晴天率100パーセントの「晴れ男」、ビーチ無双から伝説へ

【クラーケン】

町はどこもかしも大騒ぎだった。
十年もの間、雨が止むことは一度もなかったと聞く。それが一晩にして雲が消え、太陽が顔を出したのだから、騒がない方がおかしい。人々は戸惑い、歓喜し、畏怖の念を抱く者もいた。

そして町長の屋敷はさらに大混乱に陥っていた。何しろ、今日がクラーケンに生贄を差し出す期日なのだ。ところが一転、空が晴れ渡り、海も静かに穏やかになっている。
クラーケンが来ないに越したことはないが、彼らは確実に来ると睨んでいる。この突拍子もない天候の変化に、クラーケンがどう反応するかは不明だ。

「ヨウイチ殿、これは一体……!?」

「いえ、その、俺にもよく……」

町長から詰め寄られた陽一は、スキルのことを隠すことに決めていた。なぜなら、あまりに規格外の力ゆえに騒動を起こしかねないし、無用な欲に狙われる可能性が高い。だからこそ、陽一は「たまたまだ」と誤魔化すしかなかった。

しかし、町長はそんな説明に納得できるはずもなく「これだけの晴天が偶然など……」と訝しんでいた。もっとも、今はそれどころではない。クラーケンとの約束が迫っており、港へ向かわねばならないのだ。

そして、陽一もメルも、町の騎士団らとともに港に集結した。時間は朝から昼へ差しかかるころ。空はさらに青みを増し、陽光はじりじりと照りつける。潮風は生ぬるく、肌にまとわりつく汗が煩わしい。

人々がざわめき、波止場の先端を遠巻きに眺めている。生贄役としてメルが連れて行かれる予定だったが、陽一は彼女の代わりに“女装”して行くと名乗り出た。少しでも時間を稼いで、クラーケンの不意を突き、討伐に持ち込む算段だ。

「俺…あ…わ、わたし、女に見えるかしら?」

「あはは……まあ、遠目ならわからないかも」

陽一はメルのドレスらしきものを無理やり借りて着込み、髪を布で隠しながらなんとも言えない奇妙な扮装をした。遠巻きに見る町の人々も、唖然と口をあんぐり開けている。こんな作戦がうまくいくのか、怪しさ満載だ。

しかし、クラーケンからすれば、波止場の先端に人影が一つ置かれていればよい。距離を詰めてきたところで陽一が攻撃態勢に入る――まあ、そんな簡単にいくか分からないが、とにかくやるしかない。

やがて波間が不自然にうねり始め、ぼこぼこと泡立ちが生じる。周囲の騎士や町の人々が「来るぞ……!」と息を呑んだ。
その瞬間、海面を切り裂くように巨大な触手が現れた。水しぶきの向こうから、まるでタコのようにもイカのようにも見える不気味な姿が姿を現す。紫がかった粘液質の身体、大きな目玉がぬらりと光る。

「うっ……で、でかい……」

陽一は思わず後ずさりそうになる。クラーケンの触手は波止場よりも長く、軽く振るえば船のマストなど折ってしまいそうだ。
振り返ると、町長が遠くで心配げに手を振っているが、陽一は返すことができない。身体が震える。このままでは気圧されて動けなくなる。

だが、触手がこちらに伸びてくる瞬間、陽一は決断した。このまま逃げれば、クラーケンは再び町を襲い、メルが生贄にされる未来が待っている。だったら、戦うしかない――。

「いける……俺にはやれる力があるんだ……!」

陽一は心の中で妖精に呼びかける。すると、胸の奥がポッと熱くなり、身体に不思議な力がみなぎるのを感じた。妖精の光が身体に溶け込むようにして浸透し、まるで全身の細胞が活性化しているかのような感覚だ。筋肉が締まり、視界が鮮明になり、思考がクリアになる――。

クラーケンの触手が波止場を叩きつけ、石畳が一部崩れる。その衝撃で周囲の騎士や町民は悲鳴を上げるが、陽一は驚くほど冷静にその攻撃を見極め、ひらりとかわす。

「なっ……!?」

町の人々が目を剥いた。あれほど巨大で素早い触手が、あっさりと避けられてしまったのだ。
陽一自身も、その反射速度に驚く。確かに妖精の言った通り、身体能力が“最大レベル”に引き上げられているかのようだ。

「おおおおぉっ!」

思わず雄叫びのようなものが出てしまう。普段なら絶対にしない行動だが、アドレナリンが全開になっているせいか恥ずかしさなど消え失せている。陽一は波止場に転がっていた長い棒を手に取り、それをまるで薙刀のように振るって触手を払いのけた。

「ぐぅるるる……! キサマ!」

クラーケンは怒り、さらに何本もの触手を繰り出してくる。だが、陽一の目にはその動きがスローモーションのように見え始めていた。ひとつひとつの動きを見極め、最適なタイミングでステップを踏む。身体が勝手に動いてくれるかのようだ。

それに加え、周囲はカンカン照りの真夏日だ。クラーケンのぬめりとした肌は日に弱いのだろうか。ときおり、動きが鈍ったようにも見える。触手が焼け付くように軋み、クラーケン自身も海に潜ろうと身をよじっている。

「チャンス……!」

陽一は勇気を奮い立たせ、さらに前へ踏み出す。しかし、その瞬間、クラーケンが波止場を破壊し、大きく跳ね上がってきた。
巨大な体躯が海面からせり出し、その口のような部位が陽一に向かって開かれる。強烈な海臭さが鼻を突き、歯のような固い殻がぎらつく。

だが、陽一は躊躇わなかった。猛然と走り込むと、そのまま棒をクラーケンの口に突き刺す形で飛び込む。もちろん、そのままでは自分もやられかねないが、不思議と怖さが湧かない。自分の身体が圧倒的な力で守られている――そんな実感があった。

「うおおおおっ!」

棒がクラーケンの口腔内を抉り、体液が飛び散る。クラーケンの絶叫が空気を震わせ、衝撃波のような風圧が波止場を揺らす。陽一は吹き飛ばされ、海面に落下しそうになるが、かろうじて瓦礫に捕まり難を逃れた。

