【クラーケン】

町はどこもかしも大騒ぎだった。
十年もの間、雨が止むことは一度もなかったと聞く。それが一晩にして雲が消え、太陽が顔を出したのだから、騒がない方がおかしい。人々は戸惑い、歓喜し、畏怖の念を抱く者もいた。

そして町長の屋敷はさらに大混乱に陥っていた。何しろ、今日がクラーケンに生贄を差し出す期日なのだ。ところが一転、空が晴れ渡り、海も静かに穏やかになっている。
クラーケンが来ないに越したことはないが、彼らは確実に来ると睨んでいる。この突拍子もない天候の変化に、クラーケンがどう反応するかは不明だ。

「ヨウイチ殿、これは一体……!?」

「いえ、その、俺にもよく……」

町長から詰め寄られた陽一は、スキルのことを隠すことに決めていた。なぜなら、あまりに規格外の力ゆえに騒動を起こしかねないし、無用な欲に狙われる可能性が高い。だからこそ、陽一は「たまたまだ」と誤魔化すしかなかった。

しかし、町長はそんな説明に納得できるはずもなく「これだけの晴天が偶然など……」と訝しんでいた。もっとも、今はそれどころではない。クラーケンとの約束が迫っており、港へ向かわねばならないのだ。

そして、陽一もメルも、町の騎士団らとともに港に集結した。時間は朝から昼へ差しかかるころ。空はさらに青みを増し、陽光はじりじりと照りつける。潮風は生ぬるく、肌にまとわりつく汗が煩わしい。

人々がざわめき、波止場の先端を遠巻きに眺めている。生贄役としてメルが連れて行かれる予定だったが、陽一は彼女の代わりに“女装”して行くと名乗り出た。少しでも時間を稼いで、クラーケンの不意を突き、討伐に持ち込む算段だ。

「俺…あ…わ、わたし、女に見えるかしら?」

「あはは……まあ、遠目ならわからないかも」

陽一はメルのドレスらしきものを無理やり借りて着込み、髪を布で隠しながらなんとも言えない奇妙な扮装をした。遠巻きに見る町の人々も、唖然と口をあんぐり開けている。こんな作戦がうまくいくのか、怪しさ満載だ。

しかし、クラーケンからすれば、波止場の先端に人影が一つ置かれていればよい。距離を詰めてきたところで陽一が攻撃態勢に入る――まあ、そんな簡単にいくか分からないが、とにかくやるしかない。

やがて波間が不自然にうねり始め、ぼこぼこと泡立ちが生じる。周囲の騎士や町の人々が「来るぞ……!」と息を呑んだ。
その瞬間、海面を切り裂くように巨大な触手が現れた。水しぶきの向こうから、まるでタコのようにもイカのようにも見える不気味な姿が姿を現す。紫がかった粘液質の身体、大きな目玉がぬらりと光る。

「うっ……で、でかい……」

陽一は思わず後ずさりそうになる。クラーケンの触手は波止場よりも長く、軽く振るえば船のマストなど折ってしまいそうだ。
振り返ると、町長が遠くで心配げに手を振っているが、陽一は返すことができない。身体が震える。このままでは気圧されて動けなくなる。

だが、触手がこちらに伸びてくる瞬間、陽一は決断した。このまま逃げれば、クラーケンは再び町を襲い、メルが生贄にされる未来が待っている。だったら、戦うしかない――。

「いける……俺にはやれる力があるんだ……!」

陽一は心の中で妖精に呼びかける。すると、胸の奥がポッと熱くなり、身体に不思議な力がみなぎるのを感じた。妖精の光が身体に溶け込むようにして浸透し、まるで全身の細胞が活性化しているかのような感覚だ。筋肉が締まり、視界が鮮明になり、思考がクリアになる――。

クラーケンの触手が波止場を叩きつけ、石畳が一部崩れる。その衝撃で周囲の騎士や町民は悲鳴を上げるが、陽一は驚くほど冷静にその攻撃を見極め、ひらりとかわす。

「なっ……!?」

町の人々が目を剥いた。あれほど巨大で素早い触手が、あっさりと避けられてしまったのだ。
陽一自身も、その反射速度に驚く。確かに妖精の言った通り、身体能力が“最大レベル”に引き上げられているかのようだ。

「おおおおぉっ!」

思わず雄叫びのようなものが出てしまう。普段なら絶対にしない行動だが、アドレナリンが全開になっているせいか恥ずかしさなど消え失せている。陽一は波止場に転がっていた長い棒を手に取り、それをまるで薙刀のように振るって触手を払いのけた。

「ぐぅるるる……! キサマ!」

クラーケンは怒り、さらに何本もの触手を繰り出してくる。だが、陽一の目にはその動きがスローモーションのように見え始めていた。ひとつひとつの動きを見極め、最適なタイミングでステップを踏む。身体が勝手に動いてくれるかのようだ。

