女子高生は一人、夏を生きます -1-
 

 P r o l o g u e



「なに、食べたい?」
 低い喉鳴り声で彼は私にそう聞いた。
 私が少しだけ遅れて彼の後ろを歩くので浴衣が風になびく。砂のグラウンドは今だけ祭りの喧騒に一役買い、特別な一日のため、屋台は煌びやかに明かりを灯していた。
 ふわりと普段の彼からは違う匂いがした。ちょっと値の張るような上質な香りが私の方へ流れ込む。今日のために買ったのだろうか、それともお出かけの時にはいつも香水をつけるのどうか。どちらにしても私のためにしてくれたのを考えると悪い気はしなかった。
「あれ、林城さんの妹さんじゃない?」
 彼がそう指さす先には地元の中学生が列を作って踊る姿があった。曲目は毎年同じで、「みんなおいでよ、よか地元へ」だ。口ずさんむ程度には私も覚えている。何しろ去年まで私もあの列に並んで恥ずかし気もなく舞っていたからね。それより・・・
「えーと、まあそうなんですけれど、菊池くんに妹の話したことありましたっけ?」
 少し気持ち悪くなって訝しげに目を向ける。
「え! あれだよ、クラスのやつに林城さんに妹さんがいるって聞いてたから、もしかしたらそうなのかなって思って・・・」
 太鼓や笛の音が祭りばやしを奏でる。そのノスタルジックな音色に彼の弱弱しい言い訳は消えていくばかりだ。
「そうでしたか。まあ夏憐ちゃんは有名ですしね。それより、あそこの、はし巻きを食べてみたいです。菊池くんもどうですか?」
「うん、いいね。行こうか」
 少し歩いてはし巻きの屋台を目指す。煌びやかにオレンジの光が屋台から洩れ、人込みが影を落とす。私には少し多すぎる人の量に目眩を覚える。既に真っ黒になった空を見上げて気を逸らした。
 店の前まで来てざっとディスプレイに目を通す。
「うーん、どれにしようかな。林城さんは決まった?」
「はい、私は決まりましたよ。それとここは私が出すので、菊池くんも好きなもの頼んでくださいね」
「え? いいっていいって俺が誘ったんだから、俺が払うよ」
 身振り手振り、そして心底真面目な顔で力説する彼は、下心など一切ないように見える。
「いや、そう言ってさっきの飲み物奢ってもらったので。次は私の番ということで、ほんと気にしないでください」
「ええ、でも・・・」
「すみません、めんたいマヨ味と、・・・菊池くん、どれにしますか?」
 私がお店の人に注文を始めると、どこか申し訳なそうな顔をしながら「普通のやつを・・・」と彼も続けた。