「ぐっ……まだ……終わりじゃない……!」

体が軽い。着地に失敗しても、怪我らしい怪我もしていない。やはり“最大レベル強化”というのは伊達ではないらしい。クラーケンが暴れるたびに水飛沫が舞い、港に津波のような波が押し寄せるが、陽一はさらなる攻勢に移った。

棒が折れたため、今度は隠し持っていた剣を手に取る。強化された腕力で振り下ろせば恐ろしい破壊力になるだろう。クラーケンが今度は触手をまとめて振り上げ、叩きつけてくる。波止場が砕け散り、石片が宙を舞う中、陽一はその触手の根元へと飛び込んだ。

「これでも……喰らえっ!」

全力の一撃が、触手と胴体の境目に斬りかかる。刃が陽一の怪力を受けて深く食い込み、クラーケンの肉を断ち切った。
どす黒い液体が噴き出し、クラーケンがのたうち回るように水面へ再び落ちる。巨体が水しぶきを上げながら海に沈む様は、まさに海中の怪物そのもの。周囲の人々の悲鳴と驚嘆の声が入り混じる。

「ヨウイチ殿が……あのクラーケンを追い詰めている……!」

騎士たちや町の人々は誰もが唖然としている。陽一はそこで一旦大きく息をつき、妖精との対話で学んだ通り、体内の理力をさらに巡らせる感覚を意識した。すると、身体がさらに熱くなり、まるで光の鎧をまとったような感覚に包まれた。

クラーケンが最後の力を振り絞るかのように触手を狂乱させる。だが、陽一は怖気づくことなく、その触手をつかんだまま、水面へと飛び込んだ。一瞬、冷たい海水が全身を覆うが、不思議と呼吸を失う苦しさをあまり感じない。強化によって体力と肺活量が増しているのかもしれない。

水中でクラーケンの巨大な目と視線が交錯する。凄まじい圧力が陽一を押し潰そうとするが、その目に映るのは、むしろクラーケンの恐怖の色だ。光をまとった異世界の男に、モンスターは震えている。
強い逆流が体を巻き込もうとしても、陽一は逃さない。手にした剣をもう一度、クラーケンの目玉付近へ渾身の力で突き立てる。空気が泡立ち、水中で生々しい破裂音が響いた――。

「――うわあぁっ!」

陽一は最後の水流に飲み込まれ、気がつけば波止場の浅瀬に打ち上げられていた。全身は泥だらけで、女装の服もズタズタだ。朦朧とする意識の中で、周囲の騎士たちが慌てて駆け寄ってくるのを感じる。

「ヨウイチ殿! しっかりしろ!」 「大丈夫か!?」

 そして、陽一の背後――海中からは、クラーケンの巨大な影が沈みゆくのが見えた。波間に浮かぶその触手は、すでに生気を失い、黒い液体を吐き出しながら深海へと没していく。やがて動かなくなったそれを見て、陽一は勝利を確信した。

「……やった……クラーケン……倒したぞ……」

周囲で歓声が沸き起こった。町の人々が泣きながら抱き合い、メルが走り寄ってきて、陽一の手を握りしめる。
彼女は涙まじりの笑顔で何度も何度も「ありがとう」を繰り返していた。

こうして、マイヨルカの港を脅かしていたクラーケンは、陽一の手で討伐された。
その余波か、この日の町は狂ったように沸き上がり、まるでお祭りのような大騒ぎになった。晴天という奇跡に加え、巨大モンスターの討伐という吉事が重なったのだから無理もない。
 【ビーチカフェ「さんきんぐ」】

 クラーケンを倒した英雄として、陽一はメルや町長のみならず、町のすべての人々から感謝された。
 市場に集まる漁師や商人は、「これで安心して船を出せる」「漁も毎日できるぞ!」と口々に喜びを表す。

 しかし、陽一は王国に報告して褒美を受ける気にはなれなかった。何しろ、自分を“役立たず”と蔑んで追い出した相手だ。もちろん、今さら恩を売りに行く理由もない。町長が「ぜひ王都に凱旋してほしい」と言ってきたときは、陽一はきっぱりと断った。

 「今はもう、王国のために戦おうという気はないんです。すみません」

 町長は少し驚いたようだが、それでも「まあ、それもよい。お前さんには大きな借りができた」と素直に言ってくれた。
 さらに「何か望みはないか?」と尋ねられた陽一は、一つだけお願いをした。

 「……この町に、住む家が欲しいです。あと何か仕事を」

 「それだけでいいのか? もっと報酬とか、高価な宝物とかだって……」

 「僕にはそんな宝より、のんびりと暮らせる環境がありがたい」

 陽一はそう答える。町長は意外そうな顔をしながらも、「わかった」と頷き、ほどなく海岸沿いの一軒家を譲ってくれた。

 そこはもともと物置小屋のように使われていた建物らしく、多少の改装が必要だが、立地は最高だ。窓からは青い海が望め、目の前は砂浜だ。

 「ここなら、ビーチカフェができるかな……」

 実は、陽一は子供の頃から海辺のカフェに憧れていた。
 日本では難しいと感じていた夢だが、この世界でなら実現できるかもしれない。
 しかも今後、晴天のもとで海が回復すれば、漁や観光が再び盛り上がる可能性がある。この町の人々も元気を取り戻してくれるだろうし、陽一自身も失意のまま過ごすよりは、店でも開いて生きがいを感じたい。

 名付けて「ビーチカフェ さんきんぐ」。―――これは、太陽王“サン・キング”の伝説にちなんで思いついたものだ。自分が本当に太陽王なのかは分からないが、名前だけでもそう名乗ってみれば、ちょっとしたジョークになりそうだと考えたのである。
 一方、メルは父である町長に「私は、しばらくヨウイチさんのお手伝いをしたい」と申し出た。もちろん町長は猛反対したが、メルの意思は固かった。

 「わたしは生贄にされる運命から救ってもらった。命の恩人なんです。なのに、ここで何もしないわけにはいきません」

 町長は最初こそ渋ったものの、クラーケンが倒されて町が安定するならば、無理矢理に娘を縛り付ける理由もないと渋々認めた。
 加えてメル自身が「町の人に役立つ店を作りたい」という思いを持っていることもあって、結果的に陽一のカフェ開店を手伝う形となった。

