随分遠くからも聞こえていて、一体何が起こったのだろうと考えてしまった。
「…………」
手のひらに残された、キーホルダー。
尾上は笠寺からちゃんとキーホルダーを受け取っていたようだった。なのに、これを要らないと返してきた。この前の笠寺の話だと、このキーホルダーは彼の要望にとても合っている物のはずだし、だったら何故これを返してきたのだろうか。
彼の先刻の言葉を思い出す。
彼は、小春のキーホルダーを盗み見た、と言ってなかっただろうか。別に鞄に付いているキーホルダーだから、通りすがりに目に付いたくらいのことはよくある話だ。そしてそれをたまたま気に入ってしまうっていうことも、ないとは言い切れないだろう。だから、彼が申し訳なく思う必要もないと思うのだけど、何が彼にそんなに罪悪感を覚えさせているのだろうか。
同級生の男子の山澤もゆるキャラ好きで、小春のキーホルダーのクマの絵の付いた定規を持っている。だから、同じ物を好んだからと言って、別に嫌な気持ちにはならないと思うけど…。(まあ、リボンはどうかと思うけど)
「それ、ヘン」と言われるよりも、「それいいね」と言われたほうが嬉しいし、同じ物を欲しいと思われるようなことがあったら、それはそれでイイ気分なものだ。(相手にもよるのかもしれないけれど)
小春は自分のキーホルダーをそれなりに気に入っていたし(だってリボンを巻くくらいなんだから)、たかがキーホルダーだけど、同じものが欲しいなんて、自分のセンスを認められたような気がして悪くない。(だってリボンを巻くくらい好きなのだし)
もし、そこを彼が誤解しているのだったら、それは解いてあげたいし、笠寺の気持ちのためにもこれは彼に持っていて欲しいと思う。
もう、声も聞こえないくらいに遠くに消えてしまった彼らを、明日探そうと思う。そして、笠寺の気持ちのことをちゃんと話して、自分も別にイヤな気持ちではないと伝えて、これを彼に貰ってもらおう。笠寺の、彼を大事に思う気持ちが、それで届けばいいと思った。
「お前、馬鹿かっ!」
校門から引き摺られてグラウンドをぐるっと反対に回り込んだフェンスの裏で、尾上は叫んだ。
「なんだよ、なんだよ! 尾上があんなの欲しいって言ってたから、俺、ゲーセンで投資してきたのに、なんで貰ってくれないんだよっ」
「貰えるか! あんなの!」
嘆く笠寺に再び怒鳴った。本当にコイツは鈍いんだ。
「ひでぇぞ、尾上! 俺、ホントに記念に残るものをやりたくって……!」
「だからって、本人に聞くか!? 普通!」
「なんだよ、本人って!」
ほら、やっぱり鈍い。大きなため息をついて、仕方なしに尾上は笠寺に説明してやった。
「あのなぁ、笠寺。俺が見たこともないキーホルダーのことを、詳細に説明できるわけ、ないだろ?」
「え……? あ……、言われてみればそうだな。じゃあ、どっかで竹内のキーホルダー、見かけたんだ?」
笠寺の返答に、これまた深いため息が出てしまう。コイツは本当に悪気があった訳じゃないんだ。そんなことは十分すぎるほどに分かっている。だけど、分かっているからって言って、あれを受け取れるほど、自分はあつかましく出来ていないのだ。
「……そういうことになるな。人のもの、盗み見るなんていいことじゃないだろ? 竹内さんもいい気はしないと思うし、だからあれは返した」
「……そうなんだ…。……そんなもんかなあ?」
「そーゆーもんだ。知らない、しかも男子にじろじろ自分の持ち物見られてたら、いい気はしないだろ、普通」
