【真夜中】
その夜、激しい雨風が叩きつける中、陽一は宿泊用に用意された部屋で眠れずにいた。
気が付けば深夜を回っている。窓から外を見ると、暗い空に一筋の稲光が閃き、その光に合わせるように巨大な波が崖を打つ。自然の脅威を思い知らされるようだ。
クラーケンなんて、まともに戦えるはずもない。戦えば死ぬ可能性が高い。ならば逃げるしかない――そう心に決めた陽一は、町長たちが寝静まるのを見計らって屋敷を出ることにした。
真夜中ということもあり、屋敷の外には見張りもいない。雨の音が周囲の物音をかき消してくれる。やはりこれしかないのだ。自分の命を守るためには、ここを離れるしか……。
しかし、そっと門から出ようとした瞬間、暗がりからメルの姿が現れた。まさかの鉢合わせに、陽一は息を呑む。
「……逃げようとしてたんですね」
メルは寂しげに微笑んでいた。雨に濡れた肩を震わせながら、しかし、その瞳には怨みや怒りは宿っていない。むしろ同情の色が浮かんでいるようにさえ見える。
「すみません。僕、実は冒険者じゃないんです。スキルもないし、クラーケンなんて無理なんです。だから……」
「はい。わかっています。あなたが私を助けてくださったとき、実は剣の扱いに慣れていないように見えたから……薄々気付いていました」
メルは小さく溜め息をつき、陽一の前に進んでから一礼した。
「私のために、無理に残る必要はないと思います。だから、どうぞここを離れてください。町の人には私から、それらしく説明しておきますから……」
その言葉に陽一は戸惑う。てっきり引き留められると思っていたのに、メルは自分を逃がそうとしている。彼女自身が、明日、生贄としてクラーケンに差し出されるというのに……。
「ど、どうして……? あなたは怖くないんですか? クラーケンに連れていかれるのに……」
「……怖いですよ。でも、私が生贄になることで町が―――大好きなこの町が救われるなら、それでいいって思ってしまうんです。私一人の犠牲で済むなら……」
雨音が闇夜を包む中、メルの声が寂しく響く。
陽一はその儚げな姿に胸を締めつけられた。まだ若い彼女の命を、誰かのための犠牲にするなんてあってはならない―――それに、ほんの少しの時間だったが、彼女と話をしたり、彼女の笑顔を見たりして、せめてこの人は助かってほしいという気持ちが芽生えていた。
何より、彼女は自分を気遣ってくれようとしている。それはあまりにも尊い行為だった。
人は普通、恐怖から誰かを引き摺り込もうとしたり、守ってもらおうとしがちだ。なのに、メルは陽一が出会って間もない他人であるにもかかわらず、ただ純粋に「逃げていい」と言うのだ。
「あなた、本当にそれでいいんですか……?」
「仕方ありません。わたしにはこれくらいしか……」
その言葉に、陽一の中で何かが弾けた。彼は会社員としての日々を思い出す。自分はずっと大きな流れに身を任せて生きてきた。与えられた仕事をこなし、無難にこなすだけで未来が平穏に流れていくと信じていた。だが、今は違う世界だ。彼女が目の前で死地に赴こうとしているのを、ただ傍観するだけでいいのか?
「……わかった。だったら、戦ってみよう」
自分でも意外な言葉だった。まさかこんな宣言をするとは思わなかった。けれど、メルの瞳は驚きに見開かれ、すぐに涙ぐむように揺れた。
「え……?」
「だって、見殺しにはできない。あなたが犠牲になるなんて、そんなの……納得いかないです。僕はスキルがないし、強くもないけど……最後の最後まで、足掻いてみる。せめてあなたを逃がすくらいは……できるかもしれないし」
本当は無謀もいいところだ。だが、不思議と後悔はなかった。もしここで逃げ出したら、きっと一生メルの悲しげな顔が頭にこびりついて離れなくなるだろう。ならば、自分の手で行けるところまで行ってみる。自分は太陽王じゃないが、何か奇跡を起こせるかもしれないじゃないか――そんな、ほんの一縷の期待が心を奮い立たせる。
メルは小さく頷き、ぽろぽろと涙をこぼした。
「ありがとうございます……! 無茶はしないでくださいね。わたしのために、あなたが死んでしまったら……」
雨に混じって、メルの涙が頬を伝う。
陽一は彼女の肩に手を置き、静かに微笑んだ。そして、決意を新たにした。
その夜、陽一はまともに寝つけず、部屋に戻ると何をするでもなく窓を見つめていた。
すると不意に、子供の頃の記憶が頭をよぎる。遠足前夜、雨の予報だったにもかかわらず、彼は父親と一緒に“てるてる坊主”を作った。その翌朝、空は嘘のように晴れ渡った。そんなささやかな思い出だ。
「てるてる坊主、か……」
ふと思い立った陽一は、手元にある布切れと紐を使って簡単な人形を作ってみた。首の部分をきゅっと結んで、黒ペン代わりにインクで顔を描く。少し歪んではいるが、紛れもなく“てるてる坊主”だ。こんなものにどれだけの効果があるのか分からない。しかし、子供の頃から自分の“晴れ”を呼ぶ力に寄り添ってきた象徴のような気もする。
「これで、明日が少しでも晴れたらいいんだけどな……」
もちろん、この世界では十年間ずっと雨が降っている。たかが人形ひとつで晴れるわけがない。そう思いつつも、何もしないよりはマシだ――そう自分に言い聞かせ、陽一はてるてる坊主を壁にかけて、そして床に伏した。
明日、クラーケンと対峙しなければならない。
恐怖は消えないが、メルの存在を思うと、不思議と逃げ出す気持ちは萎えていた。