 こうして、陽一はメルの協力を得て、カフェの準備を始めた。
 雨ざらしだった建物の床を修理し、壁を塗り直し、簡易的な厨房を作る。町の大工や漁師たちも手伝ってくれた。皆、クラーケンを倒してくれた陽一に恩返しをしたいと言って、必要な資材を安く提供してくれるのだ。その温かさに、陽一の胸はいっぱいになる。

 数日後、店の内装が整い、いよいよ「さんきんぐ」はオープンを迎えた。
 初日は、町中の人が次々と来店してくれて大盛況となった。陽一は次々と入るオーダーをさばくのに四苦八苦し、メルもウエイトレスとして休む暇もなく注文取りと料理の提供に店内を駆け回った、二人にとっては、何から何まで初めての経験だが、意外と楽しかった。

 「みんなが喜んでくれてよかった……また来てくれるかな?」

 閉店後、片付けをしながらふと漏れ出た陽一の言葉を聞いたメルは、くすりと笑う。

 「きっと、そうなると思います。だって、こんなに素敵な天気なんですもの。」

 「そうだね」

 もっとも、この先ずっとこの町だけを晴れにしていたら、それはそれでおかしい。
 妖精の説明によれば、陽一の“晴れ男”の力で晴れる範囲は約三十キロメートルまでが限界だという。町や近海が晴れになるのはいいが、外の世界との気象格差が大きくなると、他の地域から怪しまれたり、逆に孤立したりする可能性もある。だから当面は、コントロールをしながら“適度に”晴れを保つ形を考える必要があるだろう。
 すぐにこの世界全体の雨を止めることは無理にしても、第一歩としては十分すぎるほどの変化だ。

 実際、町の中では畑の作物が少しずつ元気を取り戻す様子も見受けられた。さすがに水浸しだった畑が短期間ですぐ完全回復するわけではないが、それでも十年ぶりの太陽に恵まれた作物は生気を宿している。漁師たちも、海があまりに濁りすぎていたためまだ本格的な操業は難しいが、嵐が消えて波が穏やかになったことに喜びをかくせないでいる。

 陽一はそんな変化を目にするたび、自分がやったことにわずかながら誇りを感じた。
 そして、この世界で自分の居場所を作れたことが何よりも嬉しかった。

 「……さあ、明日も早いし、今日はもう休もう」

 メルを家に帰したあと、陽一はカフェのカウンターに腰掛けて一人呟いた。妖精はというと、小さく光りながら彼の頭上を飛び回り「おやすみなさい」と囁いた。こうして、ビーチカフェ「さんきんぐ」の最初の夜が更けていく。

 窓の外には、満点の星空。そして優しい月明かりが、今や静かな海を優しく照らしていた。
 【人手不足】

 ――この世界において一年三百六十五日降り続いていた雨が止み、真夏の太陽が降り注ぐようになってから、早くも二か月ほどが過ぎていた。  
 海辺の町マイヨルカは、かつては雨と嵐に覆われた町であったが、今はピーカン照りが続く。

 港の工事が進み、漁業や海運の再開を準備する者たちが少しずつ増え、ビーチにも活気が戻り始めた。酷暑というほどではないものの、十年間ほとんど直射日光を拝めなかったこの土地の人々にとっては、暑さはかなり厳しく感じられるらしい。
 それでも、人々は晴れの光を求めてやってくる。近隣の町や村からも、日差しを浴びてレジャーを楽しもうという者が訪れるようになった。
 マイヨルカが観光地として再生する日は、案外近いのかもしれない――そんな期待が膨らんでいる。

 そして、町外れの海岸に建つビーチカフェ「さんきんぐ」も、連日のように賑わいを見せていた。
 その店の主人、松山陽一(ヨウイチ)――異世界に召喚され、“晴れ男”のスキルを得た男である。
 彼は日々多くの客を迎え、忙しそうに立ち回りながらも、はつらつとした表情を浮かべている。

 店のカウンターには、野菜や魚介を使った料理や、トロピカルフルーツのジュース、それにアルコール類も並んでいる。
 この世界では貴重とされている香辛料を調合し、さらにはヨウイチが前世で身につけた料理の知識を活かして、独特のメニューを開発したことで評判が広まりつつあった。「こんな味は初めてだ」「クセになる」「また来たい」――そう言ってリピーターになる客も多い。

 晴れ渡ったビーチを見ながら楽しむ冷たいドリンクと料理。人々はこの店を「楽園」と称え、訪れるたびに笑顔を浮かべる。ヨウイチ自身も、ここが自分の居場所だと感じられるようになっていた。

 一方、彼の能力の源であり、謎の存在でもある“光の妖精”は、「テリー」という愛称を与えられた。
 彼は、もともとヨウイチが作ったてるてる坊主がきっかけで顕現し、ヨウイチと一体化することで驚異的な戦闘能力を引き出す守護神的な存在であるが、
 今では町長の娘メルのことをすっかり気に入ってしまった。
 「僕はメルのところに行ってくるね~」と言いながら、日中はほとんどメルの家や町の方を飛び回っている。
 もっとも、テリーの姿は魔力を持つ人間(“冒険者”やそれに準ずる者)でなければ見えないため、普通の町人は誰もそれに気づいてはいない。

 メルは、オープンの後もしばらく手伝ってくれたが、町長の仕事をサポートするほうが多忙になり、今では時おり顔を出してサポートしてくれる程度に落ち着いている。
 結果としてヨウイチは仕込みから接客まで一人でこなしており、そろそろ手が回らなくなっていた。

 「うーん、誰か雇わないと、まじで手が足りないぞ……」

 ヨウイチは店のカウンターに並べたランチメニューを客に運びながら、ため息をつく。
 もちろん、雇うにも相応の給料を支払わなくてはならないが、今の売り上げなら十分にその余裕はある。問題は、この地にはまだ職を探しに来る人が少なく、貴重な人材となり得る人は皆、再開した漁や港湾工事、あるいは他の商売に忙しいということだ。そんな中、誰か良いスタッフはいないものか――そんな期待を抱く日々が続いていた。
 【氷の重装剣士・ディアナ】

