【ロッソ】

 その日、「さんきんぐ」のカウンター席にはメルがいた。
 店の手伝いではなく客として、夏の日差しに輝くビーチをカフェから眺めているが、どこか落ち着かない面持ちで指を組んだり解いたりしていた。
 ヨウイチが、不思議そうに目を細めて声をかける。

 「メルさん、ずいぶん落ち着かないですね。何かあったんですか?」

 ヨウイチが皿を拭きながら尋ねると、メルははっと気づいたように笑顔を作る。しかしその笑みは、どこか浮ついたものだった。

 「あ、ううん、ちょっと……幼馴染のロッソが今日、帰ってくるって聞いたの。久しぶりだから落ち着かなくて……」

 メルはそう言いながらも、そわそわと視線を動かす。幼馴染が帰ってくる。しかも突然の知らせで、どんな顔をして会えばいいのか分からない――そんな戸惑いが見て取れる。

 「ロッソ……さん?」
 「そう。私の幼馴染で、冒険者なの。ずっと前にマイヨルカを出て帰ってこなかったんだけど。今朝、手紙が届いて『今日の馬車で帰る』って……」

 その言葉に、ヨウイチは興味深そうに頷いた。

 「メルさんが嬉しそうなら、きっと大切な人なんですね」

 「そ、そういうわけじゃないけど……でも、楽しみなのは本当。」

 メルは少し頬を染めながら言葉を続ける。まるで、思い出を振り返って温かい気持ちになっているようだ。
 ヨウイチは軽く笑いながら、「じゃあ、帰ってきたらさんきんぐにも連れてきてくださいね」と返す。メルは「うん、そうする!」と嬉しそうに応じた。


 同じ日の正午過ぎ。町の門が開き、一台の馬車が入ってきた。そこから一人の青年が降り立つ。
 赤い髪、背中に大きな荷物、腰にはずしりと重そうな剣。

 「……戻ってきたぜ、この町に。」

 彼をみた門衛が声をかける。

 「おお!ロッソ! おかえり!」

 「おお、おいちゃん!ただいま!」

 ロッソはそういうと、久しぶりの故郷を一瞥した。

 「それにしても、話には聞いていたが、本当に晴れてるんだな…」とつぶやいた彼の心は、10年前――まだこの世界が年中の雨模様になる前の、子供のころに戻っていた。

 そして、彼が向かったのは、自宅でもなく、港でもなく、まずはメルの家だった。
 子どもの頃からいつも遊びにいった場所が、メルの家。

 (メルの家も……変わらねえな)

 古い石造りの壁を見上げると、当時と変わらぬ佇まいで出迎えてくれるように感じる。
 少し改装された箇所もあるが、窓際にはメルの好きな花が飾られ、手入れが行き届いているのが分かる。ドアの前まで来てから少し躊躇したが、「よし」と小さく呟き、ノックをした。

 「はーい」

 扉を開けたメルが、最初は目を見張り、それから感極まった笑みを浮かべる。

 「ロッソ……本当に帰ってきたんだね!」

 その声にロッソも口元をほころばせる。

 「おう、ただいま。……なんだよ、その顔。そんなに俺が帰ってきたのが意外か?」

 「ううん、嬉しいの。すごく」

 メルはまるで涙が出そうなほど笑顔で、ロッソを出迎える。ほんの少し前まで、彼女はカフェでそわそわしていたが、今はまるで安心したように肩の力を抜いている。

 「そっか……ならいいんだ。あとで、いろいろ話聞かせてくれ」

 ロッソはぎこちなく言葉を返す。内心では、メルがこうして笑ってくれるのを見るだけで胸がいっぱいになる。昔からそうだった。いつだって彼女の笑顔が、自分の心を安らかにしてくれるのだ。

 (まったく……やっぱり、メルは可愛いな)

 視線を少し外しながら、心の中でそうつぶやく。
 長い髪を一つにまとめたメルは、すらりとした体のラインをカジュアルな服装で隠しているものの、健康的で柔らかな雰囲気を纏っている。それがロッソの胸を切なくも温かい気持ちにさせる。

 そこへ、「兄ちゃあああん!!」という大きな声が響く。

 「うおっアスル!久しぶりだな」

 「家にもよらずにどこかへ行ったって聞いたから、メル姉ちゃんの家だと思ったらやっぱり!」

 そう言ってロッソの胸に飛び込んできたのは、ロッソの弟のアスルだ。

 「兄ちゃん、久しぶり! 家にもよらずに元気にしてた? どんな冒険してきたの!?」

 矢継ぎ早に質問を浴びせるアスルに、ロッソは苦笑いしながら頭を撫でる。

 「落ち着けって、アスル。まずはちゃんと飯でも食ってから話すから。あ、お前もしっかり飯食ってんだろうな? ほら、顔色だって……うん、まあ健康的じゃねえか」

 その言葉にアスルはと照れ笑う。はしゃぐアスルを、ロッソはまるで我が子のように微笑ましく見つめながら、長旅で多少荒んだ心も、この場所に戻ると和らいでいく気がすると思った。