「……じろじろ見てたのか?」
笠寺の突っ込みに、うっと言葉に詰まる。言葉の例えのことだけど、実際、じろじろ見てしまっていたかもしれない。
「……そんなに気に入ってたんだったら、竹内はそんなこと気にしないと思うし、返すことなかったと思うけど……」
「俺が気にする」
笠寺はどうしても自分にあのキーホルダーを渡したいようだった。だけど、絶対に受け取れない。と言うか、もう竹内小春に会うことだって、出来ない。
「兎に角っ! あれはもう返した。物なんかなくても、俺はお前のこと忘れないと思うし、それで良いんだろっ!?」
「……えー、でも、なんか記念に残したい気もすんだけどなあ……。尾上、過去は振り返らないからさぁ……」
「そんなの、女子じゃないんだから、いらない! お前、これだけ俺に言わせてまだ足りないのか!」
恨みがましそうにちろりと見てくる笠寺に噛み付くように言う。まったく、恥ずかしいったらありゃしない。
尾上の言葉に、笠寺の顔が途端に綻ぶ。大きな体でぎゅっと抱きつかれて、思わずぐえっと声が出てしまった。
「おのうえー! お前っていいヤツだよなー!」
「うるさい、笠寺! 放せ、放せっ!」
声を張り上げて抗議したけど、体の大きな笠寺は聞いちゃくれなかった。
翌日、小春は渡り廊下を通って南校舎の三階に来ていた。そこに横たわる空気はぴりぴりしていて、いかにも受験生がいっぱい居ます、といった雰囲気だ。思わず気後れしそうになるのを、握り締めたキーホルダーへの意気込みでなんとか廊下を進む。
尾上のクラスが分からないから、三年生の教室を一つずつ覗いて行った。おどおどと覗くからいけないんだろうと思うけど、覗くたびに教室の中に居た先輩たちに変にからかわれてしまう。セーラー服のリボンが二年生の緑色なので、それでだと思う。それでも彼を見つけなければいけないと思った。
三つ目の教室を覗こうとしたときに、丁度廊下の前方に頭ひとつ分飛び出して歩いている人を見つけた。笠寺だった。
「あれっ? 竹内?」
「笠寺先輩」
緊迫した雰囲気の中、朗らかな笑みにほっとして、廊下を駆け寄った。すると、賑わう廊下の人を掻き分けて寄った笠寺の隣には彼が居た。
「あ……っ、……」
「お前……っ」
驚いたような彼は、すぐに表情を引き結んで、こちらへつかつかと歩み寄ってくると、キツイ声を飛ばしてきた。
「お前、なんでこんなとこに居るんだっ」
「だ……、だって、先輩……、こ、これ……」
『お前』と呼ばれたことにも気が付けない程、尾上の顔が怖かった。だけど小春はなんとかそう言って、握り締めていたキーホルダーを差し出した。笠寺の気持ちの詰まったこれを、どうしても彼に受け取って欲しくて、彼の目の前に差し出し続けた。すると。
「おーい、尾上。何、後輩たぶらかしてんだよ」
丁度真横の教室からはやし立てるような声が飛んだ。その声に、尾上が教室の声の主に向かって大きな声を放った。
「うるさい! そんなんじゃないぞ! ちょっと、お前、こっちに来い」
声の半分は小春に向けられたものだった。そのままぐいぐいと強い力で腕を引かれて廊下を歩く。笠寺も慌ててついてきてくれた。
廊下をまっすぐ歩き切って突き当たりの階段を踊り場まで下りる。そこで漸く強く握り締められていた腕を解放してもらえて、小春は思わず腕を擦っていた。
少しぴりぴりした様子の彼に、思わず呼吸が小さくなる。彼は腕を放すと小春に向き直って、固い声で言った。
「……俺、これのことは忘れてくれって言ったよな?」