 そんなある日、海辺の町マイヨルカに、エルフの女戦士が訪れた。
 全身を覆うような重装の甲冑、背には巨大な片刃の剣を背負い、金属的な鈍い輝きを放つオーラを放つ。彼女の名は――ディアナ。氷の重装剣士として知られ、各地の冒険者たちの間でその名を轟かせる実力者だ。
 ディアナは、鍛え上げた肉体と華麗な身のこなしに、剣の技術と「氷結」のスキルを操り、日頃から途轍もない量の食事を摂るゆえの体力と持久力は他の追随を許さないと噂されていた。

 だが、その身体を隙間なく護る重厚な甲冑は、気温の低い地方や通常の曇天・雨天ならばともかく、この陽射しが降り注ぐマイヨルカの気候では耐え難かった。

 「くっ……なんという暑さ……! この町は本当にどうなっているんだ……?」

 ディアナは額の汗を拭いながら、町の大通りに足を踏み入れた。ここマイヨルカに来た理由はただ一つ。最近、クラーケンという強大なモンスターを討伐した男がいる――との噂を聞いて、その実力を確かめたいと思ったのだ。彼女は強者と戦うこと、あるいは強力なモンスターを狩ることを己の生きがいとしている。その裏には、幼い頃に家族を魔物に殺された過去があると言われていたが、多くを語ることはない。

 街道から町に入り、最初に目に飛び込んだのは、目前に広がるエメラルドグリーンの海と、強い陽射しを反射する白い砂浜、そしてビキニやラフな服装で楽しそうに笑う人々の姿だった。元は陰鬱だったという町とは思えない光景だ。まだ完全に観光地化したわけではないが、近隣からの来訪者がわいわいと賑わっている。

 「これは……甲冑のままではおかしいかもしれないな」

 ディアナは呟く。事実、何重にも重なった金属が猛烈な熱を吸収しているのを感じる。彼女はエルフ族とはいえ日焼けした褐色の肌を持ち、暑さへの耐性が若干あると思い込んでいたが、それでも流れ落ちる汗が止まらない。つい先日まで寒冷地で魔物を狩っていたため、温暖な地域への耐性が低いのだろう。そこで、彼女は一旦宿を探し、甲冑を預けられる場所を確保することにした。

 「ふぅ……少しは涼しくなるかしら」

 宿を見つけると、ディアナは気配をうかがいながら重装甲を外し、軽装の革鎧と薄いシャツ姿へと着替えた。
 鎧を脱いだ彼女は、長い耳を持つエルフ族らしい精悍な顔立ちと、日焼けした褐色の肌が印象的だが、さらに彼女にはもう一つ際立つ特徴があった。
 それは“その体つき”――豊かな胸元や、キュッと引き締まった腰のライン、そしてしなやかな脚。それらが組み合わさって、見る者を圧倒するほどの迫力ある美しさを放っている。
 しかし、その“美しさ”は半ば封じられるかのごとく、いつもは重装甲の中に隠されていた。
 世間的には「ストイックな剣士」というイメージで語られることが多く、実際に彼女の素顔を知る者はほとんどいない。彼女は人前で甲冑を脱ぐことを極力避け、ひっそりと戦い続ける日々を送ってきたのである。

 「さて……クラーケンを倒した男とやら、どんな奴なのか確かめたい」

 ディアナはそう心に決め、町の酒場や露店で噂を集め始めた。人々に話を聞けば、否が応でも「クラーケンを倒した英雄」の話題が出てくる。噂によれば、そいつは王国から“召喚”されてきた冒険者――しかし正式には冒険者登録がされておらず、今は町外れで「ビーチカフェ」を開いているという。名は……なんだったか、「ヨウイチ」と言うらしい。

 「なんだ……開いてるのは店か? 戦場に出るわけじゃないのか?」

 期待はずれだと感じつつも、ディアナはその店へ行ってみることにする。どうせなら一度会って、実力を測ってみなくては本当のところは分からない。

 その道すがら、すれ違う町の人々は、ブラウスと革鎧を纏ったディアナの姿に振り返る。
 「あの褐色美人は誰だろう」「スタイルがすごいな……」と口々に囁く。暑そうに汗を拭いつつも、颯爽と歩くディアナのシルエットは、男女問わず視線を集めずにはいられない。
 だが本人はそれにまったく関しない。いや、むしろ煩わしいとすら感じているようで、眉をひそめながら歩みを早めるのだった。
 【来店】

 ――ビーチカフェ「さんきんぐ」。海を見下ろす少し小高い位置に建つその建物は、雨ざらしだった廃屋を改装したというわりに、今では鮮やかな外壁と手作りの木製テーブルを配したオープンテラスがあり、非常に目立っていた。
 ディアナは額の汗をぬぐいながら扉を開け、中に入る。

 昼下がりの時間帯でも、店内は客でそこそこ埋まっている。ステージのように高くなった場所はないが、カウンターとオープンキッチンがあり、そこに立つのは黒髪で割と細身の男性――彼が慌ただしく、鉄板で何かを焼きながら客の対応をしている姿が見える。

 「……ふむ、あれがクラーケン討伐の男か?」

 ディアナは訝しむ。オーラを視認すれば、どうにも普通の人間としか思えない。
 彼女は冒険者としてある程度訓練を積んでいるので、魔力を持つ存在は“違った空気”を発しているのが分かるのだ。しかし、どう見てもヨウイチからは魔力らしき気配が感じられない。

 「(どういうことだ……?)」

 疑念を抱きつつ、ディアナは空いているテーブル席へ腰を下ろした。しばらくすると、ヨウイチが走り回りながらメニューを差し出してくる。

 「いらっしゃいませ~! オーダーお決まりでしたらお伺いしますよ?」 「え? あ、ああ……」

 ディアナは店の黒板に書かれたメニューをちらりと見た。「本日のランチセット」「冷えた果実のジュース」「海鮮ミックスの鉄板焼き」「特製カレープレート」など、どれも聞き慣れないが、妙に魅力的な響きがある。とくにカレーという料理は珍しく、スパイスの香りが食欲を刺激してきた。