 (やっぱり、故郷はいいな…)

 そう思いながら、メルの表情をちらりと見ると、彼女はどこか少し照れくさそう。ロッソが真っ先に家に来てくれたことが、嬉しくて仕方ないのだろう。
 ロッソにとっても、メルは幼い頃からの大切な存在だった。ともに遊び、笑い、時に喧嘩もしたが、いつしか恋心に近い想いが芽生えていた。
 そして、その想いは今も変わらないどころか、メルに久しぶりに会い、ますます強くなった。

 「メル。そういえばクラーケンの話を聞いたぞ。大丈夫だったのか?」

 「大丈夫。もう退治されたから平気よ。それよりも…」と言ってメルは上を指さす。

 「この天気!すごいいでしょう!?」

 「ああ、お前の手紙で読んだときは信じられなかったが、びっくりしたよ。」

 ロッソは、メルの手紙に書かれたことを思い出す。
 マイヨルカに現れたクラーケンの話、メルが生贄になるところだったという話、そして――突如現れたヨウイチという冒険者によってクラーケンが倒され、偶然なのか雨が止んだという話……そして……

 (俺が旅している間に、メルには他に好きな奴ができたかもしれない……)

 一抹の不安が胸をよぎる。メルの手紙から推測するに、ヨウイチはクラーケンを倒し、町の人気者になったらしい。そんな男がメルの周りをうろついている。

 (まずは会って、どんな奴か見極めてやるさ)

 自分に言い聞かせるように、ロッソは拳を握りしめる。熱い感情がじわりと胸に込み上げるのを感じたが、すぐに平静を装ってメルに視線を向ける。

 「そういや、メル……」

 メルが「何?」と首をかしげる。ロッソは眉間に力を込め、まるで立ち向かうべき相手を見据えるように言い放った。

 「ヨウイチってやつに会わせてくれよ」

 一瞬、メルは驚きで目を大きくする。続いて「ああ、さんきんぐの……」と納得しかけるが、なぜそんなに強い口調なのか理解できず、少し戸惑った表情になる。

 「別にいいけど……どうしてそんなに急に?」

 その問いにロッソは僅かに目を逸らし、唇を引き結ぶ。言葉にする理由は単純。メルの手紙に登場した男。彼女の近くにいて、町を救ったという“英雄”。見ておかなければ気が済まない。

 「ま、そいつがどんな奴なのか知りたくてな。クラーケンを倒したんだろ? 俺だって負けてねえはずだが、直接会えば色々分かるだろ」

 ロッソが険のある口調でそう言い放つと、メルは少し戸惑いながらもすぐに笑みを返した。彼女には、ロッソの真意が分かっていない。

 (ロッソは何をそんなに張り合ってるんだろう……?)

 メルは内心でそう思い、軽く首をかしげる。ロッソ帰還しただけでも嬉しくて仕方がない彼女にとって、クラーケンを倒したヨウイチとロッソが出会えば、もしかすると互いに認め合い、親友のような仲になれるのではないか――そんな無邪気な期待すらあった。

 「ふふ、そうね……きっとヨウイチさんとは色んな話ができるんじゃないかな。だって、あの人もモンスターと戦って町を救ったわけだし……二人が出会えば、すごく盛り上がりそう。ね、アスルもそう思わない?」

 メルが振り向くと、アスルは「うん!」と元気よく頷く。アスルにとっても、兄であるロッソと“英雄”ヨウイチが一緒にいる光景は見てみたいもので、ワクワクを抑えられない様子だ。

 ロッソは、そんな二人の様子に対して何とも言えない表情を浮かべる。メルが自分の想いに気づいていないどころか、ヨウイチと自分を“仲良くなれるかもしれない相手”として捉えているのが分かり、胸の奥で熱いものがじくじくと疼いていた。

 (親友? そんなわけないだろ。俺がメルを大切に思う気持ちに土足で踏み込むかもしれないのに……)

 だが、その感情をストレートにメルへぶつけるわけにもいかない。

 「……とにかく、早いとこヨウイチに会わせろ。どんな男か、ちゃんと俺が見極めてやる」

 その言葉はあくまで冷静を装っていたが、その瞳にはどこか揺るぎない炎が燃えていた。
 そして、メルは「分かったよ」と穏やかに笑みを返しながらも、ロッソがなぜここまで意気込んでいるかを1ミリも理解していなかった。