その夜、激しい雨風が叩きつける中、陽一は宿泊用に用意された部屋で眠れずにいた。
気が付けば深夜を回っている。窓から外を見ると、暗い空に一筋の稲光が閃き、その光に合わせるように巨大な波が崖を打つ。自然の脅威を思い知らされるようだ。
クラーケンなんて、まともに戦えるはずもない。戦えば死ぬ可能性が高い。ならば逃げるしかない――そう心に決めた陽一は、町長たちが寝静まるのを見計らって屋敷を出ることにした。
真夜中ということもあり、屋敷の外には見張りもいない。雨の音が周囲の物音をかき消してくれる。やはりこれしかないのだ。自分の命を守るためには、ここを離れるしか……。
しかし、そっと門から出ようとした瞬間、暗がりからメルの姿が現れた。まさかの鉢合わせに、陽一は息を呑む。
「……逃げようとしてたんですね」
メルは寂しげに微笑んでいた。雨に濡れた肩を震わせながら、しかし、その瞳には怨みや怒りは宿っていない。むしろ同情の色が浮かんでいるようにさえ見える。
「すみません。僕、実は冒険者じゃないんです。スキルもないし、クラーケンなんて無理なんです。だから……」
「はい。わかっています。あなたが私を助けてくださったとき、実は剣の扱いに慣れていないように見えたから……薄々気付いていました」
メルは小さく溜め息をつき、陽一の前に進んでから一礼した。
「私のために、無理に残る必要はないと思います。だから、どうぞここを離れてください。町の人には私から、それらしく説明しておきますから……」
その言葉に陽一は戸惑う。てっきり引き留められると思っていたのに、メルは自分を逃がそうとしている。彼女自身が、明日、生贄としてクラーケンに差し出されるというのに……。
「ど、どうして……? あなたは怖くないんですか? クラーケンに連れていかれるのに……」
「……怖いですよ。でも、私が生贄になることで町が―――大好きなこの町が救われるなら、それでいいって思ってしまうんです。私一人の犠牲で済むなら……」
雨音が闇夜を包む中、メルの声が寂しく響く。
陽一はその儚げな姿に胸を締めつけられた。まだ若い彼女の命を、誰かのための犠牲にするなんてあってはならない―――それに、ほんの少しの時間だったが、彼女と話をしたり、彼女の笑顔を見たりして、せめてこの人は助かってほしいという気持ちが芽生えていた。
何より、彼女は自分を気遣ってくれようとしている。それはあまりにも尊い行為だった。
人は普通、恐怖から誰かを引き摺り込もうとしたり、守ってもらおうとしがちだ。なのに、メルは陽一が出会って間もない他人であるにもかかわらず、ただ純粋に「逃げていい」と言うのだ。
「あなた、本当にそれでいいんですか……?」
「仕方ありません。わたしにはこれくらいしか……」
その言葉に、陽一の中で何かが弾けた。彼は会社員としての日々を思い出す。自分はずっと大きな流れに身を任せて生きてきた。与えられた仕事をこなし、無難にこなすだけで未来が平穏に流れていくと信じていた。だが、今は違う世界だ。彼女が目の前で死地に赴こうとしているのを、ただ傍観するだけでいいのか?
「……わかった。だったら、戦ってみよう」
自分でも意外な言葉だった。まさかこんな宣言をするとは思わなかった。けれど、メルの瞳は驚きに見開かれ、すぐに涙ぐむように揺れた。
「え……?」
「だって、見殺しにはできない。あなたが犠牲になるなんて、そんなの……納得いかないです。僕はスキルがないし、強くもないけど……最後の最後まで、足掻いてみる。せめてあなたを逃がすくらいは……できるかもしれないし」
本当は無謀もいいところだ。だが、不思議と後悔はなかった。もしここで逃げ出したら、きっと一生メルの悲しげな顔が頭にこびりついて離れなくなるだろう。ならば、自分の手で行けるところまで行ってみる。自分は太陽王じゃないが、何か奇跡を起こせるかもしれないじゃないか――そんな、ほんの一縷の期待が心を奮い立たせる。
メルは小さく頷き、ぽろぽろと涙をこぼした。
「ありがとうございます……! 無茶はしないでくださいね。わたしのために、あなたが死んでしまったら……」
雨に混じって、メルの涙が頬を伝う。
陽一は彼女の肩に手を置き、静かに微笑んだ。そして、決意を新たにした。
その夜、陽一はまともに寝つけず、部屋に戻ると何をするでもなく窓を見つめていた。
すると不意に、子供の頃の記憶が頭をよぎる。遠足前夜、雨の予報だったにもかかわらず、彼は父親と一緒に“てるてる坊主”を作った。その翌朝、空は嘘のように晴れ渡った。そんなささやかな思い出だ。
「てるてる坊主、か……」
ふと思い立った陽一は、手元にある布切れと紐を使って簡単な人形を作ってみた。首の部分をきゅっと結んで、黒ペン代わりにインクで顔を描く。少し歪んではいるが、紛れもなく“てるてる坊主”だ。こんなものにどれだけの効果があるのか分からない。しかし、子供の頃から自分の“晴れ”を呼ぶ力に寄り添ってきた象徴のような気もする。
「これで、明日が少しでも晴れたらいいんだけどな……」
もちろん、この世界では十年間ずっと雨が降っている。たかが人形ひとつで晴れるわけがない。そう思いつつも、何もしないよりはマシだ――そう自分に言い聞かせ、陽一はてるてる坊主を壁にかけて、そして床に伏した。
明日、クラーケンと対峙しなければならない。
恐怖は消えないが、メルの存在を思うと、不思議と逃げ出す気持ちは萎えていた。