確かに彼はそう言っていた。でも、このキーホルダーに篭められた笠寺の気持ちを考えたら、どうしてもこれはこの人に持っていてもらいたいと思ったのだ。
「で、……でも、笠寺先輩が、折角……。……笠寺先輩の気持ち、無下にしないでください」
憧れの先輩の親友さんに先輩の気持ちを受け取ってもらいたい。そう思ったが、目の前の人の雰囲気に、つい声が弱々しくなってしまった。その小春の様子にか、小春の言葉にか、彼はため息をついて、そうして応えてきた。
「笠寺の気持ちなら、昨日貰った。……だから、もうそれは要らないものだし、君が捨てておいてくれたら、それでいい」
「え……、でも……」
戸惑う小春に彼は続ける。
「そんなの、気持ちなんて、物がなくたって残るもんだし、……だからホントに要らないんだ。だから、君が捨ててくれるんだったら、それが一番嬉しいんだけど」
そんな風に言われたって、そんなこと出来ない。だって、クマにリボンを巻いた時、笠寺は本当に嬉しそうにしていたのだ。
「で……、でも、笠寺先輩は、本当に、……尾上先輩の為に、これを取ろうとしたんですよ……? それを、私が捨てるなんて、出来ません」
お願いですから受け取って下さい、ともう一度キーホルダーを差し出す。でも、やっぱり硬いため息が漏れ聞こえて、小春はびくりと肩を竦ませてしまった。
「……本当に、笠寺とのことは、物なんてなくてもいいんだ。……でも、もし君がそのキーホルダーになにか気持ち篭めてくれるんだったら、貰ってもいい」
急に矛先を自分に向けられて、小春は一瞬何を言われているのかと思った。ぱちりと瞬きをして、目の前の人を見ると、思いのほかまっすぐにこちらを見ていた視線にぶつかった。
「え……、と……?」
考える。このキーホルダーは笠寺が彼の為にと考えたものだから、小春が持っているわけにはいかないと思った。だから、これを受け取ってもらえるのなら、何とか考えなくては。
「え、と……。……じゃあ、受験、合格しますように、……とか?」
「それ、真剣に思ってるか?」
何とかひねり出した応えに、そんな風に聞かれても困る。それなのに彼は更に続けた。
「そんな、俺のこと知りもしないヤツから、色々貰っても嬉しくない。その辺の女子と同じになるつもりか、お前」
彼の考えたことは分からなかったけど、酷いことを言われたことだけは分かった。
「先輩、ひど……」
「どっちが酷いんだよ」
きっと睨みつけられて、思わず立ちすくむ。視線を逸らさずに見てくる彼の瞳が、彼のことを知りもしないのに、何故か悔しそうに歪んだように見えた。
「お前の気持ち篭ってないものを、お前の手からなんて、貰えるか。出来ないんだから、捨てて忘れてくれ」
それだけを言って、彼は小春の目の前から立ち去って行った。背中に階段を上っていく彼の上履きの音を聞きながら、何故自分はこんな気持ちを味わわなければならないのかと思った。
呆然と手のひらのキーホルダーを見る。その小春の様子を見て申し訳なさそうな声で謝ってきたのは、笠寺だった。
「……ごめんな、竹内……」
「……先輩……」
「本当に、ごめん。俺があんなこと頼まなかったら良かったな」
笠寺が謝ってくれるけど、悪いのは笠寺じゃないと思う。
「……笠寺先輩は悪くないですよ」
「でも、俺が竹内を巻き込んだ所為で、嫌な思い、しただろ?」
確かに嫌な思いだ。……でも、今心の中を駆け巡っているのは、違う気持ちだった。
……何故、彼は、小春を見て悔しそうにしたのだろう?