 「じゃあ、その……“特製カレー”というのを頼むわ。あと水も」

 「かしこまりました! 熱いので、席の扇風機を回しますね」

 ヨウイチは、手作りの魔石扇風機を回転させて風を送ってくれる。さわっとした涼風が額に当たり、ディアナは少し恍惚とした表情になる。
 こういう細かな配慮は、“実力者との戦闘”を期待した彼女には想定外だった。

 (こいつはただのカフェ店主にしか見えないが、本当にクラーケンを倒したのか? ……私の目には、単なる器用な兄ちゃんに映るだけ)

 いささか拍子抜けしていると、ほどなくしてカレーが運ばれてきた。
 皿の上には香ばしい香りが立ちのぼり、スパイスの複雑な風味が鼻孔をくすぐる。肉や野菜、魚介まで絶妙に煮込まれており、さらに表面には細かい具材が浮いていて彩りも良い。それを見た瞬間、ディアナの大食漢の血が騒いだ。

 「これは……うまそうだな」

 まさかこんな南方の小さな町で、これほどの食事を堪能できるとは思わなかった。スプーンを口に運ぶと、辛さと甘さが絶妙に溶け合い、さらに魚介の旨味が後からやってくる。ディアナは黙々と食べ進め、あっという間に平らげてしまった。

 「ごちそうさま。……もう一杯もらえるか?」

 「えっ、もう完食ですか? はい、もちろんお代はかかりますけど、大盛りもできますよ」

 「なら、大盛りで頼む」

 ディアナは重装剣士らしく、体力維持のために大量に食べる。
 ヨウイチはその勢いに驚きながらも、「うちの店を気に入ってくれて嬉しいです」と微笑む。その姿があまりにも“普通”なので、ディアナは複雑な感情を覚える。
 これはただの美味い店――噂に聞いた強者の冒険者の話とは違うのではないか? あるいは噂の男は別にいるのかもしれない。

 食事を楽しんだディアナだったが、最終的には「また来る」とだけ言い残し、ヨウイチを値踏みするような視線を送りながら店を出て行った。
 ヨウイチは首をかしげるが、客の一人だろうとさほど気にせず、次のオーダーへと移った。
【調査】

それからディアナは数日間、マイヨルカに滞在しながら色々と調べた。
彼女の狙いは「クラーケンを倒せるほどの強者との手合わせ」だ。しかし、いくら調べても出てくるのはヨウイチの名で、しかも聞けば聞くほど、町の人々はヨウイチを“カフェの親切な店主”としてしか認識していなかった。

「なーんか変ねぇ。あの人は確かにクラーケンを倒したって聞いたけど、たまたま運が良かったとかじゃないの?」

「うーん、でも町長は本当に感謝してるし、実際に命を救われたっていうメルお嬢様もいる。ま、オレたちには分かんないよ」

「カフェ店主にに気軽に倒せるようなモンスターじゃないはずなのに……何なんだろうな?」

こうして話を聞くほどに謎が深まるばかり。
それでもディアナ自身は暑さでぼんやりしており、それ以上の強引な調査はできずにいた。日中は甲冑を脱ぎ捨てて、革鎧と簡素なブラウスで過ごすしかない。汗が滴り落ちる中、日陰を求めてフラフラしていると、つい「さんきんぐ」で涼をとりたくなってしまう。

結果として、ディアナは昼食や夕食を「さんきんぐ」で摂るようになった。
ヨウイチの作る料理はどれも美味く、特にドリンクやデザート系の甘味は、暑がりのディアナにとって癒やしそのものだった。
彼女は最初こそスキルなどを見破ろうとヨウイチを観察していたが、見る限り彼からは不思議な気配はまったく感じられない。ごく稀に「隠された力」を持つ者がいるが、そこまでして隠す必要もあるまい――と首を傾げるばかり。

(まあ、どうせデマかもしれない。しばらくこの町で美味いものを食べて、それから別の町へ旅立つか)

そんな考えが頭をよぎり始めたころ、ディアナにはもう一つの“楽しみ”ができていた。
夜な夜な町の広場に集う冒険者たち――彼らもまた海辺を訪れていたり、クラーケン討伐の噂を聞きつけて偵察に来ていたりする者が少なくなかったのだ。旅の冒険者たちは、町の酒場で武勇伝を披露し合ったり、クラーケンの残骸がどこにあるのかを探ろうとしたりしている。
ディアナにとっては、そうした連中との“果し合い”が格好の暇つぶしになった。

「悪いわね。ちょっと手合わせしてくれない?」

ディアナは夜の帳が下りると、酒場で意気揚々と話している冒険者たちの前に立ちはだかり、強引に勝負を仕掛けるのだ。
受けた側としてはたまったものではない。闇討ち同然と言われても仕方がない形だが、ディアナは本気で殺すつもりはなく、あくまで強者かどうかを見極めるために腕試しをしている。だが、ほとんどの冒険者は彼女の凄まじい剣技と、氷の魔力を注ぎ込んだ斬撃の前に戦意を喪失する。

「ちょっと! 何なんだお前は!」 「ぎゃああ、凍る、凍る!」 「くそっ、まるで歯が立たない……!」

何人かと渡り合ううちに、ディアナの“氷結剣士”としての名声はマイヨルカでも広がり始めた。とはいえ、彼女の目的はあくまで“クラーケンを倒した男”との戦闘であり、その他の連中には興味がない。
圧倒的な実力差で勝負をつけては、つまらなそうに去っていく――そんな夜が何日か続いた。


しかし、ディアナは相変わらずヨウイチとの直接対決の機会を得られない。
昼の「さんきんぐ」で彼が忙しそうに動き回っているのを見ても、あまりにも普通に見えるので、挑んだところで期待した結果が得られる気がしなかった。あくまで「彼がただの一般人なら戦う意味もない」と判断していたのだろう。

それでも、ディアナには“さんきんぐ”の料理がやたらと気に入ってしまったらしい。
あれこれ言いながらも、毎日のようにやって来てはカウンター席に座り、豪快に飲み食いし、会計を済ませて去って行く。ヨウイチからすれば、見た目はセクシーな褐色肌の女性だが、食欲旺盛かつ無愛想という不思議な上客という印象だ。