それに加え、周囲はカンカン照りの真夏日だ。クラーケンのぬめりとした肌は日に弱いのだろうか。ときおり、動きが鈍ったようにも見える。触手が焼け付くように軋み、クラーケン自身も海に潜ろうと身をよじっている。

「チャンス……!」

陽一は勇気を奮い立たせ、さらに前へ踏み出す。しかし、その瞬間、クラーケンが波止場を破壊し、大きく跳ね上がってきた。
巨大な体躯が海面からせり出し、その口のような部位が陽一に向かって開かれる。強烈な海臭さが鼻を突き、歯のような固い殻がぎらつく。

だが、陽一は躊躇わなかった。猛然と走り込むと、そのまま棒をクラーケンの口に突き刺す形で飛び込む。もちろん、そのままでは自分もやられかねないが、不思議と怖さが湧かない。自分の身体が圧倒的な力で守られている――そんな実感があった。

「うおおおおっ!」

棒がクラーケンの口腔内を抉り、体液が飛び散る。クラーケンの絶叫が空気を震わせ、衝撃波のような風圧が波止場を揺らす。陽一は吹き飛ばされ、海面に落下しそうになるが、かろうじて瓦礫に捕まり難を逃れた。

「ぐっ……まだ……終わりじゃない……!」

体が軽い。着地に失敗しても、怪我らしい怪我もしていない。やはり“最大レベル強化”というのは伊達ではないらしい。クラーケンが暴れるたびに水飛沫が舞い、港に津波のような波が押し寄せるが、陽一はさらなる攻勢に移った。

棒が折れたため、今度は隠し持っていた剣を手に取る。強化された腕力で振り下ろせば恐ろしい破壊力になるだろう。クラーケンが今度は触手をまとめて振り上げ、叩きつけてくる。波止場が砕け散り、石片が宙を舞う中、陽一はその触手の根元へと飛び込んだ。

「これでも……喰らえっ!」

全力の一撃が、触手と胴体の境目に斬りかかる。刃が陽一の怪力を受けて深く食い込み、クラーケンの肉を断ち切った。
どす黒い液体が噴き出し、クラーケンがのたうち回るように水面へ再び落ちる。巨体が水しぶきを上げながら海に沈む様は、まさに海中の怪物そのもの。周囲の人々の悲鳴と驚嘆の声が入り混じる。

「ヨウイチ殿が……あのクラーケンを追い詰めている……!」

騎士たちや町の人々は誰もが唖然としている。陽一はそこで一旦大きく息をつき、妖精との対話で学んだ通り、体内の理力をさらに巡らせる感覚を意識した。すると、身体がさらに熱くなり、まるで光の鎧をまとったような感覚に包まれた。

クラーケンが最後の力を振り絞るかのように触手を狂乱させる。だが、陽一は怖気づくことなく、その触手をつかんだまま、水面へと飛び込んだ。一瞬、冷たい海水が全身を覆うが、不思議と呼吸を失う苦しさをあまり感じない。強化によって体力と肺活量が増しているのかもしれない。

水中でクラーケンの巨大な目と視線が交錯する。凄まじい圧力が陽一を押し潰そうとするが、その目に映るのは、むしろクラーケンの恐怖の色だ。光をまとった異世界の男に、モンスターは震えている。
強い逆流が体を巻き込もうとしても、陽一は逃さない。手にした剣をもう一度、クラーケンの目玉付近へ渾身の力で突き立てる。空気が泡立ち、水中で生々しい破裂音が響いた――。

「――うわあぁっ!」

陽一は最後の水流に飲み込まれ、気がつけば波止場の浅瀬に打ち上げられていた。全身は泥だらけで、女装の服もズタズタだ。朦朧とする意識の中で、周囲の騎士たちが慌てて駆け寄ってくるのを感じる。

「ヨウイチ殿! しっかりしろ!」 「大丈夫か!?」

 そして、陽一の背後――海中からは、クラーケンの巨大な影が沈みゆくのが見えた。波間に浮かぶその触手は、すでに生気を失い、黒い液体を吐き出しながら深海へと没していく。やがて動かなくなったそれを見て、陽一は勝利を確信した。

「……やった……クラーケン……倒したぞ……」

周囲で歓声が沸き起こった。町の人々が泣きながら抱き合い、メルが走り寄ってきて、陽一の手を握りしめる。
彼女は涙まじりの笑顔で何度も何度も「ありがとう」を繰り返していた。

こうして、マイヨルカの港を脅かしていたクラーケンは、陽一の手で討伐された。
その余波か、この日の町は狂ったように沸き上がり、まるでお祭りのような大騒ぎになった。晴天という奇跡に加え、巨大モンスターの討伐という吉事が重なったのだから無理もない。