×××

 夜も深まり、ひぐらしの鳴き声も静まってきた。近くの森林から蝉の声は途絶えて久しい。熱した地面の匂いは澄んだ空気に消えていき、座ったベンチは火照った体から呼吸を促す。沈黙の仲にゆっくりと時間は流れる。
 花火の時間までもう少し。左手にはめたディジタル時計によるとおよそ一〇分といったところか。一人で過ごす夏も楽しいが、誰かと共にあるのも悪くない。
「林城さんは、こういう祭りとかは好きなタイプ?」
 壇上で催されるビンゴ大会を眺めながら、菊池くんが聞いてきた。薄暗くて見えないが、前を向いたままのようだった。
 祭りの中心から離れた森の影に重なって私たちは互いの顔もよく見えない。
「はい、好きですよ。お祭りも、音頭も、この地元も、そして夏も。ちょっと古臭いですけどね」
 静かで長閑な田舎、だけどそれは私からすれば幸せ意外の何物でもない。代えがたい宝物なのだ。
「林城さんが育った街だもんね、素晴らしいに決まってるよ」
 菊池くんとは、高校の同級生だ。と言ってもまだ一年生なので、初めてのクラスメイト、と言った方が正しい。夏休みも終わろうとする八月中旬、明後日から二学期が始まるのだが、私の地元で開催される納涼夏祭りに行かないか、と誘われた。
 元々一人で行く予定だったのだが、断る理由も無かったので承諾した。大人数で行くなら絶対に拒否していたところだが、彼一人なら大丈夫だろうという判断だ。
「そんなことないですよ。いや、それは語弊があるんですけれど、まあ素晴らしい街ですよ。是非、菊池くんもまたいらしてください。色々おすすめ教えますから」
 私はこの街が好きだ。海も、山も、古き良き商店街もある。田舎なのがたまに傷だが、それもまた赴きになる。
「え! 本当に! いいの? 是非!」
 まるで子供みたいにはしゃぐ菊池くんは犬みたいだ。顔に出やすくて暗闇の中でも何を考えているか分かる。
「ええ、例えばラーメンなんか好きですか? ここは味噌ラーメンが美味しんですよ。駅の近くにある店なんか一時間待ちとかざらですからね。私もよく行きますよ」
「本当に! じゃあ今度一緒に行こうよ!」
「え? 私とですか?」
「え、うん! 林城さんと行きたい!」
 まただ。また、そうやって無邪気な顔をして、無責任なことを言う。いや、無責任なのはこっちか。
「いやー、最近行ったばかりなので、どうでしょう。しばらくは行かないかもしれません」
「そっかー、残念だなー、他は何かないの?」
 有名なのは、日本酒、温泉、だが、どれも子供向けではないよね。かと言って海水浴と言うわけにもいかない。いや困ったな。まあ普通に食べ物でいいか。二度はないだろう。
「水まんじゅうというのは聞いたことありますか? ちょっと塩分が多いお饅頭に砂糖をかけて食べるんです。昔からある郷土料理なんですけど、最近若い子の間でまた流行っているでんす。専門のカフェとかもオープンしたりして、話題の食べ物なんですよ」
 私も早く行ってみたいよ、ほんと。果たしておばあちゃんの味に勝てるのかどうか、待ってなさい!
「初めて聞いたな、それ。いつならいい?」
「え? なにがですか?」
「いや、林城さんの空いてる日はいつかな、と思って」
「私ですか・・・」
 思わず腕を組んだ。
 けれどそのくらいは許してほしい。本当はため息をついて愚痴を零したい気分なのだから。けれどそれは余りに失礼な事くらい、私にだって分かる。
「いやー、どうでしょう。それは厳しいかもしれませんね」
「忙しいってことですか?」
 高校一年生の女の子がご飯に行けないくらいの忙しさなわけないでしょ。もう察しが悪いな。
「最近、ちょっと色々あってですねー。あんまり、そういう気分じゃ・・・」
 そう、最近、唐突に私を誘ってくる男が現れてですね。嫌じゃないけど、正直面倒くさいというか、ダルというかですね、はい。
「ああ、そういうことか、ごめん、なるほどね」
 お、なんだ物分かりがいいじゃないですか。意外と馬鹿じゃないのかな? 何にしても丸く収まりそうでよかったです。
「林城さんのお家のことだよね? 大丈夫、聞いてるから。俺は気にしないよ。だって林城さんは関係ないから、俺は分かってるつもり。そういうのは勝手に言わせておけばいいんだよ。大丈夫、いざというときは・・・」
 気が付けば、壇上の上で夏憐ちゃんが街のお偉いさんと手を取り合ってカウントダウンをしているのが見える。もうすぐ花火が上がるらしい。海の向こうでは今頃、役人たちが花火の種に着火しようとタイミングを計っているのだろう。せっかくの花火も今年は嫌な思い出になっちゃったな。夏憐ちゃんと帰る約束だったけれど、後で連絡を入れておかなくちゃいけない。
 隣で何やら自分に酔いしれる男はほっといても大丈夫だろう。とんだ間抜けだと分かったことだし。踏み込ませないうちに撤退するべきだ。
「すみません、私これから父の所に行かなくちゃいけないので、そろそろ・・・」
「え? 今から? もう花火上がるよ?」
 誰のせいで花火見られないって思っているんだよ。
「ええ、すみません、じゃあまた学校で―――」
 言いながら席を立とうとした時だった。
「痛い!!!」
 そう叫んだのは自分だった。
「あ、ごめん!!! だ、大丈夫?」
 痛いと感じた右手首を見ると掴まれている。男の大きな掌が私を逃すまいと、私は捕らえられた。汗でべとべとした掌が汚らしくも私の肌に触れていた。

「ちょっと! 離して!!!」
「ご、ごめん・・・」
 引き抜いた手首が赤くあざになっている。まだ力が入らない。腕の先に血が通っていないみたいだ。乱暴に扱われた気がして男を睨む。汚らしい男を見る。クズだ。
「やめてください・・・」
 男に背を向ける。祭りの会場と真逆を向いた。浴衣じゃなかったら走り出したい気分だった。いや走ることをしなかったのは、あくまで冷静を装いたかったからなのかも。
 夏憐ちゃんの明るい声がマイクに乗って響く。元気はつらつな可愛らしい声で花火は夜空へ打ちあがった。私は花火の影を見るだけ。暗闇に映し出される煌びやかな影、その光は、夜空を見上げる人々の顔を照らし、友達同士を映し、恋人の手を見せ、家族の温もりを私へと鈍く照らした。影になるのは私の顔だけ。泣いていないだけマシだろう。ここから家が近いだけマシだろう。花火の爆発と群集の歓声で嗚咽がかき消されるだけ救いだろう。
 けれど、私はまた一つ知ってしまった。
 こうして一人でいることがどんなに気楽か、心安らぐことなのかを。名も知らぬ人々に溶け込み、他人同士になることがどんなに容易で私の性に合っているのか。
 私は夏憐ちゃんみたいに笑顔の仮面をつけることはできない。父や母のように冷淡に徹することもできない。全部中途半端で何も成し得ない。この田舎に閉じ込もっているだけの臆病者なのだ。
 人々の顔を睨みつけるように群集と逆を向いて歩いた。自転車でこの道をかっとばしたい。誰も私を守ってくれない。誰もが私の邪魔をする。お兄ちゃんでさえ、私を捨てた。

 だから私は一人、この夏を生きることに決めた。