「今日も来てくれたんですね。いつもありがとうございます。ディアナさん」

「ああ。単にここの飯が好きなだけだ。勘違いしないでくれ」

そう言いながらも、ドリンクを一気に飲み干してホッと息をつくディアナの姿は、どことなく居心地が良さそうに見えた。
店を構えるヨウイチとしては、これほど多く注文してくれる客はありがたかったし、いつかスタッフが不足していることを相談してみようかと思い始めていた。
しかし、ディアナの凄まじい大食漢ぶりと威圧感を見ると、気軽に声をかけるのは躊躇われた。
【泥酔】

そんな日々が続き、ディアナがマイヨルカに滞在してから約二週間が過ぎたある晩。
ビーチカフェ「さんきんぐ」は昼間の営業を終えて夜営業に切り替えていた。昼より客足は減るが、それでも夕暮れ時には人が集まり、ささやかな酒場のような雰囲気になる。

ディアナはその日も店に現れ、大量の料理とアルコールを注文していた。南国のフルーツを使ったカクテルや、ヨウイチ特製のスパイシーチキン、海鮮グリルなどを次々と平らげ、やがてカウンターでゆったりと酒を飲み始める。すると珍しく、ディアナのほうからヨウイチに話しかけてきた。

「なあ、ヨウイチ。お前、ここでカフェをやってるが……その、強いのか?」

「え? 強いって、何がですか?」

「戦闘のことだ。クラーケンを倒したっていう噂があるだろう。なぜ普段はそんなに戦いの気配がないんだ?」

「えっと……まあ、いろいろ事情があって、今はのんびり暮らしたいだけなんですよ」と、ヨウイチは曖昧に笑って誤魔化す。

彼には“晴れ男”のスキルとテリーという強力なパートナーがいるが、それを開示すればまた王都やら何やらが騒ぎ出しかねない。
何より、平穏を求めてこの町に来たという経緯もあり、必要以上に目立ちたくないのだ。
ディアナは酒を煽り、「ふうん」と興味なさげに返す。しかし、その声にはわずかな寂しさが混じっていた。


やがてディアナは、かなり酔いが回ってきたのか、頬を赤らめて口が滑らかになり始めた。

「おい、ヨウイチ……悪いが、ここの“特製チキン”をもう一皿と、あと酒を……」

「はいはい、ディアナさん。飲みすぎ注意ですよ~」

普段はクールな女性が酒に酔うとこんなにも表情が変わるのか、とヨウイチも少し驚きながら見守っていた。やがて、ディアナは火照った頬でカウンターに肘をつき、低い声で話し始めた。

「……私の家族は……昔、魔物に殺されたの。私がまだ幼い頃……確か、ゴブリンの大群が村を襲って……母も父も妹も……みんな目の前で死んでいった」

「……そ、そうだったんですね…」

ヨウイチも動揺してかける言葉も出てこない。

「そのとき、偶然通りかかった旅の武芸者が私を拾ってくれた。……その人は“魔物を狩る”ことだけを生きがいにしていて、私に剣術と魔力の使い方を教えてくれた」

ディアナの瞳は酒のせいで潤んでいるが、その奥底に沈殿する悲しみが覗いていた。

「氷の力なんて、エルフには珍しい。だからこそ私には才能があると、その人は言っていたよ。――でも、その人もまた、上位の魔物との戦いで死んだ。結局、私の周りからは大事なものがどんどん消えていくの……だから、私は強さを求める。強い相手と戦い、魔物を倒し続けるしかないんだ」

 ディアナはゴクゴクと残りの酒を飲み干し、「ああ、もう一杯」とヨウイチに注文する。ヨウイチは慎重に言葉を選びながら、新しいグラスに酒を注いで出した。

「……強い相手と戦うことで、失ったものを取り戻すわけじゃないかもしれませんが……それでも、ディアナさんには目指すものがあるんですね」

「うるさい。……お前に何がわかる」

ディアナの反応は冷たいが、その表情はどこか迷いを含んでいた。
これ以上、踏み込んだ言葉は控えた方がいいだろう――ヨウイチがそう思っているうちに、ディアナは再び大きなジョッキを傾け、ゴクゴクと飲み続ける。かなりペースが早い。さすがの大食いでも、これは酔い潰れるのではないか……。

「……もうやめといた方がいいんじゃ?」

「うるさい。私は……もっと飲める……」

そのままディアナは、何度か意識が遠のきそうになりながらも酒を追加で注文し、最終的にはヨウイチの目の前でテーブルに突っ伏した。

「……まったく、やれやれ」

店内の他の客もそろそろ引き上げた時間帯。ヨウイチは仕方なくディアナを起こそうとするが、微動だにしない。
氷の重装剣士も、アルコールには勝てないらしい。

「うちの店は宿泊施設じゃないんだけどなあ……」

そうぼやきながらも、このまま放置しては危ないし、外へ出してなにかあっても困る。
ヨウイチは悩んだ末、結局ディアナを店の二階にある自分の部屋へ運ぶことにした。ベッドに寝かせ、少しでも休ませようというわけだ。

しかし、問題はここからだった。
【対決】

ディアナを抱きかかえ、二階へ続く階段をヨロヨロと上がるヨウイチ。さすがに剣士だけあって筋肉質で、女性にしては重い……。
それでもなんとか部屋に入れ、ベッドへ寝かせようとしたそのとき、ディアナの腕がヨウイチの首をつかんだ。

「……ん、ふ……どこへ行く、もうちょっと……飲むんだ……」

「え? ちょ……ちょっと!?」

ディアナはヨウイチの首を腕で絡め取り、そのままベッドに引き倒してしまった。押し倒された形のヨウイチは、彼女の豊かな胸元やしなやかな腰の感触に面食らいながら、必死に体勢を立て直そうとする。

「あ、あの、ディアナさん!? ちょっと落ち着いて……!」

「うるさい……あたしを……ばかにするな……ん……」

褐色の肌がうっすらと汗ばんで光り、顔を朱に染めたディアナの潤んだ瞳が至近距離に迫る。普段は無愛想な彼女の艶っぽい表情に、さすがにヨウイチもドキリとしてしまった。
意外にも女性らしい部分があるのだ、と妙に感心しながらも、押し倒されたままではどうにもできない。

(こ、これはヤバいんじゃ……?)