強烈に網膜に残る、あの、瞳。
あの瞳に、なんだか、胸の奥を抉られたような気持ちになったのだ。そのくらい、強い、歪んだ視線だった。
どうしてそんな視線を向けられるのか、分からない。知らない間に、自分は彼に何かをしてしまったのだろうか。
「……それ、俺が処分した方がいいな……」
笠寺が手を差し出してくれたのを、ぼんやり見る。
これは、笠寺の思いが詰まったキーホルダーで。でも、笠寺の気持ちは物なんてなくても残るんだって言ってた。だったら、そこに小春の気持ちが篭っていないことを、何故責められなければいけないのだろうか? だって元々知らなかった人なのに。
「……笠寺先輩……」
うん? と笠寺が応えてくれる。だから小春はぽつりと言うことが出来た。
「……やっぱり、これ、捨てられないです。……それに、尾上先輩のことも、あのままにしとけない……」
抉られた心の奥を、何とかして埋めたい。強い視線に足元を絡め取られた小春が出来ることは、それくらいだった。
「……悪いやつじゃないんだよ、尾上は」
踊り場に座り込んだ笠寺がポツリと言った。
小春も笠寺の隣にしゃがみ込む。腕を膝に乗せて首を少し項垂れるようにしている笠寺のことを、小春はその隣からそっと覗き込んだ。なんだか、捨てられた子犬みたいで可哀想だ。
「……笠寺先輩の親友さんですもんね」
小春が言うと、笠寺は気弱にそれでも嬉しそうに笑った。
「あんな顔立ちだからさ、誤解されるんだけど、すっごい男気だし、でもすごく人にはやさしいんだぜ。……だから、俺、あいつの親友やれて、すっげー嬉しかったんだ」
話す笠寺が嬉しそうで、本当に彼のことが大好きなのだと分かる。小春も、親友の早紀のことは大好きだから、そういう気持ちはとってもよく分かる。早紀には幸せになって欲しいと思う小春の気持ちと、笠寺が尾上にプレゼントを贈りたいと思う気持ちは似ているんだと思う。
「だから、卒業して縁が切れるのが、やだなと思って」
その気持ちも分かるから頷くことで返事をする。笠寺はほっとしたみたいに笑った。どきり、と胸が弾んだ。
「今までの誕生日に、プレゼントなんてあげたことないんだ。尾上、物欲ないし、欲しいもんは全部自分で揃えるし」
その彼が、壊れたキーホルダーのことを言ったときに、じゃあ自分が探してあげるから、どんなのがいいのか教えてくれと頼んだとき、彼は本気にしてない様子で、キーホルダーの形状なんかのことを話したのだそうだ。
本気にしていなかった様子だったから、ますます意中の物を見つけてやろうと思った。まさか、人のものを見て、それが欲しいなんて言っていたとは思わなかったのだと言う。
「あんまり、初対面の人に興味持つ方じゃないし、だから、あんな風に初めて会った人に声を荒げるなんて、なかったんだぜ……?」
笠寺の言葉に、だったらやっぱり小春が知らないところで、自分が彼に何かをしてしまったのかもしれないと思った。
小春の心を抉った、あの視線。
「……じゃあ、私がなにか悪かったのかもしれませんね」
「竹内?」
「だって、私のキーホルダーのこと、知ってらっしゃったんだし、私が知らないうちに、尾上先輩の気に触ることを、何かしてたのかもしれない」
だから、小春が介在した笠寺からのキーホルダーを受け取らなかったんじゃないのだろうか。それでも、あの悔しそうな瞳の意味は、分からないけれど。
「……分からないけど」
笠寺が言葉を探しながら、言う。
「分からないけど、そんなこと、あって欲しくないと思うし……、ないんだとしたら、何であんなこと言ったのか、やっぱり分からないんだけど……」
「……あるんだと、思いますよ……」
あの瞳が、その表れだ。きっと、何かをしてしまったに違いない。
知らずとはいえ、何か不快な気持ちを与えてしまったのだとしたら、それは素直に謝りたい。そうして、他意はなかったと誤解を解いてもらって、笠寺のキーホルダーを受け取ってもらえたらいい。今のままでなんて、彼が言うように忘れることは出来ないし、捨てることだって出来ない。
忘れて欲しいと言ったくせに、自らの行動で小春に強烈な印象を残していることを、きっと彼は気付いていないに違いなかった。