さらにディアナの腕がヨウイチの背中に回され、彼女の体重がのしかかってくる。二人の顔が徐々に近づき、唇さえ触れそうな距離に……その瞬間、部屋の窓からすーっと小さな光の玉が入ってきた。――テリーだ。

「ヨウイチ、ただいまー。今日はメルと一緒に……って、あれ? 何してんの?」

妖精の姿は、一般人には見えない。
しかしディアナは魔力資質を持つため、視覚が働けばテリーの存在が見えるはずだ。だが、今は酔いつぶれている。
テリーは、「寝てるの?」と呑気に言いながら、ふわふわとディアナの周囲を飛び回る。

「(テ、テリー!早くあっちに行って……!)」

テリーが見られたらまずいことになる―――ヨウイチは小声で必死に指示するが、テリーには伝わらない。

そのときディアナの瞳がはっと見開かれた。テリーを捉えた瞬間、彼女の戦闘本能が呼び起こされる。

「な…なに!……魔物だな……っ!」

「テリー!早く逃げろ!」

ディアナは酔っているとはいえ、身体が冒険者としての反応を示す。
瞬く間に腰の剣を抜き、薄青いオーラを放出させた。その刃には氷結の魔力が凝縮され、まるで部屋の空気が一瞬にして凍り付くかのような冷気が漂う。

「ちょっと! ディアナさん、やめろ! テリーは魔物じゃない!」

なんとかなだめようと、ディアナとテリーの間に割って入る。

「う、うるさい!私の目の前でうろちょろするモンスターは、全部斬る!」

半ば錯乱状態だ。ディアナは大上段から一気に剣を振り下ろす。その剣先から発せられる氷の力は、周囲の空気を凍てつかせながら鋭い一閃としてヨウイチとテリーに襲いかかる。まるで氷刃が幾本も伸びるような凶悪な必殺剣だ――。

しかし、その瞬間、ヨウイチとテリーは急激に光を帯び、一体化した。

「くっ……!」

テリーがヨウイチの身体に溶け込むように融合し、白い光のオーラが身体を包む。
ヨウイチのスキル“晴れ男”は、魔力を無効化する「理力」によって支えられている。いわゆる魔法に属する攻撃であるディアナの氷結は、ヨウイチに対して効果を発揮できない。

氷の必殺剣は、まるで空気を裂くだけの無力な斬撃として弾かれ、ヨウイチの身体には全く届かない。
吹き飛ばされるようにディアナは後退し、そのまま床に倒れ込んだ。

「な……なに……? 私の……攻撃が効かない……?」

「ディアナさん、落ち着いてってば!」

さらにヨウイチは、ほんの少しだけ強化された身体能力を使い、ディアナの腕を掴んで力を込める。
攻撃はしないが、その威圧感は凄まじい。ディアナは半ば酔いのままで動けなくなり、悔しげに瞳を揺らす。

「うぅ……こんな……こんな状態で、私は……負けるわけには……!」

「負けとか勝ちとかじゃない! テリーは魔物じゃないんだ。それに、あなた……完全に酔っぱらってるでしょ?」

酔いと混乱の末、ディアナは力尽きるように再び床に崩れ落ちた。そのまま意識が朦朧とする彼女は、悔しさで涙目になりながら何か呟く。

「私は……強い相手に勝たなきゃいけないのに……ここまで来て……魔物を斬れなかった……もう……死ぬしか……」

「はあ!? 何言ってんの?」

ディアナはあろうことか、護身用の短剣を取り出し、自分の喉元に当てようとする。――自害。名高い戦士の中には、敗北を認めたときに切腹や自害を選ぶ風習を持つ者もいる。
ディアナの場合、その心情を根っこに持っていてもおかしくない。ヨウイチは焦って短剣を叩き落とす。

「こんな酔った勢いのまま、人の家で死なれても困るよ!」

「うるさい……私は、私の誇りを……」

「誇りとか命とか、どっちが大事なんだよ!」

ヨウイチはディアナの肩をつかんで激しく揺さぶる。彼女は目を覚ましかけ、だがまだ朦朧とした声で呟く。
ここで適切な言葉をかけなければ、また短剣を手にしてしまうかもしれない――ヨウイチは咄嗟に考えを巡らせ、あるアイデアを口にした。

「じゃ、じゃあ……うちの店で働いてくれ! ホールスタッフとして!」

「はあ……? 何を……言ってるんだ……?」

「ディアナさんの気持ちは分かった! だけど、俺の店は今スタッフが足りないんだ。力仕事だってあるし……それに、氷のスキルがあれば、ドリンクを冷やすのに便利じゃないか」

「ドリンクを冷やす……?」

「ああ、そうだ。いずれは店で"かき氷"を出そうと思ってたんだ! ほら、他にもディアナさんの能力を使って、何か面白いことができそうだろう? 俺はそう思うんだ!」

荒唐無稽な提案だが、ヨウイチは必死だった。
ディアナを止めるには、生きる理由を提示するのが最も効果的だと直感的に感じたのだ。――すると、ディアナは呆然とした表情を浮かべ、眉間に皺を寄せながらしばらく黙り込んだ。

「……私の力が、ドリンクを冷やすだけに使われるのか?」

「それだけじゃないさ。新しい生き方ができるかもって話だ。納得いくまで、ここで働いてみるのはどう? その後、どうしても戦いたいって言うなら……まあ、考えてあげるから。ね?」

「…………」

ディアナは明らかに混乱している。冒険者としては誇りを懸けて戦ってきた自分が、店のスタッフなどという一般的な仕事をするなど想像もしていなかったのだろう。しかし、そのまま自害されるわけにはいかない。
しばらくして、ヨウイチの真剣な表情に押される形で、彼女は何とか頷いた。

「わ……わかった……わけが……ないだろ……でも、わかった……ここで働いてやる……」

「そ、そうか。とりあえず、今日はゆっくり寝て! まずはお酒を抜かなきゃだめだ」

「わかった…むにゃ…」

こうしてディアナは、半ば投げやりながらもヨウイチの提案を受け入れる形となり、そのまま深い眠りへと落ちていった。
ヨウイチは心底ホッとしつつ、テリーにも「ごめんな、変なことに巻き込んで」と謝罪する。テリーは「ま、別いいけど……ところで、この人、誰?」とのんきに笑っていた。
こうして、危険極まりない一夜は終わりを迎えた。
【新ホールスタッフ】

 翌朝。ディアナは頭痛と倦怠感に苛まれながら目を覚ました。
思い返せば、昨日は随分と酒を飲んだ。そして、自分がヨウイチに押し倒され――いや、押し倒したうえに魔物と勘違いして切りかかり、挙句の果てに自害しようとしたことなどを、徐々に思い出してきた。まさに悪酔いの極み。
散々な行動を取ってしまった自分に、ディアナは顔を覆いたくなる。

「……なんてことだ。私はなんと愚かなんだ……」

ベッドから起き上がるとと、部屋の片隅にあるソファに横になるヨウイチの姿が目に入った。ディアナの声で彼も目を覚まし、気まずそうに苦笑しながら声をかける。

「おはよう。……大丈夫? 昨日はひどい酔い方してたけど」

「す、すまない……とても恥ずかしくて死にたい……」

ディアナはそう呟きながらも、自害する気力はさすがにもうないらしく、昨夜の自分の暴走を後悔している様子だ。ヨウイチはこれ幸いと、昨夜の約束を改めて確認する。

「それで……店で働くって話、どうする? 忘れてるかもしれないけど、酔った勢いとはいえ、確かにそう言ってたけど」

「……うぐ。覚えてる。まさか本当に雇うつもりなのか? 私のような戦士を……」

「もちろん。大歓迎だ。俺もスタッフを探してたところだし。合わないと思ったら、そこでやめりゃいいさ」

ディアナは唸るように黙り込み、しばらく考え込んだ。
彼女は本来、戦うことを生業としてきたが、クラーケンも既に倒されていて、現在のマイヨルカ周辺には凶悪なモンスターはの情報もない。
次の目的地を探すにしても、この土地をそう簡単に離れるのは惜しいと思っている自分がいる。加えて、さんきんぐの料理は絶品だし、好きなだけ食べられるならそれも魅力的だ。
悩み抜いた末、ディアナは渋々と頷いた。

「わかった。しばらくやってみる……」

「よし、決まり! よろしく頼む」

ヨウイチは満面の笑みを見せる。かくして、氷の重装剣士・ディアナが、ビーチカフェ「さんきんぐ」でホールスタッフとして働くことになった。


さっそく試しに昼営業から手伝ってもらうことにしたが、最初は戸惑いだらけだった。
ディアナは接客業どころかキッチンに立ったことすらないし、客の前で笑顔を作るのも苦手だった。
だが、彼女には「氷結」のスキルがあった――たとえばドリンクを瞬時に冷やしたり、グラスに氷を作り出すことができたりと、店の運営には想像以上の利便性とスピードをもたらしてくれる。

「カウンターの奥でサーバーの水を冷やしておいてくれたら助かるんだけど」

「ふむ……こうか? ――《フロスト・タッチ》……」

ディアナが指先で魔力を注ぐと、水が一瞬にして冷気を帯び、涼しい飲料水として利用できるようになる。これまでヨウイチが魔石の氷や魔道具で何とか補っていたのが、ディアナの力によって格段に効率的になった。

また、彼女の意外な才能として、料理の下ごしらえのスピードが速いという面があった。
剣術で鍛えた手捌きと氷結による時短テクニックを駆使して、野菜や肉を瞬時に冷やしたり、カットしたりできる。さらに、大量の氷水を用意することで、海鮮を鮮度良く保ち、スープのアク取りなんかもスムーズにこなす。
その作業ぶりを見たヨウイチは目を丸くしながらも大喜びだった。

「ディアナさん、すげえ助かるわ。本当にキッチンに立ったことなかったの?」

「初めてだ。だが……こういう仕事も、意外と奥が深いのだな」


そのまま数日働いてみて、ディアナは内心、戦いに明け暮れるだけが人生ではないということを、少しずつ実感し始めていた。
接客にはまだ馴染めず、客の前ではツンとした態度を取ってしまうが、一方で店の裏方作業では持ち前の器用さを発揮している。時折、メルが訪れてフロアを手伝うときもあるが、そのたびにディアナは妙に張り合ってしまい、さらに仕事に熱が入るという展開になる。

「ディアナさん、ドリンクを三番テーブルにお願いできますか?」

「ちっ……わかった。はいはい、ただいま持っていくぞ……」

まさかの“剣士口調”で、ディアナがグラスを運ぶ光景は、店の常連客にとっても名物となりつつある。
ある者は「すごいクールな美人スタッフが入った!」と喜び、ある者は「なんか怖そうだけど、氷ドリンクが最高だ」と評する。ディアナ自身は照れくささや抵抗感があるらしく、客の前でほとんど笑顔を見せないが、だんだんと「不器用な姐さんスタッフ」として受け入れられ始めていた。


だが、ただ一人、複雑な表情を浮かべる人物がいた。それがメルだ。
メルは町長の仕事を手伝いながらも、「さんきんぐ」には日中や夕方に時々顔を出している。明るく元気な彼女は町の看板娘としても人気が高く、ヨウイチの店にとっても貴重な“客寄せ”だった。

だが、新たにディアナが加わったことで、どうにも落ち着かない。
ディアナがホールやカウンターの奥でヨウイチと二人きりで作業しているところを見ると、メルはあからさまに不機嫌そうな視線を向ける。そのたびに「何をやってるんだろう私……」と自己嫌悪に陥りつつも、結局はモヤモヤとしながら二人のことを凝視してしまうのだ。

「……何、あの人。いつの間にそんな親しげになって……」

メルは口には出さないが、ディアナの褐色肌や鋭い瞳、そしてあの抜群のスタイルを見ると「負けてるような気がする」と落ち込む。
この微妙な関係が、今後の物語にどう影響していくのか――それはまだ誰も知らない。